2015年04月21日
人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は「風邪ウイルス」かもしれないこと。そして、薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
・cleanclean
書籍連鎖地獄の中でホイル博士への解答を見出し
昨日、子どもがポストに入っている郵便物を持ってきてくれて、「これ、おとうさんに」と渡してくれて、開けましたら、書籍でした。
その時ふと、
「何だか・・・毎日、本届いてないか?」
ということに改めて気づきました。
まあ、「毎日」というのは大げさですが、かなりそれに近い程度にネットで本を購入する日々が続いています。
特に Amazon はこの連鎖に入りやすいですね。 Amazon で本を買いますと、下に、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というコーナーが表示されます。
ここを見出すとまずい。
気になるものをクリックして、レビューを読んだりしているうちに、ポチッと買ってしまったり、あるいは、価格が高いものは、ヤフオクなどで同じのを探すと、もっと安く売っていたりするんですが、
「これはそんな欲しいわけではないけど、安いから買わないと損だ」
というヘンな理論のもとに結局買ってしまったりします。
そして、毎日毎日、本が届くという状態なのに、また、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見てしまう毎日。
というわけで、毎日読書に時間を取られていたりするのですが、昨日届いたのは、野口晴哉さんという人の『風邪の効用』という本でした。
この野口晴哉さんという人が誰だか知らずに買ったんですが、野口晴哉 - Wikipedia によりますと、何と、日本の「整体の始祖」の方なんですね。
そもそも「整体」という言葉を最初に使ったのが、この野口さんという人だったそうで、野口晴哉公式サイトのプロフィールを見てみますと、どうも、一種の「天性」を持っていた人らしく、
古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、療術団体『自然健康保持会』を設立。
十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。
17歳で「健康に生きることが自然順応の姿である」の境地に達するとか、どれだけ頭脳が早熟かいね、とも思いますが、やはり、この世にはいろいろな人がいるものです。
野口晴哉( 1911 - 1976年)
・野口晴哉公式サイト
この『風邪の効用』という本が書かれたのは昭和 37年( 1962年)ということで、私が生まれる以前に書かれた本なのですが、なーんと、この本の中に、「フレッド・ホイル博士の説とほぼ同じ」ことが書かれている上に、
ホイル博士の考えに対して「その理由」を与える解答が書かれていた。
のでありました。
もちろん、日本人の整体師の野口さんと、イギリス人の天文学者のホイル博士の間に関係があるわけもなく、おそらくはお互いにその存在さえ知らなかったと思います。
どんなことに関してのものか。
それは、
「人間はなぜウイルスに感染して発症するのか」
ということに対してのものです。
しかも、前回書きました、パッチ・アダムス医師の記事も含めて、最近書かせていただきました「健康」に関しての記事、例えば、
・健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
2015年04月10日
とか、
・基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズム…
2015年04月02日
などに対しての「回答」ともなっている部分があるのです。
まず、この『風邪の効用』という本のテーマは、次の一文に集約されていると思われます。
私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。
これは、野口さんが若い時から数多くの整体治療を行ってきた中で、人間の体というものは、それは筋肉にしても血管にしても、大事なのは「弾力」ということらしいのですが、
「風邪を引いている時に、その人の全身の弾力が戻っている」
ことに気づいて以来、研究し続け、その結論として、
風邪は自然の健康法そのものであり、風邪を引くことで自分の体のさらなる悪化を防いでいる。
という確信に行き着いたというものと言っていいと思います。
この本には「ウイルス」とか、そういうような言葉は出てきません。
風邪ウイルスが発見され始めるのは 1950年代からで、病原ウイルス研究の方法の歴史についてというサイトによりますと、風邪のウイルス学説が確立したのは、1960年代のことでした。
風邪ウイルスの発見により、「風邪はウイルスのヒトへの感染によって起きる」という学説が確定して、つまり「ウイルスがヒトの細胞に侵入し風邪に感染する」というような感じで「風邪の概念」は、現在に至っていると思われます。
風邪は「悪者以外の何物でもない」というのが現在の定説です。
ところが、この『風邪の効用』を読むことで、少なくとも私は、その観念が覆されたのです。
風邪は自分を治癒させるためにかかっている
しかし、私は、風邪にしてもインフルエンザにしても、ウイルスがヒトに「侵入」することで、風邪を引くのなら、風邪は基本的に「全員がかかっても不思議ではない」のに、どうしてそうならないのか、ということは子どもの頃から疑問でした。
後で書きますが、私は人一倍風邪を引きやすい子どもでした。
過去記事の、
・21世紀のパンデミック: ウイルスが人を選ぶのか? 人がウイルスを選ぶのか?
2013年04月08日
の中で、フレッド・ホイル博士の『生命(DNA)は宇宙を流れる』の中で、ホイル博士が述べている、
「ヒトがウイルスを選んで体内に取り入れている」
という主張をご紹介しました。
これは従来の考え方である「ウイルスがヒトを選んで感染している」というのではなく、ヒトが「自分に」感染するウイルスを選んで感染しているという、それまでにはまったくなかった主張です。
フレッド・ホイル著『 DNA は宇宙を流れる』進化のメカニズムより
ウイルスが宿主を選ぶという前提が間違っているのだ。
われわれは、宿主のほうがウイルスを選んでいるのだと考えている。
地球にはじめて落ちてくるウイルスが、あらかじめどんな宿主に遭遇するか知るよしもないことは当然だ。けれども、宿主たるわれわれは、もともと宇宙からやってきたバクテリアから進化した存在であり、このような事態に備えた機構を持っているはずなのだ。
それが免疫機構なのだとわれわれは考えている。
この、ウイルスについての従来の見方を根本からくつがえすといってもいい考え方は、私たちの今までの常識から考えると、突飛に響きますが、しかし、そもそも、「極めて高度なヒト DNA と、極めて単純なウイルスの DNA の構造」を考えますと、
ヒトがウイルスに負けると考えるのは不合理な話
なのです。
ホイル博士は、風邪ウイルスと比べて、比較にならないほど優れた構造を持つヒトの DNA 分子が、「風邪ウイルスに騙される」という考え方自体が合理的ではないとして、以下のように記しています。
通常、ウイルスと免疫との関係と言えば、ウイルスがわれわれの細胞を騙して侵入し、それに気づいた免疫機構がウイルスを排除しようとして戦う、という説明がなされている。
けれども、まっすぐに伸ばすと全長 1.5メートルにもなり、 10万個もの遺伝子を持つヒトの DNA 分子が、全長わずか数ミクロンで、数個の遺伝子しか持たないウイルスの DNA 分子に「騙される」などということが、本当にありうるだろうか?
