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SNN 2016年7月26日 天上の評議会は、「啓蒙」を司るラント卿を全体の長として任命しました

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           ラント卿

シェルダン・ナイドルニュース 2016年7月26日  本文 http://blog.goo.ne.jp/adachi4176/e/a6a72cac810cf97571f4f64655ca05f6

初めの一節は、いつものRVやGCRの動きを中心にした資金の新しい流れです。実際に世界の金融を支配している闇の内部改革の進行状況です。時代に沿って改革を続ける闇の中心グループは勿論まだ健在です。光の地上部隊が世界の経済や政治状況、テロなど闇の恫喝を考慮しながら、確実に改革を進めていることが分ります。

トルコ革命を鎮圧した後のエルドアン大統領の異常な弾圧や連続的に行なわれる北朝鮮のミサイル発射など多くの国際問題の場合、現在の新しい金融改革をめぐって、問題を拡大させながら、闇の貨幣経済システムを強行に定着させようと言う思惑に対し、光がこの動きを慎重に包囲している様子が窺い知れます。

基本的なスケジュールに基づいてEUの崩壊や市民意識の急速な高まりなどイベントに必要なことは確実に達成されていますが、闇が支配する新しい金融システム(闇の資産を保護する最後の砦)の稼動は延び延びになっています。国際合意における重要な問題がまだまだあるので、最後に闇の蛇口を締める天のタイミングが重要なポイントでした。

この流動原理の基底で何が始まったのか、この様子をSNNでは「光の仕事を行っている存在及び、新しい資金の流れを監督している存在たちは、狂喜乱舞しており、この時期を新しい領域の始まり」と捉えています。3次元~5次元は陰・陽の2元性の場であり、光と闇の力関係はスパイラルに進化して無限に影響し合います。陰が極まれば陽に、陽がきわまれば陰に、変化は極まりなく、みなさんの力と光の先導によって、限りなくその時を超えながら、今までの歴史と同じ「長い時間」の軌道上にありました。

5次元に完全シフトの環境を速やかに整えるためだった「中世の後半にヨーロッパやアジアで開始しました。この壮大な陸続きの大陸中が長い不安定さと荒廃の時期を迎える中、金やその他の多くの貴金属を蓄えてきた」その本来の目的に照らして、これこそ「新しい始まり」を天が赦した「静かな確信」に新しい資金の流れを監督している存在たちは、狂喜乱舞しました。

この「新しい始まり」は、今までの成果をステップにするものであり、旧約聖書の創世記の6日目の神の御言葉で、すなわち、彼らを神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」に因む、壮大な歴史ドラマの始まりを意味しています。

 

近年僅か200年間の人口増加に見られるように、この時期が宇宙変遷の最終章であることを物語っています。一つのサイクルの中でアトランティスの沈没や人々の堕落が洪水を引き起こしたノアの箱舟の物語を経て、5千年前から宗教・哲学・思想、そして最終的に物質的な「経済」という枠組みの中で、欲望によって人心を失った73億人もの生命の糧とその魂を導くために、今日に至る金融経済の切り口が先行してきたことを物語るものです。

宇宙連合やアガルタと、地上に身体を得たそれぞれの役割によって、有史以来とも言える戦いの成果が結実したことを意味します。そしてこの物語は、更なる始まりの合図であり、貨幣のない社会へ向けて急激な社会変動と、物質世界の意識では決して想像できない天直轄の神聖な世界が浮上するための道筋でもあります。

今回SNNでは、皆さんにこの流動原理を分りやすいように、この物語の根源的な話が開示されました。「大天使ミカエルが主催する特別な天上の評議会はこのマスターたちの長としてラント卿を任命しました。」 この7人のアセンデット・マスターに自ら志願したラント卿は、主に中国に化身し、その国の文化を大きな知恵で満たした終焉の炎を焦束しました。中国の周時代(具体的な化身の1つ)は、孔子の導師(項屣:コウモ)であったと考えられます。中国初代の幻の皇帝と言われた黄帝(コウテイ)もラント卿の化身と言われています。中国では老子と混同されますが、別人です。

 黄帝

ラント卿が一番大切にしていた弟子のクアン・イン(観音様)を東洋における管理人に任命したのは中国が「隋」と言う国に再統一された紀元6世紀でした。クアン・イン(観音様)が大いなる探索を経て、サンジェルマンの出会いで終了した16世紀は、東洋では最後の王朝「清」が建国され、ヨーロッパのルネッサンスとともに今日のアメリカ合衆国が列強の植民地として産声を上げた時期でした。

東洋と西洋という歴史のエネルギーが相まって「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」、そのための宇宙と地底の魂が地球へ人身を得て転生して、その数73億人を養成する教育・医療・科学・芸術・・・そして経済の環境を整えてきたのです。この物語は荘厳な宇宙の進化の物語です。

16世紀から数百年で、壮大な貯蔵庫が数々と建造され、サンジェルマンは西洋の専制君主たちを銀行経営の新しい時代へと導きました。西側諸国はこれを植民地支配や戦争などの極悪非道な資金システムとして広げ、帝国時代を築く事が許されてしまいました。クアン・インとその同胞が隠していた基金にこれらの悪弊害が反映し、資金は成長していきました。その流れで20世紀が始まる頃には、世界が真に変わる為のステージが整うことになったのです。

それを象徴するかのように、20世紀に行われた第二次世界大戦は原爆で突如終了し、そしてこのステージを象徴する黄金や債権に基づき、戦後復興資金や国連難民資金・・・などの名目で、西洋諸国の新たな法令がいくつかの合法的戦略の基盤となり1990年代の中盤に、当時、突然に締結された“アンチャラ条約”が実を結び、この星の闇の存在たちは、平和と豊かさの光の時代へと続く領域へ移行するべく方向転換しました。

その闇は、今、世界的な仮想通貨や新しい地域銀行計画に躍っています。ベーシック・インカムのようなシステムが発効すれば、地球の運営は民意に移行することになりますが、その民意に地球環境を守る意識が根付くまでは民意とは言えず、そのためこの仮想通貨や地域銀行構想の行き先が知れません。個人システムも現在の社会システムが一変でもしない限り、神聖な世界の前触れの範囲は超えられません。民意とは私達のことです。その民意は皆さんで創って行く新しい創造の世界です。

ラント卿と弟子のクアン・イン(観音様)そしてサンジェルマンは、経済(金)のためこの仕組みを司ってきたのでしょうか。天上の評議会は、「啓蒙」を司るラント卿を全体の長として任命しています。人類の力で、家族や地域社会、そしてこの緑の地球を地上の天国に変えてゆくために、皆さんの心に核に内蔵されている神秘の扉を開ける時がはじまります。

天意は聖なる黄金のラインによって営まなれます。


シェルダン・ナイドルニュース特集~2003年7月29日 この魔法のイベントは、現在の「第6天地創造」に終結をもたらし、同時にこれを「第7天地創造」へと変容させるでしょう

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2016年人類は、現在の13000年の「第6天地創造」に終結をもたらし、同時に、「第7天地創造」に変容させました。この時のために200年前からすでに準備されてきた相互扶助とその規範となる「道徳」を復興させるこの領域には数々の奇跡が用意されています。この領域にみなさんが進入するためにまず始めにいままでの一切の慣習を脱ぎ捨てることから始めます。個々それぞれにもうすでに軌道は敷かれていますので決して焦ることはありません。

Original URL : http://www.paoweb.com/sn072903.htm


スピリチュアル・ハイアラーキーと銀河連邦

PAO : プラネタリー・アクティベーション・オーガナイゼーション[惑星活性化協会]から

シェルダン・ナイドルからの最新版


[ 2 Oc, 3 Pop, 12 Manik ]

[銀河暦:黒い手の協力の年,ポップの月の3日め,白い犬の挑戦の日,愛と献身]

(地球西暦:2003年 7月 29日)

心から愛しい子たち。遅ればせながら、皆さん、銀河新年*1 明けましておめでとうございます!皆さんの好奇心をかきたてずにはおかないさらに多くの情報と共に、私たちは再び到着しました。最近のいくつかのメッセージでは、シリウスにある私たちの故郷なる2つの天体について記述し、皆さんに私たちの文明の一瞥をさしあげました。この巨大な銀河出身の人類は、様々な色とサイズに及びます。我々の文明は等しく個別のものですが、私たちはこの驚異的な素晴らしい多様性を喜んで歓迎し祝します。数限りない文明は、私たちの多様性が私たちを実際に結びつける様子を示す、聖なるサインであると考えます。事実、銀河じゅうでの多くのフェスティバルの開催を、私たちは年間を通じて楽しんでいます。その折には、ユニークなスタイルの歌や詠唱、ダンスにドラマに音楽、そして文学作品が上演されます。何十万年前のことですが、これらの様々な祝祭に導かれ、汎・銀河人類的な文明機構が組織されました。このグループは、その「光の銀河連邦」との関係を通じ、メンバーである星系国家どおしが相互に交流をまじえる様々な手段の1つになっています。私たちのすべてが熱く待ち望むのは、その延々と続く長々しいメンバーリストに、皆さんの将来の星系国家がすぐにも加えられることです。

 これらの文化的交流は、私たちの壮大な植民の歴史を祝う機会でもあります。私たちは、ベガ[織姫星]星系からこの銀河全体にわたる数々の恒星系に広がりました。この運命(さだめ)を先導したのは何百もの星系国家群です。この天の川銀河全体に拡がる私たちの最近の入植の旅、その基礎となる第1歩をうち立てたのが彼らです。この理由から、(ベガの位置する)琴座の星系国家群は、私たちの心に特別な場所を占めます。熱く讃えられるこれらの星系国家群の1つから、各フェスティバルを統轄する名誉議長が迎えられます。私たちの入植の旅路に重要な役割を果たすこの星系国家群を讃えるため、彼らの中からやって来た一団が、フェスティバルでは常に最初の演目を演じます。これが一通り終了すると、各フェスティバルでホスト役を果たす星系国家のアーティストたちによるオリジナル・ステージが演じられます。その作品は、しばしば、あの星系国家が植民の歴史に果たした役割に基づくものです。フェスティバルの残りは、どこの星系国家群かを問わず選び抜かれた何百人もの出演者から成ります。彼らは、自分たちの星系国家の伝統的作品の上演に加え、彼ら自身のプロデュースによるオリジナル作品を献上します。

 文明フェスティバルは、様々なタイプの貿易/通商協定が議論される時でもあります。この延々と続けられてきた新しいアイデア、物資およびテクノロジーの交換は、「銀河人類連合」と名付けられた機構での、私たち相互の利益の維持において重要です。フェスティバルでの会議は、銀河じゅうのイベントに関して私たちに情報を提供し続けますし、また、多種多様な問題に関して共通政策を採用することでこの連合を支援することが可能になります。これらのガイドラインに従って、私たち人類は様々な地域連合カウンシル[評議会]で結束した立場を維持することができます。また、そう度々のことではありませんが、ベガ星系で全銀河連邦会議が召集される場合も同様です。結果として、私たち人類の文化的/外交的連携による相互作用は、共同戦線をはる準備という意味から重要不可欠です。過去20万年に、私たち人類は、銀河連邦全体から讃えられる結束を固めることができました。その評判は遍(あまね)く広がり、天の川銀河に住まう他の様々な感性ある種族たちも、その多様性を讃える同様の文明フェスティバルを誕生させました。

 私たちが言及した人類にフォーカスした特別な祭典、および他種族による多くの同様の祝祭に加えて、様々な異種族間フェスティバルが銀河連邦全体にわたって開催されます。これらの催しは、ある特別な目的に役立ちます。同じ連邦地域カウンシルに属する星系国家間での交流を可能とするのです。これは1つの重要なプロセスです。所定の感性ある種族が、同じ銀河連邦地域カウンシルに属する他の多くの種族を讃える機会となります。このような交流は、私たちが互いをより深く学ぶことを可能にします。ある特定の文明に属する人々が、その偉大さのすべてを披露する機会を与えられるのです。これらのフェスティバルは、新テクノロジーや外交イニシアチブに関する非公式デイスカッションの開催地、および銀河連邦最高評議会の総会を提案する機会も提供します。 さらに、これらのフェスティバルによって、「光の銀河連邦」基本原則に対するメンバー星系国家の絶え間ざる忠誠が確かなものになります。これらの基本原則がこの銀河を結束させ、多くの悲劇的な銀河戦争を終わらせたのです。

 この銀河で私たちが結集していますから、だから、愛しい子たち、皆さんは今連帯し、皆さん自身生き抜きして再創造に取り組む準備ができています。この聖なるプロセスは、マザーアース[母なる地球]上での新たな過渡期という現実のマニフェスト[顕現]を可能にします。それは、皆さんのフルコンシャス[完全なる意識]への復帰における次なるステージです。はるかな昔、皆さんは銀河の様々な領域から、この特別な太陽系に植民しました。過去1万3千年の間に、皆さんは「地上を離れた世界」出身であるという自らの素性を忘れました。自分が招かれたアウトサイダーであることも思い出していません。ここの生態系は皆さん本来の居住環境ではなく、むしろ皆さんがその環境を監督し、天界の導きの下に保護するはずのものです。ところが、皆さんの忘却から、そして、さらに重要なことに大昔アヌンナキがたくらんだ闇の陰謀から、皆さんはその最大の破壊者となりました。いま、皆さんの忘却は解除されかけています。それが終われば、私たちが語る言葉の真実を、皆さんは完全に認識するでしょう。

 この天体の生態系に関する皆さんの任務は、この惑星のステュワード[世話役]を務めることであって、その最中(さなか)に生きることではありません。この展望は、すべての銀河人類が物質界で果たす役割にとって非常に重要です。私たちのただ最も重要な任務は、物質界を育(はぐく)むことです。心に留めてください。各々の銀河や惑星、および恒星は電気-重力的な生き物です。主(ロード)スーリアの指揮のもとに皆さんが物質界へと到着したのは、物質界を保護し、光を与えるためでした。神の運命(さだめ)る相応(ふさわ)しき時に、皆さんは物質界の天界との再結合を助けるでしょう。この魔法のイベントは、現在の「第6天地創造」に終結をもたらし、同時にこれを「第7天地創造」へと変容させるでしょう。そのときまで、私たちのゴールは「聖なる計画」のマニフェストを支援することです。時に、この任務は私たちにとって、不愉快でいやな感じの状況を引き起こしました。それにもかかわらず、これらのイベント[出来事]は私たちにたくさんのことを教え、厖大な英知を与えました。それが皆さんを現在の状況に連れて来たのです。

 意識の拡大とともに、皆さんは人類へと進化した地球上の何らかの霊長類(お猿の仲間)ではないと理解できるでしょう。皆さんはすべて地球外生命体です。聖なる目的のために物質界に入ったのです。たった今述べたように、その目的は「聖なる計画」をマニフェストすることです。この計画から、皆さんは意図的に限界ある意識という一時的状態に陥りました。私たちは、これらのことをかつて何度も伝えてきました。今、私たちは皆さんに望みます。皆さんの進化の次なるステップが間近にせまっていると知りなさい。その結果として、皆さんに既存の世界はあっというまに変容するでしょう。銀河連邦がこの星を訪れたのは、物理的な「聖なる介入」を実施するためであり、それがファーストコンタクト・ミッションとなりました。このミッションは、その次なるステージへ移行する準備ができています。物理的コンタクトの第1ステージの瞬間がやって来ました。それは、私たちの現在の監視プロシージャ[手続き]を越えるものとなるでしょう。

 この新年[ 12 Manik :黒い手の協力の年]のテーマは「聖なる世界奉仕」です。それは第1に、あらゆる形の人類がマザーアースに仕えることができるような機関やイベントの創造に関係します。その意味するところは、活気に満ちた新たなグローバル社会を創造する必要があるということです。私たちは、より適切な方法で皆さんを支援する覚悟をしています。我らが地上の同盟者たちの勇敢な偉業に、私たちは感謝します。彼らは無私無欲に献身してきました。そして今、長く遅れた任務を終える時であることも、私たちにはわかっています。皆さんの地上の守護者たちは漸進(ぜんしん)しています。必要な圧力を働かせながら、新たな過渡期の現実を生むのに必要なすべてを利用可能にしています。今は私たちが前進すべき時、天界の望みに従って行動する時です。私たちは、このオペレーションの次なるプロセスを発進するよう、艦隊やリエゾン[連絡員]および地上監視者たちに命じました。それは皆さんを解放するでしょう。皆さんの惑星に最後に残る闇の秘密結社の、違法な権力とそのアジェンダ[予定計画表]から解き放つでしょう。

 今日は、私たちの多様性が私たちの最大の強さとなった様子について簡潔に議論しました。さらに、皆さんは私たちの親類であり、私たちは皆さんを助けるよう神に命じられたのだという事実にも言及しました。時は今、ついに、この重大なオペレーションを始める瞬間がやってきました!まもなく、私たちはとうとう出会えるでしょう。そして皆さんは、フルコンシャスへの旅路のラストステージに乗り出すでしょう。さあ、私たちは今おいとまします。可愛い子たち、私たちは皆さんを祝福します!ハートの中のハートで感じてください。尽きることなき天からの供給と無限の繁栄が、本当に皆さんのものなのです!
Selamat Gajun!Selamat Kasijaram!(シリウス語で「ひとつであれ!愛と歓喜にて祝福を!」)


[訳注]

銀河新年の前夜*1:銀河新年は西暦で毎年7月26日に始まります。

世界最後の謎を解き明かす(ムー大陸探検事典) ~第5章 ムー文明の継承者・東大国と日本 : 高橋良典の仮説 Ⅱ

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第5章

ムー文明の継承者・東大国と日本

高橋良典の仮説II

 キンバレー山脈の岩壁に描かれた古代日本の帝王ラ・ムー  

ナスカ平原に描かれた地上絵 

チャーチワードは語るー「今から一万二〇〇〇年以前に栄えたムー大陸の住民カラ族は、イースター島からアメリカに植民してカラ帝国をつくると同時に、インド方面にも植民してナーガ帝国、ウイグル帝国などをつくった」と。彼の説く「ムー文明」がかつて宇宙規模の広がりをもつ「空艇文明」であったことは、のちに概説するとおりだへ第8章参照)。が、はたして、チャーチワードの仮説に登場するカラ族が世界各地にムー文明の都市をつくったというのは、考古学その他の学問から明らかにできる確かな事実なのだろうか。この点に関し、地球文化研究所の高橋は、ムー文明時代のカラ族が世界各地に雄飛していた当時の証拠を求めて、過去二〇年余り調査を進めていくうちに、以下に述べる貴重な手がかりをつかんだ。つまり、われわれは今のところム!王国の実在を直接的には証明できないが、『契丹古伝』という稀有の書物に記された東大国と、そこに登場するカラ族の存在を明らかにすることによって、間接的にムー王国の実在を証明できるのではないか、という見通しを得たのだ。

 「いさかひを避け、とこしへに温れむいのちを重ねしめよ」と記されたエクアドル地下都市出土の黄金の胸飾り

証拠1

大いなる『契丹古伝』

今から一〇〇〇年ほど前(九四二年)に遼の史官を務めた耶律羽之の手に成る王家の書『契丹古伝』は、.やまとふみししとさつかみすち『耶摩駝記』『氏質都札』『汗美須鍾』さいせいしようしよひ『西征頚疏』『秘府録』『神統志』『費みこくししんいんたいき彌国氏洲鑑』『辰殷大記』『洲鮮記』の九つの史料をテキストとして編纂されている。そこには、今日のわれわれが三〇〇〇年の時の流れの中で転変と流移の果てに忘れ去ってしまった、はるか昔の日本人の祖先の歴史が脈々と息づいている。『契丹古伝』の目的は、建国まもない遼(契丹)の王家がみずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原支配に抵抗する周辺諸民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。が、同書は結果的に、われわれ日本人が今となっては入手できなくなった、『耶摩胎記』をはじめとする八世紀以前の古代史料を駆使することによって、記紀や他の古史古伝から洩れてしまった渤海滅亡以前の高句麗・日本の太古史を明らかにしている.、同書がわれわれに垣間見せてくれる太古日本の歴史は、その内容があまりにも通説とかけ離れているため、これまで欧米や中国の学者が流布してきた世界史の常識に従えば、全くの空想としか見えない。が、『契丹古伝』によれば、われわれ日本人と契丹人の共通の祖先である東大神族の歴史は、過去三〇〇〇年にわたってエジプト、シュメ;ル、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアトランティス人、つまり中あや国で漢人として知られる欧米の支配階級アッシリヤ人~アーリヤ人の手で抹殺され、改ざんされてきたという。つまり、われわれがこれまで教わってきた紀元前の日本と世界の歴史はすべて虚構であり、われわれの祖先の真実の歴史、カラ族(タル族)と呼ばれてきた東大神族がかつて地球のすみずみに築き上げてきた輝かしいムー文明の歴史は、アトランティス人(漢人~アーリヤ人~アッシリヤ人)の手で巧妙に流布されてきた歴史の通説にひそむ大ウソを暴かなければ明らかにできない、ということを同書は訴えているのである。はたして、『契丹古伝』に書かれていることは、全面的に信頼してよいものか。そこに記された東大国は本当に紀元前七世紀ころ、地球の大部分を治めた国だったのか。

 "幻の""東大国""首都分布図"

 東大国の主要都市リスト

中原の首都

鹿児島県川内平野の入来(いりき〉

東原の首都

アラスカ南部の州都ジュノー

南原の首都

ニュージーランド北島のマヌカウ

西原の首都

アフリカ南部のジンバブエ

北原の首都

カザフ共和国のケンピルサイ

神京

パキスタンのペシャワル

秦率母理京

オーストラリアのジランバンジ

離京

イースター島のホツイチ

海京

エクアドル海岸部のエスメラルダス

斉京

ケニヤのヒラッタスヒル

仲京

韓国迎日湾地区の高壇耶(かこや)

    サハラ砂漠に描かれた太古日アフリカに侵入したアトランティス(アッシリヤ)の同盟軍と戦うムー(カーリァ)の戦士たちサハラ砂漠の伝説の都イジュンハンの位置を示す地図

また、当時の東大国王スサダミコが歴史的に実在したとすれば、その証拠は、世界各地にどのような形で残っているのか。今、われわれが明らかにしなければならない疑問はあまりにも多く、一朝一夕には解決できそうもない。けれども、高橋は、彼自身の専門分野である古代文字の研究を通じて、今では『契丹古伝』に書かれていることが、ほぽ全面的に正しいのではないか、という見通しをもつようになった。『契丹古伝』に記された東大国の伝説の都をいくつか現地調査していくうちに、彼は、日本神話の高天原が東大国の中原地方(日本からインドに到る地域)に実在したことや、アンデス・ヒマラヤの奥地にムー文明の痕跡が残されていることを突きとめた。そればかりではない。以下に記すごとく、『契丹古伝』に書かれたとおりの「歴史の抹殺」が、奈良時代以前の日本で実際に行なわれた証拠をつかんだのである。

ムー(カーリア)との戦いを示すヒッタイトの壁画

抹殺された神代の記憶

一九九三年に遷宮せんぐうの大祭を二十年ぶりに迎えた伊勢神宮。その伊勢神宮の境内にある神宮文庫に古くから収められた史料は、奇妙なことに、漢字でも仮名でもない不思議な文字で書かれている。この由緒ある神社に源義経や平将門が残した歌、菅原道真や稗田阿礼が奉納した詩歌に、現在のわれわれが知らない文字が使われているのはなぜか。これまでわれわれが学校で教わってきた歴史によれば、古代の日本に漢字以外の文字はなく、漢字以前の文字もなかったことになっている。ところが、実際に古墳から出土しかめかんた鏡や、甕棺に副葬された弥生時代の遺物、各地の博物館に収納された縄文土器を丹念に調べてみると、それらの表面には、伊勢神宮の奉納文に使われているものと同じ文字が刻まれている。

新しい読み方:ヒツキヲアタヘム   従来の読み方:日之光天下大明見

鏡(模写)と解読結果(東京国立博物館蔵)この章で紹介したいくつかの例を見てもわかるとおり、漢字伝来以前にそれらの文字が使われたことは確かである。にもかかわらず、奈良時代に成立した『古事記』や『日本書紀』に漢字しか使われていないのはなぜか。

今日の学界では、江戸時代に本居から宣長が「上古文字なし」「漢ごころを廃せ」と主張して以来のしきたりに従って、古代の日本には文字がなかったことが通説とされている。が、事実に即していえば、古代の日本には縄文時代から文字があったし、漢字以外に旧字と新字の区別があったことは文献にもはっきり記されている(書紀・天武十一年の記載ほか参照)。宣長は『日本書紀』を軽視するあくだりまり、同書の天智六年の条に記された「築紫都督府」の設置とそれに伴う「漢字使用令」が、カラ心を廃してアヤ心(漢人あやひとのいつわり)を育てたことを見過ごしてしまった。再び事実に即していえば、古代の日本から神代の文字とカラ心が消されてしまったのは、六六三年の臼村江の戦いで、カラ族(日本)がアヤ人(中国)に決定的な敗北を喫したからである。つまり、われわれがカラ族固有の文字で記録された太古日本の輝かしい歴史をことごとく見失ってしまったのは、臼村江の大戦後、九州の大"宰府に進駐して日本占領軍司令部"""築紫都督府を設置したアヤ人ら(唐の軍人官僚二千余人/書紀・天智八年の記事参照〉の陰謀により、それまで使われてきた神代文字の使用を禁止され、漢字の使用を強制されたことが最大の原因なのだ。「築紫都督府」が唐の占領軍司令部を意味していることは、この時期にくだらこま日本とともに唐と戦った百済と高麗のそれぞれの都が、唐に敗れたのち、「熊津都督府」「平壌都督府」という、同じ「都督府」の名称で唐軍の占領管理下に置かれた例を見れば明らかに太古の秘密を記した宮下文献である。

この時代に、われわれはそれまで使ってきた固有の文字を公式の書物に用いることをやめ、神代文字で書かれた古史古伝を、『古事記』『日本書紀』のような漢字表記の書物に書き改めた。その結果、白村江の敗戦以前にわれわれの祖先が世界各地に雄飛していた記憶は、地名・人名の漢字化とともに次第に失われ、日本の有力氏族がかつてインド、ヒマラヤ山脈の麓にも高天原の都を定めて、アジアからアフリカ、アメリカ大陸に到る九州全土を治めていた時代の輝かしい歴史も徐々に失われてしまった。『契丹古伝』は、紀元前の日本人が、東大神族と呼ばれたカラ族(クル族)の一員として、紀元前のインドでもテイルムン(太古の目本)の高度な建築技術のあとを示すモヘンジヨダロ遺跡活躍していたことを伝えているが、当時の記憶は、九世紀の初めに万多親王らが編纂した『新撰姓氏録』という有力氏族の家系由来記に化石的な形でかすかに痕跡をとどめるのみである。

