2017年2月17日
Ray:まだ十分な検証をしていませんが、真理を伝承した形跡があらゆるところに見られます。特にアメン大神殿の三柱神(アメン、ムト、コンス)は “シリウスのティアランからの励ましのメッセージ”の“内緒で地球に紛れ込んだ宇宙連合の科学者数人”ではないかと推測しています。またキリスト教などで儀式の節目で“アメン”と唱えている根拠ではないでしょうか。オベリスク(御柱)や10の塔門が人が真理を得るための登竜門であることが、布袋の十牛図や牛に曳かれて善光寺参りなどにもうかがい知れます。壮大な王朝の時代から庶民に権限を移行してくるために約4000年の宗教の時代を経て、今のよき時代を迎えているようです。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルナック神殿
アメン大神殿の大列柱室
遺跡
カルナック神殿平面図 (標記: 英語)
* モンチュの神域 - Precinct of Montu
* アメン=ラーの神域 - Precinct of Amen-Re
* ムトの神域 - Precinct of Mut
カルナック神殿(カルナックしんでん、アラビア語: معبد الكرنك 、英語: Karnak Temple、Temple of Karnak 、またはカルナック神殿複合体、英語: Karnak Temple Complex)は、古代エジプトの神殿複合体であり、カルナク (Karnak 〈[kɑːr.næk][3]〉) とも記される[4]。エジプトの首都カイロからナイル川を南におよそ670キロメートルさかのぼった[5]東岸に位置し[1]、新王国時代(紀元前1550-1069年頃[6])に繁栄した古代の首都テーベ(古名ワセト[7]、現在のルクソールとその近辺)に建てられた[8]。その巨大都市テーベの一部であるカルナック複合体の名は、近隣にあって一部を取り囲む、ルクソールの北およそ3キロメートルにある現代の村、エル=カルナックより名付けられている[9]。西岸には歴代の王が眠る王家の谷や貴族の墓、ハトシェプスト女王葬祭殿などがある。歴代の王が寄進して増改築を重ね拡張された巨大な複合体であり[10]、中心はアメン神(アモン[11]、アムン、アメン=ラー、アムン=ラー[12])に捧げられたアメン大神殿(アメン=ラーの神域)となっている[9]。
概要
アメン大神殿複合体(1914年)
カルナック神殿複合体は、荒廃した神殿、祠堂、塔門(パイロン、Pylon)およびその他の建造物の膨大な構成からなる、1平方キロメートル(100ヘクタール)以上におよぶ広大な古代宗教遺跡である[4]。複合体は泥煉瓦の周壁に囲まれた3つの主要部分からなり[4]、現在のところ、その中で最大のアメン大神殿が唯一、一般に公開されている。ここがほとんどの訪問者が見学する唯一の箇所であるので、カルナック神殿は、アメン大神殿のみにしばしば解される。他の2つの構成要素であるムト(ムゥト[13])の神域やモンチュ(モント、モントゥ[14]、メントゥ[13])の神域は非公開となっている。ムトの神域は非常に古く、地と創造の神に捧げられたが、いまだ復元されていない。また、いくつかの小神殿や聖所が、アメン大神殿やムトの神域に付随してある。
複合体の建造は、中王国時代[4](紀元前2055-1650年頃[6])のセンウセルト1世(英語版)(紀元前1965-1920年頃[6])の統治中には始まり、残存する新王国時代からの建造物のほとんどがプトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年[6])まで継続された。カルナック周辺は古代エジプトにおいてイペト=スゥト(Ipet-sut[4] 「諸々のなかで選り抜きの場所」)であり[9]、アメン神をその頂点とする第18王朝(紀元前1550-1295年頃[6])のテーベ三柱神(英語版)崇拝の中心地であった。
歴史
詳細は「カルナック神殿複合体の歴史」を参照
カルナック複合体の歴史は、大部分がテーベおよび文化におけるその役割の変化の歴史である。宗教的な中心地は、地域とさまざまな時代に変わった統一文化の一般的首都の設立により変化した。都市テーベは、中王国時代の第11王朝(紀元前2055-1985年頃[6])以前に目立った重要性があったようには見えず、また当地のそれ以前の神殿建築は比較的小さく、その祠堂はテーベの初期の神々である地母神ムトやモンチュに捧げられていた。その初期の建造物は侵略者により破壊された。神殿域で発見された最古の遺物は、第11王朝による小さな八面神殿であり、アメンについて記されている。アメンは長くテーベ地方の守護神であった。アメンは雄羊や鵞鳥(がちょう)と同一視された[15]。アメンの名は隠すという動詞の imen に由来し[11]、エジプト語の意味は、「隠されたもの」あるいは「隠された神」である[16]。
