Ray:今日のバシャール:新しい社会システムで『ピラミッド型社会システム、すなわち階級制組織構造は太古の時代から存在していたのだと、バシャールは話しています。つまり、アヌナキの時代にまで遡る事ができるシステムなのです。ロイアルティーや特権社会制度、王制や年功序列の世界観は、古い概念の世界観では大いに機能する事ができましたが、これらかの新しい時代ではもはや機能しない概念となります。』と伝られているように、新しい時代は未体験の世界です。過去の歴史の真実を参照することは自分自身をおしはかる意味で一つの足がかりではないでしょうか?
第4章 古代核戦争と謎の地下都市 : 高橋良典の仮説1
ムルロア環礁の水爆実験でできた巨大なキノコ雲
紀元前の高度な文明は、今からおよそ二八○○年前に発生した核戦争とそれに伴う異変で滅び去った、という壮大な仮説がある。この仮説は、チャーチワードが唱えたムー文明の滅亡原因を明らかにしてくれるだけでなく、アトランティス人と戦った地中海の謎の民族の正体をもうまく説明してくれる。世界各地のミステリー遺跡や遺物、不可解な伝説群を総合してみると、従来の歴史家たちが消し去ってきたムー王国の住民力ラ族の栄光の物語がよみがえってくるというのだ。
証拠1
地球が誕生してから考えられないほど長い時間がすぎた。人類の存在などそれにくらべればほんの一瞬にすぎない。しかし、その一瞬の時間の中で起きたことが、どうしてもわからないのだ。そして、地球には数知れないほどの謎が残されたままになっている。ここに取りだしたものは、ひとつの仮説(高橋良典の古代核戦争地球大異変説)を証明する、さまざまな謎である。これらの謎が解き明かされた"とき、""古代に核戦争があった""とい"う仮説が証明されるのだ。しかし、それはたやすいことではない。ひとつひとつの謎が、複雑にからみあい、あるものはさらに新たな謎を追加する。こうした謎の追跡は、だが、まったく思いもかけない結論を生むかもしれないのだ。常識をはるかに超えた、驚異の結論を------。
秘境にひろがる荒れ狂った大地
トルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原中部に、二〇〇キロ平方にもわたる広大な荒地がある。いまも"世界屈指くつしの秘境"とされているカッパドキア地方だ。一年の半分以上は日照りが続き、緑ひとつない裸の土地が露出している。見渡すかぎり岩山と荒地が続く風景は、まさに地の果てといっていい。そのあたりの小高い丘に登ってみると、さらに圧倒的な荒漠こうばくさが見る者の心をつかむ。地表を大きく裂き、深く臼い谷がある。その向こうには鋭くとがった三角の岩が林立するかと思えば、古代の巨石文明を思わせる壮大な岩山が散らばる。そしてその背後には、数キロメートルにも及ぷ長い断層。それは幻想的でさえある光景なのだ。だから、見る者の心は、このカッパドキアが創生されたその瞬間を夢想する。そのとき、あたりはもうもうたる炎やガスに包まれ、天と地の境もなかったに違いない。大爆発にしやくねつようがん岩は灼熱の溶岩流となり、飛び散り、溶け、激動し、叫び続ける----。とにかく、とてつもなく巨大なエネルギーが、この大地に荒れ狂ったことだけは実感できるのだ。この秘境カッパドキアは、一部の人にはその名をよく知られている。この荒地の内部には町らしい町はほとんどないのだが、そのかわり無数といっていいほどのキリスト教洞窟修道院がある。岩山や断崖に掘られたその修道院は、ほとんど廃彊になっているが、その一部にはたくさんの宗教壁画が描かれており、そのためキリスト教美術の宝庫とされているからだ。この魂をゆさぷるような荒野にキリスト教の修道士たちが入りこんだのは、三世紀の初めごろだとされている。彼らがなぜ、この不毛の荒野で神に祈らなければならなかったのか、それもひとつの問題だ。だが、いまここで取りあげたいのは、その洞窟修道院のさらに地下深くひろがっている、とてつもなく大きな穴ぐらのことである。
数十万人が住める巨大地下都市があった
それはイェラルトゥ・シェヒル(地下都市)と呼ばれる。地元の村人たちには古くから知られていたらしいが、そのうわさが政府に伝わり、トルコの考古学者が初めて調査したのは、一九六五年五月のことである。そして彼らが発見したのは、まさに地下都市と呼ぶのにふさわしい機能を備えた、巨大な地下遺跡だったのだ。トルコ政府の報告書はこう伝えている。「地下都市は、人間がそこで快適な生活を営むのに必要な機能を完全に備えていた。まず、最重要な通気孔(エアコンディショナー)が、地表から一五〇メートル以上もの深さまで、都市の中心部を貫いている。その都市は確められただけでも、地下八階建ての構造があり、各階層は階段や傾斜した通路でつながれている。通路と部屋の境目のところどころには、輪状の石扉が備えつけられていた。井戸もあった。共同炊事場もあった。炊事場には汚水おすい処理の溝と、煙を通気孔に導くベンティレーションが備えてある。寝室、仕事場、大広場があり、三条に分れた堂々たる地下歩道があった。」そして、カイマクルと呼ばれるようになったこの地下都市の推定収容人口は、なんと一万五〇〇〇人だという。いま、世界のどこにこれだけの人々が、日常と変わりのない生活を送れる地下都市があるだろうか。 しかも、こうした地下都市は一か所だけではない。一九六五年の調査で発見、確認されたのが、ほかにデリンクユ地下都市(収容人口六〇〇〇人)、ギョズテジン地下都市の二つ。その後、さらに収容人口がなんと六万人というオズコナーク地下都市が発見され、マヴルージャンという所にも地下都市が存在することが、最近明らかになった。その事実だけでも驚くべきことだが、このカッパドキアには、大小とりまぜてもっと多くのアンダーグラウンド・シティがあるらしいのだ。