 

よみがえる高天原の神々

だが、この『新撰姓氏録』に残されたわずかな情報だけでも、われわれの祖先の失われた歴史を復元する上で、はかり知れない意味をもっている。例えば、そこには、京都の祇園祭りで有名な八坂神社の一族が、朝鮮半島から日本列島に移り住むはるか以前に中国大陸の久留(呉仔長江流域)にいたこと、その前はタイの川麻乃(チェンマイ)にいたこと、そしてさらにその前はインド東部の意利佐(オリッサ)にいたことが記されている。九世紀末に遣唐使を廃止して国風文化の復興につとめた菅原道真のルーツを『新撰姓氏録』に基づいて調べてみると、これまで実在したか確力めようのなかった日本神話の高天原の所在や、そこで活躍した日本の神々の実体がはっきりしてくる。

この書物から、われわれは、菅原一族の祖先の天神たち、初代の穂日(ホピ)や息子の夷鳥(イドリ)、末孫の鵜濡淳(ウジュヌ)らがインドのデカン高原を流れるゴダバリ河とナルマダ河の流域に住んでいたことを知るだけでなく鵜濡淳がウジャイン(ナルマダ河の北)の町に、夷鳥がインドーレ(ウジャインの東方)の町に、また穂日がボーパール(インドールの東)の町に拠点を定めて、これらの都市を建設したことが読みとれるのである(高橋良典著『謎の新撰姓氏録』徳間書店刊を参照)。そして、これから述べることが最も重要なポイントであるが、実際にわれわれ探検協会のメンバーがインドのデカン高原へ調査に行ってみると……。驚くなかれ、穂日の町や鵜濡淳の町はここにちがいない、と単に文献から仮説を立てたにすぎないボーパールやウジャインの古い寺院の壁や古城の敷石のいたるところで、われわれは、日本の神代文字で書かれた古代日本語の銘文を発見することができたのである(第6章参照)。このことは何を意味するかといえば、それは、菅原氏に代表される日本の有力氏族が、かつてインドのデカン高原サハラ砂漠の洞窟に描かれたムー(太古日本)の女王ガーナカン高原にいたことを示している。

そればかりではない。われわれがデカン高原の中心部にある有名なアジャンタ石窟寺院の最古の柱から写しとった刻文を、あとで高橋が解読してみるとそこには、伊勢神宮の古代文字で「クダハラマロ」(管原麻呂Vと読める寄進者の名が刻まれていたのだ。クダハラマロのタダハラ(管原)は、『姓氏録』によれば、菅原氏の元の氏族名である。そのクダハラ氏の男子の名がアジャンタにあるということは、いまや疑いようもなく、菅原氏の祖先がインドのデカン高原でも活躍していたことを証明している。

アジャンタの石窟に描かれた壁画そして、紀元前三世紀まで湖るアジャンタ石窟の創建者が菅原道真の遠い祖先であったといえるなら、天神の穂日や夷鳥たちが活躍したという日本神話の高天原は、まちがいなく、インドのデカン高原に実在したといえるのだ。一九九〇年に高橋が、『新撰姓氏録』という歴史学会公認の文献から"導き出したデカン高原""高天原仮説"は、今やわれわれだけでなく、インドのデカン高原へ行った人なら誰でも、現地と日本に共通する神代文字碑文を目にすることによって、決定的な形で確かめられる。しかも、彼の仮説は、インド人と日本人の言葉や遺伝子を調べた専門家の研究によっても、また、インドと日本の古い伝説や祭りの伝統、考古学上の遺物を比較した研究者の報告によっても、二重、三重に重なる結論として確実に裏づけられる。今なお戦いはやまずこのように見てくると、われわれの祖先がかつて中原(インドから日本に到る地域)に都を定めて世界全体を治めたという『契丹古伝』の言い伝えは、現在のわれわれにとって確かに信じがたいものではあるが、太古日本の忘れ去られた歴史の真相をかなり正確に伝えていることがわかる。

イオンと格闘する太古日本の王ギルガメシュる。

日本ではこれまで、江戸時代に神代文字の存在を明らかにした平田篤胤の功績が学問的に根づかなかったため、過去二〇〇年問、欧米の考古学と言語学の発展に貢献し、オリエント世界の古代史を解明する上で決定的に重要な役割を果たしてきた碑文学の伝統がなかった。けれども、今やわれわれは、過去二〇年にわたる高橋の調査によってその正しさが明らかになってきた古代カラ族の神代文字を有力な武器として、世界各地に築かれたカラ文明の諸都市を探りあて、『契丹古伝』に記された東大国の位置や、高天使鶏という空艇に乗って世界を駆けめぐったわれわれの祖先の足跡を発見できるようになった(第7章参照)。『契丹古伝』に登場する東大国の実態を解明する作業は、ここ数年前に始まったばかりである。そのため編者の耶律羽之が採録した九つのテキストの史料価値も、今のところ定まっていない。また、『契丹古伝』に記された原日本人のカラ族と、チャーチワードが紹介したムー文明の建設者ーカラ族との関係も十分に明らかになってはいない。しかし、高橋の見通しでは、二つのカラ族は時代を異にする同じ日本人の祖先であり、『契丹古伝』のカラ族が建設した東大国は、紀元前六八七年(C14年代で一万二〇〇〇年前)の大異変で滅亡したムf文明の継承国家ではなかったかという。世間では、チャーチワードの唱えたムi文明とプラトンが紹介したアトランテイス文明が、ともに今から一万二〇〇〇年前に滅び去ったと伝えているが、『契丹古伝』というたぐい稀な文献とデカン高原に残されたカラ族碑文に基づけば、ムー(カラ)とアトランティス(アッシリヤ/アーリヤ/アヤ)の戦いが異変によって中断されたのは、前八世紀から前七世紀にかけてのわずかな期間であった。

アトランティス(ギリシア)との戦いを見守るトロイ(ムー)の英雄パリスムーとアトランティスの戦いは、われわれの見方によれば今なお続いておりこの戦いは、日本人が『契丹古伝』に記された太古の歴史を解明し、アヤ人によって長いあいだ教えられ続けてきた虚構の世界史を書き改めない限り終わることはない、というのがわれわれの偽らざる思いである。

[アヒルクサ文字]

アヒルクサ文字は、伊勢神宮・出雲大社などの由緒ある神社や旧家に古くから伝わる神吠岐諄のひとつ。九州の阿比留家に伝わる阿比留文字の草書体と考えられたことから、江戸時代の国学者として有名な平田篤胤らによってアヒル草文字と命名された。が、本来はアヒル文字と別個に発生した紀元前の文字で、最近は股いん代甲骨文字の草書体ではないかと考えられている。アヒルクサ文字に代表される日本の古代文字は、伝世資料によって百数十種類あったことが知られているが、古墳・甕棺から出土した鏡や刀剣、縄文時代の土器・土面、石造物の表面に刻字が確認されているのは、今のところアヒルクサ文字以外ではイヅモ文字、トヨクニ文字、北海道異体文字などの数種に限られており、今後の研究が待たれている。

伊勢神宮神宮文庫に収められたアヒルクサ文字とイヅモ文字の奉納文

汗美須鍾かみすち

『契丹古伝』に引用された史料。汗美須錘(神統)には次のような内容が記されている。神祖ヨセフは、ヒンズークシュ山脈の南のふもとにあるアソタの地に都を定め、その都をペシャーワルと名づけた。ペシャーワルは神の都である。ヨセフはシャー・ジ・キのシャーンキヤー王に命じてこの都を治めさせた。彼はまたシラヒゲアケ(白髭王)に命じて朝鮮半島の迎日湾地羅らしめ、この地を高壇邑と名づけた。高壇の地は太陽つき観測の中心地(都祁)であった。高壇邑は南アフリカのアスハムとエクアドルのエスメ一フルダスを結ぶ大円軌道の中点に位置するため、仲京と呼ばれた。ヨセフはエクアドルのコカムイトパクシ神に命じてエスメラルダスに居らしめ、その地をグアヤスと名づけた。グアヤスの港グアヤキルは太平洋航路の重要拠点だったので、海京と呼ばれた。彼はまた南アフリカのアカムイスハム神に命じてケニヤのムグルクに居らしめ、その地をヒラックス・ヒルと名づけた。ヒラックス・ヒルのあたりはアフリカに住むカラ族の宗教的聖地となり、キスームの都、斉京と呼ばれた。彼はキリコエアケ(聞得王)に命じてボゴングの地(オーストラリア)を治めさせ、その都をジランバンジと名づけた。ジランバンジは神祖ヨセフが最初に降臨したところモリなので、始祖降臨の都と呼ばれた。キリコエアケは、ジランバンジのほかにも、イースター島のハンガ・ヌイに宮殿を建てて住んだ。ハンガ・ヌイの地はホツイチと呼ばれ、ラノニフラク火山のふもとにあって神都ペシャーワルから最も離れた地球の裏側の地にあたるため、離京と称された。キリコエアケは生まれたときから頭に刃のような角をそなえ、常人とはちがっていた。彼は人問に害をなす悪霊や邪鬼を退治するのが何よりも好きだった。死者を甦らせたり、病気を封じたり、気の流れを変えたりする秘密の行法を二十四項目にわたって体系化したのは彼である。彼の教えは今でも有効であることが確かめられている。

イースター島遺跡分布図。ラノ・ララクの東に離京があった。

[契丹古伝]

遼の耶律羽之がまとめた契丹王家の歴史書。全文四六章から成り、次のように始まる。いま神とは何かを考えてみるに、古くからの言い伝えでは、神は光り輝くものとある。その光り輝くようすはたとえようもない。しいてこれを譬たとえれば、日の光に輝く鑑のようである。そこで鑑は太陽神をかたどったものとして日神体と書かれ、カガミと読まれる。その昔、天界を統治した太陽女神たる我らの目祖アメウシハクカルメ"(阿乃法翅報云亭霊明""天"統治日霊女)は、シベリア南部のエニセイ川中流域に広がるミヌシンスク盆地に宇宙船で着陸し、盆地の南部から東部にかけてつらなるサヤン山脈のふもと、カーメンヌイで日孫を産まれた。のちに東大国主となられた日孫ヨセフ皇子は、またの名をアバカンといい、スサダミコともいう。ミヌシンスク盆地の中心都市アバカンにその名をとどめる目孫に、目祖はみずから乳を与え、彼が大きくなると、コマカケと呼ばれる飛行艇を与えて、地上に降臨させた。これが我らの神祖ヨセフの誕生の由来である。ヨセフを神祖と仰ぐ我らカラ族は、世界の各地で活躍した。カラ族の勇者はイースター島のラノ・ララクの南東にあるホツイチの霊廟にまつられ、各地のカラ族の都はいずれもコマヤ(高麗国・高天原)と呼ばれ、国名をシウク、族名をシウカラ、国民をタカラと称し、国王をシウクシフとたたえた。シウクとは東大国とうだいこく、シウカラとは東大民族、シウクシフとは東大国主という意味である。神祖ヨセフの子どもや孫が世界の各地でカラ族の国を受け継いだのは、ヨセフの時代にカラ族が世界的な規模で活躍したからである。紀元前の我らの祖先の活躍を記した別の書物には、こう記されている。すなわち、トコヨミカド"(常夜帝""地下都市の王/"常世尊=不死の王)と呼ばれた東大国主ヨセフは、初めオーストラリアのジランバンジに降臨し、次いでミヌシンスク盆地を見おろすアファナシェヴァの山に降臨した。オーストラリアとシベリアの二か所にカラの二つの源があり、同じシウ氏を名乗る二つの宗族がいるのは、神祖ヨセフの右のような降臨にともなって、我らの祖先が現地にとどまったからである。紀元前七世紀にカラ族の一員となったティルムン(東冥ー日本~インド)の人々はヨセフの子孫ではなく、大洪水のあとティルムンの楽園に住んだウトナピ"シュティム(阿辰法須氏""""天御中主""禺)の子孫であ"る。アフリカのカラ族の王としてその名を世界中の人々に知られたエチオピア王タルハカ(寧義氏=ニンギルス=ニニギ)が"現れたのは、ウトナピシュティムの時代より八〇〇年ほどあとのことである。ウトナピシュティムやタルハカ、ヨセフの時代に我らの祖先が世界の各地で活躍したことを垣問見るにつけても惜しまれるのは、その後千数百年の問に我らカラ族のかつてのつながりが見失われ、祖先の貴重な記録が散逸さんいつしてしまったことである。そこで私は複雑にからみあった瓜うりのツルや綿糸のかたまりを解きほぐす思いでカラ族の失われた歴史を解き明かし、その昔、カラ族の祖先が今とは比べものにならないほど広大な土地で活躍した時代があったことを明らかにしたいと思う。

アッシリヤ(アトランティス〉の宮殿

西征頌疏さいせいしようしよ   

『契丹古伝』に引用された史料。西征頒疏には、紀元前七世紀の戦いのようすが断片的に次のように記されている。神祖ヨセフはいよいよ西に向かって反撃を開始するにあたり、ボルネオ島の西部にいたクチン王の軍隊を同島南西部のクタパン要塞に移し、デカン高原中部にいたサガール王の軍隊をインド半島最南端のアーディチャナッルール要塞に移動させ、南オーストラリア海岸の中部にいたユークラ王の軍隊をエーア湖の西にあるクーバーピジー要塞に派遣して攻撃の準備をさせた。そしてついにみずから大軍を率いて怒濤のごとくエリュトラ海を渡り、アフリカに侵入した敵軍を駆遂してサハラ砂漠の西にあるイジュンハンの丘に達し、夕ロホスとイン・タデイニの間にタデメッカの都を設けてカラの同朋を救出した。ここにエリュトラ海とあるのはインド洋のことである。イジュンハンはアフリカ大陸のさいはて、夕陽が沈む西アフリカの海岸に近いアドラール・デ・ジフォラスの高地にある。スサダミコ神祖ヨセフ(順嵯檀彌固"""山幸彦ホホデミ)は紀元"前六六〇年に即位してみずから東大国を治められた。そしてこの記念すべき年から数えて八八0年たった紀元二二〇年、高句麗の山上王位宮とその弟の百済王仇首(山上王ちほやえちくの弟の蘭須)は千穂八重築しかむのみね紫神之峰と呼ばれた九州・鹿児島の八重山に登り、漢帝国の滅亡を祝って、「秀穂立つシナカキ、とよあしかびさか神が培えけむ、豊葺芽栄」と神に感謝した。この年カラの人々はついに漢帝国の支配から脱し、再び日祖ゆかりのカラの故地を奪回して、日向高千穂と呼ばれた霧島山の神の都に永くとどまれるようになったのである。その後およそ[六〇年余りたった紀元三九一年、高號の好太王は右のように栄ある東大国の伝統を継いで高句麗王となり、大いに我らの旧領を回復して広開土王(コウカイトワケ~トコイカウワケ~瑳競伊弐王~瑞競伊尼赫琿)と称えられた。好太王の時代に人々は久しく失われていた祖先の気風を取り戻し、カラ族の勢いは再び盛んになったのであった。西征頒疏によれば、カキとは稲葦神洲のことで、稲穂が豊かに実る神の国という意味である。

シャンカ文字

インドの初期仏教遺跡、サーンチー、バールフト、あるいはデカン高原の先史美術の宝庫バンパトケア、その他の遺跡から発見されている謎の未解読文字。現地でシャン力文字と呼ばれている、この未解読文字の代表例は、図に示したアジャンタ最古の石窟の柱に刻まれた文字群である。高橋良典は『謎の新撰姓氏録』(徳問書店刊)の中で、日本人の祖先、たとえば太宰府天満宮に祀られた菅原道真らの祖先が、紀元前のインド・デカン高原で活躍したこと、日本神話の高天原の歴史的な舞台は、インドのデカン高原だったという仮説を唱えている。古来より日本で「天神さま」として親しまれてきた菅原氏は、『新撰姓氏録』によれば、かつて管原(くだはら)氏と呼ばれた。そして、アジャンタ最古の石窟に刻まれたシャンカ文字を解読した高橋は、驚くべきことに、これを目本の由緒ある神社に古くから伝わるアヒルクサ文字とタガラ文字で、クダハ一フ(管原)マロ(麻呂)と読んでいる。ということは、菅原氏のような日本の有力氏族がかつてインドのデカン高原で活躍したことを決定的に物語っているのではないだろうか。

石窟の石柱

 石柱のシャンカ文字の解読結果

辰殷大記しんいんたいき

『契丹古伝」に引用された史料。辰殷大記はこう記している。イサク(殷叔)と呼ばれたイスラエル最後の王ホセア(忍穂耳)には老年になっても息子がいなかった。そこでカラの人々からこの上なく高貴な人物(殷越―干越)であると尊敬されていたイサクは、アフリカやヨーロッパ、小アジアの各地に離散したイスラエルの人々を率いて東方の聖地ティルムン(日本)へ旅立つにあたり、スサダミコ(密矩)と呼ばれたヨセフ(火々出見)を養子として迎え、彼の後継者とした。その後まもなくイサクは亡くなったが、そのとき彼は八十九歳だった。こうして我らの神祖ヨセフが永遠のいのちを授けとこよひこみこられた太陽の御子、常世トコヨヒコミコ日子御子(督抗費国密矩)としてイサクの跡を継いだのは、紀元前六九五年(伊兮歩)乙酉の秋、九月(七月)のことだった。

太古日本の王イサク

ティルムン

大洪水ののち、ペルシア湾の東方につくられた神々の楽園。シュメールの伝説によれば、ティルムンは大洪水を生きのびたウトナピシュティムが神々とともに住むことを許された楽園で、息子のギルガメシュがクラブ(イラク南部の古代都市)の英雄になったあと、不老長寿の薬草を求めてやってきた土地という。有名なギルガメシュ叙事詩に、「はるかなる地、川々の河口」にあると記されたティルムンは、別の言い伝えによれば「太陽の昇る土地」にあり、計画的に区画された耕地を潤すすばらしい灌潮用水路と井戸のおかげで穀物が豊かに実り、町には立派な穀物倉庫があったという。神々の楽園ティルムンの"すばらしさは""エンキとニ""ンフルサグ""と名づけられ"たシュメールの粘土板に、次のように記されている。ティルムンの国は清らかだ/ティルムンの国は輝かしい……/ティルムンからすでは烏が不吉な漣霧あげることもなく、雄鶏がけたたましい叫びを発することもない/ライオンは生き物を殺さないし、狼も仔羊をとらえない:…/眼病になる人もいなければ、頭痛になる人もいない/女性は年をとっても若々しく、男性もまた老いを知らない…・シュメール伝説のティルムンは平知そのもので、争いことや病気のない清らかな国、人間がいつまでも若さを失わない輝かしい国だった。以上のティルムンは、高橋の研究によれば、太古の日本そのものであり、異変を生きのびたウトナピシュティムとギルガメシュは、あめのみなかぬしたかみ輻体神話の天御中王、高皇産霊に相当するという。つまり、ティルムンは、ティムン(契丹古伝の東冥)ティプン(契丹古伝の東表)に変化したあと、ジプン~ジポン~ジッポンを経て日本になったといえる。

ウルク(夏)の王ギルガメシュ(日本神話の高皇産霊)の物語を記したアッシリヤの粘土板

 [秘府録ひふろく]

 〔契丹古伝』に引用された史料。秘府録にはこう書いてある。神祖ヨセフは、今日アジアと呼ばれている地域を中心として、アフリカからオーストラリア、アメリカ大陸にまたがる広大な土地をカラ族のために確保し、これを五つの地域に分けて統治した。彼はまず、マダガスカルのチアファジャブナ王を南アフリカのジンバブエに派遣して、東大国の西部を治めさせた。次に彼は、北アメリカのシトカ王をアラスカのジュノーに派遣して、東大国の東部を治めさせた。また彼は、九州の串木野カムイ神を喜入(または入来)に派遣して、東大国の中部を治めさせた。彼は中央アジアのカザフ(またはケンピルサイ)にウラル山脈南部のカンダガチ王を派遣して東大国の北部を治めさせ、ニュージーランド北島のマヌカウにオーストラリアの南のタスマン王を派遣して東大国の南部を治めさせた。ヨセフは、右のように東大国の諸大陸の統治を五人の長にゆだねると、みずからは宇宙船に乗って天空の安全をはかり、大海原を航海する人々の安全をはかった。また彼は、九州の句嬰国(のちの狗奴国)の司祭に対して、つねづねの祭りことをおろそかにすることなく、東大国民の末ながい平和と繁栄を保つよう心がけよと命じた。紀元前七世紀にヨセフが東大国の五つの地域を治める以前、これらの地域にはカラ族以外の先住民がいた。北原と呼ばれた中央アジァのステップ地帯には、遊牧民族のマッサゲタイ人(没皮)と狩猟民族のイユルカイ人(龍革〉がいた。西原と呼ばれたアフリカ大陸には、穴居民族のギリガマイ人(魚目)とティブー人(姑腹)がいた。そして中原と呼ばれた東アジア地域にはアイヌ(熊耳)とコロポックル(黄眉)が住み、南原と呼ばれたインド・オセアニア地域には、マオリ人(苗羅)とパプア人(孟潟)がいて農業を営み、海原と呼ばれたアメリカ大陸にはジェー語族(菟首)とコリャ族(狼裾)がいて海洋漁業にいそしんでいた。これらの先住民は、カラ族とともに東大国の国民になったとき、いずれもヨセフの指示に従い、言いつけをよく守った。けれども、その当時インドにいたバクトリア人(箔)とガンダーラ人(牌圏、サカ人(籍)だけは性格が凶暴で手がつけられなかった。そこでヨセフは彼らを征伐してインドから駆逐し、ベンガル湾に追放した。

費彌国氏洲鑑[ひみこくししゆうかん]

『契丹古伝』に引用された史料。費彌国氏洲鑑には次のようなことが書かれている。その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛りあがり(ビルマ~チベット~ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて水没し蛇身人首の鬼を祭る者が次々にやってきて我らの土地に住みついた。そして彼らは我が東大古族の神の子孫とみずからを偽つたばかりでなく、伏犠や神農、黄帝、少昊なる人物を我らの王の祖先に仕立てあげてその系図に自分たちの祖先をつなげ、あるいは我らの王を陶・虞と改めて彼らの王にみせかけたうえでその子孫になりすまし、これら偽りの神と王に対する崇拝を人々に強要してみずかた(日本海溝~フィリピン海溝の形成)。プングラン(乃后稜)諸島のあたりにあった南シナ大陸と東北の大陸は沈んで海となり、アジア大陸の地殻が太平洋方面に大きく傾いて沈んだため、天が東に向かって海面から遠ざかっていくように見えた。秦・舜の時代に地球全土は戦火に包まれ、禺は洪水の後始末に追われた。ところが二のようなドサクサにまぎれて西からは人身牛首の神を祭る者やらを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。けれども、彼らは自分たちの祖先だと思っていた発と舜が彼らの思惑に反して東大古族の王であり、我らの祖先であったことをはたして知っているのだろうか。西から我らの地にやってきて帰化した人々が王として仕えたのは、嘉・舜のあと世界の王になった夏の国の禺が最初であった。その後久しく続いた夏王朝の創始者である禺のことを彼らは中国だけの王であったかのように記しているが、これはとんでもない間違いだ。というのも、史記に記された禺は大洪水を生きのびてティルムン(日本~インド)の楽園に住んだシュルッパクの王ウトナピシュテイム(天御中主nアソベ王朝初代ウソリ王)をさしており、彼のいた夏の国とは英雄ギ"ルガメシュ(高皇産霊尊"""アソベ王朝第二代タミアレ王)が活躍したクラブ(呉羽)の都をさしている。禺は中国だけの王ではなく、世界全体の王であったことが西族の伝承によっても確かめられるのである。

八咫やたの鏡文字

一伊勢神宮に伝えられた八咫の鏡の表面に刻まれた文字。これらの文字は従来、ヘブライ語で左から右に向かって、エイエアシェルエイエ(我は在りて在る者なり)と読まれてきた。しかし、そのような読み方はヘブライ文字にもとづく根拠のあるものとはみなされない。むしろこれらを分析した結果によれば、古代のサハラ砂漠で使われていたティフィナグ紋字で、あな畏けあがサハな崇めつることほイサクら言祝ぎつあな畏けサハな崇めつると読める(地球文化研究所.高橋解読)。つまり日本神話のイザナギに相当するイサク(古代イスラエル王国最後の王、ホセア)が紀元前七〇〇年頃に、サハもしくはサバと呼ばれた太古の宇宙船サブハをことほいだことが記されたものと解釈される。このサバは有名なシバの女王が使った空飛ぶ乗り物であり、日本では天照大神の太陽円盤として、古くから崇められてきた。、、

エイエアシエルエイア伊勢神宮の八咫鏡文字

 [耶摩駘記]

「やまとふみ契丹古伝』に引用された史料。著者の塢須弗は、耶摩駘記の中でこう述べている。目本がいまだかつて滅びることなく衰えることなくして国を保ってきたのは、この国を治める者がティルムン以来の輝かしい歴史を見失わず、先代から受け継いだ伝統を大切に守り続け、神の言葉にすなおに耳を傾けて、人問としてなすべきことを行なってきたからである。日本のことを秋洲とも書いてアキシマと呼んでいるのは、紀元前七世紀に神祖ヨセフがこの国に世界の都を設け、目体列島を世界の中央島、央畿島アキシマと定めたからである。

[ヨセフ]

旧約聖書にイスラエル十二部族の祖ヤコブの子として登場する人物。日本神話に山幸彦ホホデミ(火々出見)、ホオリ(火折)として描かれ、東日流外三郡誌つかるそとさんぐんしにウヘリ(宇比利)の子として記されたマシカカ(馬司利)に相当する。紀元前六九五年に亡くなったホセア(旧約聖書のイサク/記紀のオシホ耳)の養子に迎えられ、アッシリヤに滅ぼされたイスラエル王家を再興したティルムン(東冥/日本)の王。前八世紀から前七世紀にかけて、アッシリヤ王サルゴン、センナケリブ、およびエセルハドンと戦ったティルムン王ウヘリ(大日霊女/アマテラス)の子、スダース(須瑳檀密矩/ホホデミ)として実在した。

