転載:
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1062561477.html
契約の箱
「
契約の箱」は、イスラエル人の宗教上の象徴の中で最も古くかつ
神聖なもので、ヤハウェの箱、証の箱としても知られ長方形の木箱で金でおおわれていました。
彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。
長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
あなたは純金でこれをおおわなければならない。
すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。
また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。
すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。
またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。
そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。
さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。
そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。
また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
また二つの金の
ケルビムを造らなければならない。
これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。
一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。
ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。
あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。
その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。 (
出エジプト 25:10-22)
キュビットは、ヘブル人が一般に用いた長さの単位で、もともとは肘から手の指先までの長さに由来する身体尺で約45cmです。
キュビットの名称は、
ラテン語で「肘」を意味する言葉に由来します。
ヘブル語では前腕を意味するアンマとよびます。
新共同訳の聖書はアンマ表記です。
イスラエル人と聖約を結んだヤハウェは、神殿の製作を指示します。
使用する材料はもその寸法にいたるまで細かく
啓示します。
聖なる祭器と神殿の建設者として聖任されたのは、ユダ族のベザレルと助手としてダン族のオホリアブが作業にあたり、エジプト脱出から1年後にはすでに完成していました。
箱は長さ約110cm、幅と高さがそれぞれ約67cm、内側も外側も全面に金箔が貼られました。
地面に直接触れないよう箱の下部四隅に脚が付けられ、箱の四隅に金環を作り、そこに担ぐための金箔を施した
アカシア棒を通しそのままにしました。
蓋の部分に当たる贖罪所は、ヤハウェが地上で住まわれる所と見なされていました。
その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。 (
出エジプト 25:22)
契約の箱は、幕屋が完成するとその中の最も神聖な所である至聖所に置かれました。
箱の中には、
シナイ山でモーセに与えられた
十戒の石板が納められていました。
十戒石板
そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。 (
出エジプト 25:16)
彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。
主がモーセに命じられたとおりである。 (
出エジプト 40:20-21)
十戒
あなたは私のほかに、何ものをも神としてはならない
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない
安息日を覚えて、これを聖とせよ
あなたの父と母を敬え
あなたは殺してはならない
あなたは姦淫してはならない
あなたは盗んではならない
あなたは偽証してはならない
あなたはむさぼってはならない
契約の箱は、証の箱ともよばれました。
そののち、
マナの壺と奇跡的に芽を出した
アロンの杖も契約の箱の内部に納められました。
さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。
すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。
これが、聖所と呼ばれた。
また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。
そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中には
マナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。
これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 (
ヘブル 9:1-5)