戦争に備えた地下都市の疑問
それについてはいっさいが謎に包まれている。というのは、この地下都市群があまりに巨大すぎて、ほとんど調査ができていないからだ。地下八階まで確認されているカイマタル地下都市にしても、土砂が完全に取り除かれて見学可能なのは、上の数層にすぎない。そしてそこからは、ほとんど何の生活用具も出土していないのである。そこで、この地下都市群を研究している人たちは、地上にある洞窟修道院と関係づけて考えている。四世紀末、キリスト教はローマ帝国の国教となり、カッパドキアは東ローマ帝国に組み入れられた。そして六世紀になると、ササン朝ペルシアが東ローマ帝国をおびやかしはじめたため、両国の国境に近いカッパドキアは戦乱の場と化した。さらに七世紀になると、ペルシアにかわったアラブの回教軍がカッパドキアを襲う。修道士たちはこうした攻撃を防ぐために、地下都市を築いたのだ……。これが現在考えられている一応の解釈なのである。その根拠のひとつとして、この地下都市が、〃ある一定"の期間だけ使用された臨時の都市"""だったと推定できる調査結果がある。しかし、古代から現代までの戦争の歴史で、地下都市にたてこもって侵略者に対抗したという国や民族があったろうか。中国は旬奴きようどに対抗するため万里の長城を築いた。日本の歴史でも戦争のために築かれたのは、城や砦とりでである。とはいっても、カッパドキアの地下都市が、戦争に備えたものであったことは明らかだ。というのは、地下にたてこもって往き来できるように、デリンクユ地下都市と隣のカイマクル地下都市は、秘密の地下道で結ばれていたからだ。この二つの地下都市は九キロも離れている。当然、発見されたトンネルも九キロの長さを持っている。この距離は日本の丹那トンネルよりも長く、清水トンネルの長さに匹敵するのだ。地上に回教徒軍が攻めてきたとき、洞窟に隠れるくらいならまだしも、一〇万を越える人間が地下一五〇メートルの奥まで逃げなければならない戦争とは、いったいどういう戦争だったのだろうか。ひとつの地下都市がやられたら、九キロもの地下道pをくぐりぬけて別の都市へ移らなければならない戦争とは、いったい何だったのか。さらに不思議なことがある。一〇〇メートルや二〇〇メートルの距離ならともかく、九〇〇〇メートルもの長さの地下道を掘って、二つの都市を正確に連絡できるような技術を、六~八世紀の人々がほんとうに持っていたのだろうか、ということだ。二十世紀に行なわれた丹那トンネルの掘削くっさくでさえ、国家的な大事業だったのだ。今から一二○○~一四〇〇年も前のこと、それは想像を絶する大土木工事だったはずである。また、カッパドキアの荒れた地上風景を見るかぎり、この地方が六~八世紀当時、一〇万人以上もの人間が生きていけるほど豊かだったとはとても考えられない。まして戦争に備えて地下生活をする以上、かなりの食料や生活必需品を貯えておく必要があるが、キリスト教徒たちはそれをどこから手に入れたのだろうか。それともこのカッパドキアは、かってそんなに多くの人間を養えるほど豊かな土地だったというのだろうか。そして、騎馬のアラブ軍団と弓矢を武器としたキリスト教徒との闘いが、豊かな緑野をこんな草木もはえない不毛の岩山に変えてしまうほど激烈なものだった、と!こうした疑問は、はたして解決できるのだろうか。合理的な説明はつけられるのだろうか。
核戦争が地下都市を襲ったその問いに答えるのは、非常にむずかしい。しかし、まず大胆な仮説をあげて、それについてさまざまな検討を加えてみたい。その過程でカッパドキアの秘密は、明らかにされるはずだ。さて、その仮説とは次のようなものである。《カッパドキア地下遺跡は、昔、核戦争で滅んだ都市の跡だ》もちろん、現在の歴史の常識では、想像もできないような飛躍である。"しかし、カッパドキアの秘密は、""古代核戦争""を仮定すると、すべてに"合理的な説明がつけられるのだ。決して単なる空想ではない。その仮定には数多くの裏づけがあり、それらのひとつひとつを組み立てると、まさに恐ろしい大破壊"核戦争が、このカッ。ハドキアを襲ったことがわかるだろう。まず、人間が戦争に備えて地下深くもぐるのは、どんな場合かを考えてみよう。七世紀のアラブ軍団のような侵略者に対してだったら、人間はこんな馬鹿なことはしないはずだ。なぜなら、侵略者は少数の兵力で洞窟の入口を占領すれば、勝利をおさめられるからだ。入口をおさえれば、中に閉じこめられた人間はいずれ餓死してしまう!また、飛行機による火薬爆弾類の爆撃なら、第二次世界大戦をふりかえってみればわかるように、ちょっがんじようと頑丈な地下室で十分防げるのだ。とすると、地下一五〇メートルの地下都市が備えるのは、核兵器による攻撃以外にはありえない。"広島と長崎が.人類で初めて""と"いわれる核兵器攻撃の洗礼を受けてから半世紀。核兵器は今やインド、中国といった発展途上国にまで拡散した。と同時に、世界の国々は核戦争に備えて、軍事基地や貯蔵施設、研究所、工場などを続々と地下に移すようになっている。一時的には十万人以上の人間を収容できる地下都市も、世界各地につくられているほどだ。