契丹古伝に東大国主スサダミコの名で伝えられたスダースは、前七世紀の戦争と異変の時代に、われわれ日本人の祖先(カラ族/クル族/カーリア人)を地中海、アフリカ方面からインド、日本へ安全に導いた。その功績は忘れ去ることができない。彼は、前七世紀の初めにアッシリヤ(アトランティス/アーリヤ)に征服されたヨーロッパを除く地球全土を五つの地方に分け、それぞれの地域に都を定めて世界を統治した。旧約聖書に彼の父と記されたヤコブ(ニニギ)は、前七世紀にアフリカで勇名をとどろかせたエチオピア朝エジプトのファラオ、タルハカであり、彼の息子と記されたエフライムは、記紀および古史古伝にホホデミの息子として伝えられたウガヤ皇子と同一人物である。

ティアワナコの太陽の門に描かれたヨセフ

原日本古代文字発見地点日本探検協会/高橋良典 調査 日本探検協会では、デカン高原=高天原仮説を証明するため、これまで何度も現地調査を行なってきた。そしてその都度インドでも解読されていない碑文を採集し、100例以上の碑文を解読した結果、古代の日本人はインドのデカン高原あるいはインダス文明地域でも活躍していたことをつきとめた。日本探検協会が毎年継続して進めているインド・ネパール・古代インダス文明地域(ティルムン=日本)の調査に協力下さる方は協会までご連絡ください。

 

太陽神アフラ・マズダはイーマに告げた

おお、美しきイーマよ

この邪悪なる世界に厳しい冬が訪れようとしている

雲高くそびえるかのアヴィ山の項きにも厚い雪が降りつもるであろう

そして水の豊かな緑なす牧場であるこの大地もまた

かつてない大雪に見舞われる

さればイーマよ

今のうちに大いなるバーラを造れ(この大地に大いなる地下都市を造るのだー)    

『ゼンド・アヴェスタ』

観音菩薩伝~第20話 姫、妙善大師と尊称される、第21話 大師、説法会を開く

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第20話 姫、金光明寺に普山して妙善大師と尊称される

 金光明寺修築のために全国の有能な美術・工芸・建築家が妍を競って自発的に労力を提供し捨身奉行したお陰で、工事は予想以上に早く進みました。その陰には、姫を一日も早くお迎えしたいという民衆の願望と、松林精舎での不自由な生活から一刻も早く楽にして上げたいとの願いが籠められていたのです。
 姫が普山されるという消息に一番感激したのは、仏門徒です。大乗・小乗各教派を超越して、姫の御出家を救世主の出現と信じました。
 真実姫の勇気ある行動は、とうてい凡人の為し得るものではありません。一国の王女に生まれながら、富貴栄華の身分を捨て、花園での労苦や白雀寺での火難に遭われてもなお求道の心を燃やし続ける金剛不壊の心は尊敬して余りあるものがあります。
 美しく聡明な姫が自ら孤独克苦の行を受け入れて真理妙法を求め続けられる崇高なお姿を見て人々は、衆生の代わりに抜苦与楽行を為されているのだと信じ込んでいました。正にその通りであります。
 二月初旬に起工して五月初旬には金光明寺は荘厳優雅な全容を顕し、その絢爛たる色彩美は近隣に光り輝いていました。六月十九日には、いよいよ姫が金光明寺に入られると発表されました。
 民衆が待ちに待った、その六月十九日がやって来ました。姫は宮殿から差し向けられた駕籠を辞退して、保母と永蓮を従え、半年余り修行された懐かしい松林庵から下山されました。当日は朝早くから姫の無事なお姿を一目見ようとする民衆が、沿道に人垣を作りました。数々の御苦労を重ねながらそれに耐えられて今漸く御宿願を達せられ、菩薩行を行じに向かわれるその純真一途の至誠に対して、人々は心から姫の念願達成を祈らずにはおられませんでした。
 姫の一行を迎えるために群衆は、沿道の両側に並んで、跪いて静かに合掌しました。姫の一行が通り過ぎるや期せずして皆が立ち上がり、姫の後に従いました。こうして姫の行列は、延々と長蛇の列を成して宮殿に向かいました。金光明寺は宮殿の南方にあり、城下を通らなければ行けません。一団の群衆は姫に従うことが出来た誇りと喜びをもって何時までも何処までもついて来ました。
 一方、妙荘王はアナーラに命じて、盛大な姫の歓送を準備させました。罪多き父として、せめてもの懺悔と餞でありましょう。またこれは、俗世における最後の機会でもあります。妙音・妙元の姉姫たちも、夫らと共に正装して出迎えました。
 城下に入るや姫は、宮殿に向かって恭しく礼拝し、姉姫夫妻、白雀寺の長老尼僧などの歓迎を受けられました。姉姫達は目を輝かせて姫に近寄り、今日の出家入山式は父王が自らこれを執り行うことになったとお告げになるや、姫は有り難くお受けしますと答えました。
 城下で待っていた鉦鼓弦楽隊は、悠揚な梵楽を奏でて姫の前に整列し、静かに動き出しました。空には高く旛、幟が翩翻と林立し、沿道では姫を見送る民衆が手に手に持った花を撒き散らして美しい花道を造りました。値殿将軍カシャーバが、三百の御林軍を率いて護衛の任に就きました。
 六街三市の民衆は、総出で姫の行列を見送り、姫も合掌してにこやかに沿道の歓送に応えられ、心から感謝の意を表しました。
 遠く聳え立っている耶麻山は雄大にして秀麗な姿を見せており、空には一点の雲もありません。遠くから眺める金光明寺はこの上なく美しく、姫の修行には絶好の場所であり、山川草木も姫の御普山を祝福しているかのようです。
 金光明寺は金色と碧色の配色もほどよく輝き、白石で敷き詰めた一条の道が美しく寺院まで続いています。牆は紅を主とした極彩色で四面を囲い、屋根には黄金色の瓦を並べ、美しい中にも荘厳な雰囲気を漂わせています。
 寺院に到着した姫は、まず天王殿に登って四大天王を礼拝し、次に弥勒・韋駄天二尊の前に跪き、続いて後殿に進み奥殿に安置された仏陀の像に敬虔な礼拝を捧げ、弥陀に出家手続きを報告申し上げました。
 香炉から流れる香りは気高く、燭台の火は明々と点り、鐘と太鼓の合図の中で荘厳な儀式が進められました。老松古柏が高く聳える庭に三十余名の尼僧が合掌して並び、歴史的瞬間に心眼を凝らしていました。
 礼拝を終え控えの間で休まれている姫の許に、永蓮が注進に入って来ました。
「姫、父王様が、受戒入位の儀に臨まれるためお成りになられました」
 妙荘王お成りの知らせを受けて、姫は早速尼僧を従え、山門で静かに父王を待ちました。やがて、大臣・重臣を従えた妙荘王の輦が到着しました。深く揖礼して王を迎えた妙善姫は、父王に格別の恩情を深く感謝しました。
 共に修堂に入られた王と姫は、久し振りの対面に双方とも感無量であります。何も言わず語らずとも、お互いの心は深く通じ合っていました。妙荘王は感慨深く姫を見詰め、目をしばたきながら
「姫よ、父はそなたの受戒入位に親しく立ち会いたいと願っているが、許してくれるか」
 優しい父王の詞に姫は、目頭が熱くなり、胸が詰まって
「姫は幸せ者でございます」
と言うのがやっとでありました。父君の慈愛の情が身に沁みて、思わず涙が頬を伝わりました。妙荘王も万感胸に逼って声もなく、じっと姫を見詰めておりましたが、静かに立ち上がって受戒入位の行われる奥殿に向かいました。
 奥殿に進んだ妙荘王は、弥陀と仏陀に焼香した後、西方殿にある羅漢堂と伽藍閣にも廻って焼香されてから改めて奥殿に臨みました。他の堂宇にはアナーラ宰相を代理として焼香に行かせ、姫の出家後の修行が無事平安であるよう祈りました。
 奥殿では文武百官、各大臣が両側に並び、妙音・妙元各夫妻も参加され、下座には白雀寺の長老尼僧及び保母と永蓮が坐って刻を待っています。
 やがて司式が祭事の始まりを告げるや、大勢の比丘尼は木魚を敲き、鐘を鳴らして儀式が始められました。正面に向かって上座に坐った妙荘王は、中央法堂に進みました。そして妙音姫が、玉盤を持って現れました。盤中には受戒入位の教本が置かれ、下手には同じく妙元姫が紫金の托鉢を持って立ちました。保母は黄色の法衣を捧げ、永蓮は帽巾を捧げ持ちました。
 願文が終わり、堂内は深閑として静まりました。一同は凝神をして息を止め、固唾を呑みました。眼は鼻を観、鼻は心を観て静寂を保ち、咳一つありません。諸天の神仏尽く霊験を顕し、菩薩羅漢が一柱一柱威厳の形相を現して奥殿に降臨し、姫の捨身修行を庇護されるような重々しい空気に包まれました。
 妙荘王は、低く重い声で大典の儀を宣言しました。妙善姫は、平民の服装で、静かに法堂の中央に設けられた台坐に登りました。執事役の二人は一対の長い幡を持ち、他の二人は一対の炉を提げて姫の前に進み、姫を先導して妙荘王の前に坐を奨めました。
 香木が燻べられ院内に香煙立ち籠める中で、妙荘王は慈しむような声で姫に語り告げました。
「姫よ、今までそなたとは縁あって父と娘の間柄であったが、暫く経てばもう陌路の他人となる。汝が仏門に入り、求道に精進したいという念願を許そう。今は只、そなたが一心に修道して正果を成就し、ゆくゆくは後世の敬仰の的になることを願うばかりである。一日も早く道を得て、肉親成仏の洪福を受け、更に仏陀の法を普く伝えて世人を救うことを望んでいる。では、そなたは弥陀の座前で正式に発願するがよい。受戒入位の式を始めるように」
 姫は三拝して立ち上がり、弥陀尊と仏陀像の前に跪いて、心から誓願を発しました。
「今、人として法門に入られることを幸いに思います。この身ある限り正法を求め続け、衆生がある限りその救苦救難に尽くし終わることがありません。この心身一切を弥陀と、その使命者仏陀にお委ね申し上げます」
 誓願を終えて姫は、堂前に跪きました。長老尼僧が謹んでその前に立ち、厳かに受戒入位の式を主祭し、姫の正覚正等への成就を祈りました。
 受戒式を終えて長老尼僧から托鉢を渡され徐に帽巾を冠り法衣を纏った姫の出家姿に、父妙荘王は正視するに忍びず、座を立って出て行きました。寺院の庭一杯に詰めかけた群衆、庭園の芝生に黒山のように集まった民衆の中に声なき感動が伝わり、何時までも姫を見守っていました。
 宮殿にお帰りになる妙荘王を天王殿までお見送りに出た姫は、王の輦に向かい地に伏して申しました。
「国事御多忙の折、愚尼妙善のために受戒入位式の労を煩わし、深く感謝申し上げます。自今、心より求法修行に生涯を賭ける大覚悟でございます。有り難うございました。茲に全寺の比丘尼を率いて、恭しく王様の御駕をお送り申し上げます。願わくば、吾が王様に万寿彊まりなきよう寿ぎ奉ります」
 駕籠の中から見る王の瞳と見上げる姫の瞳が吸い合ったように動かず、暫くはお互いに見合ったままでありましたが、やがて王は黙って頷いたまま御輦を進めました。ゆっくりと遠離る行列をじっと見守る姫のお姿、歴史の瞬間を見た感動か、人情別離の感傷か、顔を伏したまま嗚咽を噛み締めている尼僧達の姿、群衆の波、静けさの中に松林を吹き抜ける風の音が一入無常を誘っていました。
 この日から姫は、妙善大師と尊称され、大勢の人から『大師』と呼ばれるようになりましたので、これから後姫のことを単に『大師』の称号で呼ぶことにします。

 耶摩(やま)山麓の静かな金光明寺(こんこうみょうじ)で大師は、専心修行に励まれ、寺院の世話は保母と永蓮に任せて一切を主事させました。二人とも大師に従って正式に仏門に帰依しましたが、寺務に追われることが多く、内功を練る暇もありませんでした。
大師の入門を聞いた人々は、大師の徳を慕って金光明寺を訪れる人が日々に多くなってきました。特に多利という宮女が十人の宮女を連れて入門を請願に来たし、同時に宰相アナーラの末娘舎利尼も入門を願って来ましたので、大師は喜んで彼女達を迎え入れました。
ある日一人の娼婦が罪を悔い、悟りの道を求めて入門を願って来ました。永蓮は彼女の過去を嫌って、大師に
「清浄な寺に不浄な娼婦を迎え入れたら寺を穢し、皆を堕落させてしまいますから是非お止め下さい」
と進言しましたが、大師は永蓮を諭して
「罪を悔い改め、仏門帰依を志して来た人は、みな深い仏縁があります。仏法界は宏大無辺であり、平等利益(りやく)を本旨とします。過去のみを咎めて、将来の成就を阻むことがあってはなりません。仏陀(ぶっだ)の比丘尼(びくに)で神通第一の蓮華色女も、元は罪深い娼婦でしたが、仏法に目覚めて終に正果を成就されたことはよく承知のはずです。真剣に道を求める人は、必ず悪い因縁を断ち切ることが出来ます。快く入門を許して上げなさい」
 永蓮は、自分の浅い考えを恥じ、大師に深くお詫びしました。
 このように金光明寺は毎日門前市を成し、種々様々な人々が大師を尋ねて集まってきました。そこで大師は、毎月三と六そして九の日に説(せっ)法会(ぽうえ)を開くことに決めました。今までの尼僧達を見ていると、朝夕自分達だけで経義の参悟をするばかりで大衆に法縁を及ぼしていません。これでは、修行者として仏陀の説かれた大乗(だいじょう)の奥義を深く悟ることが出来ないと判断しました。ただ坐行(ざぎょう)瞑想するだけでは霊光の輝き、法輪の順転に欠けるところがありますので、説法会を開けば、大衆の霊気と接することが出来て一層法縁を結ぶことになるため、比丘尼達や大衆を啓蒙することが適うだろうと大師は考えられたのであります。
三・六・九の説法会には、尼僧だけに限らず、在家の縁者達も大勢集まって法場を埋めるようになりました。これらの人の中には信仰心からではなく好奇心で集まって来た人もあり、半信半疑の人も混じっていましたが、何時しか大師の講話に心打たれて信心発起するようになりました。
 大師の感化力はこのように大きく、この事が口から口へと伝わり広まって益々大勢の人が集まってきましたので、遂に法場に入り切れなくなりました。大師は更に樹林を切り拓いて法場を広げさせ、台座も高くして、より大勢の人を迎え入れるようにしました。
本来仏道では、出家は十方からの供養を受けるのですが、何故か大師は反対に大勢の人々に粥食を施しました。金光明寺は人里遠く離れている上に、法話は夜明けと夕暮れの二回に定まっていましたので、遠来の群衆達は食事を摂る暇も無い有様でした。そこで大師は、この人達の飢えを慮って、早朝だけ粥食を造らせて随意に食を摂らせたのです。
 大師が聴衆に食事を施しているという噂が国中に広まると、寺院の厨所(くりや)には何時しか匿名の農家から食糧の俵が続々と献じられてきました。興林国は農作物として玉蜀黍・小麦・米などを産しますので、人々は自家産物をもって大師の善行をお助けしたい発心で、喜捨を惜しまず献納してきたのです。
 大勢の人に毎朝毎朝粥食を施すために大師は、衆尼と共に鍬をとって畑を開墾し、その収穫を以て生活を賄っていました。大師の生活はあらゆる面で差別なく、一般の比丘尼と何ら変わるところがありません。
 興林国は西域でも印度に近く、梵文梵語をもって国語として用い、風習は印度と変わりのない厳しい階級制度があったため、大師の差別のない平等思想は多くの人々の心を強く打ちました。そのために大師の生活は、質素で最低限の暮らしでありました。
 善行は顕れ難いと言いますが、大師のこのような慈悲行が世に知られないはずはありません。このために愚痴頑迷の人は感化され、疑惑の念を持っている者も、大師の崇高なる心に打たれて、続々と仏道に帰依してきました。
 ある朝、宰相アナーラは従僕一人を連れて密かに説法会を見に来ました。その心の中には、愛娘舎利尼の姿を見たいと願う親心が蔵(ひそ)んでいたのかも知れません。しかし、竹舎に入って驚きました。大勢の人が続々と詰めかけて法場を埋め、早くから集まった者は筵を敷き瞑想して静かに待っております。見知った顔に出会えば互いに手を合わせて敬虔な挨拶を交わし、私語する者もなく整然と並び、熱心な表情で大師の出を待っていました。この様子を見たアナーラは、大師の人徳の深さに心を打たれてしまいました。
 いよいよ説法が始まりました。場内は人また人の黒山に変わり、大師の左右には寺内の全比丘尼が立ち並んで説法に聞き入っていました。アナーラは、その列の中に愛娘舎利尼を見付けました。荘厳な面持ちのうちにも幸福感が満ち溢れているようです。アナーラは、安心感よりも、大師に感謝する気持ちで一杯になりました。
 大師の声は美しく温かい潤いに満ち、よく聴衆の心に浸み渡りました。あるときは静かに、あるときは荘重に、一言一句明瞭に響き、聞く人は天楽に打たれる如く、説法が進むに連れ会場は熱気と興奮の渦に包まれました。
 涙を流して聞き入る者、唇を噛み締めて深刻な表情を示す者、喜びに目を輝かせている者、両手を耳に翳して聞き漏らすまいとする者、人それぞれの姿でしたが誰もが心の底から説話に聞き入っています。
 素晴らしい、とアナーラは心の中で感嘆しました。知らず知らずの内に大師の話がアナーラの心の中に溶け込み心が洗われて、だんだんと清々しい気分になってきます。法話後、アナーラは宮殿や政務の時に覚える不安・煩悩・雑念が拭い去られているのに大変満足しました。
 心の帰住を得たアナーラは、その翌日、説法会の様子を残らず妙荘王に報告すると共に、今の自分の心境をはっきりと王に表明しました。
「王様、老臣が宰相を辞めましたら、是非大師の許へ出家したいと思います」
 これを聞いて驚いた妙荘王は、まじまじとそのアナーラの顔を見直しました。

プレアデス+地球をひらく鍵~第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて(5) 第2章終わり

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第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて

◎ 図書館という概念があなたのなかに浸透してくれにつれて、あなたは感情がいかに大切なものであるか、そして、そこに貯蔵されている膨大な知識を開く鍵はあなたであることを理解しはじめるでしょう。

 

私たちが現在駆使しているエネルギーをまかされるにあたっては、私たちはそれなりの努力をしなければなりませんでした。

口に黄金のスプーンをくわえて生れてきたわけではありません。

進化をとげ、学んできたのです。

私たちはあなた方から学びますし、いうなればあなた方から非常に多くのことを学ぶことによって、私たちの現実における自分自身をつくり直しているとも言えるのです。

私たちはユーモアのセンスと朗らかさをつちかってきましたが、それはこのような性質が絶対に必要だからです。

私たちの仕事をあまりにも真面目に受けとめたりすれば、私たちは滅びてしまうでしょう。

それはあなた方も同じです。

もっとも大切なポイントを見逃してしまうことになるでしょう。

 

あなた方と私たちは相互に依存しあっています。

あなた方がやってくれたさまざまな仕事のおかげで、プレアデスでは大きな違いが生じています。

これを理解してほしいと思います。

これは交換であって、一方的なやりとりではありません。

それは限りのない関係です。

あなた方の生活のなかで明らかな変化が起き、あなた方が明確な意図をもってエネルギーを投資すれば、他の場所でもそれと同じような結果が生じるのです。

 

あなた方がこのような波及効果を目撃し感じるようになることこそ、私たちの意図することであり、心の底から願っていることです。

すなわち、あなた方の多次元の自我が地球とプレアデスの2つの世界にまたがっていることを知ってほしいと心からねがっているのです。

 

私たちは仲介者です。

つまり、門を開け、紹介し、道を教えるのが私たちの役割です。

巨大な知性の力があなた方を待ち受けています。

彼らはこういっています。

「人間に会いたい。人間と一緒に仕事がしたい。私たちはこのプロジェクトに参加したい」。

そこで私たちは彼らにこういいました。

「ちょっと待ってください。あなた方は現時点では彼らの生活にどっと入ってゆくことはできません。彼らはまだ、か弱い存在です。彼らがあなた方に会っても大丈夫なところに進むまで辛抱してください」。

 

生きた図書館や12の概念というのは、現在のあなた方の理解をはるかに超えたものであることを理解してください。

それはあなた方が人間として今後20年の間に自分自身を活性化していくプロセスとなるでしょう。

途方もない考えを夢に見てそれを現実化するというあなた方の想像力と能力が、生きた図書館を建設することになるでしょう。

生きた図書館をあなた方が再び夢に見て、新たな生命力に満ちた新しい図書館を創造する手伝いをしたいのです。

生きた図書館がすでに活性化されている場所が何ヶ所かあります。

土地そのものが生き生きと生きているだけでなく、そこに住む人間の意識が解釈する力をもち、生き生きと活動することが必要になります。

それによってはじめて生きた図書館が可能となります。

なぜなら、あなた方を通してはじめて生きた図書館にアクセスすることができるのですから。

人間のいない生きた図書館は完全ではありません。

あなた方人間は生きた図書館の不可欠な要素なのです。

あなた方の一人ひとりが、この地球の大地を歩くとき、一葉一葉の草に、砂の一粒一粒に、一枚一枚の花びらに、一匹一匹の昆虫に、アリに、鳥に、ミツバチに、水の一滴一滴に、露のひとしずくひとしずくに語りかけ、あなたの存在を宣言してほしいと思います。

こういってみてください。

「私はここにいます。生きた生命体としてあなたのなかに貯蔵されている知識を、あなたが私に解放してくれるよう私は意図します。私はその情報を受けとり、翻訳し、さらにそれを変換して世界に知らせるためにここにきています。私はこの惑星の生きた図書館を活性化したいと願っています」。

これをあなた方の日々の瞑想と、意図にしてほしいと思います。

愛の周波数で生き生きと息づいているこの大地、すなわち生きた図書館を、あなたの身体のなかに入れてください。

 

生きた図書館をふたたび夢にみながら、地球がいかに大切なものであるかを想像してみてください。

あなたが図書館のこのイメージを保持すると、あなたをサポートし、あなたが光の家族のメンバーであることを知っている人々はすべて、あなたが獲得しつつあることを感じとるでしょう。

というのは、あなた方はみなつながっているからです・

あなたは、「はい、私は光の家族のメンバーです」とはっきりいいきることにコミットしている事実によって、光の家族であることを認知されるのです。

あなたはいまこの瞬間に知っていることによって、すべての人々に衝撃的な刺激を与えます。

すると光の家族の人々は、手をのばして他の人々にふれることが可能になるのです。

これは実に壮大な夢です。

さまざまな世界が解放され、現実が転換するこの時代を、あなた方がスムーズに切り抜けることを願っています。

あなた方の身体にはさまざまなエネルギーのパターンが細胞の記憶として蓄積されています。

私たちはあなた方が成長できるスペースを静かにつくらなければなりません。

第2章おわり・・・

バシャール:導き

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2017-07-28 01:06:14 NEW !
テーマ:

もしも貴方が”私は正しい道へ進んでいるでしょうか?”とバシャールに聞くとしたら、バシャールは”貴方が進むべく道から外れていますよ”と答えるでしょう。何故ならば、貴方が疑問を投げかける時、貴方は”今まで進んで来た歩みを止めて”自分に質問を投げかけている事にあるからです。つまり前進エネルギーから退いている状態を意味しています。

しかし逆に”私が道そのものであり、私はいつでも正しい道を歩んで来ています”と言うのであれば、バシャールは”そうですよ、その通りです。”とお答えするでしょうと話しています。何故ならば、貴方が軸となって自分の人生を構築している事にあるからです。

貴方の人生は、物事の結果を得るために存在しているのでも、何かを達成するために存在しているわけでもない事を今一度理解してくださいとバシャールは話しています。貴方の人生は、実ってゆく過程(成長)を体験するために存在しています。貴方に気づきが起きて、自分に対する理解を深めるために存在しています。そして自分をきちんと理解できるようになると、自分を初めて愛することができるようになります。自分を愛おしく感じ、自分のために心地よい事だけにフォーカスしてゆこうという気持ちになります。そしてやっと”自分のために”良いエネルギーを構築しよう、自分のために心をポジティブに保ってゆこう、という思いに導かれるようになるというわけなのです。

 

Google翻訳 マイク・クインシー(Mike Quinsey) - 彼のより高い自己をチャネリングする - 27 July 2017

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http://www.galacticchannelings.com/english/mike28-07-17.html

マイク・クインシー

あなたの進化が関係しているところはすべてうまくいく。あなたの指導者は、あなたが育った前に合意した昇天への道を歩み続けるために最善を尽くし続けますが、あなたが選んだ道を自由に選ぶことができます。このようなすばらしい時に地球上にいるあなたは、他の多くの魂があなたに加わるのが好きだったので、特権を感じることができます。彼らは、より低い振動を克服した結果、進化がより迅速になることを認識しています。しかし、選ばれた者は、より低いエネルギーの保持を破るために援助を必要とする人々に提供しなければならなかったもののために選ばれました。そのような助けがなければ、彼らは暴れて、光の中に立ち上がる機会を失ったかもしれません。

あなたがいる時間は、Ascensionにとても近く、暗いものが取り除かれた時を予期して、多くの必要な変更が手元にあります。彼らはすでにイベントが彼らに逆らっているのを見て、彼らの運動の仕方を指示する力はもはやありません。彼らは世界の統制を全面的に計画していたが、世界の人口を大幅に削減していたであろう。その目的はもはや不可能であり、現時点で彼らは逮捕され、投獄されている。彼らがもはや人口に脅威を与えなくなるまで、彼らの地下基地をクリアするために多くの作業が行われています。

干渉の恐れなしにすべての問題を公然と進めることができる時を前にして、すでに多くのことが準備されています。その時は遠く離れておらず、たいていはほんの数年ですが、それよりも少なくなる可能性があります。既にマイナーな性質の変更が手元にあり、大きなものは事前に十分に計画されています。暗い人たちからの干渉の脅威が除去されると、すべては公然と進歩することができ、想像を絶するスピードで進めることができます。あなたはあまりにも長く待っています。時間は完全に失われていませんが、準備に費やされました。暗い人たちは、結果を変える影響力や能力を持たない場所に移動します。

あなたの周りを見ると、注意や更新が必要なほどのものがあり、克服できない課題のようです。しかし、あなたのスペースフレンズの助けを借りれば、物事がどのくらい速く変化するかに驚くことでしょう。彼らは、あなたと高度な方法の使用よりもはるかに多くの経験の利点があります。土地と海は、非常に短時間で使用されないものすべてを更新してクリアすることができます。明らかな理由から、あなたのメソッドは我々のメソッドに比べて基本的なものであり、後でクリーンアップする必要がある残渣は残されません。

比較的短期間ですべての大きな変化が起こり、あなた自身の追求に従う余裕のある時間で、幸せに平和に暮らすことができます。あなたは近くの惑星からの存在を満たし、彼らは宇宙と太陽系を通して他の惑星を訪れるでしょう。もはやあなたは地球に閉じ込められず、他の銀河系の存在とはなりません。彼らは忍耐強くあなたが年を取るのを待っていて、惑星外を旅することができました。だから、結局のところあなたの人生は完全により良いものに変わることが分かります。あなたの現在の経験は悪い夢のように見えるでしょう。

あなたの夢は実現されますが、その間にあなたは昇天のために自分自身を完全に準備するために必要なことに焦点を当てなければなりません。肯定的なものすべてに焦点を絞って、あなたの思考とエネルギーを支配し、必要なときにだけそれを与えてください。例えば、病気やけがをしている人を助けることが好きかもしれません。この関係のあなたの愛想や希望は、関係する人たちに届きます。より効果的であれば、より効果的でより効果的なのはグループヒーリングでしょう。あなたがこのアイデアを初めて知りたいのであれば、それを送る前に瞑想が調和して準備を整えるだろうと考えてください。

他の魂に送られた一種の思考さえも、癒しのエネルギーを持ち、人々を持ち上げます。あなたが意識的にあなたの祝福を受けることを望むとき、それは彼らに行くでしょう。おそらく最も重要なのは自己治癒であり、それを使用する方法がわかっている場合は、肯定的な感情や色を瞑想するために準備することです。主な目的は、あなたのオーラが身体に近く、開いていないことを確認し、必要な振動を持つクリアな色で塗りつぶすことです。例えば、日常生活の慌ただしさでは、リラックスする方法を学ぶ必要があり、その目的のためには緑色がおすすめです。

あなたがAscensionの後に進むように進むと、あなたの体を完全に清潔にし、あなたのエネルギーレベルを高める治癒室があることがわかります。実際には高い振動で、あなたは病気になりやすく、完璧な健康を享受できません。一方で、あなたは癒しが必要な場合があります。地球上では絶えずあらゆる種類のエネルギーに囲まれていますが、好きなように魅力的です。これは多くの点で当てはまります。なぜなら、似たような魂を自分自身に引きつけるのです。そして、明らかに、あなたはもっと快適で、安心しています。もちろんそれは他の方法でも機能します

In Love and Light.

