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カルナック神殿 ~ユダヤ12部氏族の秘儀そして諏訪の御柱祭の伝承の本源(3)

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 転載:http://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF%E7%A5%9E%E6%AE%BF

他の構造物

複合体内の外側境内には、一般に公開されているその他いくつかの建造物がある。

 

聖池

聖池 - Sacred Lake

第18王朝のトトメス3世が奉献したとされるが[48]、120×77メートルにおよぶ現在の聖池は[49]第25王朝(紀元前747-656年[6])時代に造成されたものであり、11段の階段をもつ[50]。聖池は神殿の儀式を行なう前に、神官たちが自身を清める場所であった[51]

プタハ(プタハとハトホル)神殿 - Temple of Ptah & Hathor

この小神殿は、アメン主神殿の北、神域壁のすぐ内側にある[52]。建物は中王国初期の神殿の場所に、トトメス3世によって建てられた。建造物はその後プトレマイオス朝により拡張された[52]

ラムセス2世神殿 - Temple of Ramesses II

この神殿は、主神殿複合体の東に位置し、東西軸上に置かれている。神殿はラムセス2世の統治中に建設された。

タハルカ神殿 - Temple of Taharka

タハルカ(英語版)の礼拝堂とも呼ばれる神殿は、聖池の北西角に位置し、地下には太陽神が毎夜、地下を旅して、再びスカラベとして復活する描画がある[46]

 

コンス神殿の記念門

コンス神殿 - Khons Temple

アメン大神殿の南西に位置するこの神殿は、ほぼ完全な新王国の神殿の例であり[47]、以前の神殿(建設はハリス・パピルス〈Harris Papyrus〉に言及されているものと見られる)の場所に、ラムセス3世によって建設された。またその後、多くの統治者により装飾されていった[47]

プトレマイオス3世エウエルゲテスの門 - Gateway of Ptolemy III Euergetes

プトレマイオス3世(紀元前246-221年[6])によるこのコンス神殿の記念門は、バブ・エル=アマラの名でも知られ、そこから羊の頭をもつスフィンクス参道がルクソール神殿に向かって延び、またムトの神域にも通じる[53]

オペト神殿 - Opet Temple

プトレマイオス8世(紀元前170-116年[6])によって主に構築された女神オペト(出産を助けるカバの神)の神殿が、コンス神殿に隣接してあり、後にアウグストゥスなど何人かの統治者が装飾を加えた[52]

野外博物館 - Open Air Museum

初期の建造物を再使用したいくつかの塔門がその中核となる。複合体の北西の隅にある野外博物館には、初期の建造物のうちのいくつかが再建されており、それらのうちハトシェプストの赤い祠堂(英語版)(聖舟祠堂[18])や、センウセルト1世の白い祠堂(英語版[39](聖舟安置小堂[54])など注目に値する。

センウセルト1世の「白い祠堂」

ハトシェプストの「赤い祠堂」

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ムトの神域

 

ムトの神域図(19世紀)

アメン大神殿の南に位置するこの神域は、東西250メートル南北の西辺300メートル、東辺400メートルで[13]、およそ10万平方メートル(10ヘクタール)を占め、第18王朝のテーベ三柱神のうちアメン=ラーの妻とされるようになった地母神ムトに捧げられた。ムトはまた月神コンスの母ともされる[55]。その区域は、もともとイシェルウ (Isherw、Isheru〈または Asher〉) として知られていた[56]。イシェルウは、神殿複合体のこの一部分である三日月形の池の名とされた[57]

神域にはムトに関係するいくつかの小神殿があり、またそこには三日月形に造成された独特な聖池をもつ。この神殿は多くの部分が破壊され[58]、他の構造物に使用されていた。アメンホテプ3世が奉献した600体もの黒色花崗岩でできた女神セクメト(セフメト[59])の彫像が[58]、ムト神殿の中庭で発見された。セクメトはムトと同一視されていた[60]。その場所は最も古い部分であろうと考えられる。ここは一般には非公開となっている。

 

ムト神域の女神セクメト

神域はエジプトの統治における第18王朝からギリシア・ローマ時代まで使用、追加あるいは改良された。1世紀には、ムトの神域は使用されることが確実に減り、ムト崇拝が終わると、複合体の役割も終わった。その後の時代において、その神域はずっと放置されていた。今日、その神域は平らにされ、実際に高さ1メートル以上のものはもう何も立っていない。何百もの女神セクメトの彫像がその場所の中央部全面にわたって散在している。

ムト神域の構成

主な構造物には、三日月形の聖池、ラムセス3世の後の神殿、ムト神殿、およびコンス・パ=ケレド神殿がある。さらに、そこには多くのより小さな構造物や祠堂だけでなく、ネクタネボ2世(英語版)(紀元前360-343年[6])の神殿、ハトシェプストトトメス3世の聖舟休息所、アメン=カムテフの聖所が周壁のすぐ外側に位置する[4]。カムテフ(Kamutef 「自らの母親の雄牛」)は[61]、ムトのもう1つの姿とされるハトホルの子となる太陽神である。後の神話において、カムテフはムトの相手役となり、夫ともされている。

正面入口から羊の頭をもつスフィンクスの参道が北におよそ400メートル延びており、アメン大神殿の第10塔門へと直接つながる。この参道は修復中である。また、入口から始まるもう1つのスフィンクス参道は250メートル西において、アメン大神殿のプトレマイオス3世エウエルゲテスの門とルクソール神殿を結ぶ延長3キロメートルのスフィンクス参道に達し合流する。

モンチュの神域

 

モンチュの神域

複合体のこの部分は、テーベの軍神モンチュに捧げられている[13]。神域はアメン大神殿の北に位置し、規模はかなり小さく[58]、その神域は150メートル四方であり[13]、およそ2万平方メートル(2ヘクタール)におよぶ。ほとんどの記念建造物は、あまりよく保存されていない[13]。一般には非公開である。