デリンクユ地下都市の平面図
たとえばモスクワや北京の地下には、網の目のようにトンネルが掘られている。ワシントンの地下には、核戦争のとき避難してきた人々を、一定期間養えるだけの必要物資が貯えられている。ノルウェーは、軍港まで地下に移してしまった。そして、外国の一般市民は、個人用核シェルターをつくることに必死になっている。平和の国スイスに放射能汚染に備えた地下避難所が、数多くつくられていることは有名な事実だし、イギリスでは政府が核シェルターづくりを奨励している。アメリカの核シェルター・メーカーは成長産業だ。
このように核攻撃に備えた現代の地下都市と、カッパドキアの地下都市と、どこに違いがあるだろう。むしろあまりの類似に驚くばかりだ。
証拠Ⅱ数百万度の熱でできたガラス層
人類が核兵器を初めて手にしたのは、一九四五年のことである。とすれば、それ以前、はるかな昔に築かれたカッパドキア地下都市が、核戦争に備えたものである、というようなことが考えられるだろうか。しかし、ここに驚くべき事実がある。この地球のあちこちでは、いつとは知れぬ遠い昔に、核爆発があったという証拠が、次々に発見されているのだ。一九五二年にイスラエルで発掘作業にあたっていた考古学者たちが、五メートルあまりの深さの地層から、厚さが約六ミリで二~三〇〇メrトル四方に広がっている、溶解した緑色のガラス層を掘りだした。それは石英の砂の層が、その部分だけ溶けて変色したものだった。このような砂のガラス化現象が起こるには、きわめて高い温度が必要だ。火山活動や通常の爆発、火事などではこんな現象は生じない。それには数百万度の数…が必要だが、地球上でそれだけの熱が得られるのは、熱核反応しかないのである。そして、アメリカの考古学者たちは、それと似たガラス状物質をかつて見たことがあった。ニュー・メキシコ州の核実験の跡で!一九七三年にはイラク南部の砂漠で、同じようなガラス層が見つかった。この層はバビロニアやシュメ;ルなどの遺跡のかなり下に薄くひろがっていた。その南のアラビア南部の砂漠には、ハラスと呼ばれる強烈な放射能を受けたことを示している、黒く焼けこげた石の原っぱが二八か所ある。また、油田の調査をしていたフランス人の技師は、サハラ砂漠南部で緑色のガラス層のひろがりを見つけ、そこの溶解した珪土けいどが、「ホワイト・サンズ(アメリカの原爆実験場)のものと似ている」と報告している。モンゴルのゴビ砂漠でも、焼けてガラス状になった地層が発見されている。核爆発の証拠は、こうした不毛の砂漠(この砂漠自体、重要な問題を示している)だけでなく、世界各地の遺跡にも見られるのだ。
高熱破壊の遺跡は何を語るのか
ブラジルのピアウイ州に、セテ・シダデス(七つの都)と呼ばれる遺跡群がある。なかでも最大のものは、長さが約一・六キロもある都市だが、その中心にある大きな建築物の遺跡をのせた岩は、その南面が溶けてガラス状になっており、赤い金属が溶解して岩壁に涙のしずくのようにこびりついていた。探検家の一入はこう報告している。「あそこで発見されたいくつもの都市の遺跡は、規模として最大のものだと思われるが、一部は焼けつきてガラス状になっているし、溶解した石やクレーターだらけだった。無気味な裂け目が入った石の舗道や家があるかと思えば、岩がたぎってできた親指ほどの泡もある。それは、まるで巨人の火かき棒で襲われた跡のようだ!」さらに新大陸では、似たような遺跡がほかにもある。ペルーのタスコからそう遠くないところには、約一・六キロ四方にわたって山の岩が溶解し、結晶化している地域があり、城塞とおぼしき建造物の花崗岩かこうがんブロックは、高い放射熱によってガラス化している。このようにガラス化した遺跡は、北アメリカの南カリフォルニア地方、アリゾナ州、コロラド州でも見つかっている。もちろん、旧世界にも核爆発の影響を受けた遺跡がある。アイルランドのダンレアレとエニスの城塞の壁には、花商岩が溶けてしまうほどものすごい高熱の跡が残っている。また、古代ギリシアの地理学者であるストラボンは、その著書『地理』に、"""死海の地域には、原因不明の火によってとけた岩がある〃と書いている。場所がカッパドキアに近づいてきたが、もう二つだけ証拠をあげておこう。ごく最近、小アジアのハットウサの遺跡が発掘された。すると、ここではレンガ積みの家が溶けて、赤いかたまりになっていたのだ。かつてこの町は、想像を絶する高温によって破壊されたのである。また、古代バビロンの地域には、"何人かの学者が""これがバベルの塔""の名残りだ""と主張している、高さ"四六メートルの塔の廃墟がある。ここにもまた、人工的につくりだされた高温破壊の跡が残っている。これについて学者の一人は、「数万のレンガを赤く熱しただけでなく、これを溶かし、塔の骨組全体と粘土壁全部を焼きこがしている。こんな高熱はどこから生まれたのだろうか。説明がどうしてもつかない……」と話している。有史以前、文明が栄えた中近東やアジアのみならず、ヨーロッパの辺境アイルランドや南北アメリカにまで、核爆発としか思えないようなすさまじい破壊の跡が散らばっているのだ。このことは、いつとは知れぬ古代、全地球的規模での核戦争があったことを物語るのではないだろうか。ひとつの都市、ひとつの地域ではなく、当時の文明すべてを滅ぽすような、そんな大規模な戦争があった。しかも核という最終兵器を使って……。
伝説の兵器は現代の核ミサイルか?