また、ウイルスが侵入してからの免疫システムの素晴らしい活躍ぶりを見ると、どうして、もっと早いうちに完全にブロックしておかないのだろうと疑問に思わないだろうか?
ウイルスという存在は、多くの場合、人間に重篤な症状を引き起こすとは思えないほど「単純」な構造です。ウイルスの構造と増殖過程というページから抜粋しますと、
ウイルスの構造を簡単に言ってしまえば、「膜の中に遺伝情報が入っているだけ」の構造となっています。
なお、ここでの遺伝情報とは、DNAまたはRNAのことです。ウイルスはその種類によってDNAをもっていたりRNAをもっていたりと様々です。
・ウイルスの構造と増殖過程
しかも、ウイルスは、自分で生きていく構造を持っていませんので、「他の生物の細胞に寄生しないと増殖できない」というもので、上のページの説明をお借りしますと、 ウイルスは自分自身の力だけで増殖することはできません。増殖には私達の細胞に寄生する必要があります。
ヒトとウイルスの差を数として比較してみますと、下のようになります。
・DDBJ 遺伝子とゲノム
このような単純で自主性のないウイルスという存在が人間の強大な敵というのは何だか奇妙です。
最近になって「人間の体は、その免疫システムを含めて、完ぺきなもの」ということを思うようになると、私はさらに、
「人間がウイルスのような単純なものに負けていると考えるのはおかしい」
と強く考えるようになりました。
もともと、上のホイル博士の記述で、「ヒトがウイルスを選んでいる」ということについては確信を持っていたのですけれど、ただ、「なぜ、ヒトはウイルスを自分に取り込む必要がある?」かがわかりませんでした。
風邪を引けば、熱が出たり、いろいろと面倒な症状が出るばかりなのに、どうして?
ホイル博士は、「ヒトという種の進化のため」だという立場を持ち、 ちっぽけなウイルスが大きな生物を騙すのではなく、生物が自らの利益のために ----- 進化するために ----- 進んでウイルスを招き入れるのだ。
われわれは、免疫機構に対する考えを改めなければならない。免疫機構は、常に新参者を探しているが、それはわれわれの遺伝システムがそれを取り込むことが進化論的立場から価値があると認められるような新参のウイルスを探すためなのだ。 と書いています。
そういう部分は確かにあるのでしょうけれど、「新参のウイルス」はともかくとして、風邪のように、いつでもどこでも日常の中にありふれているウイルスについて「ヒトが感染を選ぶ」という理由がどうもわからなかったのです。
そのことが『風邪の効用』には、わかりやすい形で書かれています。
風邪は自分の体を「治すため」にかかるということが。
風邪の熱や症状を治めようとしてはいけないという理論
前回のパッチ・アダムス医師の記事で抜粋しました『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』の中にある 1908年の講演で、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、
生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。
病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。
と、シュタイナーは、「熱」というものは、ヒトが自らの体を守るために発しているもので、「熱そのものが治療者」であるという立場を示していますが、野口晴哉さんの風邪に対しての考えと、まったく同じです。
そして、シュタイナーと野口さんの考えは「薬」に対しても同じです。
シュタイナーは 1908年の講演において、その頃、世に出てきた解熱鎮痛剤(フェナセチン)に、「科学が精神とともに真面目さも失ったこと」として、絶望していましたが、野口さんも、専門用語は使いませんが、
「症状を急激に治めるようなことは良くない」
と繰り返し書いています。
身体に起きることには自然の道理があるのだから、その自然の経過に逆らうことは良くないと。
シュタイナーと同じことを言っている部分を抜粋します。
「イルガピリン」とは、かつての日本で、神経痛やリウマチの痛みに処方されていた薬です。
『風邪の効用』 自然の経過を見出すもの より
刀によって、一気にバサッと斬ってしまうようなことは本当ではない。(今は)神経痛の痛みを止めることだけでも、いろいろな薬を使って一気にバサッと止めようとします。
京都でイルガピリンを使いすぎて死んでしまった人がおりましたが、死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。バサッと一気にやろうとすることは、殺すにはよいが生かすには向かない。
生きる動きには順序があり、自然の経過がある。パッと良くするということにはどこかでインチキがあり、やっている人も、受けている人も気づかないでいることが多いが、体には硬直やら、歪みやらが残っている。
闘って病を征服するのではない。ただ体の交通整理をして、体のもっている力をスムーズに流れるようにする。早く回復することがよいのではない。自然に流れ、体のもっている力をスムーズに発揮すればそれがよいのである。
人間の体の動きは要求によるのでありますから、痛むから止める、足らぬから補う、困っているから助けるというように、外部から調節することだけを行っていると、体のうちの回復要求を鈍らせてしまう。
余分な養生が人を弱くし、余分な治療の工夫が回復のはたらきを鈍くしてしまっていることは少なくない。
早く治ろうとする努力が逆の結果に導くことが多いのは、病気の時に限らず、晴れの舞台でも、習字のお清書でも、簡単な受験でも、努力はしばしば逆の力を育てます。一気呵成に病気を治そうと考えるその考えが、体の調子を乱す。強行すれば、そのための行為が体を乱す。
野口さんという人は、おそらくは楽しい人だったのかもしれないと思うのは、結構キツいギャグが文中の多くの場所に垣間見られることなどでも思います。上の中の、
> 死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。
というような、ちょっとシュールなモンティ・パイソン風のギャグ表現が、あちこちに見られます。