モンチュ神域の構成

モンチュの神域の主な構造物は、モンチュ神殿、ハルパラー神殿、マアト神殿、聖池、プトレマイオス3世エウエルゲテスプトレマイオス4世フィロパトル(紀元前221-205年[6])による記念門で[58]、それらはアメン大神殿内より容易に見られる最も目につく建造物である。この記念門は、バブ・エル=アブド (Bab el'Adb) とも呼ばれている[58]。この大きな記念碑的扉口は、都市のさらに北にあるメダムード(英語版)(古名マドゥ、カルナック神殿の北東5キロメートル[62])のモンチュの領域につながる通路に至る羨道 (dromos) および埠頭に先だって置かれていた。この門を抜けると、一方は第25王朝時代より始まる列柱で装飾された大きな中庭に至る。南には一連の扉口が、アメン大神殿の北側の部分に隣接したアメン神崇拝 (Divine Adoratrice of Amun) の保管庫の連なる構内に開かれていた。構内は泥煉瓦で築かれ、第30王朝のネクタネボにより修復された。

モンチュ神殿 - Temple of Montu

この神殿は、塔門、中庭、それに柱で満たされた室内をもつエジプト神殿の伝統的要素より構成されていた。神殿遺跡は、中王国時代の第11王朝[54]より続く聖域を建て直し、それをアメンに捧げた第18王朝のアメンホテプ3世の統治時代にさかのぼる。ラムセス2世が、前庭とそこに直立した2基のオベリスクを加えたことで、神殿の規模は増大した。構台をもつ広い中庭は、アメンホテプ1世治世の建造物の特徴である中庭に広がる多柱式建築に面している。至聖所の構成としては、礼拝の多様な保管室の役目を果たす4本の柱をもつ部屋と、神による神殿の前には聖舟の部屋が面するように造られていた。近隣のメダムードには、もう1つのモンチュ神殿(英語版)があった。

マアト神殿 - Temple of Ma'at

マアトの神殿は、第20王朝末期にラムセス9世(英語版)(紀元前1126-1108年[6])のもと、王家の墓の盗掘が裁かれたその中庭が広く知られる。

ハルパラー神殿 - Temple of Harpre

ハルパラー神殿は、エジプト第29王朝(英語版)(紀元前399-380年[6])のハコル(紀元前393-380年[6])のもとで大部分が構築された。

アメンホテプ4世の神殿

この地域にあったアメンホテプ4世(アクエンアテン)が建造した神殿(アテン神殿[13])は、中心的複合体であるアメン大神殿の東、周壁の外側に位置していた[63]。その神殿は、アメンホテプ4世の統治前にエジプトを支配していた有力な神官を圧倒しようとした建造者アメンホテプの死後、直ちに破壊された。それはまさしく徹底的に取り壊されており、その完全な範囲や構成は現在のところ明らかでない。アメンホテプ4世が死ぬとすぐに神殿の神官は彼らの強権の地位に復帰し、数ある彼の存在の記録を破壊することに尽力した。

アメンホテプ4世の神殿にある構造物は、エジプトのファラオであるアクエンアテンが、まだ自身をアメンホテプ4世と称していた治世の初めの4年間にかけて用いられたが、それらはアメンホテプ3世の統治末期に構築されて、彼の息子である将来のアクエンアテンによって完成されたとも考えられる[64]

位置・構成

アメン大神殿の境界の外側、東に構築され、その複合体の主神殿はゲム・パ・アテン[63] (Gm–p3–itn) と名付けられ、それは「太陽円盤は神アテンの地で見つかる」を意味する。その他には、フゥト・ベンベン[63] (Hwt–bnbn) 「ベンベン石の館[65]」、ルゥド・メヌ[63] (Rwd–mnw–n–itn–r–nḥḥ) 「永遠に頑丈な太陽円盤記念物」、テニ・メヌ[63] (Tni–mnw–n–itn–r–nḥḥ) 「永遠に高貴な太陽円盤記念物」と名付けられたものがある。

これらの建造物の遺構はほとんど残っておらず、それらはタラタート・ブロックを用いて手早く築かれ、そのため簡単に取り壊されて、後の構造物の核として再利用された。

 

ゲム・パ・アテンより復元されたタラタート

ゲム・パ・アテン - Gempaaten

ゲム・パ・アテンは天井がなく、その供物台は直射日光にさらされたようである。この建造物(もしくはそれに関連付けられる)には、赤色花崗岩や砂岩のアクエンアテンの彫像、赤色花崗岩の供物台、アテンの名前が刻まれたスフィンクスなどその他の彫像があった。そこはかなりの大きさ(130×216メートル)であったが、その土台がほとんどなくなるほど完全に破壊された[66]。それは泥煉瓦の構内に建てられ、東に向き、おそらく西に入口があって、四角い柱とアメンホテプ4世(アクエンアテン)やネフェルティティの巨大な像 (colossal statues) に囲まれた広い中庭に通じていた[67]

フゥト・ベンベン - Hwt benben

カルナック神殿の東に建てられたフゥト・ベンベンすなわち「ベンベン石の館」は、太陽崇拝に捧げられ、ゲム・パ・アテンと密接に結びついていた[68]

ルゥド・メヌ - Rud-menu

テニ・メヌ - Teni-menu

テニ・メヌは、自国品や貯蔵室を保持したと見られ、王家の住居であったとも考えられるが、その用途を明確にする十分な構造は残っていない[64]

テニ・メヌの壁は、主となるカルナック神殿の第9塔門に再使用された。それらはその後特定され、大きなパズルのように組み直されて、一部がルクソール博物館(英語版)に展示されている。

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