こうした大破壊があったとしたら、それはなんらかの形で後世に伝えられて必ず人類の記憶として存在するはずである。それを示す文献はないものだろうか。それがある。インドの古代サンスタリット語文献の中で、最も有名な『マハーバーラタ』は、さながら核戦争についての教科書のような文献だ。この文献は二五〇〇年前から現在の形で存在していた二〇万行からなる叙事詩だが、古代では考えられないような超兵器のようすを、くわしく伝えているのである。ヴィマナ(鉄でできた胴体に翼がついている空の戦車)に落ちつきはらって陣どっていた英雄アドワッタンは、水面に降りたち、神々すら抵抗しがたいアグネア兵器を発射した。並みはずれた殺傷力を持ち、煙をともなわぬ火を放つ鉄の矢は、束になって敵を包みこんだ。流星が光を放って空から落ちた。たちまちのうちに敵の軍勢の上空は、濃い闇におおわれた。天も地もわからなくなった。強烈な風が吹きはじめ、不幸をもたらすたつまきが生じた。黒雲がとどろき、空高く登っていった。チリや砂が突然降ってきた。太陽でさえ目をまわして、ゆれ動いているようだった。地球はこの兵器の恐ろしいまでに激しい熱にゆれ、焼けこげた。広大な地域で、動物たちが大地にくずれ落ちて死んだ。水は蒸発して、その中の生物たちは死にたえた。あらゆる角度から炎の矢が絶えることなく激しく降りそそぎ、敵の戦士たちは猛火に焼かれた木立こだちのように倒れた。何千もの戦車が横転した。これはまさに核弾頭を備えた対地ミサイルの爆発ではないか。そして兵士たちも、この兵器の性質を知っていた。というのは、助かった少数の兵士たちは、まだ戦闘が終わっていないのに、大急ぎで近くの川にいき、自分たちの衣服や武器を洗って"いるのだ。""死の灰""による放射能障"害を防ぐための行動によく似ているではないか。『マハーバーラタ』が伝えるのは、核ミサイルだけではない。核爆弾による都市攻撃をも報告している。高速のヴィマナで飛んでいたグルカは、三つの都市に向けて、宇宙のすべての力を秘めている弾丸を投下した。太陽が一万個集まったほど明るい、煙と火がからみあった光り輝く柱がそそりたった。ヴリシュニとアンダーカの全住民が灰と化した。死体はひどく焼けていて、見わけがつかなかった。髪の毛やツメは抜け落ちていた。まるでだれかが、広島や長崎のあの日を見て書いたような文章ではないか!米国ロス・アラモスの最初の原子の火を見たジャーナリストは、"""一〇〇〇個の太陽より明るかった"""と報告したが、この爆発の様子、立ち上る煙と火の柱、犠牲者の姿、放射能による汚染の影響……などの記述は、核兵器以外のものを考えさせない。そして、インドにはこの『マハーバーラタ』を裏づけるような証拠がある。『マハーバーラタ』は、核戦争のあった場所をガンジス川上流だとしているが、まさにその地方に、焼けこげた無数の遺跡があり、岩石が"溶けてできたかたまりは、""溶解した"鋼鉄がすず鋼の中を貫流したかのように""中空になっている。"また、ずっと南のデカン高原にも、建物の中の調度品すらガラス状になっている高熱廃嘘がある。そしてこの地方では、普通のものの五〇倍の放射能を持った人間のガイ骨が発見されているのだ。こうした古代の核戦争の存在を伝える文献や伝説はほかにもある。同じインドの古文書『ドロナ・パルバ』は、五十万人をまたたく間に壊滅さ"せた""カピラの閃光せんこう""について記述"している。中国にも古代核戦争を伝える文書がある。シベリアやカナダの原住民"のあいだには、""金の貝がら""に乗っ""て空を飛び、""輝く光の矢〃で都市を"破壊しつくした戦士の話が伝わっているのだ。こうした古文献の記述を、すべて古代人の空想とみることも可能だ。事実、核兵器が開発される前は、おとぎ話として放置されていたのである。しかし、核兵器の実態が知られるにつれ、古文献の研究者たちは、こうした記述の再検討を迫られ、そこに新たな意味を見つけだしつつあるのだ。
アルタミラ
スペイン北部にある有名な先史洞窟。一八七九年、一少女によって偶然発見されたこの洞窟の内部には見事な牛の絵が描かれている。最近はこの洞窟に先史の宇宙船らしき各種の円盤模様が描かれてしるということで、新たな注目を集めている。
ヴァル・カモニカ
イタリアのミラノ北東百キロの地にある峡谷。この谷の岩に彫られた線刻画は、先史時代からローマ初期のものまで[万五〇〇〇点を越え、中にはヘルメットをカぶった宇宙人が向かいあって戦う場面を描いたとされる不思議な絵がいくつもある。カモニカ漢谷の一帯は、紀元前八世紀の戦争と大異変の時代に、づアジアのトロイから亡命した原日本人カラ族の一派、カムナ族が移り住んだ地域とみられ、日本の神字(カムナ)とそっくりの刻文が残されている点で注目される。
[エジプトの地下都市]
世界各地に存在する地下都市や地下トンネル網は、転襯や神話の中で、迷由員黄泉の国、地下の楽園、または地獄として描かれている。ギリシア神話の英雄イアrソンに率いられたアルゴr号の乗組員たちは魔女メデイアの住む黒海沿岸の地底王国コルキスを訪ね、龍の車(宇宙母船)と黄金の羊の皮ごろも(宇宙服)を手に入れたといわれたり、エジプトのファラオは女神アメンティの住む地下の楽園を訪ね、そこにある宇宙基地チュアト(星に向かうところ)からかホルスの眼"と呼ばれる宇宙船に乗って星の彼方に飛んだといわれる。これまでエジプト神話のオシリスの国、暗黒の地下世界は空想的なものと考えられ、何ら実体がないとみなされてきた。が、探検協会ではオシリス神話の世界が太古のエジプトに実際にあった地下都市の記憶をとどめるものと考えている。最近エジプトのピラミッドで新たに謎の地下室が発見されたところから、伝説的なピラミッド回廊の存在が再び注目されている。サッカラの階段状ピラミッドの下に、強い放射能を含む塵ちりに満たされたトンネル網があることを知っている人は、王家の谷の性格を従来とは異なった視点からとらえなおしているかも知れない。おそらく古代エジプトの信仰を今もとどめるコプト派の人々の中には、エジプトからスーダン、エチオピアにかけて実在した太古の地下都市の記憶を伝えている人もいるにちがいない。探検協会では、ナイルの源流地帯に今なお太古の遺産を秘めた地下都市があることを固く信じており、いつの日か、パピルスに記されたチュアトの存在が明らかになるのではないかと、目下、調査を進めている。
