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カルナック神殿 ~ユダヤ12部氏族の秘儀そして諏訪の御柱祭の伝承の本源(2)

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転載:http://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF%E7%A5%9E%E6%AE%BF

東西軸の構成

主な神殿が東西軸上に配置され、埠頭(現在は干上がりナイル川から数百メートルある)を経由して入場する。

ナイル川埠頭(カルト・テラス) - Nile Quay (Cult Terrace)

現代の入口は、古代のカルト・テラス(またはトリビューン、tribune)の末端にあたり、その結果としてほとんどの訪問者がこの重要な特徴を見逃している。テラスに刻み込まれた(多くは現在侵食されて消えているが)総称してナイル・レベル・テキスト (Nile Level Texts) として知られるものは、第3中間期(紀元前1069-747年頃[6])の歴代の王のための浸水計測器である。カルト・テラスは、多くの場合、桟橋や埠頭であると誤解されているが、他の例として、例えばデイル・エル=メディーナ (Deir el-Medina, Deir al-Madinah) にあるハトホル神殿のものは、水に接しておらず、それは崇拝像の表現のために造られていた。

 

スフィンクス参道の1つ

スフィンクス参道

埠頭より第1塔門に通じる[29]。当初、埠頭は第2塔門への入口にスフィンクス参道を通してつながっていたが、第1塔門が構築されたときに、それらの雄羊の頭をもつスフィンクスは前庭の両脇に移された。

第1塔門 - First Pylon

現在のこの塔門の建設は第30王朝に始まるが、すべては完成しなかった[1]。塔門の幅は113メートルで高さ43メートル[5]、厚さは15メートル。塔門の内(東[2])側に積み重ねられた多くの泥煉瓦があり[1]、それらは塔門がどのように構築されたかについての手掛かりを示している。

前庭(第1中庭、大中庭) - Great Forecourt

第22王朝(紀元前945-715年頃[6])における元の第1塔門および前庭の建築物は、いくつかのより古い建造物を取り込んでおり、それから元来のスフィンクス参道が移されたことが分かる[30]。第2塔門前の左側には、神官(第21王朝アメン大司祭[31])ピネジェムの像が立つ[5]。この巨像の足元にはラムセス2世の王女の彫像が見られ、元来、第19王朝のラムセス2世のものであったが、後のピネジェムが自身の名前を刻んだ[32]

 

ラムセス3世神殿、正面入口

ラムセス3世神殿 - Ramesses III Temple

前庭の南側に、ラムセス3世によって建造された小神殿がある[30]。神殿内部の碑文には、アメン=ラーに見られながら、王が捕虜を虐殺するのを示している。

 

第2塔門(西側より)

第2塔門 - Second Pylon

この塔門は、ホルエムヘブ(紀元前1323-1295年頃[6])の統治末期に着工され、一部に装飾が施された。ホルエムヘブは、塔門の内部を彼の以前にあった記念建造物であるツタンカーメン(トゥトアンクアメン、紀元前1336-1327年頃[6])やアイ(紀元前1327-1323年頃[6])の神殿に加え、特にアメンホテプ4世(アクエンアテン、紀元前1352-1336年頃[6])の記念建造物から砂岩ブロック(タラタート(英語版))を解体し再利用した数千のブロックで埋め尽くした[33]

ラムセス1世 (紀元前1295-1294年頃[6])は、塔門にあるホルエムヘブのレリーフや碑文を侵害し、それらに彼自身のものを加えた。これらはその後ラムセス2世により奪われた。塔門の東(背)面は、セティ1世のもとで新たに築かれた大列柱室の西壁になり、彼がその列柱室を構築するとき、そこに彼の父ラムセス1世の肖像を消さなければならないことの埋め合わせとして、亡きラムセス1世を讃えるいくつかの肖像が加えられた。第2塔門の最上部は末期王朝に崩壊し、その後プトレマイオス朝時代に修復された。