Mike Quinsey.
Website: Tree of the Golden Light

神殿文化の基~【伊勢神宮】 SOUL of JAPAN ISE-JINGU

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曖昧のままで神殿文明の基となれるか?~第六十一回神宮式年遷宮 総集編

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第六十一回神宮式年遷宮 総集編

観音菩薩伝~第22話 大師、貧民を救済し、布施の義を説く、 第23話 大師、坐行の極地を教えられる

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第22話 大師、貧民を救済し、布施の義を説く

 寒風の吹き荒ぶ、厳しい冬がやってきました。崑崙(こんろん)山脈の峰々は、すっかり白銀一色に蔽われました。興林国は高地に位置しているために冬は早く訪れ、寒さも厳しさを増します。それに金光明寺は一段と奥まった山腹にあるため、冷気は更に人の肌を刺し、人々はすっかり冬籠もりしてしまいました。
 あれほど盛大であった説法会も、寒さの所為か集まる人は僅かになり、寺は日ごとに淋しさを増してきました。寒い冬には出足が鈍って集まりが悪くなるのは無理からぬ事ですが、それにしても最近の激減に不審を抱いた大師は、保母にその原因を問いました。
「それは、決して大師の所為(せい)ではございません。御存知ないかも分かりませんが、聴講に来られる大多数の方は貧しい人達ばかりです。今年の冬は例年に比べて寒さが際だって厳しく、私の聞き及んだところによれば、衣服が無くて出るに出られない状態だとのことです」
「それは知りませんでした。何故、もっと早く話して下さらなかったのです」
大師は直ぐに比丘尼を呼び、寺院尼僧が織った布生地を全部出させ、早速衣服や頭巾(ずきん)を縫わせました。自らも縫い、比丘尼達や在家の優婆夷(うばい)達も手伝って、昼夜を分かたず衣料を縫い続けました。足りない分は城下まで買いに行かせました。
 この噂が伝わって、養蚕農家や製糸に携わる家々から数多くの生糸が送られ、また牧畜織物を業とする人々から毛織物が贈られ、綿花を産する人達からは布団(ふとん)用の綿が寄進されました。人々は大師が人から施される喜捨を好まないことを知っておりますので、夜中に黙って寄進の品々を持ってきては寺院の軒下に置いて帰りました。
 興林国は一般農業のほかに多くの綿花を産し、また桑樹の生育に適した土地柄から養蚕業や製糸業が発達し、緬羊中心の牧畜も盛んなため毛織物業も進んでいました。
 大師は、このようにして出来上がった衣服や頭巾などを説法会に来た人々に施し、また遠く山河を遍歴して求法に来た人には止宿させ、温かい食事と衣服をあてがって休息させました。大師は遠近を問わず救いを求めて来た人には、一視同仁、平等観を以て鄭重に接し、熱心に法義を説きました。
 このような大師の温かい配慮によって人民は救われ、説法会には再び人々が集まり始め、以前にも増して活気に溢れるようになってきました。
 人々は慈悲深い大師のお側に住みたいと願って続々と寺院に詰めかけてきたため、終には寺院に収容しきれなくなりました。そこで大師は、これらの人々に随意山林を切り拓いて自分達の家を造ることを許しました。
 この事が人々の間に大きな反響を呼び、大師の傍らに住める喜びを抱いて国中から集まってくる人々が後を絶たず、このため猛虎が棲むと恐れられていた耶摩山麓一帯は一変して市街地と化し、住民は嬉々として心から満ち足りた日々を過ごしていました。
 潤いのある生活、煩悩と憂愁のない生活は、如何なる富貴や地位にも勝ります。権勢・財力があっても、怯えと危惧のある毎日を過ごす者は不幸であります。生死に不安なく永遠に超脱を得られた人々は、一時的に天下を取った人よりもなお至福です。一世を風靡するような権力を握ったとしても、それがやがて失われるものである以上、むしろ久遠の徳を積むほうが遙かに栄誉であります。
 今や耶摩山の別天地は人々の憧れの場所となり、理想的な極楽境となりました。大師の慈悲は人々の大きな支えとなり、また人々の小さな誠が結集して大きな寄進の原動力となり、城下の富豪・財産家達も感動して、進んで多額の喜捨・寄進を申し入れるようになりました。しかし大師は、一部の人の虚栄心と功名心に利用されることを懼れて、当初は鄭重にこれを断りました。富豪達は自分の誠意が認められないことを怨みましたが、大師の戒めの意を知って、真実、誠の表れであることを示すために匿名で金品を金光明寺の財施箱に入れました。これがために大師の貧民に対する施しは、長く続いて絶えることがありませんでした。

 このようにして全国各地から匿名の金品が続々と贈られてくると、これを取り扱う比丘尼の中には、知らず知らずの間に物を粗末に扱う者が出てきました。大師は、少しでも物を粗末に扱う者には厳しく誡めました。
「諸比丘尼よ。物を粗末に扱うことは、人の真心を粗末に扱うことです。
仏陀の教えの中に
『仏家の一文の銭は重きこと須弥山の如し、もし誠心を以て修めざれば毛を被り甲を戴きて還す』
とありますが、修行者は人の施しを自分の為に用いるは勿論、修養に利するにしても間違いの無いようにしなければなりません」
 また、特に個人への布施を極力戒め
「およそ仏門に帰依する者は、一文の施しを受けても重い責任を負わされます。もしこれを疎かにし、また報いなければ、来世は畜生に転生して償うことになります。人の施しに甘んじて人に施すことを忘れた人は、大きな罰を受けなければなりません」
 このとき永蓮が大師に問いました。
「大師はいつも富豪者からの喜捨を極力拒んでいるようにお見受けしますが、それはどういう意味でしょうか」
 大師は永蓮を見て
「貧者、富者の施しに量の多少はあっても、真心の表れには変わりはありません。それをお受けして用いる私達に、人を計る目の高低があるのを怖れます」
「どうしてですか」
「貧富の差はあっても施す人の心に大小はありませんが、修行の未熟な人は、受けた量の大小によって人を見る目に違いが生じるのです」 「そう言われますが行者は、十方(じっぽう)の供養を受けてもよいと聞いていますが」
と永蓮は、納得できないので聞き返しました。
「十方の財施をお受けしても、今言ったように、十方に法施をもって還さなければなりません。行者は法を求め、正覚(しょうかく)を得るために苦行難行をしているのです。その目的を達するために、人の助けを借りるのです。まず、仮の肉体を維持するために真心のある人から食を乞うのですが、やがて自分がその目的の法を悟り得て得道した暁には、逆に法を施してその霊を救ってお還しするのです。ところが、そのお受けした糧の量だけの法を果たして私達は、法施して人々の心の飢渇を充たすことが出来ましょうか」
「よく解りません。もっと詳しくお話し下さい」
「行者は法を求めるために食を乞う、これは目的があるからよいのです。俗家はそれによって行者との因縁が結ばれて、仏門に功徳として残るでしょう。つまり一椀の残飯といえども仏の因縁があり、一掬(いっきょく)の茶水にも菩薩との縁があります。お受けした行者は、一日も早く得道して正果を成就し、その人達を度(すく)う責任があるのです。私はまだ法を悟得しておりませんが、果たして法を得たとしても、その人達に仏縁の機が熟しているかどうか分かりません。ですから、法施を還されない人達から寄進を受け取ることが出来ないのです」
「どうして富豪者に法施して還すことが出来ないのですか」
「富豪者には、物質に対する傲りがあります。迷いが深いのです。同じ施しでも、貧者に比べて功名心が強いのです。場合によっては、財施が救いの条件になると錯覚します。だから同じ喜捨を受けるにしても、先ずその人の心を見定めなければなりません」
「けれども今までに喜捨を受け取っておられますが、それは法施することが出来るお考えがあるからではないのですか」
「匿名の喜捨は、私にではなく、仏門に寄進したのです。未だ得道していない私には、応供者になる資格がありません。仏門に喜捨すれば、やがて仏陀の得られた正法を得る機会に巡り会いましょう」
「ところがその財施は、実際には仏に捧げたのではなく、人々に施してしまっておられますが」
「仏陀は、お金を必要としません。報恩のつもりで献じた金子物品は、今度は仏陀の恩徳として人々に与えられるのです。私達は施しをした人と、それを受けた人の両方に縁を結んで上げています。その何れとも、仏陀が求め得た正法を求め得られるでしょう」
「喜捨すれば功徳が与えられると言われていますが、匿名でも分かりますか」
「法光は無量無辺、三千大千世界を隈無く照らし、天眼仏眼は三世万世を見通されます。いくら匿名にしても、功徳として残ります。その代わり私達は、私心無く公明正大に、これらの寄進を衆生済度のために使わなければなりません。それが私達の役目です」
 永蓮は、感激して、大師に深く頭を下げました。

  第23話 大師、坐行の極地を教えられる

 耶摩山麓が開かれて以来、猛虎の害は全く見られなくなりました。貧者・富豪を問わず絶えることのない喜捨があったお陰で大師の慈悲行は何時までも続けることが出来、大師の徳が高まって行くに連れて金光明寺一帯は興林国の平和境として、また信仰の仏地として賑わいました。
保母は温順・慈覚の性に富んでいたため、修行も深まりました。一方、永蓮の進歩は群を抜き、その卓越した理論は若い尼僧を啓蒙するほど急速に進み、大師も大層喜ばれました。保母の静に比し永蓮は動的に物事を処理して、両者よく大師の行を補佐しました。
 しかし大師は、心底から今の行に満足しているわけではありません。大師の心の隅から離れないのは、須弥山への遍歴求法(ぐほう)であります。早く訪れて自らの手で白蓮(びゃくれん)を探し求めたい、それに加えて、かつての花園で老僧から告げられた得道を果たしたいことであります。
 一日も早く面授(めんじゅ)口訣(こうけつ)を実現し、世の衆生を救済して霊苦を解脱(げだつ)させて上げたい。無尽の法門を学知し無上の仏道を証せんとする弘誓・大願を果たすにしても、先ず自らの心眼を開いて悟境に達することが必要なのです。この切実な問題は、日が経つに連れて朝夕深刻に大師の心を占めるようになりました。
 無辺の衆生を済度し、無数の煩悩を断じてきましたが、ただ何事の成就にも機があります。機が熟さなければどうすることも出来ず、耶摩山中に人が集まるほどに大師は重い荷を負うような気持ちになり、法を聞く人が増えるに連れて大師の悩みは多く募るばかりでした。そのような毎日を送っていたある日、永蓮が目を輝かして大師の部屋に入ってきました。
「大師、昨夜私が瞑想に耽っているとき、夢(ゆめ)・現(うつつ)の中に奇妙な現象を観ました。私の霊魂が身体から離れて、一路南に向かって跳出していたのです」
 大師は、永蓮の顔を見ながら、目でその先を話すように促しました。
「気候の暑い方向へ何百里、何千里歩いたところ、ある海辺に差し掛かりました。そこには襤褸(ぼろ)を纏った大勢の人の群れがざわめいて集まり、何かを話し合っていました。みな痩せ細って顔色は青白く、全く生気なく困窮している様子でした。何の集まりで何を困っているのかと私が問いますと、万国四方から逃れてきた難民だと言うのです。今、世を挙げて災害と戦乱の最中にあって農地は荒らされ、家は兵火に焼かれ、命辛々ここまで逃げて来たのです、と涙を流して語ってくれました。そして口々に、私達は未だよいほうで、生民(しょうみん)は塗炭(とたん)の苦しみに遭い、着る物もなく木の葉で身体を蔽い、食べる物もなく草の根を掘って飢えを凌ぎ、寄る辺なき日々に救世の聖者を待ち望んでいる状態です。彼らの悲惨な姿に比べると、未だ私達のほうがましな生活をしています、と話してくれました。
私は憐憫の情を抑えきれず、彼らに言いました。もし本当に楽土と救世の大非者を捜そうと思えば、西方興林国、耶摩山麓にある金光明寺にお越し下さい。そこに妙善大師がいらっしゃって皆様の災難をお救い下さるでしょう、と言って別れを告げ、心を残しながら帰り掛けました。すると丁度その時、砂を飛ばし石を走らせる一陣の突風が吹き、見る見るうちに今まで語り合っていた難民は、虎や狼に変じて私に襲い掛かってきました。吃驚(びっくり)して声を挙げて逃げようとしたとき、誰か私を呼んでいる声を聞いて私は瞑想から目覚めました。そして傍らを見ると、保母様がいらっしゃいました。決して、眠って夢を見ていたのではありません。一体、どうしたわけでしょうか」
「永蓮よ。それは、そなたの坐法が迅速に入定(にゅうじょう)に進んでいるからです。入定の状には真理を悟り一切の煩悩の過非を離れた清浄無垢の智慧(ちえ)を現す場合と、幻覚・影覚が心境の中に人天(じんてん)の色声(しきしょう)を映ずる場合と二通りあります。前者は元神(げんしん)の出竅(しゅっきょう)であり、後者は識(しき)神(しん)の出竅です。識神の出竅は比較的容易ですが、元神の出竅は容易ではありません。そなたが見た現象は識神の出竅で、未だ色象界(しきしょうかい)から離れていません」
 聖者が全ての心想を滅し尽くして寂静(じゃくじょう)に至る過程には、坐行中、種々の現象を霊覚で見ることがあります。永蓮は、緊張して尋ねました。
「元神と識神の別を、もっと詳しくお教え下さい」
「元神とは元の霊性、即ち本来の仏性(ぶっしょう)です。純真玲瓏(れいろう)としていて、未だ六塵・六識そして人執を起こす思量のない末那識(まなしき)です。識神とは五感を得、五濁(ごじょく)に染められた習性のことです」
「識神の出竅について、もっと詳しく説明して下さい」
「識とは、客観万有の対象である色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境に対して、私達がそれぞれを見・聞き・嗅ぎ・味わい・触れ・知ることによって了別した眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の働きがある心を言います。平生の生活に、これらの働きが心霊の上にもそのまま再現して映ります。思量識も、蔵識も識神に数えられます。つまり眼界、意識界を通じた色受想行識の五蘊(ごうん)の境界で、言わば今の私達の感情的働きのある人心を主としたことを言います。例えば、坐行を組み瞑想に入ったとします。初めは色々な景色を見たり、声を聞いたりします。その状態が美景で素晴らしい匂いを覚えたり、味を感じたり、体覚・触覚を感じたりします。その声音が立派な響きであっても、よくありません」
「それは何故ですか」
「識界には極限があるからです。如何に広くとも、大きくとも無限ではありません。自分の霊作用に色声が映るのは、この慾界(よくかい)・色界(しきかい)を離脱していない証拠です。そなたの見た姿は、識神の現れで、現在の生民の塗炭の苦しみを見たものと思います。遠隔地から霊能が反応して、人々の苦しみからの解脱を求める声を聞いたのです。色象声音は、人心肉体の生活に結び付いているからです。およそ形象として見られ、音声として聞こえ、温冷として感じるのは、この生死間の色界、因果界だけです。想念の世界に幻影として浮かぶ間は、未だに因果界の輪廻(りんね)から脱することが出来ません。まして涅槃(ねはん)に至ることは、とても叶いません。実相真如を証する涅槃は、生死(しょうじ)を超越した不死の境界で、永遠不退転の境地です。色声があれば、念が生じます。念が生ずれば、煩悩の束縛を受け、内外の魔は即刻その念に乗じて入り、また所縁の纏わりを受けて人間に関連してしまいます。もし邪悪な念を起こせば、忽ち六賊が跋扈して、入定するのを掻乱してしまいましょう。識神の出竅中に邪念に侵されると、それを真正の霊覚と錯覚し、その色象、声音の命ずるままに走ります。その時の観念によって五慾の境を極楽境と思い、貪着の執心をもって真の仏・菩薩の所念と断じるようになります。気を付けないと、真に恐ろしいことです」
 いつの間に来たのか、側に保母と多利尼、そして舎利尼が熱心に話を聞いていました。次に、保母が尋ねました。
「元神の出竅をお教え下さい」
「元神が出竅すれば、無極限の大霊界に帰入することが出来ます。元神が出竅すれば、一念不生、六根清浄(ろっこんしょうじょう)の境地に至ります」
「どのような感覚がありますか」
「無念無想、無為無識、無人無我、無住無慾の境地に何の感じがありましょう
 保母は黙って頷きましたが、多利尼は納得できないので聞きました。
「何の情景が見えますか」
「無一物、無色、無限の境界に何が見えましょう」
 多利尼は解らなくなって
「何も感じず、何も見えなければ殺風景で、極楽境とは程遠いではありませんか」
 永蓮は思わず笑い出したが、大師はそれを窘(たしな)めて多利尼に答えました。
「無辺空無こそ無限楽・無尽楽の極楽の境地です。菩提感・醍醐味を味わえます。偏邪なき真理は、一切万有を創造する真空であるが、非空にして妙が無窮にあるのです。そこは、人世の如何なる譬喩(ひゆ)をもってしても形容できない所で、正覚を成就した人のみが得られる境地です。常に大悲・大智を以て自利・利衆の作用がありますが、その体は常に寂静の一切感を断ち尽くした悟覚の境で、人間の世の並の楽感覚では比べることの出来ない素晴らしい甘露が充満しています」
 今度は、舎利尼が聞きました。
「大師は、その境地に至られましたか」
 一瞬、大師の眉宇は悲しそうに曇り
「私は、未だ得道していません。人心を明師から直指(じきし)されていないので、未だ明心見性の境に達していません。悟っては迷い、迷っては悟りして未だ究竟(くきょう)の般若(はんにゃ)を開かれていません。得道するまでに三千の功徳を積み、八百の果を重ね、数多くの魔障を受けてもなお不退転の意思を持ち続ければ、何時か必ず得道の機会が訪れましょう」
と熱を込めて語りました。そして永蓮の話に戻し、永蓮に向かい
「永蓮よ。常に雑念に侵されず、身心の?礙(けいげ)を遠離(おんり)し、共に法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳を求め、純静(じゅんじょう)を保ち専心霊光の純熟を修め、更に大進歩を果たすことを望みます。正しい道を歩み続けていても、最初に一厘の誤りでもあれば、それがやがて千里の隔たりになってしまいます。よく考え、気を鎮めることです」
 四人は、諄々と説く大師の言葉を陶然として酔ったように聞いていました。理解できない点も多々ありましたが、何となく仏法の奥義(おうぎ)に触れた感じがしました。しかし保母は、今までにない厳しい表情の大師の顔を見て、これは何かを決意されているに違いないと気付きましたが、今は黙って何も言わず、大師の教えに感謝して手を合わせました。

続く・・・


 

世界最後の謎を解き明かす(ムー大陸探検事典) ~第6章 謎のムー碑文が語り始めた : 探検協会の調査1

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第6章

謎のムー碑文が語り始めた

探検協会の調査1

フォーセットのマスコット人形 

モヘンジョダロ全景砂漠の中に花開いたレンガ造りのモダンな計画都市ーモヘンジョ・ダロ。かつてはインダス川の河口にあって、今はウエスタン・ナラ・ループとインダス川の間の細長い帯状の"""島""に残されたこの廃壇には、すば"らしい技術のあとを示す焼きレンガの建物群、大浴場や穀物倉庫の跡がある。直角に交差した広い街路の脇には精巧なサイフォン式浄化槽に流れこむ暗渠式の下水道が設けられ、ダスト・シュートのついた壁の間を通り抜けて数階建てのマンションの中庭に入れば、その奥には水洗トイレやシャワーのついた小部屋と快適なバルコニーがある……。モヘンジョ・ダロは、今で言えば東京やニューヨーク、パリの清楚な高級住宅街といったところだろうか。現代のそれに劣らない衛生設備が町全体に施されている点を考慮すると、当時の市民の住み心地は、今の下町よりはるかに良かったことが想像されるQしかし、モヘンジョ・ダロの住民を含むインダス人について、われわれの知っていることはごくわずかだ。彼らがその当時話した言葉は、いまだにどんなものかわかっていない。インダス人の宗教や人種、政治形態についてもいろいろなことが推測されてはいるが、本当のところは誰にもわからない。インダス文明は、そもそも発生の経過から滅亡事情にいたるまで、すべて謎に包まれているのだ。もしも、インダス文字が読めたら、これらの点について多くのことがわかるにちがいない、とは誰しも思うが、印章に刻まれた文字を漠然と眺めているだけでは、とてもその秘密を明らかにすることはでぎそうにもない。はたして、インダス文字は日本に伝わる古代文字の知識で読めるのか読めないのか。これはさっそく試してみる価値がある。地球文化研究所の高橋は、こうして解読に挑戦した。

地球文化研究所による解読読果

リポート1

インダス文明の建設者は日本人だった

モヘンジョ・ダロから出土した図のような印章には、ユニコーンとみられる動物の上に、五つの文字が刻まれている。これらの文字をトヨクニ文字で読んでみるとどうか(204頁参照)。まず、左から二番目の文字は、トヨクニ文字のト(田)か、ツ(口)に相当するように見える。三番目の文字はバ(ハ)かハであるらしく、四番目の文字はナ(α)であるらしい。そして五番目の文字は、トヨクニ文字には見当らないが、この文字と混用してよく使われるアイヌ文字のレ(R)に似ている。そこで左端の文字を除いて、ひとまず読んでみると、トバナレかツバナレ、トハナレ、ツハナレと読める。そしてこれらの音のうち、トハナレとはが「永遠なれ」に近い。また、トヨクニ文字は合体字として使われることもあるので、左端の文字を人とどに分解してみると、それぞれイ、ノと読める。二番目の文字はツ、トと読める。四番目の文字はナ、ア(9)と読める。音の配列をもう一度考えてみると、この印章には、どうやらイノツトハナアレと書いてあるらしい。その意味は、「生命永遠な在れ」いのつとはあである。高橋は、モヘンジョ・ダロやハラッパーから出土したインダス文字の印章をいくつか読み解いていくうちに、日本人の祖先は、紀元前八世紀ころ、インダス川の流域からインドのデカン高原に移り住んだ事実をつきとめた。いのつとはインダスの印章には、「生命永遠なあ在れ」のほかにも、古代の日本語でめたまよみ「愛で給へ」「嘉し給へ」「勝たせ給へ」もいは「ラタ(神々の乗りもの)守り給へ」「祝ひ祭らなむ」などと書かれたものがあった。

インダス文明の印章

地球文化研究所による解読結果インダス文字が日本の古代文字で読め、しかも日本語ではっきりと意味をなすことは、モヘンジョ・ダロやハラッパーにかつてわれわれの祖先がいたことや、インダス文明の建設者が日本人であったこと、日本人の祖先がティルムンと呼ばれたインダス国家をあとにして東方へ移動したことなどを物語っていた。これまで多くの考古学者は、先にあげたインダスの印章がシバ神を表したものであるということで意見が一致している。が、このシバ神の頭圭.に刻まれている文字が読めなかったため、それ以上のことはわからなかった。

シバ神を刻んだインダス文明の印章ところが、日本の古代文字を学べば、この印章には「クルに栄えをなむ賜たまへ」と書いてあることが誰にもわかる。印章の右端に刻まれた文字は、アイヌ文字のク( )と同じもので、その隣りの文字は、アイヌ文字のル( )かレ( )に相当している。この印章には、日本の古代文字で、クルかクレと読める文字が記されているのである。