王家の谷
エジプトのテーベ郊外にある王家の谷は、『死海写本』で有名なヨルダンのクムラン洞窟、トルコのカッパドキア遺跡とともに、考古学上画期的な発見がなされた地として知られる。クムランやカッパドキアそっくりの外観をもつこの地の洞窟群から発見されたッタンカーメンの黄金のマスクや歴代ファラオのミイラ、数々の豪華な遺品と遺構は、昔目のテーベの繁栄をしのばせるに十分である。しかし王家の谷は、古くからファラオの呪いに満ちた死の影が漂う土地でもあった。その呪いは、ツタンカーメン王墓の発掘にたずさわった関係者が次々に謎の死を遂げた時、すべてのエジプト学者をふるえあがらせた。原因は何だったのだろうか?この問題を調査した学者たちはやがて意外な事実を発見した。それは、王家の墓が大量の放射能を含む塵ちりに埋もれていたことだ(ゴネイム論文)。この事実は何を物語るものだろうか(同じ地形をしたクムラン地方でも二万人の遺体を収容した地下墓地と放射能が確認されていることは注目される)。
[オデッサ回廊]
オデッサ・力タコームとして知られるウクライナの地下回廊はロシア有数の第四紀動物化石の産地で、一九二九年、グリツァイによって発見され、現在までロシア科学アカデミーが継続的に調査している。オデッサ市の地下三〇平方キロにわたって図のように張りめぐらされたトンネル網の一部は明らかに人工的なものであり、キエフ市の地下トンネル網やクロマニヨンの地下マンション(収容規模二万人)との関係が注目される。オデッサ地下回廊平面図
カイマクル
トルコのカッパドキアにある謎の地下都市群のひとつ。人口数万人を収容できる地下八階構造の大遺跡として知られる。中央部のタテ穴の深さは一五〇メートル以上。各階の部屋は傾斜した通路や階段で複雑に結びつけられ、地下八階には三条に分かれた堂々たる回廊もある。八階にうがたれたトンネルは十キロ離れた隣の地下都市デリンクユに通じ、さらにデリンクユから他の地下都市へも伸びている可能性があるカイマクルの内部
[カッパドキア]
トルコのアナトリア高原中部にある広大な不毛地帯カッパドキアは、ギリシア語のカッポータス(つまりゼウスの異名「落とす者」)に由来する「雷挺の落ちたところ」だ。ウチュヒサールと呼ばれるこの地方の中心にある奇怪な岩山に立つと、周囲数十キロを赤々とした崖に取り囲まれた盆地のいたるところに、異様な形をした尖塔群が林立するさまを見ることができる。尖塔のひとつひとつは数階建ての洞窟で、その内部にほどこされた無数の宗教画と彫刻の存在は、この地を東口ーマ帝国時代のキリスト教美術の宝庫としている。
しかしこの地の最大の驚異は、ウチュヒサールを囲む台地の下に眠る巨大な地下都市群の存在であろう。現在までに調査済みのカイマクル、デリンクユ、ギョズテジン、オズコナークをはじめ、マヴルージャンその他の地に存在するいくつかの地下都市は、すでに確認されたオズコナークだけでも推定収容人口六万入の規模を誇るもので、ここにかつて生活した人々の数は数十万にのぽるとみられる。しかも注目されるのは、これらの地下都市が、デリンクユとカイマクルを結ぶ長さ約十キロの地下トンネルを一例として、かつては相互に結ばれていたとみられることだ。一九六五年にこれらの遺跡を調査し、初めて世界に地下都市の存在を紹介したトルコの考古学者ヒクメット・ギュルチャイとマフムット・アコクの二人は、この巨大な地下施設の建造年代を六~十世紀と推定した。しかしその後の高橋の調査によれば、これらの建造年代は、カイマクル・カレの一部にみられる高熱による風化作用の跡や同地域で検出される高濃度の放射能、アナトリアの巨石文化や王家の谷の成立年代などからみて、少なくとも紀元前八○○年ころまでさかのぼるとみられる。カイマクル・カレという地名が「クリーム状の城」、すなわちクリームのように溶けてしまった都市を意味していることは、これら地下都市の造られた目的と無関係ではなかったろう。
カイマクル地下都市断面図
紀元前8世紀の核戦争マップ
[クーガ王国]
チベットの最奥地、ナムナニ峰の麓に広がるアリ高原には、今も謎につつまれたクーガ王国の遺跡がある。海抜四五〇〇メートルを越えるこの地の、異様な山肌を表した比高三〇〇メートルの山頂にクーガ王国の都城はあり、断崖絶壁によって周囲の台地から隔てられたこの王宮へと到る道はただひとつ占厘の麓に口をあけた洞門をくぐって、暗黒の通路を登りつめる以外はない。そしてこの絶壁の急斜面にもまた、無数の洞窟が口を聞き、何百という建物が頂上まで連らなっているのである。これらの遺跡は、チベット王朝の末期にランダルマ王によって弾圧された仏教徒が、ラサ、シガツェからこの地に亡命して建てたクーガ王国の遺産とみられている。しかし、彼らが立てこもったこの王城の設備はあまりにも当時の水準からかけ離れたみごとなトンネル技術の跡を示している。クーガ遺跡と同じ構造をもつ要塞は、インドやセイロン、ブラジル、南アフリカなどに数多く残されているが、それらは本来、どのような技術と意図をもって造られたのだろうかクーガ王国の北西に位置するパミール高原で、ロシアの調査団はすでに巨大なホールと階段、整然とした区画をもつワハンスカヤ地下都市を発見しているが、この地下都市の建設者とクーガ遺跡を残した人々との問には、どんなつながりがあるのだろうかすべては大きな謎につつまれたままである。
ダージリンより見たヒマラヤ山脈
クレタの迷宮