ところで、風邪とは関係がないですが、野口さんの書かれている文章から、今から 50年以上前でも、「臓器の切除」というのが多く行われていたということを知ります。
以下のような記述があります。
最近のように臓器を除られている人が多いと、私のように体の自然なはたらきというものを利用して健康を保っていこうとするものには、とても不便なのです。
まあ心臓がないという人はありませんが、腎臓がなかったり、子宮がなかったり、卵巣がなかったりという人はザラで、そういう人を円満に治そうなどと考えても不可能である。
だからいちいち、どこか切ったところはありませんかと訊かなくてはならない。ひどい人は「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」と言う。胃袋さえなければ胃癌にならないと・・・それなら首を切っておけば万病にならない。
この短い下りには、
> まあ心臓がないという人はありませんが
> それなら首を切っておけば万病にならない
と、モンティ・パイソン・ポイントが2箇所ありますが、こういうような感じの本ですので、整体の専門用語が飛び交う部分は別にすれば、読みやすいです。
それにしても、
「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」
これはひどい。
そう考える本人もですが、そう言われて、本当に胃をとってしまう医者の方もなかなかのもので、50年以上前の日本もいろいろだったんですね。
なお、つい先日の記事、
・日本人「総薬づけ計画」やら抗がん剤やら混沌の中に入り込んだサイクル24の渦中に
2015年04月15日
という記事の中で、ガンは治療せずに放置しなさいという主張をする医師の意見に、私は、
この近藤医師という方は、「ガンは治療しないで放置しなさい」という意見の方のようですが、全面的にその意見に賛成する気にはなれません。
手術でとってしまえば、何らかの機能の障害は残っても、そのまま一生何でもなく過ごせるガンはたくさん存在すると思うので、極端化するのはどうかと思います。
と書いたのですが、野村晴哉さんは「体の部位を切除することは良くない」として、
やはり天然のまま傷つけず、むしろそれを鈍らせず、萎縮させず、自然のままの体であるようにするのでなければ、本当の意味の治療とはいえないのではあるまいか。
と書いていました。
まあ、それでも、私は、現在の外科的治療の中には、「あって良かった」ものもあると思っています。
東京・青山で自律神経免疫治療というものをおこなっている、まだらめクリニックのQ&Aにある下の答えが、私の考えと近いです。
Q 西洋医学があるのに、なぜ他の治療法をするのですか?
A 西洋医学は立派な医学ですが、それだけでは解決できないことも多いのです。
西洋医学は急性期医療に優れ、手術が必要な病態には力を発揮します。しかし、慢性疾患には不十分なのです。
いわゆる生活習慣病には効果があまり期待できません。特に癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう。
西洋医学だけが医学ではありません。江戸時代には漢方医学や針灸医学が日本人の健康に貢献してきました。それを利用するのが当クリニックの立場です。
単純に古い医療を利用するだけではなく、現代医学の生理学や免疫学を利用してそれらの効果判定も出来る時代になっています。
というように、緊急的な治療と、予防医学(天然痘などが撲滅されたようなこと)に関して、西洋医学は、多くの命を救ってきたと思います。
ただ、上にも「癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう」とありますように、現在の世界で最も大きな問題となっている、ガン、認知症、精神疾患などに対応できていないことは確かです。
そして、何となく今の「薬を出しておけばいい」という医療には、「あるべきはずの何かが抜け落ちているかもしれない」という感じもあります。昨日のパッチ・アダムス医師を知り思う、「医者と患者の心と心のこと」などもそうです。
日本には「医は仁術なり」という言葉があります。
これは、広辞苑の定義によりますと、
「医は、人命を救う博愛の道である」
ということを意味するのだそう。
要するに、日本では、「医」とは「学」でも「術」でもなく、本来は「道」だったんですね。
求道の道です。
神道の道。
そして、北海道の道(そら違うわ)。
道といえば、
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」
というアントニオ猪木師の格言が有名ですが、医療において、「迷わず行けよ。行けばわかるさ」では、少し困りますね(野村晴哉さん風)。
いずれにしても、この『風邪の効用』という本と、ホイル博士のウイルス論によって、長い間疑問だった「なぜ風邪にかかる人とかからない人がいるのか」ということが少しわかった気がします。
うまく説明はできていないですが、この『風邪の効用』という本を読みますと、
「人間は、自分の治癒のために、風邪ウイルスを細胞に取り込んでいる」
ということが、何となくですが、理解できるような気がします。
とはいえ、「ウイルスがヒトに侵入しているのではなく、ヒトがウイルスを取り込んでいる」などということを医学的に証明することは不可能ですので(不可能とまでは言い切れないかもしれないですが)、医学的には「戯れ言」だと思います。しかし、私個人は納得がいったので、知ってとても良かったです。
数多くの免疫システムを人間は持ちますが、「風邪を引く」というのも免疫システムのひとつだったということを知ったという感じでしょうか。
なので、「風邪の症状を薬で抑えることは基本的には良くない」のかもしれません。
シュタイナーの言うように、「熱」を薬で抑えるというのも良くないようです。
よく風邪の引き始めに市販の風邪薬などを飲んだ後、長引く人をよく見かけますが、野口さんの主張からすれば、症状を抑えることで、本来の風邪の働きが遮断されてしまうのですから、「風邪薬を症状の初期から早くに飲めば飲むほど治りは遅くなるかもしれない」という逆説的なことになってしまうものなのかもしれません。
ただ、この『風邪の効用』は「何もしないのがいい」と言っているのではありません。