クルの文明はアジア全土に栄えた

クルといえば、読者はただちに、『マハーバーラタ』の英雄を生み出したインドのクル族を思い浮かべ、カリアード・パレスにいた泥土煮王、すなわちウジャインのカラ王(クル王)を思い出されるだろう。また、古代史にくわしい人なら、ここに記されたクレが『日本書紀』に呉人くれひととして登場する高句麗こうくり人や中国の江南地方にあった呉くれ (久留くる)の国の人々と何か関係があるにちがいないと思われるだろう。確かに、その通りである。この印章は、モヘンジョ・ダロにいたインダス人がみずからをクル族と呼び、シバ神に対してクル族全体の繁栄を祈ったことを意味している。そして、モヘンジョ・ダロの印章にわれわれの祖先がクル族(カラ族)として登場することは、さらに重大な、次のような意味をもっている。 <!--[if !vml]--><!--[endif]-->つまり、インダス川の流域を中心に、かつてエジプト文明やシュメール文明以上の広がりをもつティルムンの国をつくりあげたわれわれ日本人の祖先は、世界最大の叙事詩『マハーバーラタ』にその栄光と悲劇的な末路をうたわれたインドのクル族であり、古代ギリシアの『エリュトラ海案内記』にその後の繁栄ぶりを記されたウジャインのカラ族そのものだった、ということである。紀元前のインドにいたわれわれの祖先は、前六世紀以降、北の仏教徒と南のヒンドゥー教徒に分かれて次第に別々の道を歩み出す前まで、ともに熱心なシバ神崇拝者であった。このことは、先に取りあげたインダスの印章にシバ神が描かれているのを見ても、また、インドの古いヒまつシバリンガムンドゥー教寺院に祀られた御神体の表面に刻まれた文字がシ(Ω)とバ(ハ)を合体させてシバを表したものであることを見ても、はっきりしている。ウジャインのカリアード・パレスに「シバ祀る宮」が造られ、サーンチーの南のボージプルにインド最大のシバ・リンガムが安置されたことは、前八世紀にインドのデカン高原うひぢにすひちにを治めた泥土煮王と沙土煮女王が熱心なシバ教徒だったことを、また、前三世紀までインドの歴史に輝かしい足跡を残したアヴァンティ王国がインドでも最大のシバ信仰の中心地だったことを意味している。

カイラサナーラ寺院のシバ・リンガムの表面には、日本のトヨクニ文字のシとバを合体させたシバ神の文様が描かれている

だが、それにしても、古代のギリシアの船乗りにまでその繁栄ぶりを"知られたわれらの""宝石の都々ウジ"ャインが滅びたのはなぜだろうか。シュメール伝説のティルムンの都、モヘンジョ・ダロがアッシリヤないしアーリヤ人の軍隊によって破壊されたあと、デカン高原のウジャインに移って新しいティルムンの国、アヴァンティ王国を建設したわれわれの祖先は、その後どんな事情でウジヤインを放棄しなければならなくなったのだろうか紀元前のインドにいたわれわれの祖先は、アヴァンティ王国の滅亡後どこへ去って、どういうルートで古代の日本列島にたどりついたのだろうか

リポートⅡ

デカン高原は神代文字の宝庫だった

デカン高原は神代文字の宝庫だったわれわれは、カリアード・レスの廃塘をあとに、次の目的地であるデカン高原の洞窟寺院へ向かう途中で、このようなことをとめどなく考えていた。

バージャ洞窟寺院の入口インドのデカン高原で活躍した太古の日本人力ラ族の聖地カールラ洞窟寺院

われわれがインド第二の都ボンベイの南にあるバージャとカールラの石窟をめざしたのは、そこにインド最古の仏塔ストウーパを収めた洞窟があるらしい、もしかしたらカールラは、わ"れわれの祖先の呼ぴ名の""カラ""と"関係があるかもしれない、と思ったからだった。ボンベイの南東およそ一二〇キロの西ガーツ山中にあるバージャ洞窟とカールラ洞窟は、アヴァンティ王国が滅んだのと同じ紀元前三世紀ころに造られたとみられる。とすれば、そこにはわれわれの祖先が南下したことを示す痕跡が残っているのではないか……。これはわれわれにとって賭けだった。が、結果は予想以上の大収穫だった。なぜなら、われわれはバージャの石窟で、またもや日本の古代文字を見つけただけでなく、字体を異にする三つの意義深い銘文を確認できたからである。バージャ第一二窟の南、およそ五〇メートルのところにある一四基のストゥーパのひとつに、アイヌ文字で「カラ」と読める銘文が刻まれていたことは、明らかに、われわれの祖先のカラ族がウジャインからこの地に南下したことを示していた。バージャで日本のアヒルタサ文字やトヨクニ文字、アイヌ文字で書かれた日本語の銘文が見つかったことは、この地にわれわれの祖先がいたことを紛れもなく示していた。バージャのストゥーパに「カラ」という文字が刻まれていたことは、この文字を記したのが、まちがいなく、古代のインドでみずからを「カラ」と呼んでいたわれわれの祖先であることを示している。そしてこの文字はまた、バージャから六キロ離れたところにあるカールラ石窟を造ったのも、同じカラ族であることを意味している。バージャ第一二窟の南のストゥーパ群からさらに五〇メートルほど南へ行ったところにある石窟の壁面に日本の力士を思わせるカリアード・パレスの石像彫られた戦士像の顔だちは、どれを見ても日本人にそっくりだ。

バージャ洞窟に刻まれた古代日本の戦士たち。"弥生人の服装をしている

 

バージャ石窟の「バージャ」という地名は、トルコ語の将軍パシヤやアラビア語の将軍を意味する言葉とかかわりの深い古代高句麗語で、将軍を意昧するピーシャ(沛者。もとは祭司の意)という言葉に由来している。とすれば、先の一四基のストゥーパのひとつに「……死にて祈る」という言葉が記されていたのは、この地で敵と戦って亡くなったカラ族の十四人の将軍たちに、われわれの祖先が哀悼の意を表して残したものにちがいなかった。われわれは、バージャ石窟群の中でも一番大きい第一二窟の天井部の梁はりに、「室守幸むろもりさきははめ」(この石室を守る者に幸いあれ)と書かれた銘文があるのを見つけた。

ボージブルのシバ寺院で見つかったトヨクニ文字刻文

その文字は、前三世紀半ばのアショーカ王時代に使われたインド最古の古代文字、カローシュティ文字やブラーフミー文字では読めないため、これまで未解読文字とされてきたものだった。ところが、この銘文は日本の由緒ある家系や神社に古くから伝わるアヒルタサ文字で読め、少なくとも紀元前三〇〇年ころまで湖るものらしい。バージャの石窟にこれらの銘文を残したわれわれの祖先は、どうやら紀元前三〇〇年ころ、デカン高原に侵入してきた敵と戦いながらアヴァンティ王国の栄光を守ろうとしたカラ族の精鋭部隊だったらしいのである(インド最古の文字が日本のアヒルクサ文字から派生したもので、アヒルタサ文字が中国・股代の甲骨文字の草書体として数千年前から使われてきたことは、すでに徳間書店刊『謎の新撰姓氏録』の中で証明されている)。

[インドの神代文字碑文]

図のような文字群は、日本に伝わるイヅモ文字と基本的によく似ており、地球文化研究所では、次のような解読結果を得ている。この碑文が描かれた時代はいつか定かではないが、アマラーヴァティ遺跡は、紀元前三世紀のマウリア朝時代、最初期のストゥーパが建設された頃の遺跡とみられるところから、この碑文もまた、アマラーヴァティ仏教寺院の創建に伴って残されたものとみられる。

 

アマラーヴァティ碑文南インド初期の仏教遺跡として有名なアマラーヴァティ遺跡の寺院の床に描かれた碑文。

 

●テラヲツクレバビクヤビクニツドヒクル●バージャ石窟碑文A ボンベイの南東にあるバージャ石窟寺院(紀元前三世紀)のストゥーパのひとつに刻まれた碑文。アイヌ文字で「カラ」と読める。「カラ」とは古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』で栄光と悲惨な末路をうたわれたクル族のことである。カラ(クル)族は、アーリヤ人の侵入に続くインダス文明の崩壊によって、過去の偉大な歴史を抹殺されたわれわれの祖先である。この銘文は、彼らがウジャインからこの地に南下したことを示したものといえる。

●バージャ石窟碑文B バージャ石窟群中、撮大の第一二窟の天井部の梁に刻まれた碑文。インドの古代文字である力ローシュティ文字やブラーフミー文字では読めないため、未解読文字とされてきたが高橋がアヒルクサ文字で解読したところ、次のような結果を得た。ムロモリサキハノメ(室守幸ははめ)っまり、「この石室を守る者に幸いあれ」という意味である。

 

●ボージプル碑文 宮下文献に「大原の都の地」と記されたデカン高原の古都ボーパールの郊外にあるボージプル寺院の碑文。インド最大のシバ・リンガムを祀ったボージプル寺院の床や壁のいたるところに刻まれた銘文を調査した高橋は、それらが日本のトヨクニ文字やイヅモ文字で書かれていることを発見。その『つは、エジプトおよびインダス文明に共通の祈りの言葉であることを確認した。

日本の神代文字刻文が大量に見つかったボージプルのシバ寺院

●サーンチー仏塔碑文 インド仏教美術を代表するサーンチー(マドヤプラデシュの州都ボーパールの郊外にある前三世紀の遺跡)の仏塔に刻まれた碑文。その多くは、アショカ王時代のカローシュティー文字で書かれている。が、中にはそれより古い銘文もある。第二塔の周囲を取り巻く囲い石のひとつに刻まれた図のような銘文は、日本の古代文字で「ユニコウンカムイ」と読める。

[カピラ城のコイン]

釈迦の父親スッドーダナ王の城跡から出土した紀元前六世紀のコイン。これらのコインには日本の神代文字が使われており、その中のひとつには、アヒルクサ文字で「カムヤヰ」と読める王の名が刻まれている。カムヤヰは、これまでの日本史研究で一度も実在証明がなかった初代天皇カムヤマトイハレヒコ(いわゆる神武天皇)の第二皇子として記紀に記された神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)の名前、カムヤヰと{致している。目本の神八井は、古事記と書紀の編さんに携わった太安万侶の祖先、多(オホ)家の開祖だが、ネパールのカムヤヰは、古代目本のクル族から分かれたスッバ族の始祖とみられる。スッバの古音サハは、多家の「多」の古い読み方として知られるサハと一致する。

[キャサニア碑文]

スリランカ仏教の発祥地、キャサニアの古い寺院の境内にある石碑に刻まれた碑文。コロンボの東方一一キロにある、キャサニアのラージャ・マハ・ヴィハーラ寺院のこの石碑に刻まれた碑文は、フィリピンに伝わるアヒルクサ文字系のタガラ文字で、マナビタテマツル(学び奉る)と記されている(地球文化研究所解読)。この碑文の年代は、寺院内の最も古いダゴパ(パゴダ)の原形が造られたのが、紀元前三世紀とみられているので、その頃まで湖るものとみられる。はたして、スリランカのキャサニアにラージャ・マハ・ヴィハーラ仏教寺院の基礎を造ったのは、インドから渡来した原目本人であったのだろうか。

寺院の建設者が太古の日本人であったことを物語るラージャ・マハ・ヴィハーラの碑文

[呉城ごじよう文字]

中国江西省清江県呉城遺跡から出土した陶片に刻まれた文字。一九七五年の『文物ぶんぷつ』七期の報告によれば、股代の甲骨文字より古い文字とされている。その多くは土器の底や石の鋳型に彫られており、大部分は一字のみであるが、なかには複数の文字が刻まれた標本もいくつかある。「文物」に紹介された図の例を見ればわかるとおり、これらの文字のうち、(  )などは甲骨文字にも同じ形があるので、呉城文字が甲骨文字と関係あることは誰の目にも明らかである。

 呉城遺跡出土の文字

前頁の古代文字を解読するにあたって、右図のような円陣を組んで配列された文字群の場合は、どの位置に視点を置くかが大切である。地球文化研究所では、①から⑦までの文字を次のように読みとり、解読を試みた。①②③の文字を、午・魚・介と読むことに大方の異論はないと思われる。しかし、④⑤⑥⑦の文字は、これまで④を目と読み、⑦を七と読むことはあっても、意味が通じなかったものである。

そこで、これらの文字を日本に伝わる北海道異体文字(通称アイヌ文字)で読んでみると、④の文字はアイヌ文字の(オ)に相当する。⑤の文字は (ク)に近い形をしている。⑥の文字はアイヌ文字の (リ)とまったく同じだ。⑦はアイヌ文字の  がしばしば七と表記されているので、七(二)と読める。以上をまとめてみると次のようになる。午魚介オクリニここでオクリニを「送り荷」と考えれば、呉城文字が刻まれた陶鉢とうはちの中には"""午""の季節、つまり端午たんごの"ころ(午=五で旧暦の五月ころ)採れたイキのいい魚や貝が盛られて、当時の役所か市場に送られたことを意味するのではないだろうか(前頁参照)。呉城出土のその他の資料の正確な実物写真が手許にない段階では、このような読み方もできるということしかいえないが、次頁に示す甲骨文字の解読例を見ていただければ、アイヌ文字で股の中期(呉城文字)や後期(甲骨文字)の文字を研究してみるだけの価値はありそうである。

鍋京出土の甲骨文字(無いか無いかと読める〉

[古代琉球文字]

鹿児島県の南西諸島でかつて使われていた文字。琉球文字の記録は与那国島と宮古島にいくつか残っている。与那国島の例は、地球文化研究所によれば、父子らヴィシュヌを敬うて太一祝えと解読された。ヴィシュヌはインドのヒンドゥー教三大神のひとつである。また、タイチ(太一)は南方系海人の豊漁祈願の祭りである。宮古島の古記録は次のように解読されている。ヴィシュヌヘ父子ら稲と布を納む願い 叶えらるもうひとつの例は、稲と魚 ねぎ 椰子に布を納む願い叶えたまえこれらの宮古島の古記録は、『東京人類学会誌』第十号に住民覚帳ノ写しとして報告されたものであるが、その他にも一般に知られていない例がいくつかある。宮古島の文字は、明治時代の考古学者、八木奨三郎が、『日本考古学』原史時代"篇第七章、技術第六節""文""字""(符標識)において報告"した、先の与那島(現・与那国島)の文字とほとんど同じものである。これらはイヅモ文字を主体とし、アイヌ文字とトヨクニ文字をいくつか混用した形で、奉納祈願文に用いられたことがわかる。以上のような琉球文字はおそらく台湾から九州にかけて、それ以前のアイヌ文字とともに、さらに多くの実例が見つかるものとみられる。

琉球ミヤコ島住民覚帳ノ写シたかさご高砂文字

台湾から出土した図のような石碑に刻まれた文字。現在、天理市の天理大学参考館に納められているこの高砂碑文の文字は、これまで神代文字の研究者によってアヒルクサ文字系統の文字と考えられてきた。しかし、これらの文字を地球文化研究所で分析した結果によれば、ここにはアイヌ文字、イヅモ文字、アヒルクサ文字、そしてフィリピンのタガ一フ文字などが組み合わされて使われており、以下のような内容が記されているという。国つ神とウカラの船は戦いついに大いにあ(吾)勝てるを祝い彫りける右の解読にもとづけば、この高砂碑文は紀元前八世紀末に刻まれたと推定される。この碑文を伝えたのが台湾の高砂族であったとすれば、高砂族は西方の地から台湾に移り住み、台湾の先住民との戦いののちにこの島を占拠し、そしてその一派が日本へも渡来したと考えられる。現在まで高砂族が使用している船の舳先へさきにきざまれた文様のひとつは、インドネシアのトラジャ族のマークとまったく同じものである。それは高砂族の移動経過を物語るものではないだろうか。

高砂文字を刻んだ石の拓本

高瀬鰐口 たかせわにぐち

明治一九年(一八八六)十一月に、神田由道が『東京人類学会誌』第九号で紹介した鰐口(神社にお詣りに行ったとき、社殿の軒下に吊るされた綱を手にして打ち鳴らす金石製の祭器)のことである。となみこの鰐口は、富山県東礪波郡井波町の式内社高瀬神社に伝わるもので、径一八~二〇センチの石の表面に円が刻まれ、円の内部に図のような文字が彫られている。この鰐口の文字は、地球文化研究所の高橋によれば、北海道異体文字で「タイサ」と読めるという。もしもこの鰐口文字がそう読めるなら、タイサざ一鍔はハ"シプトやカムトとともに""エ""ジプト""を意味する言葉であ"る。また、①の文字を囲む○は、これを北海道異体文字で読めば〈ラ〉となるが、ラないしラ"ーは古代のエジプト語で""太""陽""を意味している。"このように考えると、高瀬"鰐口は、全体で""エジプトの太陽""を表したものと考えられ"る。次に、鰐口の背の文字を同様に北海道異体文字とみなして読んでみると、②は「ヤ」の形に最も近く、ヤと読むことができる。②と③の文字は二つとも同じ文字だと思われるので、「ヤヤ」と読めることになる。ヤ(ざ)といえば、これは今から二七〇〇年ほど前、エチオピア出身のファラオとして有名なタルハ力王時代のエジプトにいたイスラエル人が"祭っていた""ヤーウェ""の神を"表す言葉だ。ということは、高瀬鰐口をこの地に残した人が紀元前七世紀のエジプトから日本へやってきたイスラエル人だった、ということを意味することになる。

高瀬鰐口の拓本斐太ひだ石器

落合直澄が「日本古代文字考』の中で紹介した石器(上巻二十八丁)。同書によればこの石器は、新潟県中頸城郡宮内の社山に鎮座する式内斐太神社の神宝で、ヒスイとみられる青石の表面に、図のような文字が刻まれている直澄はこれらの文字の配列をアワ文字とアヒルクサ文字が混用されたものとみなして、「ヤナサク」と読んだ。しかし、その意味がわからないため、ヤナサクとは古代の神の名ではなかったかと推測するにとどまっている。高橋はこの斐太石器文牢を中国股いん代・周代の金石文つまり銅器の表面に彫られた文字と比べてみた結果、これらの文字は、それと非常によく似ていることに気づいた。①②⑨④は、それぞれ今の漢字の「父子九作の元になった文字である。斐太石器は、ひょっとしたら、今から三〇〇〇年前に遡る古い石器で、ここに刻まれた四つの文字は「父子九作」、すなわち「父と子が心をこめて作ったもの」を意味していると考えられる。しかし、これらの文字を反時計回りに並べてみると、それらはアイヌ文字を曲線的に表したものともよく似ていて、「ミワヰサク」と読むことができる。アイヌ文字の「サ」と「ク」の倒置形を合体させると、斐太石器の文字になる。ということは、この石器に神話の高天原で活躍した伊弊諾(ヰサフタク)神の名が、「神伊弉」として刻まれた可能性も大いにありうることを意味している。

斐太石器とその読み方

宮下文献

山梨県富士吉田市の郊外にある小室神社の神官、宮下家に代々伝わる古文書。今から約}=一〇〇年前、秦の始皇帝が大陸を統一した当時、斉(イヅモ)の方士・徐福が富士山の麓にあったという阿祖山太神宮を訪れ、そこに伝わる神代文字の記録をまとめて残したものが原型になったといわれる。宮下文献は、これまでの解釈によれば、日本神話の高天原が富士山麓にあり、国常立くにとこたちと国狭槌くにさづちの兄弟が再会した蓮薬山ほうらいは日本の富士山にほかならないことを記した書物とみなされてきた。が、高橋は、この書物に記された蓮莱山がインドのデカン高原にあるラカジュワル山をさし、高砂之不二山の麓にあった大原の都、阿田都山は、ラカジュワル山地にあるバンパトケヤ山(高砂之不二山)の麓のボーパール(大原)と、サーンチーの仏塔がそびえるヴィディシャ(阿田都)の丘をさしているという仮説を提唱。一九九〇年のインド調査によって、ボーパール郊外のサーンチーやバンパトケヤ、ボージフルの各地に、日本の神代文字で書かれた碑文を大量に発見し、宮下文献に記された高天原は、インドのデカン高原そのものであることを立証した。従来の古史古伝研究は、伝承の舞台をもっぱら国内に限定してきたが、これからは広く海外にも目を向ける必要があるとみられる。

宮下文献に高砂の不二山と記されたデカン高原バンパト

[吉見百穴古字]

埼玉県東松山市の吉見百穴にある古代文字。吉見百穴は日本の代表的な横穴群集墳として知られているが、その建造年代は紀元前の縄文時代まで湖るとみられる。

吉見百穴古字

解読の手がかりとなる桃木文字表近年、これらの文字の解読に取り組んだ古史古伝の研究者、吾郷清彦は、吉見百穴古字が皇祖皇太神宮の竹内家に伝わるイザナギ天皇時代の桃木もものき文字とよく似ていることを発見し、桃木文字でこれらを上から下に読み、次の結果を得た。〈読み〉ツエヒクヘホキ〈意味〉杖曳く尸墳城一方、高橋は、これらを同じ桃木文字で下から上に向かって読み、次のような結果を得ている。〈読み〉ヒユバカマエム〈意味〉火弓場構えむ両者のちがいは、竹内文献に見える桃木文字の文字表の見方の違いに由来する。吾郷は文字表の最初の一列をア行・力行とみなして先の解読結果を得たが、高橋は、同じ行をア行・ハ行とみなして解読した。そのどちらの読み方が正しいか、ということは、もちろんこの一例だけで判断できることではない。けれども、もしも高橋の読み方が正しいと仮定すると、吉見百穴のこれらの文字は、今からおよそ二八○○年前のイザナギ時代(紀元前八世紀前半)に起こったという戦争の伝説と一致する。『記紀』や「上記うえつふみ』、「宮下文献』、『竹内文献』その他の古文献のどれにも伝えられているイザナギとカグツチ(火具土)の戦いが実際にあって、火弓場"すなわち"火の戦場"が松山古城に構えられたということになる。日本神話の伊弊諾いざなぎが、イササフタク=イサク将軍(タク~タケ~タケルは軍帥を表す古語)として古代のイスラエルで活躍したことや、パリクシト(ハイクシト~フイクサタ~イサフタク)としてバーラタ戦争時代のインドでも活躍した実在の王であったことは、いまではすっかり忘れ去られてしまったが、吉見百穴の文字はそのことを思い出させてくれるのである。

紀元前700年ころまで遡るとみられる吉見百穴

大いなる玉座から神は命じられた

プント(神の国)への道を求めよ

ミルラ(没薬)の丘に到る大道を開け

「われは汝の美をつくりし神

われのため神の国より驚異をもたらせ

われ、海と陸の軍隊を導かん……」

私は彼ら(遠征隊)を率い

海と陸の道をはるばる越えて

人を寄せつけぬ海峡の水辺を探さぐり

ついに、ミルラの丘に達した

そこは神の国神の光かがやける土地であった……『プント訪問記』

プレアデス+地球をひらく鍵~第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて(1)

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第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて

◎ 図書館という概念があなたのなかに浸透してくれにつれて、あなたは感情がいかに大切なものであるか、そして、そこに貯蔵されている膨大な知識を開く鍵はあなたであることを理解しはじめるでしょう。

 

私たちは「時間の守り手(キーパー)」と呼ばれる古代の存在たちと仕事をしています。

彼らはあなた方の宇宙を運転している存在です。

これを想像することができるでしょうか。

あなた方が道路からそれないように車を運転するのとまったく同じように、時間の守り手たちは宇宙がコースからはずれないように運転しているのです。

 

生きた図書館をそもそも発明したのは時間の守り手です。

彼らはゲームマスターの創造物です。

時間の守り手と接触するためには、あなた方人間の言葉を借りていうと、「きわめて高度に進化」していなければなりません。

多くの人々が彼らの存在を知っていますが、どうやって彼らを発見できるのでしょうか。

また、どうすれば彼らとコミュニケーションできるんでしょうか。

あなた方の惑星にはきわめて高度な進化をとげた存在がいるという話があります。

しかしどうすれば彼らとであうことができるのでしょうか。

どうすれば彼らに協力してもらえるのでしょうか。

どうすれば彼らのもっている秘密を教えてもらえるのでしょうか。

簡単です。

彼らの周波数に自分の周波数を合わせることを学べばよいのです。

 

あなた方の世界に住むヨガの行者やシャーマンと同じように、時間の守り手がどんな存在であるかはヴェールに包まれたままです。

彼らは謎の存在です。

彼らが存在することは知られていますが、彼らがどこに住んでいるのか、どうすれば接触できるのか、どんな外見をしているのかといったことはだれも知りません。

時間の守り手達と私たちが一緒に仕事ができるというのは、まことに幸運なことです。

私たちがあなた方にとって師であると同じように、彼らは私たちの師なのです。

 

時間の守り手たちはトリックを使って、私たちに生きた図書館を発見するように仕向けました。

彼らはまたどうすればこの生きた図書館を活性化できるかについてもトリックを使って私たちに見つけさせました。

その理由は、時間の守り手たちはこの宇宙を失いたくないからです。

この宇宙全体がひとつであるということを宇宙が理解するときまで、時間の守り手たちは宇宙を分離した状態のままにしておくでしょう。

宇宙がこれを理解したとき、宇宙はいうなれば崩壊して自分自身のうえに倒れこみ、根本創造主と一体になり、時分という存在が何であるかを理解するでしょう。

 

時間の守り手たちは、この宇宙を失わないようにするために彼らの力のできるかぎりのことをします。

というのは、あなた方の宇宙が完了する前に自己崩壊すると、本来の目的を達成できないからです。

これを達成するために、彼らはあなた方が「時間」と呼ぶものを創造することによって宇宙を分離します。

時間はすべてのものを分割して、宇宙が自分自身を探求し、すべてのものが一緒に動いているということを発見して、やがて宇宙はひとつの全体であるように導くのです。

 

時間の守り手たちはこの宇宙が侵略されるのを見つめています。

この宇宙が破壊と分離に向かって突き進んでいくのが彼らには見えます。

その分離は、実際のところ彼ら自身が手を貸しているものです。

彼らが宇宙を分離した状態にしておくのは、この宇宙および他の別々の世界が、独力でそれぞれの世界の大切さを発見できるようにするためです。

時間の守りたちがかかわっている分離とは、現存する存在形態が本来の自己の本質から分離することです。

この手段を使うことによって、爬虫類およびその他のエネルギーが暴虐をつくり出しているのです。

いまの状況がこのまま進んでいけば、はるか未来において、時間の守り手たちがきわめて憂慮している状況が出現してきます。

あなた方にわかってもらうために、私たちは最善の言葉を使って説明しています。

 