アメン大神殿における主な建設工事は、テーベが統一された古代エジプトの首都になった第18王朝のうちに行われた。新しい建設が第19王朝(紀元前1295-1186年頃[6])のセティ1世(紀元前1294-1279年頃[6])やラムセス2世(紀元前1279-1213年頃[6])のもとで着工されたが、列柱室の建設もまた第18王朝の間に始まったとも考えられる。
その王朝のほぼすべてのファラオが神殿域に何かを追加した。ハトシェプスト(紀元前1473-1458年頃[6])は記念物を建造し、またヒクソスの占領中に国外の支配者により破壊されていた古代エジプトの偉大な女神ムトの元来の神域を再構築した。彼女はその時代、神殿入口に立つ世界で最大級の1対のオベリスクを持っていた。その1基は依然としてその場に立つ世界で最も高い、残存する古代オベリスクである[17]。もう1基は2つに折れて倒壊した。その敷地における女王のもう1つの事業としてのカルナックの赤い祠堂 (Chapelle Rouge) は、聖舟(バーク)祠堂として意図され[18]、当初は彼女の2基のオベリスクの間に建っていたとも考えられる。女王はその後ファラオとして彼女の16年目を祝して、さらに2基のオベリスクの建設を命じた。そのオベリスクの1つは建設中に壊れ、その結果、第3のものがそれに置き換えるために構築された。
アスワンにある採石現場には放置されたオベリスクが今も残っている。未完のオベリスクとして知られ、おそらく新王国時代[19]、トトメス3世 (紀元前1479-1425年頃[6])のころのものといわれ[20]、それはオベリスクがどのように切り出されたのかをはっきりと示している[21]。
アメン大神殿の構成において最後の大きな変化は、第1塔門および神域全体を取り囲む大規模な周壁の追加であり、ともに末期王朝時代(紀元前747-332年[6])、第30王朝(紀元前380-343年[6])のネクタネボ1世(紀元前380-362年[6])によって構築された。
西暦323年、コンスタンティヌス1世はキリスト教徒の信仰を認め、また356年にはコンスタンティウス2世が帝国全体にわたって異教の神殿の閉鎖を命じた。カルナックはこの時代、大部分が放棄され、キリスト教会が廃墟のなかに設けられた。このうち最も有名な例は、トトメス3世祝祭殿(英語版)の中央の間の再利用であり、そこには聖人が描かれた装飾やコプト語の碑文が今もなお見られる[22]。
アメン大神殿
ピネジェム1世の巨像
アメン大神殿は、神殿複合体の神域内のうち最大であり、テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)の最高神であるアメンに捧げられている。高さ10.5メートルのピネジェム1世(英語版)の彫像など、いくつかの巨大な像がある。すべての列柱を含め、この神殿のための砂岩は、ナイル川の南上流およそ160キロメートル(100マイル)離れたジェベル・エル=シルシラ (Gebel el-Silsila) から搬送された[23]。さらに高さ約29.5メートル、重さ323トンとなる最大級のオベリスクの1つが立っている[24]。
アメン大神殿平面図 (標記: 英語)
アメン大神殿の第1塔門
アメン大神殿の大列柱室
全体の構成は、およそ東西および南北に延びる2本の軸をもっており、その中心軸となる東西の主軸上は[1]、6つの塔門(パイロン)で仕切られている[8]。神域の周壁は日乾煉瓦で築かれ、厚さ10メートル[25]、一辺の長さは約500-600メートルであり、東西540メートル、南北の西辺600メートル、東辺500メートルとなる[2][13]。中王国時代、第12王朝(紀元前1985-1795年頃[6])のセンウセルト1世から、主として新王国時代、第18王朝のアメンホテプ1世(紀元前1525-1504年頃[6])、トトメス1世(紀元前1504-1492年頃[6])、第19王朝のセティ1世、ラムセス2世など、そしてローマ支配の時代(紀元前30-紀元後395年)にわたって増改築され、歴代の王が増築部分を拡張していった[4]。
第1塔門から東西の中心軸を進むと、第2塔門と第3塔門の間に巨大な列柱室がある。第3塔門から南側に向けて、アメン大神殿の主軸線とほとんど直角にもう1本となる南北軸が、第7塔門から第10塔門にわたって延びており[26]、その軸線はさらに南のムトの神域に向かっている[4]。第7塔門の前となる[26]、2つの軸線の交差する南側には聖池がある[4]。
この副神殿として建設されたルクソール神殿が[26]、南に2キロメートルほど離れた位置にあり[27]、スフィンクスが両側に並ぶスフィンクス参道により通じている[26]。毎年氾濫季(アケト[27])の第2月の11日間(第20王朝 〈紀元前1184-1069年頃[6]〉のラムセス3世〈紀元前1184-1153年頃[6]〉のころには約1か月にわたって続けられるようになった[27])のオペト祭(英語版)において、アメン神は、ムト、コンスの他の三柱の神体とともに聖舟にのせられ[27]、カルナックのアメン大神殿から南のルクソール神殿に運ばれた[26][28]。
以下に続く・・・