風邪を引いている間の「経過」をどのように過ごすかということが書かれています。
その過ごし方は、「風邪を治す」のではなく、「風邪の働きを邪魔しない」ということについて書かれています。風邪は体を適正に戻そうとしているのだから、その働きを妨害しないこと。
その「風邪の経過中の要点」をタイトルだけ書いておきます。
1. 体を弛めること
2. 冷やさぬこと(熱が出ても冷やしてはいけない)
3. 体を温めること
4. 発汗は引っ込めない
5. 平熱に下がったら寝ていないこと
6. 水分を大目にとること
この中の「熱が出ても冷やしてはいけない」については、言いたいことはわかるにしても、でも、小さな子どもなどが高熱を出してしまうと、やはり心配なものです。
うちの子どが小さな頃、たまに高熱を出した時はやっぱり「下げる努力」はしていました。ただ、「子どもへの解熱剤の投与は恐ろしい」という感覚はありましたので、解熱剤を飲ませたことはありませんでした。
ひたすら、動脈を冷たいタオルなどで冷やして熱を下げていました。
野口さんやシュタイナーから見れば、こういうのも良くないということになりそう。
しかし、高熱の子どもの熱を「下げない」というのもなかなか勇気のいることで、難しいところです。
幼少時、小児ぜんそくで薬漬けだったわたし
ところで、『風邪の効用』で「風邪は体を正すために引いている」という概念を知る中で、ふと、自分の昔を思い出しました。
私は二十代くらいまで本当に風邪を引きやすい人でした。
小中高を通じて、1ヶ月に1週間熱で休むなど普通でした。
それだけに、小さな頃から「どうして風邪にかかりやすい人とかかりにくい人がいるのか」を考えていたのだと思います。
「いくら何でもオレだけ風邪引きすぎ」
というように感じていたのだと思います。
でも、これは今回の記事、あるいは、最近の薬の記事などを書いていて、何となく理解してきました。
私は幼稚園に入るより以前から小児ぜんそくで、それ以外にも、赤ちゃんの頃から多くの病気を繰り返していた幼児でした。
50年くらい前とはいえ、病院での治療は今と同じでした。
つまり「薬漬け」。
小学校の中学年くらいまでには、ぜんそくは治ったのですが、その頃すでに私は、
「薬漬けの子ども」
となっていたのでした。
昔、「私の体はワインでできているの」とおっしゃった女優さんがいましたが、
「ぼくの体は薬で作られている」
というほど、生まれてからその頃まで数多くの薬を飲み続けていたのです。
今の薬だけではなく、昔の薬も人の免疫を下げていたはずです。
まして、当時の、ぜんそくの発作の薬というのは、特に「とても強い薬効」を持つものでした。
そんなものをまだ小さなうちから何年も飲んでいた・・・。
もちろん、それがなければ、生きていなかったわけですから、薬に文句があるわけではないです。
しかし、その長年の薬漬けの生活で、幼い私の体の免疫能力は「限界」に近いほどまで低下していたのだと思います。免疫力という神秘というページには、
病気は大きく分けて、(1)免疫力の低下、(2)免疫力の異常(アレルギーと自己免疫疾患)というふたつの現象に起因します。
とあり、つまり、病気というのはいろいろな原因があるとはいえ、その主因は、「免疫が下がること」であることがわかります。
・免疫力と言う神秘
この免疫システムが「崩壊」していたかもしれない私のその後。
風邪は毎月引いていて、1ヶ月の間に何度も引くこともありました。
風邪以外にも、私の免疫の弱さは、その後の長期間にわたり、各所に出ました。
まず、「できもの」関係。
ものもらいは中学生になるくらいまで「毎月できていた」といっても過言ではありません。眼帯は家の必需備品でした。
そして、小学生高学年くらいから、背中の上部に「常に吹き出物のようなもの」ができ続けました。そして、寝ている時に掻いていたのか何なのか、背中の上部全体の皮膚がムチャクチャに荒れました。
この背中の跡は 50歳を過ぎた今でも消えていません。
背中の上部全体が変色したままになっています。
こんな感じで、その他にも鼻やら耳やら、普通はそんなに簡単にならない病気になり続けていて、ちょっとした免疫不全症候群みたいな状態で、いろいろな場所に、いろいろなものがすぐできて、いろいろな病気になる。
そして、なかなか治らない。
その間にも、また風邪を引く。
この頃を思い出して、当時は「どうしてオレはこんなによく風邪を引くんだろう」と思っていて、風邪は単に忌まわしい存在だったのですが、今、野口さんの「風邪は優秀な治療者」という概念を知り、風邪は忌まわしい存在どころか、
「あれらのウイルスは、オレの体を治癒するために、一生懸命、オレに風邪を引かせ続けていたんだ」
と、知るに至りました。
そして、
「自分自身の細胞がウイルスを積極的に取り込んでいたんだ」
ということも。
ものもらいや、できものにも意味があったのでしょう。
「体内の毒が外部に噴出する」というイメージを描きますと、「皮膚の外に出ようとするデキモノの存在」が思い浮かばれます。
多分、当時の私の体の中では「免疫戦争」が起きていたのだと思います。
自分が生き残るために、細胞たちは次々と病原菌やウイルスを自分の中に招き入れる。
そして、風邪なりできものなり、症状が出る。
そのたびに、体の中の何かがリセットされ、改善されていく。
あの時、風邪を引き続けなければ、私は何らかの大きな病気にかかったり、あるいは、本当に免疫が落ちるところまで落ちて、生きていなかったかもしれません。
風邪にかかりやすい体質は、30代になるくらいまで続きました。
その後、次第に風邪を引くことはなくなり、そうして、気づいて見ると、ほとんど風邪にもインフルエンザにもかからない体になっていました。
たまに「不明熱」を出したり、めまい持ちだったしますけれど、それらにも意味があるというより、「そうなる必要があるからなっている」ということなんでしょうね。
私のこのような体験もありますし、お子さんのいらっしゃる方は、薬の投与には慎重になっていただきたいと思います。もちろん、命にかかわるようなものは別として、軽い風邪や病気なら自然に任せた方がいいです。
しかし、そうなりますと、鳥インフルエンザとか、エボラウイルスなどの致死率の高いウイルスも「人間が選んで細胞に招き入れている」と?
