転載: Project Vega http://www.project-vega.org/2014/03/12-4.html
縄文人は、荘厳(そうごん)なる宮殿をつくらず、美麗なる礼服で飾らず、外観の浮華を自慢しなかった。日本民族にとって歩むべき道とは、人間の営み(人工)が、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名づけるのである。人間の営為(人工)が、このように積み重ねられてゆくありさまを、「文明」と賞賛するのである。これこそ、ツラン文明→縄文日本人→日本民族、と受け継がれた根本概念である。こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。
2度目の大洪水の後、ツラン民族によるツラン文明の原型は成立しており、後のシュメール文明はこのツラン文明の南下した一分派である。「ツラン」とはシュメール語で「天の子、天の保持者、天の帯」を意味し、ツラン民族とはツラン平原で発祥し、ウラル・アルタイ語族に属し、北方アジア民族とも呼ばれ、言語はウラル・アルタイ系の膠着語(こうちゃくご:立語の中国語、屈折語のインド・ゲルマン語と文法が根本的に違う)を語り、ツランから発してユーラシア大陸全域に棲みついた民族で、北ツラン族と南ツラン族に分け、北ツラン族をウラル・アルタイ語族と称した。
北ツラン族 : ツングース、モンゴル、トルコ・タタール、フィン・ウゴール、サモエード
南ツラン族 : タマル(タミール語族)、ボオチア(チベット・ブータン語族)、タイ(シャム)、マライ
縄文の日本で富士王朝を建国したのは、天山(テンシャン)山脈西南麓に王都を築いた大洪水の生き残りの人々であった。日本列島の富士山麓へ遷都を決意した彼らの話はこうである。なお、ここでは和名を用いているが、すべてアヌンナキの血を濃く受け継ぐ子孫達である。
天地開闢(てんちかいびゃく=大洪水の後)のとき、天之峰火雄神(あめのほほおのかみ=ノア)が生まれた。この神の王朝は7代30万日(約820年)を経て、天の世と呼ばれた。次に天之御中主(あめのみなかぬし=アヌ王)神から15代67万5000日(約1850年)続いた王朝は、天之御中世(あめのみなかよ)と称された。その最後の神皇が高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)で、国土が八方に広がったため、七人の皇子をそれぞれの地方に派遣することにした。第一皇子・有能氏は大陸の大中原にとどまり大アジア州の皇帝となり、第二皇子・朝天氏は大陸の東部を、第三皇子・南陽氏は大陸の南部を、第四皇子・清賢氏は大陸の西部を、第五皇子・農立氏(イナンナ)は東海の島を、第六皇子・農永氏は大陸の北部を、そして末子の第七皇子・農佐氏は父のもとにとどまった。
ところが、派遣された皇子のうち第五皇子の農立氏(イナンナ)だけは、「日の本なる海原に世に二つなき蓬莱山(ほうらいさん:富士山)のある蓬萊国(ほうらいこく:日本)」に行ったまま、1万7500日(約48年)経っても帰ってこなかった。高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)は「連絡がないのは、その土地が連絡することを忘れるほど素晴らしいからに違いない」と考え、第七皇子・農佐氏を指揮官に任じ、神后ともども3500余神を率いて、住み慣れた王都を捨て、蓬萊国(ほうらいこく:日本)に遷都することにした。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)の一行は、天山(テンシャン)山脈の麓を出発して、現在のシルクロードを陸路東進、朝鮮半島から日本の能登半島に上陸した。その後、瀬戸内海沿岸を経て、渥美(あつみ)半島に達すると、東に富士山が見えたので、再び船に乗って海路東進し、田子の浦に再上陸。富士山の麓に王朝を築いた。
一方、先に蓬萊国(ほうらいこく:日本)を目指していた第五皇子・農立氏(のちの国常立尊”くにとこたちのみこと”=イナンナ)は、天山(テンシャン)山脈を出た後、南に向かいインドから南岸沿いに東進、海人と交流しながら島々を這うようにして海路沖縄にたどり着いた。そこから日本列島に渡り、瀬戸内海の淡路島にとどまり、蓬莱山(ほうらいさん:富士山)の所在を求めていた。そこへ父皇(エンキ)と弟たちが自分の後を追って日本列島へ渡ってきたことを知り、富士山の麓で弟と再会した。
兄弟はともに協力して新しい国作りを誓い合った。そして最初に天降った兄の農立氏(イナンナ)は国常立尊(くにとこたちのみこと=イナンナ)と名前を改め、「高天ヶ原の世」の第一代神皇に即位するとともに、「東西分治の制」を定めて西を統治することにした。日本の本来の最高神はスサノオことイナンナである。弟の農佐氏は、国狭槌尊(くにさつちのみこと)と名前を改めて第二代神皇となり、富士山麓を拠点にして「高天ヶ原」を治めた。
イナンナは日本の第一代神皇に即位し、つまり日本を統治する王となったが、イナンナと王権の象徴であるアヌンナキの王冠を表した縄文土偶が富士山周辺から出土している。この王冠は後の時代にも見られ、地球司令官エンリルがメソポタミアを一人の人間に統治させようと決めた時にサルゴン1世に与えた王権や、ゾロアスター教の最高神アフラマズダ(エンリル)がサーサーン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世とされる人物に渡した王権と笏(しゃく)のレリーフにも見る事ができる。 この王冠は現代にも続き、天皇が皇位を継承したことを内外に示す即位の礼でも見る事ができる。平安時代までの纓(えい)は、左右の肩に垂れ下げるなど二枚だったが、平安末期からは、二枚を留めて一枚のようにして用いるようになった。 以下に続く・・・