最善の教授法とは、多くの場合トリックを使うものであるということを私たちは学びました。

ここでいうトリックには、別の価値構造を知覚させるために現在の価値構造を混乱させることも含まれています。

私たち自身も生徒であって、まったくあなた方と同じように答えを模索しているのです。

私たちにも先生がいて、彼らはトリックを使って私たちにいろいろなことをやるように仕向けるのです。

そのひとつがあなた方の惑星の仕事をすることです。

私たちは冒険の旅に出るため切符を探し求めています。

私たちがどのようにして地球とかかわりをもつにいたったかというのも、それ自体ひとつの物語です。

私たちの探求は生きた図書館を発見することと関係ありました。

そして、あなた方の惑星がたまたまその鍵のひとつだったのです。

私たちはこう思いました。

「これはおもしろい。私たちの祖先は何百万年ものあいだ、この惑星にこっそり出入りしてきた。

そしてまさにここに私たちが探していた鍵がある。灯台もと暗しだ」。

現実のなかに物事がどのように隠されているかというのは実に面白いものがあります。

私たちも同じような方法を使ってあなた方をそそのかし、さまざまな現実のなかに入らせて、あなたの別な自分に出会わせることによって、あなた方自身および宇宙そのものに変化を起こさせようとしています。

 

私たちは未来からやってきて、時間の回廊を通って探求しています。

これが私たちの任務です。

私たちがプレアデス人として訪れるという蓋然性の未来からやってきて、過去を改めようと意識しているのです。

私たちの意図するところは、私たちがいまそれにもとづいて活動している蓋然性としての未来を変えることです。

というのは、あなた方の宇宙の新しい動きに向かっているひとつの方向に位置するこの蓋然性の未来は、暴虐に満ち満ちていることがわかったからです。

ここは自由意思地帯であり、自由意思が求められる宇宙です。

したがってすべてが許されます。

この実験においては、すべての物事は根本創造主の表現そのものなのです。

あなた方に思い出してほしいのですが、この2元性の世界では影が光をつくるのです。

天気のよい日に散歩に出て、陰がどんな役割を果たしているか観察してみてください。

あなたの住む世界を文字通り受けとめて研究したり、象徴的なものとして受けとめて研究することを始めてください。

そしてあなたの住む世界が常にあなたに語りかけていることに気がついてください。

 

地球はまことに素晴らしい場所です。

なぜなら地球は宇宙の物語に満ちあふれているからです。

それは人間の体も同じことです。

人間は生きた図書館であるがゆえにそのようにデザインされているのです。

 

宇宙になんの暴虐もなく、すべてが調和にみちた状態で機能しているときには、文明どうしが自由に情報交換しあうことが出来ます。

これによってさまざまな可能性のやりとりが可能となり、単独のエネルギー体がそれぞれ行き来しては探求することができます。

生きた図書館は巨大なポットラック・パーティー〔食べ物持ち寄りのパーティー〕のようなものです。

一緒に仕事をしているさまざまな宇宙の集団が、彼らの知識とエネルギーをしみなく提供してこの図書館をつくったのです。

彼らはあなた方の宇宙のところどころに、情報を貯蔵するための場所を創造したのです。

この情報は、それが必要になった時に宇宙の発展を促進するために使うことができるのです。

その時とは、いまです。

生きた図書館はアクセスすることができないために死につつある文明が宇宙にはたくさんあります。

それと同じように、自分自身の身体を理解できず、それにアクセスできないために大量の人間が死につつあります。

あなた方の勇気と自分自身を信頼する気持ちが、すべての存在がどのような体験をするかの方向を決定することになるでしょう。

地球がバランスのとれた、同時的な統合の状態に入っていくと、この図書館のシステム全体を構成している他の11の図書館と地球が幾何学的に並ぶことになるでしょう。

この協合が生じると、12の図書館は独自の光のかたちを作り出し、あなた方の宇宙のかたちが変り、結合の合図を送り出すでしょう。

これはすべての存在にとっての勝利です。

 

あなた方は11の他の図書館とつながっています。

あなた方の仕事は12のすべての図書館をつなぎ合わせて、12の図書館を回転させることです。

12のチャクラを回転させて体内の情報を開放し接続するのと同じように、12の図書館を回転させ現実化するのです。

これらの12のシステム、すなわち12のチャクラと12の宇宙の図書館を回転させることによって、さまざまなエネルギーが引きつけられ、これらのエネルギーは数多くの情報センターと交わることになるでしょう。

これによって、これまでは無関係で意味がないと思われていたさまざまな新しいヴァージョンの出来事が誘発され、それらの出来事に新しい意味が付与されるでしょう。

より大きな構図が見えてくるにつけて、いわゆる神々の行動が理解できるようになり、彼らがどのようにあなた方の世界を活用しているかがわかるでしょう。

 

光の家族のメンバーであるあなた方はきわめて中立的なエネルギーで、簡単にかたちを変えることのできる柔軟なエネルギーの集合体のようなものです。

あなた方が示す柔軟性のおかげで、他の存在たちはあなた方を活用し、あなた方と融合し、あなた方になり、あなた方がいなければ体験できない現実のシステムには入っていくことができるのです。

あなた方がそもそもどのような存在なのか、光の家族がいかに大切な存在なのかをもっとしっかりと理解してほしいと思います。

あなた方は意識のシステムのなかに入っていき、そのシステムが膠着(こうちゃく)して進化できない状態になっているときには、その状態を変えるのです。

多くの場合、システムが自分自身を変えるというのは非常に難しいことです。

 

あなた方が自分自身のより大きな能力を発揮して主権者となり、他の誰かを崇拝したりすることのないようにしてほしいと思います。

あなた方が何よりも尊重すべき原則は、あなた方の乗り物である地球と、地球に住むすべての生命体を尊重することです。

あなた方の肉体を、あたかも完璧な宝石のように尊重し、宇宙であなたが所有するもっとも貴重な生命体のように扱ってください。

まず、何よりも地球を尊重してください。

これはあなたの任務のひとつであり、そこにこそ、あなたの価値があるのです。

 

生きた図書館という概念は適切であると私たちは考えています。

というのは、あなた方には図書館がどのようなものであるかについて基本的な理解があります。

このたとえは非常にわかりやすいのです。

私たちが説明しようとしていることはきわめて複雑なものです。

あなたに理解できるように、ベビーフードのように噛みくだいて説明しているのです。

別のときには別な説明をするでしょう。

あなたが変るにつれて、私たちの話しもかわります。

未来においては、あなた方はいまは到達不可能なところまで到達でるようになるでしょう。

 

DNAの12の束や12のチャクラと呼応して動いているさまざまな12という現象があります。

12の物語は、あなた方の惑星のあらゆるところできわめて深遠なかたちで表現されています。

それは人間の集団意識の奥深いところにしっかりと埋め込まれており、歴史が始まって以来、あなた方の表現を借りていえば、情報を構築し、さらにその情報をひとつのシステムから別なシステムに伝えるためのひとつの手段として使われてきました。

12の物語は「意義ある存在」という概念をあなた方の世界に定着されてくれるのです。

 

12という数字についてのもっとも古い教えは、黄道帯の概念でした。

これは黄道の両側にまたがる幅18度のせまい帯で、地球を太陽がまわっているように見える軌道のことです。

黄道は12の星座に分けられ、12宮があり、12の重要な部分がお互いに織りまざり、結び合っているという考えを通して創造に関する知識を伝えています。

黄道帯は生きた記憶をもっていると信じられ、シュメール、ヒンズー、中国、エジプト、カルデア、ギリシャ、ローマの文明に置いて不可欠な役割を果たしました。

 

人間の発達は、さまざまな新しい表現がそれを通して生れた、12の黄道帯のエネルギーを分配する宇宙の周期と深いつながりがあります。

今日、あなた方は時計やカレンダーをエネルギーの分割を思いだす因(よすが)として使っています。

というのは、時計やカレンダーは12という数字を意味深長に用いることによって時間を区分しているのです。

 

聖書やその他もろもろの古代の書物も、12という数字にもとづいた数多くの相互関係に言及しています。

例えば12の門、12の部族、12天使、12人の息子、12使徒、12の円卓の騎士、そして最近では12番目の惑星などがあります。

私たちは12のチャクラやDNAの12の束といった概念を用いますが、その理由は、あなた方はこの象徴に反応するようにコードが埋め込まれていて、この象徴を通じてより大きな現実の展望を思い出すようになっているからです。

続く・・・                

大天使ミカエル : 2017年6月28日 [大天使ミカエル]

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きらきら星へようこそ...☆

 

大天使ミカエル

Archangel Michael

 

2017年6月28日

June 28th, 2017

 

June 29, 2017

 

レスリー・アン・メンジーズ経由

Via Leslie Anne Menzies

 

親愛なる皆さん、

Dear Ones,

 

今の皆さんという創造主の存在を認め、受け入れてください。

皆さんの‘臨在する主我’に、皆さんの魂の自己の‘わたしは在りて在る者’の振動に、話し掛けてください。

今は、こうした才能、皆さんが長い間皆さん自身から隠してきた創造的な顕在化を、認める時です。

 

皆さんの記憶と熟達性は、戻りつつあります。

こうした記憶が展開して、再び目覚めることを皆さんが許す時、もはや皆さんは、皆さんを制限された皆さんのありのままの姿に関する信念の中に閉じ込めてきた廃れた思考パターンに陥ることはなくなるでしょう。

 

創造主の存在達として、皆さんは、さらに簡単に創造的な熟達性に足を踏み入れて、皆さんの真の存在性を取り戻すことができます。

皆さんが今回の生涯のために惑星地球に足を踏み入れた理由そのものです。

 

皆さんが皆さん自身を創造主の存在として充分に受け入れる時、皆さんはもはや古い否定的な考えまたは信念が皆さんの日々の活動を支配することを認めることはありません。

 

皆さんは無限

YOU ARE LIMITLESS

 

これほど沢山の古い物事が皆さんの物質的な乗り物からの変換を終えて、より多くの洗練された光の符号が通過する時、その古い信念のパターンの最後の名残は永遠に退くことになるでしょう。

 

今回は、事実通り、他に類のない時期です。

 

皆さんの真の熟達性へ向けた成長と拡大の数々の機会こそ、今皆さんが目撃しているものです。

親愛なる皆さん、いつものように、それは、皆さんが皆さんの中と周りで展開している物事を眺める方法の、ひとつの選択です。

 

古い3次元の否定的な分離から眺めると、おそらく皆さんの人生と皆さんの世界は、“残酷”に見えるかもしれません。

しかしその一方で、新しい5次元の地球は進化を続けているため、皆さんは、皆さんがすべての物事の一体性への熟達した信頼の中で生きるというひとつの選択肢を持つことを、認識しています。

今後惑星の振動は、怖れ、欠乏、制限から、新しい地球上に居住するすべての存在達のための安らぎ、協調、愛、豊かさ、そして完璧な健康を備えた新しい現実性に向けた進化を終えているため、5次元の現実性の中では、もはや病気と事故は存在しなくなるでしょう。

 

親愛なる皆さん、その選択は皆さんのものです-今後皆さんは、どのようにしてこの次の進化の段階を経験することを選択するのでしょうか?

 

皆さんのこころを開いてください。

それでさらに高い精神が、その創造の光が皆さんの美しい身体のあらゆる細胞と原子へと流れることを許します。

皆さんが認識しそして放射するすべてが光になるまで、この信じ難いエネルギーが皆さんの身体に浸透することを、許してください。

 

皆さんが皆さんのこころをさらに広く開き続けて、その創造のエネルギーが皆さんを通してそして皆さんの周りで淀みなく進むことを許す時、光の存在達、光の熟達者達、それが皆さんのありのままの姿であり、皆さんが淀みなく進んでいる場所です。

その時皆さんはその創造の黄金の流体の光を地球に根付かせているため、皆さんは意識的に、母なる地球とすべての人類がこの光を分かち合うことを許しています。

 

親愛なる仲間達、皆さんはその道を先導していて、銀河の中のすべての存在達が、皆さんや、皆さんがこの進化が明らかになることを認めているやり方に、焦点を合わせています。

 

親愛なる皆さん、これほど数多くの存在達が、皆さんに注目し、愛し、支え、元気付けています。

皆さんにとって、そのすべてが日々の“仕事”です。

今後皆さんは、この時期のすべてで皆さんが創り出している物事を、直ぐに理解することになるでしょう。

そして皆さんもまた、わたし達のように、明らかになる物事に驚愕の目を見張ることになるでしょう。

この信じがたい道筋のあらゆる段階で皆さんと一緒に歩いている、

 

わたしは大天使ミカエル。

I AM ARCHANGEL MICHAEL

» Source – http://leslieannemenzies.blogspot.jp/2017/
Channel: Leslie Anne Menzies

http://sananda.website/archangel-michael-via-leslie-anne-menzies-june-28th-2017/

 

 

翻訳★森のくまさま...ありがとうございます。

転載される場合には、出典を明記してください。


里帰りした歓びが~[4K] 御柱祭 諏訪神社下社 里曳き 2016/05/15

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地球創生のはるか昔、世界に旅した日の本の民が、神聖な「古来の伝承・口伝・心印」を携えて里帰りしました。

時を経て、神との民との約束は為政者に守られながら、人々の生活に溶け込み、収穫の秋祭りとなりました。

それは春祭りに結実するという伝承でした。

玄妙な門(新しい次元・戸・玄関・無門)へいたる旅でした。

聖なる旅たちの前夜祭(ハローウイン)、そのときまだ目覚めぬ居残りの人々のために「嘆きの壁」がエルサレムに築かれました。

この動画の舞や踊りのなかに里帰りした歓びが満ち溢れています。

一つ一つの小道具にも神聖な由来が込められています。

みなさんが引き継ぐもの、心に隠された躍動、その壮大な歴史文化をしばしお楽しみください。

[4K] 御柱祭 諏訪神社下社 里曳き 2016/05/15

バシャール:広がり

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2017-07-29 02:26:34 NEW !
テーマ:

意識が覚醒するということは、受け取る情報の質も変わってくることを意味しています。意識が覚醒するということは、五感の感度が上がるので、五感で測れるアイテムの量も増えてゆくことを意味しています。五感で測れるアイテムが増えるという事は、”今まで”見えなかった聞こえなかった感じなかった事が感知できるようになるだけでなく、貴方の判断力や理解力にも深みがでてくるので、受け取った後の対応にも変化が及ぶようになることを意味しているのです。

貴方の意識が覚醒するという事は、それだけ貴方の世界に広がりがでるようになります。あらゆる側面において、360度どこを切ってもどの方角にも拡張を見せてゆきます。という事は、ネガティブ方面にも同じような広がりを見せてゆくようになることを意味しているのです。

遺伝子レベルから言ってもアップデートが加わるようになります。現在の私たちの遺伝子は、2重螺旋で構成されていますが、徐々に時間をかけて3重螺旋に変化中であるとバシャールは話しています(全部ではなく、一部のみ)。

観音菩薩伝~第24話 大師、保母と永蓮を従えて須彌山へ発つ、 第25話 大師の一行、道に迷う

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第24話 大師、保母と永蓮を従えて須彌山へ発つ

「光陰矢の如し」月日の去るのは早いもので、大師が金光明寺に晋山されて早くも三年が経ってしまいました。金光明寺に集まる在家の信者は、三年もの間大師の感化を受けたため佛陀大乗の真旨を理解し、ますます信を深めました。ある初春の夜、大師が坐行をしていると、誰かの対話が耳に入りました。
「霊台上の蓮華は、咲き開いたか」
「咲いたことは咲いたが、只一方の菩薩が足りないだけだ」
 大師は色声に侵されていたのです。これはいけない、と強く打ち消して心神を無我に収束しようとしました。するとその心神が一朶の半開きの無垢の白蓮に変わり、その白蓮の上には安らかな菩薩の法身が眼を軽く閉ざして入坐しています。眼を凝らしてよく彼の菩薩を見れば、それが自分に重なって見え、更に良く見ますとそれは全く自分の化身でありました。
 大師は、驚いて両目を見開きました。それは、実に鮮やかな神々しい姿でした。これは一体どうした訳だろう。今まで全然このような現象を見たことがないし、想像したこともありません。それなのに一体これは魔の入境か、はたまた自分の識神の顕れであろうか。あるいは、何かの啓示であろうか。大師は、坐房で考え込みました。考えを繞らせている内に、突然あることが閃きました。これは須彌山の雪蓮峰へ行けという啓示に違いない、美しい純無垢な白蓮、神秘荘厳な化身、これは正に時機が熟したことをお示しになられたのだ。大師は、心中に深い喜びを感じ、強い決意を胸に秘めるのでした。
 翌日、大師は保母、永蓮、多利・舎利尼の四人を招いて、胸の裡を打ち明けました。
「永年心願の須彌山求法の時機に至りました。今までそなた達と修行してきましたが、暫くお別れして独り旅立ちたいと思います。今後の事を四人に託しますから、仲良く修行を続けて下さい」
四人は大師のこのような突然の言葉を聞いて驚き、声を揃えて言いました。
「私達も連れて行って下さい」
 是非とも大師に随いて行きたい気持ちと、大師と別れる辛さと、大師の一人旅の不安が複雑に交差して、四人は異口同音に大師に縋り、随行を乞いました。大師は眼を閉じて四人の求望を聞いていたが、暫く考えてから強い口調で、
「皆を連れて行けば、後の説法や管理については一体誰が責任を持ちましょう。衆生を失望させることは、行者の為すべき事ではありません。是非私と同行したいのなら、保母と永蓮の二人だけにして貰いましょう。しかし女の行ですから、大変な苦難があることを覚悟すべきです。多利と舎利尼は、この三年間の修磨に相当の進歩を見たから、寺院と説法の負責者を務めながら修行して下さい」
 多利と舎利尼は、大師の言葉がよく分かりながらも、大師に随いて行けないことに不服そうな顔を見せました。これを見て大師は、静かに諭されました。
「多利と舎利尼よ。いずれも同じ、重大な職務です。大衆に佛道の大乗を知らしめ、真なる信仰に導くことは容易な業ではありません。よく心得ておきなさい。私は、雪蓮峰へ正法と白蓮を求めに参ります。何時まで掛かるか分かりませんが、長くて一年、早ければ半年で弘願が達成できると思います。それが達成できましたら、直ぐに帰って参ります。それまでの間、そなた達二人でしっかりと留守役を務め、一切事を処していただきます。そなた達二人の先覚に頼む以外、誰に頼めましょう」
 大師の強い要望に二人は断ることも出来ず、それに大師には保母様と永蓮様がお付きだから大丈夫と思い、意を決して承諾しました。保母と永蓮は、多利尼と舎利尼に対して済まないと思ったが、大師のこの度の大行は大師の生涯の最終目的地に到達したような緊張を全身で感じ取りました。そしてお供の出来る喜びよりも、大変な難行になるに違いないと覚悟を深くしました。早速、保母と永蓮は修房に戻り、衣服・頭巾・食糧などの準備に取りかかりました。
 大師は、修行中毎夜編み続けて貯めておいた沢山の草鞋を持って行くように命じられました。保母と永蓮は草鞋の山を見て、大師は今日の日のために長い年月を掛けて編まれていたのかと、その遠大なお考えと深い弘願に胸が一杯になりました。その中から詰め込められるだけ沢山の草鞋を黄色い厚布で造った三つの袋に入れ、乾飯(ほしいい)を各々に分けて背負うことにしました。二人は、白雀寺時代からの大師の御苦労の連続を思い、感慨無量になりました。
大師も部屋の中で、金縁紫色の托鉢を取り出して卓に置きました。これは、三年前金光明寺に晋山した日に妙荘王から送られた、たった一つの記念物です。大師は、終生これを自分の身辺に持参することにしました。
 旬日後、いよいよ出発の日が来ました。全寺の尼僧は大師の一行を見送るべく金光明寺の庭に静かに整然と並んでいたが、見送る人々の瞳は別れの悲しみの涙を浮かべていました。これからの苦行難行を思い、また幾多の猛獣や色々な障害を考えると、か細い女身でありながらこの壮途に向かわれる健気さに泣けてくるのでした。大師も菩薩行の厳しさに、一際身も引き締まる思いでした。
 耶摩山麓の信者達は、大師の突然の御出立の報せに驚き慌てましたが、お引き留めする術もなく、只早朝から沿道に香を焚いて一路平安を念じ、彌陀尊に礼讃・祈願をするだけでした。心の中で、大師様御無事で衆生のために求法を円満に達成して下さいと祈りました。
 何時までも別れを惜しんで附いてくる民衆を押し止めて、大師は保母と永蓮を従え一路須彌山へと向かいました。


第25話 大師の一行、道に迷う  須彌山は興林国の遙か南の方角に位置していますので、三人は山並みの麓沿いから西回りの道筋を選んで求法行の第一歩を踏み出しました。高山の峰ですので、出来るだけ山谷の細道を辿るようにして進みました。一日の行程は、思うほどには進みません。
 大師は、この度の行に並々ならぬ決意を秘めていますので、保母と永蓮に対して大師の出身一切の名を出さないように命じ、一介の行者として旅をすることにしていました。このように大師は名を秘して夜は部落などの寺院に泊まり、寺院のない所では農家に宿を求め、あるいは野に寝、山に伏して行脚を続けました。
 朝は早く発ち、夜は無理をせずに出来るだけ早目に宿りました。飢えを覚えれば民家の戸口に立って托鉢し、頂いた御飯は必ず三人で分け合って行脚を続けました。
 永蓮は大師に従って尼僧になったとは言うものの、最初は大師の監視役として白雀寺に入り、金光明寺に移って後も寺院の財産と信者の援助が多いため別に食を乞うほどの境遇ではなく、豊かな生活の中で修行をしてきました。従って一度も托鉢の経験がなかったため、家々の門口に立つのは身を切られるような恥ずかしさと屈辱の思いに泣くに泣けない辛い気持ちでした。
 未知の人の戸口に立って一宿一飯を求める行乞いの生活は、実に厳しい人情の一面を覗くことが出来ます。真実の目的が無く人世の真諦を会得していない人にとっては、過去の体面を捨てきることは大変に困難な事です。
 この時代は佛教の勃興期にあり、佛陀の教法が漸く人々に認められた時でもあるので、行者に対する尊敬と冷遇は両極端で、快く食を恵む人もあれば、胡散(うさん)臭そうに門前払いをする家もあります。分けても異教徒に対する差別視は、異常なものがあります。永蓮はいつも托鉢巡業の時になると、内心の羞恥に耐えかねるような表情で家々を廻っていました。大師はこれを見て、諭すように言いました。
「永蓮よ、そなたの心は分からぬでもないが、行者は十方(じっぽう)の人の供養を受け、十方の人と縁を結び、十方の人をお救いするのです。それが修行です」
「大師様、よく伺って分かっているのですが、いざとなるとどうも気後れしてしまうのです」
「それは我執があるからで、私という意識に拘泥して無人・無我・無衆生・無寿者の四相を離れていないからです。過去の体面に執着し、現在の身分の高下に囚われ、未だ我を捨て切っていません。我を捨て切ったところに、人と我の相異が無くなります。恥ずかしいと思う念を超えて相手を憐れむようになれば、真の自己と真の相手を知ることが出来ます。未だその域に至らないのは、仮合の色体に執しているからです。諸法皆空の中に恒存性は無く、因縁性のものに実在性は有りません。小我を超えて、無我の大我に融合すべきです。そなたは未だ小さな自我の中に固執しているから、感覚(受)・表象(想)・意思(行)・意識(識)が生じるのです。全ての色象は無常であり、無常なるものは苦であり煩悩であり悲哀です。行者は世を捨てると同時に、我執も捨てなければなりません。世を捨てることは真に世を愛することであり、我を捨てることは真に自己を悟るということです。常に耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶのが修行者の心構えです」
「よく分かりました」
「これから益々大変です。世の中には善悪が入り混じっているために、私達は行をして因縁を結ぶのです。一飯を施されれば、施主に一分の佛縁が芽生えます。私達が正法を得られた暁には、その法をもって施し、衆人を救うのです。恥ずかしい、悲しいと思う心よりも、一日も早く法を求める決心を熱烈に燃やして、供養して下さった人も、乞食(こじき)のように扱った人もみな教化済度する要があります。
 私達の目的は托鉢にあるのではなく、道を求め、法を求め、更に一日も早く衆生が佛門に帰依して永遠の正覚者になれることにあるのです。そのために幾多の艱難苦行を重ね、飢えには出来るだけ我慢し、耐え難い時には衆生に佛縁を求めて托鉢乞食(こつじき)を続けるのです」
 大師の強い語調には、上は菩薩を求め、下は衆生を化益せんと願う菩提心が溢れていました。
「やっと、目が覚めました。心の曇りが拭われた思いです。今は、そのような考えを持ったことをむしろ恥ずかしいと思うくらいです。今日までの事は、佛陀が私の心を験されたのかも知れません。今の大師の教えで、本当に迷いが取れました」
 永蓮の顔は、晴れ晴れとしました。大師も、永蓮の理解が早かったことを喜び、保母と共に永蓮を讃えました。

 三人の旅は、平穏に過ぎました。種々困難もあったが三人が力を合わせて克服し平穏無事に半月を過ぎたある日、大きな山が大師一行の行く手を遮り、絶壁の岩が一行の前に立ち塞がりました。麓から仰ぎ見れば、岩壁は嶮しく高く聳えて頂上を望むことが出来ません。山腹は萬年雪に蔽われ、春とはいえ寒々としていました。南と北には大きく深い谷があり、それに沿って僅かに路らしい細い道がついているのが分かる程度で、森林が生い茂り歩行は大変に困難のようです。
 南への道は見るからに険しいので、三人は北の小径を辿って行くことにしました。登って行くに従い、雑木が密生し鬱蒼として昼なお暗く、道は羊腸の如く崎嶇(きく)が激しく、三人は辺り一面に蔓延(はびこ)る蔓草に足を取られて何度も転びながらも登り続けました。
上を見れば懸崖絶壁であり、下を見れば千仞の谷です。三人はこけつまろびつ崎嶇凹凸の激しい山道を辿りながら進みましたが、やがて日が暮れてきたため大師は、保母と永蓮に適当な場所を見付けて野宿するよう命じました。幸い、石崖の縁にとある洞窟を見付けたので一行はその中に入り、大師は綿布を土の上に敷いてその上で静坐瞑想しました。永蓮は、初めて泊まる山中に身を震わせていましたが
「行者は常時、心神の法輪を転ずべきです。恐怖の念を払って、そこにお坐りなさい」
 と言う大師の言葉に心の安らぎを覚え、保母と共に大師を見習って静坐しました。
 翌日夜が明けると共に、また三人は山道を登り続けました。行けども行けども山また山で、通る人は一人もおりません。大師達は、道を間違っていたのです。西を向いて進んでいると信じていたのが、実は北に向かって歩いていたのです。太陽すら見えない密林の中を彷徨(さまよ)い、身の丈を超える雑草を掻き分け苦行を続けながら漸く山脈を乗り越えました。
 足に肉刺(まめ)を作りながら下りの険しい坂道を歩き続けて黄昏(たそがれ)も近い頃、疎らに人家のある小さな部落に辿り着きました。大師は、一軒の家の前に立って宿を乞いました。
 保母と永蓮は、疲労と空腹と寒さで今にも倒れそうになるのを必死の思いで耐えていました。幸いにも家の中から親切そうな一人の老人が出てきて、三人を家の中に迎え入れてくれました。この家は老人の一人住まいであったため、三人は張り詰めた山越えの緊張も解け、心からほっとした気分で気を楽にして休むことが出来ました。 続く・・・