取り入れたら自分が死に至るかもしれないウイルスをヒトが体内にとり入れる理由は一体?
タグ:風邪の効能 野村晴哉 免疫力 ウイルスはなぜ存在するか 完全な宇宙のシステム
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書籍連鎖地獄の中でホイル博士への解答を見出し
昨日、子どもがポストに入っている郵便物を持ってきてくれて、「これ、おとうさんに」と渡してくれて、開けましたら、書籍でした。
その時ふと、
「何だか・・・毎日、本届いてないか?」
ということに改めて気づきました。
まあ、「毎日」というのは大げさですが、かなりそれに近い程度にネットで本を購入する日々が続いています。
特に Amazon はこの連鎖に入りやすいですね。 Amazon で本を買いますと、下に、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というコーナーが表示されます。
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というヘンな理論のもとに結局買ってしまったりします。
そして、毎日毎日、本が届くという状態なのに、また、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見てしまう毎日。
というわけで、毎日読書に時間を取られていたりするのですが、昨日届いたのは、野口晴哉さんという人の『風邪の効用』という本でした。
この野口晴哉さんという人が誰だか知らずに買ったんですが、野口晴哉 - Wikipedia によりますと、何と、日本の「整体の始祖」の方なんですね。
そもそも「整体」という言葉を最初に使ったのが、この野口さんという人だったそうで、野口晴哉公式サイトのプロフィールを見てみますと、どうも、一種の「天性」を持っていた人らしく、
古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、療術団体『自然健康保持会』を設立。
十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。
17歳で「健康に生きることが自然順応の姿である」の境地に達するとか、どれだけ頭脳が早熟かいね、とも思いますが、やはり、この世にはいろいろな人がいるものです。
野口晴哉( 1911 - 1976年)
・野口晴哉公式サイト
この『風邪の効用』という本が書かれたのは昭和 37年( 1962年)ということで、私が生まれる以前に書かれた本なのですが、なーんと、この本の中に、「フレッド・ホイル博士の説とほぼ同じ」ことが書かれている上に、
ホイル博士の考えに対して「その理由」を与える解答が書かれていた。
のでありました。
もちろん、日本人の整体師の野口さんと、イギリス人の天文学者のホイル博士の間に関係があるわけもなく、おそらくはお互いにその存在さえ知らなかったと思います。
どんなことに関してのものか。
それは、
「人間はなぜウイルスに感染して発症するのか」
ということに対してのものです。
しかも、前回書きました、パッチ・アダムス医師の記事も含めて、最近書かせていただきました「健康」に関しての記事、例えば、
・健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
2015年04月10日
とか、
・基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズム…
2015年04月02日
などに対しての「回答」ともなっている部分があるのです。
まず、この『風邪の効用』という本のテーマは、次の一文に集約されていると思われます。
私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。
これは、野口さんが若い時から数多くの整体治療を行ってきた中で、人間の体というものは、それは筋肉にしても血管にしても、大事なのは「弾力」ということらしいのですが、
「風邪を引いている時に、その人の全身の弾力が戻っている」
ことに気づいて以来、研究し続け、その結論として、
風邪は自然の健康法そのものであり、風邪を引くことで自分の体のさらなる悪化を防いでいる。
という確信に行き着いたというものと言っていいと思います。
この本には「ウイルス」とか、そういうような言葉は出てきません。
風邪ウイルスが発見され始めるのは 1950年代からで、病原ウイルス研究の方法の歴史についてというサイトによりますと、風邪のウイルス学説が確立したのは、1960年代のことでした。
風邪ウイルスの発見により、「風邪はウイルスのヒトへの感染によって起きる」という学説が確定して、つまり「ウイルスがヒトの細胞に侵入し風邪に感染する」というような感じで「風邪の概念」は、現在に至っていると思われます。
風邪は「悪者以外の何物でもない」というのが現在の定説です。
ところが、この『風邪の効用』を読むことで、少なくとも私は、その観念が覆されたのです。
風邪は自分を治癒させるためにかかっている
しかし、私は、風邪にしてもインフルエンザにしても、ウイルスがヒトに「侵入」することで、風邪を引くのなら、風邪は基本的に「全員がかかっても不思議ではない」のに、どうしてそうならないのか、ということは子どもの頃から疑問でした。
後で書きますが、私は人一倍風邪を引きやすい子どもでした。
過去記事の、
・21世紀のパンデミック: ウイルスが人を選ぶのか? 人がウイルスを選ぶのか?
2013年04月08日
の中で、フレッド・ホイル博士の『生命(DNA)は宇宙を流れる』の中で、ホイル博士が述べている、
「ヒトがウイルスを選んで体内に取り入れている」
という主張をご紹介しました。
これは従来の考え方である「ウイルスがヒトを選んで感染している」というのではなく、ヒトが「自分に」感染するウイルスを選んで感染しているという、それまでにはまったくなかった主張です。
フレッド・ホイル著『 DNA は宇宙を流れる』進化のメカニズムより
ウイルスが宿主を選ぶという前提が間違っているのだ。
われわれは、宿主のほうがウイルスを選んでいるのだと考えている。
地球にはじめて落ちてくるウイルスが、あらかじめどんな宿主に遭遇するか知るよしもないことは当然だ。けれども、宿主たるわれわれは、もともと宇宙からやってきたバクテリアから進化した存在であり、このような事態に備えた機構を持っているはずなのだ。
それが免疫機構なのだとわれわれは考えている。
この、ウイルスについての従来の見方を根本からくつがえすといってもいい考え方は、私たちの今までの常識から考えると、突飛に響きますが、しかし、そもそも、「極めて高度なヒト DNA と、極めて単純なウイルスの DNA の構造」を考えますと、
ヒトがウイルスに負けると考えるのは不合理な話
なのです。
ホイル博士は、風邪ウイルスと比べて、比較にならないほど優れた構造を持つヒトの DNA 分子が、「風邪ウイルスに騙される」という考え方自体が合理的ではないとして、以下のように記しています。
通常、ウイルスと免疫との関係と言えば、ウイルスがわれわれの細胞を騙して侵入し、それに気づいた免疫機構がウイルスを排除しようとして戦う、という説明がなされている。
けれども、まっすぐに伸ばすと全長 1.5メートルにもなり、 10万個もの遺伝子を持つヒトの DNA 分子が、全長わずか数ミクロンで、数個の遺伝子しか持たないウイルスの DNA 分子に「騙される」などということが、本当にありうるだろうか?