一九〇〇年、イギリスのA・エヴァンスによって発見された地中海クレタ島のクノッソス宮殿のこと。複雑怪奇な迷路と近代的な設備(水洗便所など)をもつこの四階構造の石造宮殿は、ギリシアの英雄テセウスが退治した牛人ミノタウロス"の住む""クレタの迷宮""と"して神話に語り伝えられたもので、シュリーマンのトロイ発見に次いで、神話が歴史的真実を含むことを証明した画期的な遺跡である。 <!--[if !vml]--><!--[endif]-->
紀元前の目本人が建設した?クレタのクノッソス宮殿
[古墳シェルター説]
核爆発にともなう放射能の被害を防ぐには、なんらしやへいかの遮蔽物が必要だ。鉛によるものが効果的であることは知られているが、土や水も効果がある。たとえば、土を一メートルほどの厚さに盛って、よくつき固めた場合、放射線は地上の五〇分の一に減ってしまう。核攻撃のときに、このような盛り土を固めた""古墳"""内部の石室、石棺、木棺の中にしばらく(四~五日問)避難すれば、一次放射線を浴びて死んだり、重い放射線病にかからないですむだろう。このように、""古墳""はもともと死者を埋葬する施設というよりは、緊急避難用の簡易シェルターとしてつくられたのではないか。たまたまこのシエルターで生き残った人々が、新たな文明再建の中心になったため、子孫が彼らを祭る場所とし"て崇拝した。これが""古墳"""造営の始まりとも考えられる。
[サハラ砂漠の謎]
地球上最大の砂漠サハラには、かつてアルビエンヌ海と呼ばれる広大な湖があった。有名なタッシリ遺跡"やセファールの""七つの都市""を含む、""炎の島""ハガ"ールのまわりに広がるこの美しい湖は、伝説によれば、太陽神ヘリオスの子パエトーンの操作する車が誤って地上に落ちた時、一瞬のうちに消え去ったといわれる。その原因は何だったのだろうか。古代の歴史家や詩人たちが繰り返しその悲劇をとりあげたパエトーン伝説の真相を解き明かす鍵は、リビアン・ガラスとも呼ばれるテクタイト(ギリシァ語のテクトス「溶けた岩」に由来するもの)の成因にある。テクタイトは岩石が最低二五〇〇度の高温で溶けたあと急激に冷えてできたもので、これまで火山生成物ないし隈石であろうと推測されてきた。しかしリビア砂漠のテクタイトが火山生成物であるという証明はなく、隕石説も、テクタイトの成分が砂漠の砂とほぼ同一で地球外起源の成分を含んでいないために無理がある。むしろわれわれは、テクタイトに含まれる放射性同位元素の存在などから、その成因を核爆発の高熱に求めるべきだろうサハラ砂漠が核爆発によって誕生したとみられる別の根拠としては、エジプト、チュニジア、モロッコにある地下都市や地下回廊、今西探検隊が偶然発見したサハラの玉石(簡易式シェルター)などがある。また最近の人工衛星写真によれば、サハラ砂漠の西には巨大なウラン埋蔵地があることも確かめられている。この地に近いオクロで「天然原子炉」の跡が発見されていることは何を物語るのだろうか。
[C14年代測定法]
年代測定には"上の地層は下の地層より新しい〃というぐあいに時問の前後関係だけを示す「相対年代」と、"今から何年前"というように年数で示す「絶対年代」とがある。この二つのうち絶対年代は、古代史研究には欠かせないものだ。よく聞かれる「放射年代測定」もこの絶対年代を出すためのものだが、その中のひとつに「放射性炭素法」(C14法)がある。これは現在の大気中のCロ量を一〇〇とした時、ある遺物のC14量が五〇であれば、C14量が五〇パーセントに半減する期間五七三〇年をもとに、その遺物は五七三〇年前のもの、と測定する方法だ。放射性元素の崩壊速度は、まわりの温度や圧力などに左右されず、規則正しく進行するので、このC14法なども比較的正確な絶対年代を測るものと思われてきた。ところが、高橋良典は、この測定法には落し穴があるという。仮に今から五七三〇年前の大気中のC14量が五〇しかなかったとすれば、遺物に含まれるC14量は二五になっているはず。にもかかわらず今までの方法だと、一○○のものが五〇になるのに五七三〇年、さらに二五になるまでの五七三〇年を加えて、一万一四六〇年という年代を出してしまう、というのだ。そして地球上のC14量は変化している、という最近の研究成果を考え合わせると、このC14年代は再検討する必要がある、と指摘するのだ。もしこの指摘どおりなら、現在知られている古代地球の歴史は、大きく書きかえられることにもなるのだが、はたしてその真相は?
シカゴ大学のリビー博士が開発したC14年代測定法には問題がある
[シルダリア地下回廊]
ロシアには、昔から豊富な地底王国の伝説がある。カザフ共和国のシルダリア地下回廊にまつわる話もそのひとつだ。四世紀の終わり頃、フン族に侵略された中央アジアの遊牧民族サルマートの言い伝えによれば、彼らは征"服者の迫害を恐れて""秘密""の地下道""づたいに""シャンバラ""へ逃がれたといわ"れる。カザフ共和国の歴史家ドスジャノフは、この伝説の真偽を確かめるため長年中央アジアの伝説と洞窟調査を続けてきた。そして彼は、遂に伝説のトンネルとみられるものをシルダリア川の上流に位置するタシケントの郊外で発見した。高さ約ニメートルのこのトンネルは、支柱を使わなくても安全な堅い岩盤に高度な技術を駆使してつくられたもので、約二〇メートルことに地上部に達する通気孔が天井に設けられているという。彼の発見したトンネルが、昔からこの一帯にあると噂"されてきた""シャンバラ国"""の地下回廊の一部をなすものかどうか不明であるが、シルダリアの流域にはこのほかにもいくつかの人工トンネルがあり、それらは、十九世紀の初めにチベット文献を調査したハンガリーの探検家ケーロスが明らかにしたシャンバラ(クジルオルダの北東・北緯四五~五〇度一帯)の地下都市につながるものとみられる。シルダリアが流れるツラン低地とアラル海の周辺は、地下都市研究が盛んな地域のひとつで、無数の地下川がその下を流れるウスチウルト砂漠の表面に、ナスカの地上絵をはるかに上回る規模の巨大な地上絵が数多く残されていることは、地上絵と地下都市の秘められたつながりを物語っている(ナスカ台地の下にも推定延長数百キロに及ぶ地下トンネルの存在が確認されている)。