世界最後の謎を解き明かす(ムー大陸探検事典) ~第7章古代の地球を治めた日本の王探検協会の調査Ⅱ

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第7章古代の地球を治めた日本の王探検協会の調査Ⅱ

宮下文献に天之田原男と記された太古日本の王ツタンカーメン

 

日本に伝わる神代文字は、かつて太平洋を中心に栄えたムー王国と、その継承国家ティルムンの栄光を記すために使われた。その神代文字を手がかりとして、世界各地の未解読碑文に挑戦してみると、驚くべきことに、太古日本の王が全世界を治めていた遠い昔の記憶がよみがえってくる。ムr文明時代の碑文は、以下に見るいくつかの文明の建設者が、帝王ラ・ムーの教えに従った太古の日本人であったことを物語っている。

リポート1

古代カラ族の未解読文字分布原日本人カラ族が世界各地に残した文字から浮かび上がってきた文明とその遺跡についてー。

カラ族の残した文明と思われるものが地球上におよそ十か所ほどある。

(1) シュメール文明

(2) インダス文明

(3)原中国文明

(4) タレタ・エーゲ文明

(5) エトルリア文明

(6)イベリア文明

(7)サハラ文明

(8)アサニア文明

(9)オセアニア文明

(10)アンデス文明

以上の十か所の文明(地図参照)についてそれぞれ簡単に述べていくこととする。

太古の日本人力ラ族が残した世界10大文明

古代カラ族の航海者が寄港した地中海のクレタ島

第一にシュメール文明について。従来シュメール文明は五〇〇〇年前に栄えた文明とされてきたが、シュメールは粘土板にSMRという表記で出ていて、サマリア文明であったと考えられる。サマリアは実は三〇〇〇年前、ダビデ、ソロモンによって築かれたイスラエル王国の都であった。このサマリアの元の古い名前はカルとかクリ、カラあるいはクルという表記がなされていて、古代イスラエル王国の国名はカルクー、すなわちカルの国、カラ族の国であるということが古い文献から確かめられている。そしてわれわれがふつうヘブライ人といっている人たちは、ヘロドトスの『歴史』に登場するカーリア人、フルリ人とつながりがあり、フルリ人はタルリ、つまりクル族であるということで、カラ族の残した文明の第一と考えられる。

第二はインダス文明。中近東に栄えたシュメール文明とかかわりを持つインダス文明の担い手は、インドのタミル人に代表されるドラヴィダ語族と考えられる。このドラヴィダ語族は地中海方面からインド、日本に移住した人々で、実際に日本語とドラヴイダ語がかつて共通の祖語を持っていたことが多くの専門家によって認められている。日本におけるその代表的な言語学者が大野晋教授である。地球文化研究所の高橋良典が解読したインダス文字の銘文からインダス文明の建設者がクル族であったこと、そしてほぼ日本語といえる言葉をインダス文明の担い手が使っていたことが判明している。

第三に原中国文明。日本人の祖先の一部をなす倭人がかつて江南、山東、満州、朝鮮の各地にいたことが中国の史書に記されている。そして、その倭人といわれる人たちの到来以前に中国や朝鮮にいた人たちは、日本に伝わる漢字以前の文字を用いて、数多くの碑文を残している。中国の古代碑文もまた日本語で書かれていることから、この原中国文明はわれわれ日本人の祖先、カラ族が築いたものとみることができる。

第四にクレタ・エーゲ文明。このタレタ文明時代に残された三種類の古代文字、タレタ絵文字、線文字A、線文字Bのうち、すでに線文字Bは解読され、古代ギリシア語で書かれていることが判明している。線文字Aと、絵文宇を高橋が試みに解いた結果によれば、それらは古代の日本語、つまりカラ族の言葉で書かれていることがわかった。

第五にエトルリア文明。BC八世紀の初めに小アジアのカーリア人地区からイタリアに移り住んだエトルリア人は、日本に伝わる古代文字を用いて記録を残している。このことからエトルリア文明の建設者も原日本人のカラ族であったと考えられる。

第六にイベリア文明。イベリア半島のタルテッソスに伝わる古代碑文もまた、日本に伝わる古代文字で記されている。有名なタルテッソス・リングに刻まれた文字を解読した結果、この指輪はアフリカに亡命したイスラエル最後の王ホセア(イサク)がエチオピア朝エジフトの王からイベリアの統治を委ねられたことを記したものと考えられる。イベリア半島のイベリアという言葉は、ヒブル、ヘブルから来ている。また、イベリア半島の古代都市セビリアもサマリアから来ている。このことも間接的にイベリア半島の統治者が古代イスラエル最後の王ホセアとかかわりのあることを暗示している。

第七にサハラ文明。サハラ砂漠の各地、たとえばアルジェリアのタッシリやマリ共和国のアドラール・デ・ジフォラスに残された古代文字碑文を読むと、アッシリアの追求を逃がれたイサクとヨセフ、イザヤらがホガール山中に身を隠したことがわかる。彼らはエチオピア王ピアンキとタルハカの時代にアッシリアに反撃して、この地にタデメッカと呼ばれる都を造った。そのことも碑文の解読結果から判明している。マリ共和国のタロホスとインタデイニの間にある巨大な石造都市の廃塘ぼ、そのタデメッカに相当し、この地区に残されたティフィナグ文字碑文はBC七世紀のタデメッカに日本人の祖先の一部が住んでいたことを示している。日本の『新撰姓氏録』はアルジェリァのオーネトやマリ共和国のブーグー二からやってきた人々の名前を記し、『契丹きつたん古伝』はまた、日本神話のホホデミに相当するヨセフがマリ共和国のイジュンハンに救援部隊を派遣したことを記している。

第八にアサニア文明。東アフリカのケニヤからタンザニア、モザンビーク、ジンバブエ、南アフリカ、コンゴにかけて無数に存在する遺跡群はこれまで、いつ誰が残してきたものかわからなかった。が、このアサニア文明の都がエンガルクー、あるいはニイケルクーと呼ばれていることは、それがカル国(イスラエル)の滅亡後に再建された新カル国、新ケル国であったことを意味しており、日本の『姓氏録』や『契丹古伝』にケニヤのキスーム、ソマリアのキスマユ、スーダンのナパタ、シャバのルブンバシやマノノ、リカシ、ジンバブエ、セイシェルなどの出身地の名前、あるいは都市名が記されている。このことは、これらの遺跡がBC七世紀からBC五世紀にかけて、日本の『姓氏録』に名をとどめる沙半王(シャバ王)や飛鳥戸(アスハム)の人々によってつくられたことを示している。

第九はオセアニア文明。『契丹古伝』によれば神祖ヨセフはオーストラリアやニュージーランド、イースター島に都市を建設したといわれ、実際にオーストラリアやイ;スター島にはそれらの都市の跡とみられる遺跡があり、日本に伝わる古代文字で記された碑文が残されている。オーストラリア東部のジランバンジやイースター島のラノ・ララクは『契丹古伝』によればキリコエアケが統袷したといわれるが、このキリ⊇エアケはイースター島でウオケと呼ばれ、オーストラリアでウォガウォガと呼ばれる神となっている。また、イースタi島に伝わる文字板のひとつを解読した結果もまたイースター島と日本のつながりをはっきり物語っている。第十はアンデス文明。アンデスの諸王朝は伝説によればステルニとその子孫によって開かれたといわれる。エクアドルとペルーの伝説は、昔カラ族の一団がイカダの大船団を組んで西からやって来たと伝えているが、その指導者ステルニは紀伊半島の古代碑文にもステルニと記された王であったことがわかっている。

大航海時代以前の旧大陸におけるコウチュウの地理的分布図エクアドルの地下都市から出土した石板の文字とその解読結果

『契丹古伝』は神祖ヨセフの時代にエクアドルのエスメラルダスに都が置かれたことを記し、日本神話はスクナヒコナが伊勢から常世の国へ旅立ったことを伝え、『史記』は徐市じよふつ(徐福とも記された人)が数千人の童男、童女を率いて蓬莱ほうらいを目指したと伝えている。その徐市は日本のアイヌ文字で表されたスクナヒコナ゛の各文字を合成してつくられた漢字名であることも高橋が証明している。エクアドルのバルディビア海岸から日本の縄文土器や弥生の家型埴輪が出土していることや、アンデスのティアワナコ、エクアドルのクエンカその他から日本語碑文が見つかっていること、カラ族の子孫が今もブラジルのフルニオ族として日本語によく似たイアテ語を話していることなどから、日本人の祖先が南アメリカで活躍した時代が過去にあったことは確かな事実とみなすことができる。

リポートⅡ

『竹内文献』と古代文字

『竹内文献』は、「神代の万国史」とも称されているように、上古以来のあめのうき伝承、「空飛ぶ円盤」を思わせる天浮舟ふねに乗って地球に降臨した神々やその子孫(日本人の祖先)が地球をかけめぐった黄金時代、その後の「万国土どろの海となる」大異変や大戦争による崩壊と再建を記した一大叙事詩である。『竹内文献』のイザナギ神話にはこう書かれている。上古(紀元前七五〇年頃)第二一代天皇イザナギは、ヒサカタノアメノマハシラ(比刺方天真柱)を巡って皇后イザナミと結婚したあと、天越根中日見日高見国あめのこしねなかつひみひだかみのくに (今の富山湾地方の氷見をふくむ日高見=石神ピツトカムイの国)の栗礼羽くれは赤土大宮で即位した。

皇后のイザナミは、ここで蛭子ひるこの尊みことをはじめとする多くの皇子、皇女たちを産んだ。しかし彼女は火の神を産んだとき産道がひどく焼けただれて、七夜苦しんだ。そこで彼女はこの病気をなおすため、夫のイザナギに別れを告げてイダナ国パミル高原からアフスタン国のヘラサカイトに去って行った。文中のイダナ国パミル高原とは、ナ支那国(中国)の西のはずれにあるパミール高原をさしている。また、アフスタン国のヘラサカイトは、アフスタンを今のアフガニスタンと考えれば、イラン国境に近いヘラートをさしていると思われる。しかし、このあとの文で、アフスタン国にはアフガニスタンのカブールのほかに、ウズベタ共和国の首都タシュケントやボハラなどがあったとされているので、当時のアフスタン国は今のアフガニスタンより広かったことがわかる。

イスラエルの都市ゲラサに通じる王の大路アフスタン国のカブールやボハラ、タシュケントといった町は、いずれもシルクロード沿いの交易拠点で、これらの町にはパレスチナのサマリアやゲラサ、エルサレムなどからやって来たイスラエルの商人たちが数多く住んでいた。そこで、文中のアフスタン国をイスラエル人によって営まれた隊商都市ネットワークと理解すると、この国にあったとされるヘラサカイトは、前八世紀に栄えたイスラエルの都市ゲラサをさしていると考えた方がよい。イザナミがこのゲラサヘ病気をなおしに帰ったのは、おそらく彼女がゲラサかサマリアあたりの出身で、イスラエルの女性だったからではなかろうか。これは後にイザナミが白人の女性であったことが『竹内文献』に書かれていることでも十分うかがえることだ。イザナギは、妻の重い病気が火の神によってもたらされたことを憤り、火の神を剣で突き刺した。このことによって火の神の穢けがれは清められ、皇子は生まれ変わった。その後、イザナギがイザナミのあとを追ってアフスタン国へ行ってみると、皇后はヘラサカイトにおり、元の通り美しくなっていた。

そこでイザナギはヘラサカイトに宮殿を建てて皇后とともに住み、ここでカブイル民王、ガズニ王尊、ファライ王尊を生んだ。

イザナギはこれら三人の皇子を、アフスタン国のタシュケント城、ボハラ城、カブイル城のそれぞれの王に任命すると、彼らを現地に残し、皇后のイザナミと連れだって日本(天国)の都に帰ろうとした。『古事記』と『日本書紀』によれば、イザナミは火神を産んだとき受けた火傷がもとで、黄泉よみの国に去り、イザナギが火神を殺したあと、黄泉の国に行って彼女を連れ戻そうとしたが失敗に終わったことになっている。しかし、イザナミが地下世界から生き返って、イザナギとの間に三皇子をもうけたことは、竹内文献だけでなく『上記うえつふみ』も記している。おそらく記紀の編者は、イザナミと三皇子の出自を隠すために、彼女をヘラサカイトではなく、平坂で死んだことにしてしまったのだろう。ところが、このことを知ったヨモツクニ(泉国)の白人王は、白人女を返すな、イザナギを追い返せとばかり二人を追ってきた。

白人の追手をかわすためにイザナギとイザナミは相談して、逃げ道に桃の実をうず高く積みあげた。白人王と女たちは突然降ってわいたような、おいしい果物の山に、すっかり上機嫌となって、二人に対する追求の手を休めた。そこでイザナギ天皇は、ヤツシ城の白人王に向かって「汝をローマ国王に命ず、ネゴイ山の王城に居るべし」と告げたところ、この白人王は天皇の申し出を喜んで受け入れた。こうして天皇はさきにアフスタンの各地に派遣した皇子たちにそれぞれカフール、ボハラ、タシュケントの王として防衛の任務を忠実に果たすよう訓令を発したあと、イザナミ皇后をともなって日本の都に帰って来たのである。『竹内文献』のこの記事は、皇后のイザナミが「白人女」であったと述べているが、これは、第一六代天皇ウヒチニの娘ミチノク姫の孫に、ヨロボクニヌシ(豫呂母国主)がおり、このヨーロッパ王、すなわち自人王の孫娘がイザナミであったという記事からも裏づけられる。イザナミが日本では白山姫として加賀の自山に祭られ、白い肌の女神を連想させるのは単なる偶然の一致だろうか。彼女がアフスタン国の王妃でありながら、イザナギとともにこの国を脱出したのは、アフスタン国がアッシリヤに滅ぽされたイスラエルをさしているとすれば、当然のことと考えられる。滅亡前にすでにアッシリヤの属国と化していたイスラエルの王妃が、アッシリヤ(またはヒッタイト)の王女の一人で、アーリヤ系の白人女性だったということは、十分に考えられることである。

イザナギがイザナミを黄泉よみの国から連れ出したということは、『竹内文献』の文脈の中では、もっばらヨモツ国と名づけられたヨーロッパ・小アジア(アナトリア高原)イラン高原地域の一画から脱出したことを意味するものとして語られているが、一方、この地域には数多くの地下都市と地下回廊があるので、実際にイザナギはイザナミをアッシリヤ支配下の地下都市のひとつから救出したことが考えられる。

太古の地下都市に君臨したミクトランテクトリ「黄泉の神」

イザナギの時代に活躍したイスラエルの予言者イザヤが、紀元前七五〇年ころ、迫りくる地球の異変を警告して「あなたは岩の問にはいり、ちりの中にかくれて、主の恐るべきみ前とその威光の輝きとを避けよ」(イザヤ書第二章一九節)と勧めたように、当時の人々は洞窟や地下都市に避難していた。イザナギの孫とされるオシホミミま、『宮下文献』によればトヨクミヌ(トヨクモノネ〉の孫で、トヨクミヌがアイヌのポニウネカムイと同一人物であったとすれば、オシホミミはポニウネの孫のポイヤウンペに相当する人物ということになる。ポイヤウンペは、アイヌの叙事詩『ユーカラ』の中で少年時代を洞窟の中で過ごしたと物語られている。ポイヤウンペの父か、あるいは祖父にあたるアイヌラックルは、魔神にさらわれた日の女神(または婚約者)を救い出すため、地下で魔神と戦っており、このことはイザナギが黄泉の国(地下都市)で鬼神たちと戦った話と同じである。

前七五〇年前後の小アジアは、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に物語られたトロイ戦争が終わってまもないころで、トロイから脱出したアエネイアースはローマに落ちつき、ギリシア軍の総帥メネラーオスも、ようやくの思いで故郷にたどりついたといわれる。メネラーオスの妻ヘレネーが、トロイの王子アレタサンドロス(パリス)に誘拐されたという話や、オデュッセウスが冥界の王の住むハデースの地下の館を訪れたという話が、日本に伝わる古い物語とよく似ているのは、日本の伝説に登場するイザナギやイザナミ、アイヌラックルやポイヤウンペが、いずれもこの時代に活躍した人物の記憶に基づくものであることを意味している。『竹内文献』はそのような意味で、この時代の失われた日本の歴史(ひいては世界の歴史)を復元する上で、有力な手がかりを与えてくれる。この時期に活躍した天皇たちの行動範囲は、予想以上にスケールの大きなものであり、当時の世界情勢と不可分にかかわっていたことを教えてくれる。本文では、アッシリヤ王とみられる白入王の追求を逃れたイザナギが、その後、ヤツシ城の白人王をローマ国王に任命したと書かれている。この記事の白人王は、おそらくアッシリヤ王とは別人で、トロイから脱出してローマに着いたアエネイアースをさすように思われる。しかし、それがアエネイアースでなかったとしても、同じ前七五〇年ごろに、ロムルスがローマ市を建設し、ローマ(あるいはエトルリア)初代の王になったと伝えられているので、『竹内文献』の記事はまちがってはいない。

またここに登場するヤツシの城が、ルーマニア北東部のヤーシ郊外からクタテニ遺跡として見つかっていること、ククテニ遺跡から出土した土偶が、シュリーマンによって発見されたトロイ市第二期の廃塘から出土した土偶と同じヴァイオリン形をしていて、ククテニはトロイからの亡命者によって建設されたことをうかがわせること、さらにイタリアの初期エトルリア文化(ヴィッラノーヴア文化)は、このクタテニあたりからドナウ川を湖った入々がアルプスを南下して築きあげたものであることを証明する遺物や記録があること。こうした事柄は、イザナギがヤツシ城の白人王に、ローマを建設するよう命じたという記事と非常によく一致している。アルプスのチロル地方に、東北・北陸地方のナマハゲに似た行事が古くから伝わっていることや、南アルプスのモン・ベゴが、日本の東北地方でベゴと呼ばれている牛の神にちなんだ聖なる山であること、また、『竹内文献』でカムナと呼ばれた文字の名と同じ名称をもつエトルリア系のカムナ族がカモこ力渓谷やピネローロの谷に、日本のアイヌ文字と同じ文字を残していること、カムナ族の文字であるカムナモジを解読した結果、彼らは日本語を話していたとみられること。これらの点を前述の事実と合わせて考えると、イザナギ天皇がトロイ戦争の亡命者にイタリア地方の開発を指示したことは十分に考えられ、ギリシア人やローマ人がイタリアを中心とする南ヨーロッパ地域で勢力をもつ以前は、この地域でも日本語を話す人々が活躍していたことは確かだと思われる。

アイの胸飾り

テーベ王朝最後のファラオ、アイ(国常立くにとこたちの父親の高皇産霊神) たかみむすびのかみが残した胸飾り。天空を司る女神ヌトの頭上と羽の下に刻まれた文字は、これまでエジプト語を記した未解読の象形文字と考えられてきた。が、これらを地球文化研究所の高橋が読み解いた結果、次のような言葉が刻まれていることがわかった。・日経ひふる天日あむひとともに出づるトゥトアンクアムン/永遠に在れ〔頭上〕誓ひ/トウトアンクアムン/御身愛で/死したるのち/あの世でも/朝なタベに祈る[右下〕ここに主//天日奉りて/絵師/イシスの宮の日経る札つくる、〔左下〕文中の「主」とは、高橋によれば、前八〇九年の第一次テーべ戦争で亡くなったツタンカーメン(宮下文献に見える天之田原男神)を手厚く葬ったカラ族出身のファラオ、アイをさすという。

[アシカビキミヌシ]

竹内文献に登場する上古第一代天皇。紀元前一六〇〇年頃在位。中国の歴史書『史記』に記された黄帝と同一人物である。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・上古第一代天皇は宇宙の彼方の天日国から地球に天降り、天元根国(コーカサス山脈/天帝の下界の都)で即位した。・天皇は天元根国に天神人祖一神宮を造った。・また、この神宮の別宮を日球国(飛弾山脈)に造った。・天皇の二十五人の皇子の一人は、天の浮船と呼ばれる宇宙船の建造にあたった。・天皇は万国の地図と文字をつくらせたあと、日本の富士山から天上の星、天日国に神去った。ここに登場する天日国とは、アメンピ(Amenpiのアナグラムから、ヴィマナであることがわかる。

[アメノトコタチ]

竹内文献に登場する上古第一三代天皇。紀元前一〇〇〇年頃在位。中国の歴史書「史記』に見える周の文王と同一人物。テーベの都から世界を治めたエジプトのファラオ、アメンホテップ一世として実在した。竹内文献は、この天皇の四十八人の皇子と皇女が、それぞれ北アメリカと南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、ミヨイ、タミアラに派遣され、国王になったと伝えている。アメノトコタチは、日本の筑波山に仙洞大宮という巨大な地下宇宙基地をつくり、ここから天界に神去った。この天皇の孫の中に、星問宇宙飛行と関わりの深い天日月間星男女尊や長寿守護神がいたと伝えられているのは注目される。竹内文献は、テーベ王朝十一代のファラオのうち、この天皇の治績しか伝えていないが、宮下文献には他の天皇名も記されている。

[アメノヤソヨロズタマ]

竹内文献に登場する上古第九代天皇。東日流外三郡アソベ王ウソリ、記紀の天御中主と同一人物。中国では、紀元前一五〇〇年ころ発生した大洪水を治めて夏王朝を開いた禺として知られ、メソポタミアでは、同じ洪水を生きのびて神々の楽園ティルムンに住んだウトナピシュティム(旧約聖書のノア)として知られている。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・天皇は宇宙船に乗って万国を巡幸した。メソポタミアのニップール(尼波羅国)に天降ったとき、人々は天皇の来訪を記念して、ジッグラト(大黒人山)という階段状のピラミツドをつくった。・万国巡幸の旅から日本に戻った天皇は、息子に位を譲ると恐山に向かい、この地で神去った。恐山霊場の由来はこの時に始まる。おお、見よかの山すそに身を横たえて眠れる大きな蛇をその長さは30オーナ(約56m)幅は8オーナ(約15m)身は水晶のごとく輝き光を放つ金属におおわれているおお、そなたはかの山の蛇の名を知っているかそれはこうだ"炎の中に生きるもの"

[アンデスの黄金板碑文]

イスラエル最後の王ホセア(旧約のイサク/記紀のイザナギ)と、彼の養子になったティルムン王スダース(旧約のヨセフ/記紀のホホデミ)が、紀元前七〇〇年ころ残した碑文.エクアドルの地下都市から出土したといわれる二の碑文の文字は、欧米の学者がインドのブラーフミー文字によく似ていると指摘。故クレスピ神父所蔵の図のような黄金板(52㎝×14㎝×4㎝)を紹介したスイスの作家デニケンは、この碑文の作者を宇宙人とみなした。が、高橋は、これらの文字を、インドのブラーフ、・、1文字の元になった日本の神代文字で読み解いて、次のような結果を得た。・これなる金の板にイサクとヨセフ記す〔一行目〕・ここにわがクルの宝あつめしめ〔二行目〕・のちの世に伝へていしすゑたらしめん〔三行目〕・ヤアヱをわれらのカムイとあがめよ〔四行目〕アンデスの黄金板が、日本の古代文字で書かれ、しかも古代の日本語で意味をなす二とは、紀元前のアンデスの統治者が日本人の祖先のクル族であったことを物語っている。一九三〇年代に南米の地下都市を捜し求めたナチスドイツのSS隊員は、戦後まもなく、日系インデイオのヒバロ族が入口を守るエクアドルの地下都市に侵入し、この黄金板と同じ文字で書かれた何万枚もの金属板を押収したという。「死後に富むを得…」と読める漢字の発明者・蒼頡が残した碑文(西安郊外)

カラ族の地下都市から出土した黄金板碑文

[イザナギ]

竹内文献に登場する上古第二一代天皇。紀元前七二五年頃在位。インドの叙事詩『マハーバーラタ」の中でカウラヴァ(ムー)との戦いに勝利を収めたパーンダヴァ(アトランティス)の英雄ユディシュティラの息子として描かれているパリクシト、すなわち旧約聖書のイサクと同一人物『契丹古伝』に殷叔の名で記され、「日本書紀」に伊弉諾(イサフタク~パリクシト)の漢字名で表記されたイサク(イザナギ)は紀元前八世紀にアッシリヤ(アトランティス)のためにパレスチナを奪われたイスラエル王ホセアとして実在したとみられる。

[イジュンハン碑文]

契丹古伝に日の沈む西の大陸のはてにある斐伊絢倭と記されたアフリカ大陸、マリ共和国のイジュンハンにある碑文(次頁参照)。サハラ砂漠の青い戦士として知られるスーダン系トゥアレグ族の祖先が残したものといわれている。現地でティフィナグ文字と呼ばれているこれらの文字は、これまで解読不能とされてきた。が、ティフィナグ文字と目本の神代文字の類似に注目した地球文化研究所の高橋は、これらの文字の音価を復元。サハラ砂漠の岩山に刻まれた文字は、紀元前七世紀の初めにアフリカで活躍した日本人の祖先、カラ族が残したものであることを突きとめた。木村重信・大阪大学名誉教授が現地で採集してきた百種以上の刻文は、高橋によれば古代アフリカに都市文明を築いていたカラ族が、前七~八世紀の戦争と異変の時代に、東方に向かって脱出し、大移動したことを物語っているという。これらの刻文の中に、スダースやタルハカ、二ニギといった固有名詞が見えることは、イジュンン碑文がエチオピア朝エジプト時代に記されたことを意味している。タッシリの壁画に描かれた古代日本の貴婦人たちは、この時代に、タルハカ(ニニギ)やスダース(ホホデミ)に導かれて、アフリカに侵入したアッシリヤの暴虐から逃がれたのである。