また、ウイルスが侵入してからの免疫システムの素晴らしい活躍ぶりを見ると、どうして、もっと早いうちに完全にブロックしておかないのだろうと疑問に思わないだろうか?
ウイルスという存在は、多くの場合、人間に重篤な症状を引き起こすとは思えないほど「単純」な構造です。ウイルスの構造と増殖過程というページから抜粋しますと、
ウイルスの構造を簡単に言ってしまえば、「膜の中に遺伝情報が入っているだけ」の構造となっています。
なお、ここでの遺伝情報とは、DNAまたはRNAのことです。ウイルスはその種類によってDNAをもっていたりRNAをもっていたりと様々です。
・ウイルスの構造と増殖過程
しかも、ウイルスは、自分で生きていく構造を持っていませんので、「他の生物の細胞に寄生しないと増殖できない」というもので、上のページの説明をお借りしますと、 ウイルスは自分自身の力だけで増殖することはできません。増殖には私達の細胞に寄生する必要があります。
ヒトとウイルスの差を数として比較してみますと、下のようになります。
・DDBJ 遺伝子とゲノム
このような単純で自主性のないウイルスという存在が人間の強大な敵というのは何だか奇妙です。
最近になって「人間の体は、その免疫システムを含めて、完ぺきなもの」ということを思うようになると、私はさらに、
「人間がウイルスのような単純なものに負けていると考えるのはおかしい」
と強く考えるようになりました。
もともと、上のホイル博士の記述で、「ヒトがウイルスを選んでいる」ということについては確信を持っていたのですけれど、ただ、「なぜ、ヒトはウイルスを自分に取り込む必要がある?」かがわかりませんでした。
風邪を引けば、熱が出たり、いろいろと面倒な症状が出るばかりなのに、どうして?
ホイル博士は、「ヒトという種の進化のため」だという立場を持ち、 ちっぽけなウイルスが大きな生物を騙すのではなく、生物が自らの利益のために ----- 進化するために ----- 進んでウイルスを招き入れるのだ。
われわれは、免疫機構に対する考えを改めなければならない。免疫機構は、常に新参者を探しているが、それはわれわれの遺伝システムがそれを取り込むことが進化論的立場から価値があると認められるような新参のウイルスを探すためなのだ。 と書いています。
そういう部分は確かにあるのでしょうけれど、「新参のウイルス」はともかくとして、風邪のように、いつでもどこでも日常の中にありふれているウイルスについて「ヒトが感染を選ぶ」という理由がどうもわからなかったのです。
そのことが『風邪の効用』には、わかりやすい形で書かれています。
風邪は自分の体を「治すため」にかかるということが。
風邪の熱や症状を治めようとしてはいけないという理論
前回のパッチ・アダムス医師の記事で抜粋しました『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』の中にある 1908年の講演で、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、
生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。
病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。
と、シュタイナーは、「熱」というものは、ヒトが自らの体を守るために発しているもので、「熱そのものが治療者」であるという立場を示していますが、野口晴哉さんの風邪に対しての考えと、まったく同じです。
そして、シュタイナーと野口さんの考えは「薬」に対しても同じです。
シュタイナーは 1908年の講演において、その頃、世に出てきた解熱鎮痛剤(フェナセチン)に、「科学が精神とともに真面目さも失ったこと」として、絶望していましたが、野口さんも、専門用語は使いませんが、
「症状を急激に治めるようなことは良くない」
と繰り返し書いています。
身体に起きることには自然の道理があるのだから、その自然の経過に逆らうことは良くないと。
シュタイナーと同じことを言っている部分を抜粋します。
「イルガピリン」とは、かつての日本で、神経痛やリウマチの痛みに処方されていた薬です。
『風邪の効用』 自然の経過を見出すもの より
刀によって、一気にバサッと斬ってしまうようなことは本当ではない。(今は)神経痛の痛みを止めることだけでも、いろいろな薬を使って一気にバサッと止めようとします。
京都でイルガピリンを使いすぎて死んでしまった人がおりましたが、死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。バサッと一気にやろうとすることは、殺すにはよいが生かすには向かない。
生きる動きには順序があり、自然の経過がある。パッと良くするということにはどこかでインチキがあり、やっている人も、受けている人も気づかないでいることが多いが、体には硬直やら、歪みやらが残っている。
闘って病を征服するのではない。ただ体の交通整理をして、体のもっている力をスムーズに流れるようにする。早く回復することがよいのではない。自然に流れ、体のもっている力をスムーズに発揮すればそれがよいのである。
人間の体の動きは要求によるのでありますから、痛むから止める、足らぬから補う、困っているから助けるというように、外部から調節することだけを行っていると、体のうちの回復要求を鈍らせてしまう。
余分な養生が人を弱くし、余分な治療の工夫が回復のはたらきを鈍くしてしまっていることは少なくない。
早く治ろうとする努力が逆の結果に導くことが多いのは、病気の時に限らず、晴れの舞台でも、習字のお清書でも、簡単な受験でも、努力はしばしば逆の力を育てます。一気呵成に病気を治そうと考えるその考えが、体の調子を乱す。強行すれば、そのための行為が体を乱す。
野口さんという人は、おそらくは楽しい人だったのかもしれないと思うのは、結構キツいギャグが文中の多くの場所に垣間見られることなどでも思います。上の中の、
> 死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。
というような、ちょっとシュールなモンティ・パイソン風のギャグ表現が、あちこちに見られます。