大列柱室 - Great Hypostyle Hall

幅102メートル、奥行き53メートルにおよび[34]、5,406平方メートル[35](0.5ヘクタール余)となる大列柱室の区域には[4]、16列に配置された134本の巨大な円柱がある。これらの円柱のうちの122本は高さ約15メートルの未開花式パピルス柱であり、また中央の12本は開花式パピルス柱で[34]、高さが21メートルあって[33]、直径は3メートル以上ある。

 中央: 前庭、右: 大列柱室(19世紀)

ここはセティ1世によって装飾が始められ、ラムセス2世により完成した[36]。列柱室の北側は隆起した浮き彫りで装飾されており、セティ1世の取り組んだものであった。彼は死ぬ直前に列柱室の南側の装飾を始めたが、この部分はほとんど息子であるラムセス2世によって完成した。ラムセスの装飾は当初浮き彫りであったがすぐに沈み彫りへと変更し、その後の列柱室の南側にある彼の浮き彫り装飾は、そこにあるセティのわずかなレリーフに加わり、沈み彫りに切り替わった。彼は隆起した浮き彫りとして北翼棟にセティ1世のレリーフを残した。ラムセスはまた列柱室の他の場所において父のレリーフのほとんどを尊重しながらも、列柱室の東西の主軸沿いおよび南北の列柱通路の北側部分に沿ってセティの名を彼自らのものに変更した。

外壁には、北にセティ1世、南にラムセス2世の戦いの場面が描かれている[37]。これらの場面は実際の戦闘を示さないとも考えられるが、同じような儀式の目的であった可能性がある。ラムセス2世の南壁に隣接して、彼の治世21年にヒッタイトと調印した平和条約の文が含まれる別の壁がある。

 大列柱室と第3塔門

第3塔門 - Third Pylon

ハトホル列柱室の壁を通り抜けると、ほとんど崩壊した横軸の部屋が、再建されたアメンホテプ3世 (紀元前1390-1352年頃[6])の第3塔門に平行してある。かなり崩壊しているが、古代において非常に壮麗なものであり、その部分はファラオのアメンホテプ3世によって黄金で一様に覆われていた。前庭はファラオの治世後期に加えられ、次いで新しいファラオが神アメン=ラーの崇拝を拒んだ宗教革命によって計画が放棄される前に、アメンホテプ4世により未完成であった勝利の場面が部分的に装飾された。

第3塔門を建設する際、アメンホテプは、自分が統治する以前に建てられた小さな門など、多くのより古い記念建造物を解体した[38]。彼はこれら記念建造物からの何百ものブロックで塔門内部を満たすよう埋め込んだ。これらは20世紀前半にエジプト学者によって修復され、現在、カルナックの野外博物館にあるセンウセルト1世の白い祠堂[39] (White Chapel) や女王ハトシェプストの赤い祠堂 (Chapelle Rouge) を含む、いくつかの失われた記念建造物の修復に結びついた[33]

塔門のレリーフは、その後さらに自身の肖像を挿入したツタンカーメンにより修復された。これらは次いで後のホルエムヘブによって消された。ツタンカーメンの消された肖像は長くアメンホテプ4世のものであろうと考えられ、おそらくアメンホテプ4世とアメンホテプ3世とのあいだの摂政の証拠であろうとされたが、現在、ほとんどの学者はこれを否定している[40]

 

トトメス1世とハトシェプストのオベリスク

 

ハトシェプストのオベリスク先端部

オベリスク

狭い広間には、赤色花崗岩を加工した2基の大型オベリスクがあり[25]、第3塔門と第4塔門の間に立つ1基はトトメス1世にさかのぼるもので[41]、高さ19.5メートル[17]、重さは約150トンとされる。ちょうどこの先の第4塔門と第5塔門の間にある女王ハトシェプストのオベリスクは[41]、高さ29.56メートル[17]、重さは323トンである[24]。後の王は、この地上からの眺めを遮り、その周囲に壁を築いた。ハトシェプストのもう1つの折れたオベリスクは、聖池の近くに置かれ[41]、その先端部には腰掛けた神アメンの前に座るハトシェプストの描画がある[29]