ロンドンのシェルター図
カイマクルの迷宮
テクタイト
エジプト、スーダン、リビア三国の国境地帯、ウェイナット山の近くのクレーター周辺から、リビアン・ガラスと呼ばれるテクタイト(ギリシア語のテクストケ"溶けた岩""を意味するもの)が見つかっている。これは隕石のカケラとみなされてきたが、地球外起源の成分を含んでいない。逆に、リビア砂漠の砂と化学構造が非常に類似していることが判明している。一般にテクタイトは、岩石が最低二五〇〇度の高熱で溶けたのち、急激に冷えてできたものとされている。このような高温は火山活動でも生じるが、リビア砂漠が火山活動でつくられたという証明はない。むしろテクタイトに放射性同位元素が含まれていることから、これをつくったのは核爆発によるものだと考えることができるのである。
トロイ
ヨーロッパの地図を開くと、ひとつの奇妙な事実に気がつく。「卜ロイ」という地名が、あちこちに見られるのだ。たとえば、イギリスの「トロイ」は古くから信仰の中心地とされ、そこには迷路状の地下道がある。また地下宮殿で有名なクレタ島には、「卜ロス」と呼ばれる地下墓地がある。この「卜ロス」が「トロイ」という言葉に関係することは確かだ。さらにヨーロッパを離れると、アフリカのチュニジアには「卜ログローディス」と呼ばれる地下生活者がいる。「卜口」は「卜ロイ」に関係ある言葉と思われる。こうした「トロイ」に共通するのは、「地下」とか「洞穴」ということだ。つまり大胆に仮説を提起すれば、「トロイ」という言葉は、単に小アジアのトロイをさすのではなく、地下回廊や迷宮などの.地下都"市がある場所""を示しているといえるかもしれない。
[パエトーンの落下]
ギリシア神話に描かれた次のような核戦争の記憶。今、地上は高い山々まで炎に包まれ……大都市はその城壁もろともことごとく崩れ落ちている/工トナ山は二重の火によって高々と巨大な火柱をあげ、パルナソスの二上山、エリュクス山……カフカス山脈……アルプス山脈の高峰、雲をまとったアペニン山脈まで炎に包まれてしまった/リビアは熱のためその水分をすっかり失い……ナイル河は七つの河口の水がかれて砂漠となり……大地は到るところで裂けた/海は干あがってかつての大海原は不毛の砂漠と化し、深い水におおわれた海底一の山脈があらわれてキュクラデのごとき島々となった/パエトーンはその髪の毛をちりぢりに焼かれながら、空に大きな弧を描いてまっさかさまに墜ちていった……(オヴイディウス)
バベルの塔
聖書に史上初の権力者ニムロデが築いたと記された塔。イラクのバビロン遺跡にあるジッグラトがその遺跡とされる。推定によれば、底辺と高さがそれぞれ九〇メートルの階段状ピラミッ頂上の神殿で宇宙神マルドゥクを迎えたという。この塔跡で不可解な高熱で溶けたレンガが発見されている。高熱で破壊されたあとを示すバクダットの階段状ピラミッド
ヒッタイト
トルコのアナトリア高原を中心に栄えた謎の帝国。ヨーロッパからアジアに進出したその民族は一時は西アジア一帯に勢力をふるいエジプトとも戦った。アナトリアに残された首都ハツトゥシャの遺跡は、随所に巨石を用いたもので、家々のレンガが当時としては想像もつかない高熱で溶けた跡をとどめている。マブレヤ文字に似駄鎚以字や前インカに似た絨毯をつくったヒッタイト人は、帝国もろとも謎の消滅をとげ、その技術、文化も多くの謎につつまれている。
「ラーマヤナ』の舞台となったキシュキンダーの王城ハットウーシヤ <!--[if !vml]--><!--[endif]-
古代核戦争の廃墟から出撃するアトランティスの軍隊1
[放射能の後遺症]
核爆発は、人体に直接・間接に悪影響を及ぽす。それは広島・長崎の例でもよくわかるが、古代に全地球的規模の核戦争が行なわれたとすれば、放射能による後遺症の記録が、なんらかの形で残っているはずだ。この点に関し、地球文化研究所の高橋は、イースター島のモアイ・カヴァカヴァやオルメカ、チャビンの彫刻が、放射能障害としてのケロイドや奇形、甲状腺腫、.クレチン病などを表していると指摘する。このような土偶や石像、木像は、似たようなものが世界各地で見つかっている。ネアンデルタール人がクル病にかかっていた、というのは有名な話だが、クル病は放射能障害の後遺症とみることもできるのだ。古代核戦争の結果、生き残った者の子孫はその悪影響で退化したことも十分に考えられる。
ケロイドのあとを示すオルメカ遺跡の出土品
蛙子ひるこをかかえて悲しむ父親(イザナギ)
[ボリショイ・キテジ]
ロシアの民衆の問に今も生き続ける地底王国の伝説の中で、最もよく知られ、親しまれているのがボリショイ・キテジの物語である。ジンギスカンの孫バツーの率いるモンゴル軍の攻撃のさなか、突如、地底に消えたスズダリ公国の都ボリショイ・キテジの話はロシアの作家や詩人、リムスキー・コルサコフのような作曲家が取り上げたおかげで、今なおその存在を信じる人が跡を絶っていない。一二三六年に消えたこの都の住民は、伝説によれば、今も地底でしあわせな生活を送っており、スズダリ公国の故地に近いスベトロヤーリ湖の水面に、ときおり町の姿を映し出すといわれている。実際にこの湖を調べたダイバーたちは、伝説を裏づける証拠を湖底に見つけることはできなかった。しかし、この小さな円い湖を取り巻く周辺の台地には、かつてこの地を訪れた信者たちが掘ったとされる人工の洞窟が無数にあり、内部は何層かの迷路になって、地上に通気孔が残されている。さらにスベトロヤーリ湖一帯を含む、ヴォルガ沿いのマリ族居住地区の到るところに、このような人工洞窟や地下トンネル、地底湖や地下川、あるいは巨大な陥没地がある。ということは、やはりこの一帯にかつてボリショイ・キテジの伝説を裏づける地下都市が実在したことを物語っているのではないだろうか。
[マハーバーラタ]