ところで、風邪とは関係がないですが、野口さんの書かれている文章から、今から 50年以上前でも、「臓器の切除」というのが多く行われていたということを知ります。
以下のような記述があります。
最近のように臓器を除られている人が多いと、私のように体の自然なはたらきというものを利用して健康を保っていこうとするものには、とても不便なのです。
まあ心臓がないという人はありませんが、腎臓がなかったり、子宮がなかったり、卵巣がなかったりという人はザラで、そういう人を円満に治そうなどと考えても不可能である。
だからいちいち、どこか切ったところはありませんかと訊かなくてはならない。ひどい人は「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」と言う。胃袋さえなければ胃癌にならないと・・・それなら首を切っておけば万病にならない。
この短い下りには、
> まあ心臓がないという人はありませんが
> それなら首を切っておけば万病にならない
と、モンティ・パイソン・ポイントが2箇所ありますが、こういうような感じの本ですので、整体の専門用語が飛び交う部分は別にすれば、読みやすいです。
それにしても、
「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」
これはひどい。
そう考える本人もですが、そう言われて、本当に胃をとってしまう医者の方もなかなかのもので、50年以上前の日本もいろいろだったんですね。
なお、つい先日の記事、
・日本人「総薬づけ計画」やら抗がん剤やら混沌の中に入り込んだサイクル24の渦中に
2015年04月15日
という記事の中で、ガンは治療せずに放置しなさいという主張をする医師の意見に、私は、
この近藤医師という方は、「ガンは治療しないで放置しなさい」という意見の方のようですが、全面的にその意見に賛成する気にはなれません。
手術でとってしまえば、何らかの機能の障害は残っても、そのまま一生何でもなく過ごせるガンはたくさん存在すると思うので、極端化するのはどうかと思います。
と書いたのですが、野村晴哉さんは「体の部位を切除することは良くない」として、
やはり天然のまま傷つけず、むしろそれを鈍らせず、萎縮させず、自然のままの体であるようにするのでなければ、本当の意味の治療とはいえないのではあるまいか。
と書いていました。
まあ、それでも、私は、現在の外科的治療の中には、「あって良かった」ものもあると思っています。
東京・青山で自律神経免疫治療というものをおこなっている、まだらめクリニックのQ&Aにある下の答えが、私の考えと近いです。
Q 西洋医学があるのに、なぜ他の治療法をするのですか?
A 西洋医学は立派な医学ですが、それだけでは解決できないことも多いのです。
西洋医学は急性期医療に優れ、手術が必要な病態には力を発揮します。しかし、慢性疾患には不十分なのです。
いわゆる生活習慣病には効果があまり期待できません。特に癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう。
西洋医学だけが医学ではありません。江戸時代には漢方医学や針灸医学が日本人の健康に貢献してきました。それを利用するのが当クリニックの立場です。
単純に古い医療を利用するだけではなく、現代医学の生理学や免疫学を利用してそれらの効果判定も出来る時代になっています。
というように、緊急的な治療と、予防医学(天然痘などが撲滅されたようなこと)に関して、西洋医学は、多くの命を救ってきたと思います。
ただ、上にも「癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう」とありますように、現在の世界で最も大きな問題となっている、ガン、認知症、精神疾患などに対応できていないことは確かです。
そして、何となく今の「薬を出しておけばいい」という医療には、「あるべきはずの何かが抜け落ちているかもしれない」という感じもあります。昨日のパッチ・アダムス医師を知り思う、「医者と患者の心と心のこと」などもそうです。
日本には「医は仁術なり」という言葉があります。
これは、広辞苑の定義によりますと、
「医は、人命を救う博愛の道である」
ということを意味するのだそう。
要するに、日本では、「医」とは「学」でも「術」でもなく、本来は「道」だったんですね。
求道の道です。
神道の道。
そして、北海道の道(そら違うわ)。
道といえば、
「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」
というアントニオ猪木師の格言が有名ですが、医療において、「迷わず行けよ。行けばわかるさ」では、少し困りますね(野村晴哉さん風)。
いずれにしても、この『風邪の効用』という本と、ホイル博士のウイルス論によって、長い間疑問だった「なぜ風邪にかかる人とかからない人がいるのか」ということが少しわかった気がします。
うまく説明はできていないですが、この『風邪の効用』という本を読みますと、
「人間は、自分の治癒のために、風邪ウイルスを細胞に取り込んでいる」
ということが、何となくですが、理解できるような気がします。
とはいえ、「ウイルスがヒトに侵入しているのではなく、ヒトがウイルスを取り込んでいる」などということを医学的に証明することは不可能ですので(不可能とまでは言い切れないかもしれないですが)、医学的には「戯れ言」だと思います。しかし、私個人は納得がいったので、知ってとても良かったです。
数多くの免疫システムを人間は持ちますが、「風邪を引く」というのも免疫システムのひとつだったということを知ったという感じでしょうか。
なので、「風邪の症状を薬で抑えることは基本的には良くない」のかもしれません。
シュタイナーの言うように、「熱」を薬で抑えるというのも良くないようです。
よく風邪の引き始めに市販の風邪薬などを飲んだ後、長引く人をよく見かけますが、野口さんの主張からすれば、症状を抑えることで、本来の風邪の働きが遮断されてしまうのですから、「風邪薬を症状の初期から早くに飲めば飲むほど治りは遅くなるかもしれない」という逆説的なことになってしまうものなのかもしれません。
ただ、この『風邪の効用』は「何もしないのがいい」と言っているのではありません。
風邪を引いている間の「経過」をどのように過ごすかということが書かれています。