サハラ砂漠のタッシリ高地

アツシリヤ(アトランティス)のアフリカ侵入によって東方へ避難する古代カーリア(ムー)の貴婦人たち

[イースター島文字]

イースター島で発見された謎の文字板コハウ・ロンゴロンゴに書かれている文字。図の文字板には、目本人の祖先の一部をなす古代イスラエルの民=カラ族(旧名カルと呼ばれた首都・サマいアの人々)の一グループが、この島を経て葦原の瑞穂あしはらみずほの国と呼ばれた日本に向かったことが記されている。イースター島はかつて、太平洋を航海するバルサ(筏船)の船団の重要な寄港地で、この島と日本は熊野の諸手船もろたぶねと呼ばれる快速船で結ばれていた。目本の熊野にある列石がイースター島のアフ(モアイの台座)とよく似ていることは、すでに何人かの研究者によって指摘されている。この島の文字板が熊野の諸手船について述べていることは(左の訳文参照)、今も日本で行なわれている諸手船もろたぶね神事の伝統の中に生きており、日本とイースター島との失われたつながりを明らかにするものとして注目される。以下、アタン文字板の訳(部分)を示す。贄ささげたてまつりて降ることなき雨が降らめと水をも飲まずひと時なむも寝ずに夜昼となく海見晴らしし父母ちちははたちを讃えまつらく熊野の諸手船の梶をとり我ら神さびつつ廻る…(下略)

エステバンアタンの文字板

[エトルリア文字]

ローマ帝国の成立以前に口ーマ市を建国したエトルリア人。彼らの残した工トルリア文字は、いまだに解読されていない重要な文字のひとつである。図の迷宮に描かれた記号は日本の古代文字で、「カムサリヌ」(神去りぬ)と読める。エトルリアの人々は彼らの伝説に従えば、紀元前八世紀のトロイ戦争において、炎のトロイを脱出した英雄アエネイアスの率いるトロイ派の将兵がローマに移り住んだことに始まるといわれている。小アジアからブルガリア、オーストリア、チロルの谷を通ってイタリア半島に南下したとみられる彼らは、その途中にもチロルの谷にカムナ文字と呼ばれる、これまた日本の神代文字と関わりの深い文字群を残している。『竹内文献』は、この時代にイザナギの部下の将軍がトロイから口iマヘ移り、今日の口ーマ市を建国したと伝えている。したがってこの地域にエトルリア人が日本の古代文字を用いていくつかの記録を残したことは十分に考えられる。

古代工トルリアの壁画

オオトノチ

竹内文献に登場する上古第十八代天皇。紀元前七五〇年頃在位。インドの叙事詩『マハーバーラタ」の中でドリタラーシュトラの息子ドゥリヨーダナと戦ったパーンドゥの五人の息子の一人として描かれているユディシュティラと同一人物。日本のアイヌに伝わる叙事詩『ユーカラ』にも、ポイヤウンペ(オモタルヒコ)と戦った英雄、カムイオトプシとして描かれている。竹内文献によれば、この天皇の時代に地球はまたもや大異変に見舞われ、天皇は恐山から天界に避難して再び地球に戻ったという。オオトノチの都は世界各地に造られ、天皇は天の浮船と呼ばれる空艇に乗って万国を巡幸したともいう。その空艇は一日に八OOO里、ないし一万一OOO里飛ぶことができたというから、当時の航空機は、時速一三OOキロ以上のスピードをもった超音速機だったことがわかる。

[オモタルヒコ]

竹内文献に登場する上古第十九代天皇。紀元前七五〇年頃在位。日本のアイヌに伝わる叙事詩「ユーカラ』にポイヤウンペという名の英雄として描かれ、インドに伝わる世界最大の叙事詩『マハーバーラタ』の中でパーンドゥの五人の息子と戦うドリタラーシュトラの息子として描かれたクル族の英雄ドゥリヨーダナと同一人物。宮下文献に国狭槌くにさづち (パーンドゥ)の五人の息子の[人、穂千田ほせんた比古として記されたオモタルヒコは、インドの叙事詩『ラーマヤナ』の中で、バーラタ国王ダシャラタ(ミタンニ王ドゥスラッタ)の五人の息子と王位を争った魔王ラーヴァナとして描かれている。が、これは、のちにインドの歴史を改作したアーリヤ人の虚構であり、オモタルヒコ(ドゥリヨーダナ)は、エジプトからインドに都を移したテーベ王朝最後のファラオ、アイ(高皇産霊神)の孫として、また、国狭槌の妻の白清竜プリター)と国常立(ドリタラーシュトラ)との問に生まれた悲劇の子として、ハスティナープラ(ホセンタ)の都に君臨した。『新撰姓氏録』にその名も天日鷲翔矢命として登場するオモタルヒコは、ギリシャの詩人ホメロスが残した二つの大叙事詩、『イーリアス』と『オデュッセイア』の中でも、輝きわたる太陽のごとき英雄、卜ロイのアレクサンドロスとして物語られている。

[岐山きざん文字]

中国西安郊外、岐山県の十六羅漢碑に刻まれた図のような文字群。これらの文字を研究した地球文化研究所では、この碑文に使われた文字が古代サハラ砂漠で使用されたティフィナグ文字であることをつきとめて、次のように解読している。栄え賜はらなむヘブルの瑠璃富むカムイに祈りを捧げなむ右の解読結果によると、中国でもBC七〇〇年頃サハラで使われた文字が残されていることがわかる。と同時に、この碑文は古代地中海世界で活躍したヘブル人(カラ族)が東方の地、中国大陸にも足跡を残したことを物語っている。

[キンバレー文字]オーストラリア北部のキンバレー山脈一帯で発見された文字。これらの文字は日本に伝わるアイヌ文字、トヨクニ文字とのかかわりを示している。その一例は、同山脈の岩壁に描かれていたもので、地球文化研究所によると日本のアイヌ文字で、アルジイサク(主イサク)と読むことができる。この洞窟画に描かれた人物は丸い頭をしており、BC七〇〇年頃、サハラ砂漠の各地に描かれたエチオピア王朝時代の円頭人のモチーフと共通する。左図は、キンバレー山脈を流れるプリンス・リージエント川の谷問の洞窟に描かれた壁画である。左端の人物はアンテナ付きの宇宙ヘルメットをかぶっているように見え、その他の三人も何か現代的な宇宙服を身にまとっているように見える。これらの人物像の上に描かれた五文字は、これまた目本の古代文字で、カムラツク(神ら着く)と読める。すなわち、「神々が到着した」という意味である。この絵から判断すると、彼らは左端に描かれた飛行物体から降り立つ神々を出迎えたかのように見える。それは『契丹古伝』の中に描かれた古代カラ族の王、スサダミコ(ヨセフ)の飛行物体であったかもしれない。

コーカサスの地下都市を探検したアルゴ号の勇士が残したとみられるマイコツプ碑文

 日本の古代文字で記されたタルタリア遺跡出土の粘土板

クニトコタチ

竹内文献に登場する上古第十四代天皇。紀元前八○○年頃在位。目本の『ユーカラ」に国造りの神コタンカラカムイとして描かれ、インドの『マハーバーラタ」にクル族の大王として描かれたバーラタ国王ドリタラーシュトラと同一人物。ギリシャではテュエステースの名で知られている。宮下文献は、この国常立(農立比古)に国狭槌(農佐比古)という弟がいて、二人は故郷を離れたあと東方に新天地を開拓したと伝えている。が、この伝承はテーベ王朝の末期にドリタラーシュトラが弟のパーンドゥとともにエジプトからインドヘ移住し、戦争で荒廃したテーベから父王のアイ(クレオーン/周の厲王胡/高皇産霊神)を迎えたことを物語っている。また、宮下文献では二人の兄弟が仲良く国造りをしたことになっているが、日本とインドの叙事詩は、この大王の時代にクル族が分裂してアトランティス(アッシリヤ/アーリヤ)とムー(エジプト/カーリア)の恐るべき戦争が始まり、地軸が何度も傾く異変が発生したと伝えている。竹内文献によれば、クニトコタチはこの時代に位山くらいやまと槍ケ岳に大宮を造り、その後、天上の星に飛び去ったといわれる。クニトコタチは、大本教の関係者の間で艮うしとら (東北)の金神として崇められ、再び世界を治める天皇として甦ることが予言されている。

クニトコタチの父王アイ

[クレタ象形文字]

ギリシャのクレタ島にあるファエストス宮殿跡から出土した粘土板の文字。地球文化研究所では、図の円板の文字を、次のよう解読している.主あるじうしはくエホバの民主あるじヨセフうしはく民発たつはセト神かしこむ父の民エロハ民----〔略〕越すは神民……〔略〕タルハカうしはく民------上の解読結果によれば、古代のクレタ島にいた日本人の祖先は、前六八七年の里ハ変前に、ヨセフ(スサダミコ)に率いられて島を脱出したことがわかる。

クレタ島出土のファエストス円盤

[クレタ線文字A]

紀元前八世紀に日本人の祖先、カラ族(力ーリア人)の航海者がクレタ島にいたことを示す文字。地球文化研究所では、ハギア・トリアダ宮殿跡から出土した図の粘土板の文字を次のように解読した桶か盥三十風呂三蓋も三 櫂九 酒十三櫓の柱連縄一〇亜麻布十三 盥四五 船五戸板といたも四擢六 酒十四〔当時の注文書の一部〕

線文字Aを刻んだクレタ島出土の粘土板

タカミムスビ

竹内文献に登場する上古第一O代天皇。東日流外三郡誌に見えるアソベ王朝第二代のタミアレ(多弥生)と同一人物。中国では、夏王朝第二代の夏后啓として知られ、メソポタミアでは、ウトナピシュティム(禺/ウソリ/天御中主)の息子ギルガメシュとして知られている。宮下文献のタカミムスビ(エジプト王アイ)とは別人物。竹内文献は、この天皇の時代に次のようなことがあったと伝えている。・天皇は北アルプスに巨大な地下都市(大宮仙洞)を造り、不老長寿の薬を飲んで長生きした。・また、ミヨイ島やタミアラ島(太平洋の古大陸)を視察したあと、檀君国(ウラル山脈一帯)を訪問し、諸王を任命した。シュメール伝説の英雄ギルガメシュはクラブに都を定めたが、その都は富山市郊外の呉羽にもあったといわれる。

アッシリヤのコルサバード宮殿から出土した太古日本の王ギルガメシュ像

竹内文献茨城県北茨城市磯原にある皇祖皇太神宮の神官、竹内家に代々伝わる古文書。今から約二OOO年前、大陸文化の侵入によって古代日本の歴史が失われるの睦恐れた武烈天皇武内宿すく彌の孫にあたる平群真鳥を富山の皇祖皇太神宮に派遣し、そこに伝わる神代文字の記録を漢字仮名混じり文に改めて残したものが原型になったといわれる。この書物には、太古日本の天皇が宇宙の彼方の天日国より飛来して地球全土を治めたことや、この地球がたび重なる天変地異によって荒廃したこと、それにもかかわらず日本人の祖先が天の浮船に乗って天界と地上を往来し、異変で滅びた文明の再建に全力をつくしたことが物語られている。これまでの研究者は、竹内文献のスケールがあまりにも壮大であるため、酒井勝軍のピラミッド調査をのぞけば、見るべき成果を挙げていない。がこの書物に収められた一00種以上の神代文字を、高橋が遺物に即して具体的に調査した結果、竹内文献に記された内容は基本的に真実の歴史を扱っているという。このことは『山海経』や『史記』その他の文献、あるいは言語学、考古学、民族学、神話学、遺伝子分析などの最新成果によっても裏づけられる。古史古伝の中で最も異端の書とみられている竹内文献がこれから日本と世界の歴史を大きく書き変える日もそう遠くはないとみられる。

テーべ王朝

紀元前十一世紀から前九世紀にかけて、ナイル河中流域のテーべを首都として栄えたエジプトの世界王朝。地球文化研究所の調査によれば、日本の『宮下文献』に登場するアメノトコタチ(天常立)以下の十一代の天皇は、エジプト・テーべ王朝(第一八王朝)の十一代のファラオとして、現実の歴史の中で実在したことが判明している(次頁の王名対応表を参照)。 <!--[if !vml]--><!--[endif]-->卜トメス3世ハトシェプスト女王第一代天常立比古神アメンホテップ一世別名ジムヌ神農比古神第二代天之御柱立神卜トメス一世第三代天之木合比女神パトシェプスト女王第四代天之草奈男神トトメス三世第五代天之土奈男神アメンホテップ二世第六代天之火明男神卜トメス四世第七代天之水男神アメンホテップ三世(ニンムリァ)第八代-天之金山男神アメンホテップ四世(イクエンアテン)別名ナフリア農谷比古神第九代天之火山男神スメンカラー第十代天之田原男神トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)第十一代高皇産霊神アイ(クレオーン)

[トヨクモノネ]

竹内文献に登場する上古第十五代天皇。紀元前七七五年頃在位。日本の「ユーカラ』にコタンカラカムイの子ポニウネカムイとして描かれ、「マパーバーラタ』に大王ドリタラーシュトラの太子として描かれたヴイカルナ(宮下文献の阿和路比古)と同一人物。この天皇はチベットのカイラス山にある仙洞(シャンバラ)と呼ばれた地下都市に住み、銀河系最大の宇宙船プシュパカ・ヴィマナをもっていた。のちにインドの財宝神クベーラ、クンビールとして知られ、目本でも金比羅様として祀られるようになったトヨクモノネは、シバ神のモデルとなったオモタルヒコの異母兄であり、チペットではシャンバラの王サナート・クマラの名で、日本では鞍馬山の魔王尊の名で今も崇められている。竹内文献は、二の天皇の時代に、富山の呉羽丘陵に五福城と呼ばれる大宮が造られ、トヨノ文字(別称イヅモ文字)が使われるようになったと伝えている。

[ペドラ・ピンタダ文字]

ブラジル北部の巨大な宇宙卵遺跡として知られるペドラ・ピンタダの岩壁に刻まれた図1のような文字。地球文化研究所ではこれらを、次のように解読している。ヨセフとイサクに船を降せる神を見よイサクヨセフとともに手厚く守れ図の下部に描かれた卍形の奇妙な図形は、古代カラ文明の飛行艇として知られるヴィマナの推進力、構造を表したものとみなすことができる。しかも、文中にヨセフおよびイサクという名前が登場するところから、イサクの別名、古代イスラエル最後の王ホセアの時代(BC八世紀末)にこのペドラ・ピンタダ碑文が残されたものと考えることができる。ペドラ・ピンタダ遺跡に刻まれた別の碑文(図2)はまた、次のような解読結果が得られている。ステルニの父なるカムイを祭らむナイムラブの母から力を給はらむ右の解読結果にもとづけば、図2のペドラ・ピンタダ碑文の年代は、BC二〇〇年ころとみなされる。

ペドラ・ピンタダの宇宙卵巨石  図1図2

 

私たちはただ眠るためにわずかに夢を見るために来たのだろうか

いや、ちがう、そんなはずはない

私たちが地上でただ空しく生きてゆくために来たなんて!

けれども私の心に何ができよう

空しく地上で生きてゆくために私たちが来たのだとしたら……

どこにあるのか、私のほんとうの故郷は…:

アステカ・インディアンの歌

プレアデス+地球をひらく鍵~第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて(2)

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第2章 生きた図書館をふたたび夢にみて

◎ 図書館という概念があなたのなかに浸透してくれにつれて、あなたは感情がいかに大切なものであるか、そして、そこに貯蔵されている膨大な知識を開く鍵はあなたであることを理解しはじめるでしょう。

 

あなた方の12のチャクラはいわばエネルギーのポケットで、さまざまな出来事がここを通って出現できます。

チャクラは記憶と自己存在の認識を保持していて、それぞれがDNAの束とつながっています。

7つの主要なチャクラはあなた方の身体のなかにあり、脊髄の基底部に始まって上にあがっていきます。

あなたの身体の外に5つあって、全部で12の渦のセンターになっています。

私たちはそれを12の太陽と呼んだりしています。

酸素と光の意識的な意図によってこれらのセンターは活性化され、いったんスイッチがオンの状態になれば、あなたにとっての課題は、チャクラを通して入ってくるデーターの全てをどうやってDNAの束に翻訳するかということになります。

 

あなたの身体の内部のチャクラは身体の記憶を解放することができます。

その記憶とは、この人生における肉体の体験だけではなく、これまでの輪廻の旅の体験もふくんだものです。

第一番目のチャクラとはあなたのことにかかわっています。

それはあなたを解放して亜あんた自身のなかに入っていく旅に向かわせ、あなたの核心的な信念の基盤に向かう旅に道微意いてくれます。

2番目のチャクラは創造性とセクシュアリティに関係しています。

それは創造性とセクシュアリティの領域におけるあなたの体験や信念の記憶を開いてくれます。

最初の2つのチャクラはDNAの2ツの束に呼応し、あなたが従来もっている知識と呼応しています。

自己存在、生存、セクシュアリティにかかわる問題は何千年ものあいだ、あなた方にとって難問でありつづけてきました。

 

3番目のチャクラはいわゆる太陽神経叢で内臓と関係しています。

3番目のチャクラが開いていると、感情と直感によって人生を生きてゆくことが容易になります。

女性においては、月経による出血と出産の体験があるために、この領域は男性よりも活動的であることが多く、非常に尊重されています。

あなたの意思、力、感情はここに根ざしています。

4番目のチャクラはあなたの心臓と一致しています。

このチャクラが開いていると、あなたはすべての生命体とつながります。

共感の思いがこのセンターから流れ出て、あなたが知覚することがなぜおきているのかを理解できるようにしてくれます。

深い共感の思いの流れによって、あなたは価値判断を超越することができます。

価値判断はあなた方を分断させるための罠にほかなりません。

5番目のチャクラはあなたののどにあり、言葉による表現というすばらしい贈り物を提供してくれるもので、これによってあなたは真実を語ることができます。

6番目のチャクラはあなたの第3の目〔額の中央部、眉間)を活性化し、3次元の限界の向こうを見る能力を刺激します。

7番目のチャクラは頭の頂に位置しています。

このチャクラが開いていると、霊的なエネルギーを循環させ、頭蓋骨の部分に接続してくれます。

このチャクラがいったん刺激を受ければ、松果体と脳下垂体、そして視床下部も、あなたを霊的なエネルギーと接触するうえで活発な役目を果たすようになります。

 

8番目のチャクラはあなたの肉体のきわめて近いところに位置しています。

頭上10cmから1mのところにあります。

このチャクラはあなたの身体の外の、目に見えない領域と関係しています。

9番目のチャクラは地球の大気圏の外側に位置しており、おそらくは月のあたりまでのびていて、地球の番人および監視者としてあなたと接続しています。

10番目のチャクラは太陽系にまでのびていて、そこにあるすべてのものにアクセスさせてくれます。

11番目のチャクラは銀河系のチャクラで、銀河系の外側にまでのびていて、銀河系における星の影響力についての情報を提供してくれます。

12番目のチャクラはあなた方銀河系の外側にまでのびていて、あなた方の宇宙全体の情報にアクセスさせてくれます。

一般的にいえば、現在の時点ではあなた方の肉体はそれに対処できるだけの進化をしていないため、あなた方の宇宙の外側の情報にはアクセスすることはできません。

いつかそこで進化することになるかもしれません。

しかし、いまはこの地球で意識の進化をとげることに同意したのです。

ひとつのラジオ局になって、だれもが扱える周波数で放送することに同意したのです。

 

これらの12のエネルギーのセンターは体内からアクセスしなければなりません。

体内においては、データがチャクラと呼応しているのを感じることができ、その体験をあなたの頭脳の文脈のなかで解釈することができるのです。

これこそあなたです。

多次元の存在へと進化をとげ、たくさんいるあなた自身のうち現在のあなたがだれであるかを思いだしているあなた、銀河系、いや、そのずっと向こうまで続いているあなたなのです。

 

あなた方は輪廻転生を通じて進化し、数多くのヴァージョンがある魂をもっていると教えられてきました。

これは全体のごく小さな一部にすぎません。

あなた方は人間というかたちで輪廻転生する自分を理解しています。

しかしながら、あなたという存在は人間であるだけではありません。

さまざまなかたちで、さまざまな大きさで、さまざまなものに変装して、すべてのものは全体の一部であることを示すために存在しているのです。

 

あなた方は現在人間なので、ここ数千年のあいだは、魂の肉体化が常に人間になってあらわれる輪廻の周期で進化してきたと信じるのが1番安全なやり方でした。

しかし、人間であるという部分は生命のほんのひとつの表現であって、あなたという本来の存在の一側面にすぎないのです。

あなた方は数多くの場所で、半分人間、半分動物というかたちで存在しているのです。

現在進行しつつあるドラマの一部は、数多くの次元がこの惑星で融合しようとするときに、あなたの他のヴァージョンがみずからの進化を求めていることと関係があります。

多次元に存在するあなたの自我の出会いが起ころうとしているのです。

あなたが通過儀礼としてヤラなければならないことは、自我のすべてを統合することです。

 

創造主はあなた方の惑星に存在するすべての生物の結合体と考えることもできます。

創造主は昆虫の家族、動物の家族、そしてこの地球という局面に存在するすべての意識存在の家族によって表現されているのです。

あなた方を創造したこれらの存在の多くは、人間と動物を組み合わせたかたちをしています。

この惑星が形成されたとき、さまざまな聡明な種の富がプールされ、生きた図書館に配分され、すべての石、植物、動物、昆虫、その他の生き物のなかに貯蔵されたのです。

すべてのものは生きていて意識があるので、生きた図書館は一粒の砂にも、炭のかけらにも見いだされるのです。

 

地球の番人である人間は、図書館のカードのようなものです。

図書館という概念があなた方のなかに染みこんでくるにつれて、感情の重要性と、そしてあなたがここに貯蔵されている膨大な知識の鍵であるということがわかるようになるでしょう。

やがてあなたは徐々にこれを発見することでしょう。

 

あなた方とであることを望んでいるさまざまなエネルギーは、この図書館の人間以外の形態と融合します。

ですから、動物の家族が自分自身の目を他のエネルギー体に貸してやり、観察させ、情報を収集させてやるということは十分ありうることです。

生きた図書館への鍵はあなた方自身なのです。

というのは、あなた方はこの図書館を開け、アクセスすることができる存在だからです。

しかし、他の存在が、樹木やその他の植物になってあなた方の現実をのぞき見て、あなた方の現実についての理解ができないということではありません。

あなた方が和解して、そもそも人間が誤って設定した境界線を越えて侵入してきた生命体に暴虐を尽くしたりすることを止めれば、あなた方の想像をはるかに超えた壮大な文明との遭遇が可能となるでしょう。

 

この50万年にわたり宇宙のエネルギーの一部が目的としてきたことは、地球のさまざまな文明と接触をはかり、彼らの理解に大きな転換を提供することでした。

これらの文明は目立たないところに隠されました。

面積からすればせまい場所に、だれにも邪魔されないようにそっと配置されました。

地球の所有者たちが、愛を主要な要素とするさまざまな実験(文明は一種の実験です)よりも優勢な勢力を持つようになったとき、これらの文明は破壊され、ちりぢりばらばらにされたのです。

 

あなた方の惑星を所有し、自由に操作していると思っていた存在たちは、権力に夢中になっていて、恐怖と混乱の周波数をつくり出すことによって権力にしがみついているのです。

それが彼らのやり方であり、そうすることによって力にもとづいた存在のあり方について学んでいるだけのことです。

何度も繰り返していいますが、すべての存在は根本創造主に他なりません。

あなた方がさまざまな勢力に遭遇するということは、根本創造主が自分自身に出会うということであり、根本創造主が自分自身を理解しようとしている行為なのです。

根本創造主は調和をいかにして達成するかを探求し、同一のエネルギーの相反する力がどのような目的を達成することになるかを発見しようとしているのです。

これを心に銘記しておくと大変役立つでしょう。

すべてのものはひとつであり、自我のさまざまな側面によって方向づけられ選択されていて、すべてのものはみずからを理解し進化させようとする思いの結果である、という概念を常に心にとめておくことができるようになれば、あなた方は観客席ではなく、球場に入って野球を楽しむことができるでしょう。

私たちは、あなた方がみな野球場に飛び出し、貴重なプレーヤーとして人生というゲームを楽しむことを願っています。

 

地球が宇宙の計画のなかで、現在よりもずっと壮大な役割を果たすためには、生きた図書館としてみずからを活性化することが必要になってきました。

この活性化はまずあなた自身から始まります。

あなた自身が活性化され、それから、あなたがその周波数を地球全体に広めていくのです。

20年以内(1995年時点)にいくつかの大きな変化がおきることになるでしょう。

 

生きた図書館は歴史的な記録を保持しているだけではありません。

いかなるものも創造できる、知識のすべてが貯蔵されている図書館なのです。

地球上の生命体には、発達可能なあらゆる種類のための公式や青写真が貯蔵されています。

宇宙のさまざまな場所に位置する他の図書館には、あなた方には認識することもできないような光や分子のかたちで知識が貯蔵されています。

創造神たちはそれぞれのセンターに独特な知識蓄積の方法をデザインしました。

その意図は、それぞれの図書館の本来の機能を守り、それぞれが独自のやり方で生き生きと機能することができるようにすることにありました。

未来の時点からこれを見ると、これらの図書館が失われてしまったのです。

これらの図書館を発見し、ふたたび開館する必要があります。

いまこそそれをするべきときです。

理想をいうならば、12の図書館のそれぞれが協力しあって、意識の大きな転換を包含する電磁波をつくり出せれば最善です。

12の図書館が協力すれば、すべての存在がまったく新しいかたちで調和のとれた状態を達成するための機会をつくりだすことができるでしょう。

 

これを想像してみてください。

あなた方がその一部である12の図書館のすべてが、100%の力を発揮するまでに活性化されれば、それは宇宙にひとつの巨大な道具をつくり出すことになり、意識をもったエネルギーの光線によってみずからを結合することができるでしょう。

この道具は、時間の回廊のたどるコースを変更し、未来の宇宙が開始された場所からその宇宙の存在そのものを消し去ることによって何も破壊せず未来の宇宙を完全に変えることが可能なのです。

続く・・・

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