インドに伝わる世界最大の叙事詩。バーラタ族の戦争伝説を中心とする全一八巻ニニ万行に及ぶ詩編の起源は、遠く二七〇〇年前まさかのぼで遡る。作者はヴィヤーサと呼ばれるマハーバーラタの勇士と同時代に生きた伝説的聖人。物語の舞台となるのはガンジス河とヤムナ河のメソポタミア両河にはさまれたクルの大平原である。ここでバーラタ王の血を分けあった二組の子孫パーンダヴァとカウラヴァの両派が王位をめぐって対立を深め、遂には最終戦争によって共倒れの悲劇に終わる。全編の筋書きは、ホメロスの伝えるギリシア叙事詩『イーリアス』の構成に通じるものがある。両陣営が決戦に臨んで用いた兵器の数々と戦闘の場面は、この説話が今から二七〇〇年以上も昔の戦争を扱ったとは想像もできないほど現代的であり、ククラやアグニのような核ミサイルを思わせせんこうるもの、核爆発の閃光とその後生じる放射能障害を描写したようにみえる記述が"十八日戦争"を扱った六~九巻の随所にあらわれる点は大いに注目されてよい。また、この叙事詩に登場するクル族(バーラタ族)の英雄が、日本神話の高天原で活躍したわれわれの祖先と一致することも興味深い(徳間書店刊『謎の新撰姓氏録』参照)。
[ムー王国の地下都市]
紀元前六八七年の最後の異変前に、シュメール語でムーと呼ばれた宇宙船を駆使していたわれわれの祖先は、以下の地域を含む地球上の各地に、大規模な地下都市群とトンネル網を残したとみられる。
クーガ(中国)
ラサ(〃)
トルファン(〃)
トンホワン(〃)
コイリン(〃)
ユエヤン(〃)
ムスタング(ネパール)
アティス(モンゴル)
コリマ(ソ連)
キテジ(〃)
シルダリア(〃)
オデッサ(〃)
カフカス(〃)
アルメニア(〃)
カーネーリ(インド)
ジュンナール(〃)
ワハンスカヤ(アフガン)
ゴルガン(イラン)
アニ(トルコ)
カッパドキア(〃)
サモス(ギリシヤ)
クレタ(〃)
ローマ(イタリア)
クマエ(〃)
エニャーツィア(〃)
モーディカ(〃)
べツサ(〃)
カルパート(チェコ)
プロバン(フランス)
ピレネー(スペイン)
グランカナリァ(〃)
タンジール(モロッコ)
アハガル(アルジェリア)
マトゥマタ(チュニジア)
バールベック(レバノン)
クムラン(ヨルダン)
エルサレム(イスラエル)
ギゼー(エジプト)
ゴンダル(エチオピア)
クライン(南アフリカ)
ワマ(ナイジエリア)
マラニヨン(フラジル)
ロンカドル(〃〉
サンタカタリーナ(〃)
ロライマ(〃)
アタカマ(チリ)
ラノララク(〃)
ティアワナコ(ボリビア)
ナスカ(ペルー)
クスコ(〃)
マチュピチュ(〃)
クエンカ(エクアドル)
サンアウグスティン(コロンビア)
テクパン(グァテマラ)
ロルトゥン(メキシコ)
アカンバロ(〃)
チョルーラ(〃)その他
[ムスタング]
チベットとネパールの国境地帯に、ムスタングと呼ばれる地方がある。ここにはかつてムスタング王国があり、チベットやネパールの諸王朝から独立した王侯が、長い間勢力をもっていた。フランスの探検家ミシェル・セペールは、一九七〇年代の初期に、ヒマラヤ山中の険しい谷に囲まれたこの地を調査することになり、ロ・バス族の居住地に近い荒涼とした山の絶壁で、みごとな掘削技術の跡を示す二九の人工洞窟群を発見した。これらの洞窟は、絶壁の中ほどに等間隔で口をあけ、中に入ると秘密の通路でつながっていて、奥には広いホールと大小無数の部屋があった。現代の石工も及ばない高度な技術を使ってきれいに仕上げられたこの洞窟遺跡は、明らかに、いつの時代か、大勢の人間が共同生活を営んだ跡にちがいないが、セペールによれば、この地に長く住むロ・バス族も、この遺跡を残した人々については、何も知らなかったこの遺跡に関する情報をマイケル・グラムリーから入手した地球文化研究所の高橋は、一九九二年に現地におもむきジョング河谷の北面斜面にうがたれた無数の人工洞窟を調査した。しかしその後、この遺跡を中国政府やネパール政府が本格的に調査したという話は聞いていない。ヒマラヤ山脈の国境をめぐる関係諸国の紛争の原因は、案外、これらの洞窟に眠る未知の文明の遺産にかかわりがあるのかも知れない。
ラーマヤナ
『マハーバーラタ』と並び称されるインドの英雄叙事詩。全七巻。作者は前三世紀の詩人ヴァールミーキと考えられている。物語はヴィシュヌ神の化身ラーマがガンジス河の北にあるコーサラ国王ダシャラタ王の息子として生まれるところから始まる。首都アヨーディヤの宮廷に育ったラーマはシータと結婚し王位を約束されていたが、継母の陰謀によって森に追放され、そこで魔王ラーヴァナにシータを奪われる。猿王スグリーヴァと同盟を結んだラーマは、ハヌマーンの協力でシータがランカの宮殿にとらわれている二とを知り、ラーヴァナとの一大決戦におもむく。ラーヴァナとの壮絶な戦いと勝利の後シータを取り戻したラーマは、シータの純潔を確かめた上でアヨーディヤに凱旋がいせんし、王として迎えられて善政をしく。このような内容をもつラーマ物語は一片の美しい口マンだが最近この叙事詩は、ヴィマナ"と呼ばれる""宇宙船や""プシュパカ""と"いう不思議な空中戦車が登場することで注目されている。この叙事詩の中で魔王に仕立て上げられたラーヴァナが美女ヘレネーを誘拐したトロイの英雄パリスとして欧米に知られている太古日本の大王オモタルヒコであったこともさらに注目されてよい(『謎の新撰姓氏録』参照)。
国常立の息子クベ-ラとシバの都とされたチベットのカイラス山
その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった…:
尭・舜の時代に地球全土は戦火に包まれ、禺は洪水の後始末に追われた
ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、人身牛首の神を祭る者、蛇身人首の鬼を祭る者が西から東へ次々と来たり、我らの地に住みついた
ー『契丹古伝』
続く・・・