その過ごし方は、「風邪を治す」のではなく、「風邪の働きを邪魔しない」ということについて書かれています。風邪は体を適正に戻そうとしているのだから、その働きを妨害しないこと。
その「風邪の経過中の要点」をタイトルだけ書いておきます。
1. 体を弛めること
2. 冷やさぬこと(熱が出ても冷やしてはいけない)
3. 体を温めること
4. 発汗は引っ込めない
5. 平熱に下がったら寝ていないこと
6. 水分を大目にとること
この中の「熱が出ても冷やしてはいけない」については、言いたいことはわかるにしても、でも、小さな子どもなどが高熱を出してしまうと、やはり心配なものです。
うちの子どが小さな頃、たまに高熱を出した時はやっぱり「下げる努力」はしていました。ただ、「子どもへの解熱剤の投与は恐ろしい」という感覚はありましたので、解熱剤を飲ませたことはありませんでした。
ひたすら、動脈を冷たいタオルなどで冷やして熱を下げていました。
野口さんやシュタイナーから見れば、こういうのも良くないということになりそう。
しかし、高熱の子どもの熱を「下げない」というのもなかなか勇気のいることで、難しいところです。
幼少時、小児ぜんそくで薬漬けだったわたし
ところで、『風邪の効用』で「風邪は体を正すために引いている」という概念を知る中で、ふと、自分の昔を思い出しました。
私は二十代くらいまで本当に風邪を引きやすい人でした。
小中高を通じて、1ヶ月に1週間熱で休むなど普通でした。
それだけに、小さな頃から「どうして風邪にかかりやすい人とかかりにくい人がいるのか」を考えていたのだと思います。
「いくら何でもオレだけ風邪引きすぎ」
というように感じていたのだと思います。
でも、これは今回の記事、あるいは、最近の薬の記事などを書いていて、何となく理解してきました。
私は幼稚園に入るより以前から小児ぜんそくで、それ以外にも、赤ちゃんの頃から多くの病気を繰り返していた幼児でした。
50年くらい前とはいえ、病院での治療は今と同じでした。
つまり「薬漬け」。
小学校の中学年くらいまでには、ぜんそくは治ったのですが、その頃すでに私は、
「薬漬けの子ども」
となっていたのでした。
昔、「私の体はワインでできているの」とおっしゃった女優さんがいましたが、
「ぼくの体は薬で作られている」
というほど、生まれてからその頃まで数多くの薬を飲み続けていたのです。
今の薬だけではなく、昔の薬も人の免疫を下げていたはずです。
まして、当時の、ぜんそくの発作の薬というのは、特に「とても強い薬効」を持つものでした。
そんなものをまだ小さなうちから何年も飲んでいた・・・。
もちろん、それがなければ、生きていなかったわけですから、薬に文句があるわけではないです。
しかし、その長年の薬漬けの生活で、幼い私の体の免疫能力は「限界」に近いほどまで低下していたのだと思います。免疫力という神秘というページには、
病気は大きく分けて、(1)免疫力の低下、(2)免疫力の異常(アレルギーと自己免疫疾患)というふたつの現象に起因します。
とあり、つまり、病気というのはいろいろな原因があるとはいえ、その主因は、「免疫が下がること」であることがわかります。
・免疫力と言う神秘
この免疫システムが「崩壊」していたかもしれない私のその後。
風邪は毎月引いていて、1ヶ月の間に何度も引くこともありました。
風邪以外にも、私の免疫の弱さは、その後の長期間にわたり、各所に出ました。
まず、「できもの」関係。
ものもらいは中学生になるくらいまで「毎月できていた」といっても過言ではありません。眼帯は家の必需備品でした。
そして、小学生高学年くらいから、背中の上部に「常に吹き出物のようなもの」ができ続けました。そして、寝ている時に掻いていたのか何なのか、背中の上部全体の皮膚がムチャクチャに荒れました。
この背中の跡は 50歳を過ぎた今でも消えていません。
背中の上部全体が変色したままになっています。
こんな感じで、その他にも鼻やら耳やら、普通はそんなに簡単にならない病気になり続けていて、ちょっとした免疫不全症候群みたいな状態で、いろいろな場所に、いろいろなものがすぐできて、いろいろな病気になる。
そして、なかなか治らない。
その間にも、また風邪を引く。
この頃を思い出して、当時は「どうしてオレはこんなによく風邪を引くんだろう」と思っていて、風邪は単に忌まわしい存在だったのですが、今、野口さんの「風邪は優秀な治療者」という概念を知り、風邪は忌まわしい存在どころか、
「あれらのウイルスは、オレの体を治癒するために、一生懸命、オレに風邪を引かせ続けていたんだ」
と、知るに至りました。
そして、
「自分自身の細胞がウイルスを積極的に取り込んでいたんだ」
ということも。
ものもらいや、できものにも意味があったのでしょう。
「体内の毒が外部に噴出する」というイメージを描きますと、「皮膚の外に出ようとするデキモノの存在」が思い浮かばれます。
多分、当時の私の体の中では「免疫戦争」が起きていたのだと思います。
自分が生き残るために、細胞たちは次々と病原菌やウイルスを自分の中に招き入れる。
そして、風邪なりできものなり、症状が出る。
そのたびに、体の中の何かがリセットされ、改善されていく。
あの時、風邪を引き続けなければ、私は何らかの大きな病気にかかったり、あるいは、本当に免疫が落ちるところまで落ちて、生きていなかったかもしれません。
風邪にかかりやすい体質は、30代になるくらいまで続きました。
その後、次第に風邪を引くことはなくなり、そうして、気づいて見ると、ほとんど風邪にもインフルエンザにもかからない体になっていました。
たまに「不明熱」を出したり、めまい持ちだったしますけれど、それらにも意味があるというより、「そうなる必要があるからなっている」ということなんでしょうね。
私のこのような体験もありますし、お子さんのいらっしゃる方は、薬の投与には慎重になっていただきたいと思います。もちろん、命にかかわるようなものは別として、軽い風邪や病気なら自然に任せた方がいいです。
しかし、そうなりますと、鳥インフルエンザとか、エボラウイルスなどの致死率の高いウイルスも「人間が選んで細胞に招き入れている」と?
取り入れたら自分が死に至るかもしれないウイルスをヒトが体内にとり入れる理由は一体?
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