契約の箱は、イスラエルの民からは最大の敬虔の念を払って見守られ、動かしたり所定の場所に置いたりする前には、
祈りが唱えられました。
こうして彼らは主の山を去って、三日の行程を進んだ。
主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。
彼らが宿営を出て、道に進むとき、昼は主の雲が彼らの上にあった。
契約の箱の進むときモーセは言った、「主よ、立ちあがってください。
あなたの敵は打ち散らされ、あなたを憎む者どもは、あなたの前から逃げ去りますように」。
またそのとどまるとき、彼は言った、「主よ、帰ってきてください、イスラエルのちよろずの人に」。 (
民数 10:33-36)
神は
モーセに
契約の箱の蓋の部分の贖罪所の上の2つの
ケルビムの間でモーセと会いモーセと語ると言われました。
一対のケルビムの翼が三角形を描いています。
そこからヤハウェが臨みます。
それは「
すべてを見通す神の目」です。
「すべてを見通す神の目」は、
ユダヤ密教(カバラ)の命の木の象徴図形の最上部である
日の栄えの王国から臨むヤハウェ=イエス・キリストを意味しているのです。
「すべてを見通す神の目」は、
フリーメイソンリーの象徴となりました。
おお、わたしの愛する同胞よ、わたしの言葉を覚えておきなさい。
見よ、わたしは自分の衣を脱いで、これをあなたがたの前で振り、わたしの救いの神に、そのすべてを見通す目でわたしを見てくださるように祈る。
それであなたがたは、すべての人が各自の行いに応じて裁かれる終わりの日に、わたしがこうしてあなたがたの罪悪をわたしの身から振り払ったのを、イスラエルの神が御覧になったことと、わたしが神の御前に輝いて立っており、あなたがたの血から免れていることを知るであろう。 (
2ニフ 9:44)
マナの壺
「マナの壺」に関して、こう記されています。
イスラエルの家はその物の名を
マナと呼んだ。
それはコエンドロの実のようで白く、その味は密を入れたせんべいのようであった。
モーセは言った。
「主の命じられるところはこう である。
『それを一オメルあなた方の子孫のために蓄えておきなさい。
それは私が、あなた方をエジプトの地から導き出した時、荒野であなた方に食べさせたパンを彼らに見せるためである』と。
そしてモーセはアロンに言った「一つのつぼを取り、マナ一オメルをその中に入れ、それを主の前に置いて、子孫のためにたくわえなさい」。
そこで主がモーセに命じられたように、アロンはそれをあかしの箱の前に置いてたくわえた。
イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。
すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。 (
出エジプト 16:31-35)
前方後円墳
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、大阪府堺市堺区大仙町にある
百舌鳥古墳群の古墳の1つで、日本で最大の規模を誇る
前方後円墳で墓域面積は世界最大です。
墳長およそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m、後円部は直径245m、高 約35m。
1872年(明治5年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。 (
参照)
前方後円墳は、何をかたどったか分からない学者が名づけた呼び名です。
前方後円墳を、「逆転」させると、本来の「マナの壺」の形になります。
しかも、この前方後円墳には、真ん中あたりの両脇にでっぱり「把手(とって)」があります。
イスラエル10部族のガド族は、マナの壺を継承したと伝えられています。
邪馬台国を併合した神武天皇はガド族でした。
天皇陛下は「ミカド」といい、本来は「ミガド」といい、ヘブル語では「ガド族出身」という意味です。
そして、ヘブル語で「カド」は「とってのついた壺」です。
神武天皇は自らがイスラエルの神器「マナの壺」を継承する者であることを示す必要がありました。
王権のシンボルと合わせて、それを最も効果的に表現する
モチーフが巨大古墳でした。
そして、空から見ると「マナの壺」と分かる形にしたのです。
それは、10部族の本体が空からやって来ることを知っていたからです。 (
参照)
神武天皇が日本に渡来し先住民の
徐福集団の末裔の海部氏に入り婿したときに、海部氏が統括する神殿である籠神社にマナの壺を安置しました。
籠神社では、宮司が新しく襲名する際、黄金でできた真名之壺を神殿から運び出してきて、襲名の杯に真名之壼からわずかに削った金粉を入れて飲む儀式があります。
イスラエルの神器マナの壺もまた黄金でできており、形状は同じです。
あるとき、真名之壺は籠神社から籠神社から伊勢神宮の外宮へと移されました。
現在は、真名之壺は伊勢神宮の外宮にあります。
外宮の御神体は、一説によると米であり、米を入れている容器、それがマナの壺のことです。
「マナの壺」は、黄金製です。
さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。
すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。
これが、聖所と呼ばれた。
また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。
そこには金の香壇と全面金でおおわれた
契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。
これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 (
ヘブル 9:4-5)
そして、聖書中の「1オメル」の単位が、外宮の神宝の壺と同じ寸法なのです。
人のボディを「体」と漢字表記しますが、これは誤りで、「漢和辞典」には、体の字は本来は「劣る」意味で、ボディの意味で使うのは誤りで、音が似ているので借字しているだけです。
ボディを指す漢字は「體」が正しです。
「體」は体の旧字で、骨+豊。
「骨」は上部の骨格を示す象形文字に肉を下に加えたものです。
「豊」は器に穀物を盛った象形文字で、供え物が豊穣な様を示します。
古来より、代々天皇家には伝わる「黄金の壺」があったといいます。
籠神社の極秘伝では、応神(神武)天皇は朝鮮半島からの渡来人であり、先住民の物部氏に入り婿の形で王権を継承したといいます。
ガド族の応神(神武)天皇がガド族が継承したマナの壺を王権継承の意味で、入り婿した王朝に差し出したのです。
現在は、マナの壺は伊勢神宮の外宮に安置されています。
マナの壺は、代々籠神社の奥宮「天真名井(あまのまない)神社」に極秘裏に受け継がれてきました。
籠神社の現在の海部光彦宮司は、マナの壺は、戦後のあるときにどこかに移されたといいます。
マナの壺は、現在、天真名井神社から移動され、伊勢神宮の外宮に安置されています。
「マナ」を古代ヘブル人に与えたヤハウェは豊受大神なのです。
豊受大神
徐福集団の末裔の海部氏の神社、籠神社の82代宮司ノ海部光彦氏は、海部氏が代々が理解し信じてきた「
豊受大神(トヨウケノオオカミ)」の正体について、豊受大神は、旧約聖書に記された神、イエス・キリストが地上に生まれる前の霊体だったヤハウェと証言をしました。
鎌倉時代(紀元1185年ごろ‐1333年)ののち
室町時代の初期の紀元1336年に皇室が
南北に分裂しました。
歴史上、籠神社は
南朝側に就いた経緯があります。
実は、その南朝の
忠臣として知られる
北畠親房(きたばたけちかふさ)は『
神皇正統記』において、
伊勢神宮の
豊受大神宮(外宮)の祭神である豊受大神は「
国之常立神(クニノトコタチノカミ)」と同一神であると述べています。 (
参照)
鎌倉時代(紀元1185年ごろ‐1333年)の末期の
伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説です。
外宮の神職の
度会(わたらい)氏の間で唱えられるようになっため、度会神道、外宮神道ともいいます。
伊勢神宮では、古来は
豊受大神宮(外宮)が
皇大神宮(内宮)に優先して供進の品を受け取る慣習があり、そこから鎌倉時代までには参詣者が外宮に参拝してから内宮に行くことが通例となっていました。
しかし、外宮先拝の礼が定着してしまうと、今度は外宮の神官の間に、実は外宮の神は内宮の神よりも上位の神格なのではないかと思われ始めます。
そこで、外宮では鎌倉時代に伊勢神道を広め、豊受大神、
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、国常立神が同一で世界の根源の神であるという宣伝を行うようになったのです。
度会氏は、物部氏、海部氏と同族で古代の物部神道の奥義を知っていたらしいです。
伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている
吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(世界の根源の神)に位置付けました。
吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代(1338年‐1573年)京都の吉田神社によって大成された神道の一流派で、唯一神道、宗源神道ともいいます。
海部穀定宮司は、こう述べています。
「天照大神は、豊受大神とともに、元初の神であり、国常立尊(クニノトコタチノミコト)であるという古伝もある。」 (『元初の最高神と大和朝廷の元始』)
豊受大神=ヤハウェ=国常立神
「豊受」の「豊」は、「豆(たかつき)」に供え物を整えておいたことを意味します。
「豊受」の「豊」とは、「~の」という語で、物事が豊かである意を表し褒める意をそえます。
「豆」の字はもともと、「まめ」の意味はありませんでした。
たかつき(=食物などを盛るのに用いられた脚の付いた器)を描いた象形文字で、この「たかつき」を表す文字が「豆(トウ/ズ〈ヅ〉)」でした。
「たかつき」は多くは木製や素焼きの物で細長く作り立てて使用し、神仏への供え物を乗せたりもします。
のちに、真ん中がくびれている、たかつきの形に似た「まめ」の意味も含むようになり、現在では意味の逆転現象が生じ「まめ」の意味で使われることの方が多くなったのです。
「受」は「受ける」とも「受かる」ともいいます。
ここから「受け」=「ウケ」「ウカ」となります。
ヘブル語では、「ウカ」は食物を意味し音と意味が一致しています。
ヤハウェが、なぜ食物の神の豊受大神のかというと、モーセの時代にヘブル人はエジプトから脱出して40年間砂漠での生活をしますが、そこでは移動式神殿「幕屋」とともに移動しました。
その間、天から降って来た食物「マナ」のおかげで、ヘブル人は食料の危機を脱しました。
原始キリスト教徒のエルサレム教団と原始キリスト教徒になった10部族のガド族の神武天皇の秦氏が、マナの壺を海部氏に渡します。
かつて籠神社の宮司は代々神職を継承する際、秘密の神宝で儀式を行いました。
その神宝の名を「真名之壺(まなのつぼ)」といいます。
真名之壺はマナの壺のことで、マナの壺とはユダヤの三種の神器の1つであり、出エジプト後のモーセ一行の飢餓を救った食べ物を入れた壺のことです。