第4塔門 - Forth Pylon

第4塔門および第5塔門は、トトメス1世により築かれた[36]。トトメス1世は、第4塔門と第5塔門を結ぶ周壁を建造し、それは今もなおその場に立っている神殿の最も古い部分より構成される。

第6塔門

第6塔門はトトメス3世によって築かれ、王が彼の貢ぎ物を記録した広間へとつながる。塔門はさらにアメンホテプ4世により破壊された後、ツタンカーメンによって修復されたアメン神のいくつかの彫像が含まれる。これらの彫像画は、その後またツタンカーメンの修復した碑文を奪ったホルエムヘブによって再び刻まれた[40]

フィリッポス・アリダイオスの至聖所

その至聖所はフィリッポス・アリダイオスの時代に、それ以前のトトメス3世によって建てられた聖域の場所に構築された。この至聖所には、以前の聖域のブロックが含まれており、より昔の碑文が今もなお見られる。

中王国時代の中庭

3つの出入口の基部が唯一、この中庭の内部構造への入口を示している。

 

トトメス3世祝祭殿

トトメス3世祝祭殿 - Festival Hall of Thutmose III

主神殿複合体の東に建っている。至聖所と祝祭殿の間には広間があり、またここは後に解体される前には、本来の中王国の祠堂および神殿が位置した場所であったと考えられる。

祝祭殿(または Akh-menu 「諸々の記念建造物のうち最も壮麗なもの」[24])はそれ自体、神殿の東西の主軸に対して直角の軸線を持っている。もともとはトトメス3世の祝祭(セド祭(英語版)〈ヘブ=セド、Heb-Sed 「王の祝祭」〉[42])を執り行うために建造され、後に年に1度のオペト祭の一部として使われるようになった。この神殿において、神殿複合体の一部を築いた何人かの以前の王とともにトトメス3世を示すカルナック王名表(英語版)がある[43]。祝祭殿の壁にはトトメス3世の植物園(英語版)のレリーフなどもある[44]

南北軸の構成

 

第7塔門

 

第8塔門

 

第9塔門(2009年)

カシェット(カシェ、「隠し場」)の中庭(第1中庭) - Cachette Court (First Court)

第19王朝メルエンプタハ(紀元前1213-1203年頃[6])は、ルクソール神殿への行進ルートの始まるカシェットの中庭の壁面に、海の民に対する彼の勝利を記念した。

アメンホテプ2世像など900体以上の彫像が、この広い中庭の下に埋められ、20世紀初頭の1903年に発見された[45]。これらはおそらくプトレマイオス朝時代に、再建や建設のため複合体の空き地のうちの1つに埋められた。

第7塔門

トトメス3世により築かれたもので、その中庭の側壁は後のラムセス2世に次ぐ息子メルエンプタハによって建造された[46]

第8塔門 - Eighth Pylon

ハトシェプストにより建造されたもので[47]、第7塔門が通常、一般に入場できる区域の終わりとなる。

第9塔門 - Ninth Pylon

この塔門はホルエムヘブにより構築(あるいは少なくとも完成)された[47]。内部は空洞で、階段を経由して、その最上部に向かうことが認められる。

アメンホテプ2世神殿 - Temple of Amenhotep II(平面図ではIIIとなっている)

アメンホテプ2世セド祭殿[4](または祝祭殿)は、第9塔門と第10塔門の間の中庭の東壁に復元されている[47]

第10塔門 - Tenth Pylon

ここもやはり、ホルエムヘブが主な建築資材としてアメンホテプ4世の神殿より解体されたタラタートを使用して、この最後の塔門を構築した[47]。ホルエムヘブの名のもと、裏側の通路の周りに4つの記録がある。

以下に続く・・・


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