2013/03/10
新世界秩序の覇者の行方は天武派か天智派か?
読者の皆さん、こんばんは。
朝鮮総連売却が迫って、北朝鮮も騒がしくなってきました。
既に引っ越しは済んでおりますので、あまり影響は無いのかも知れませんが・・・
朝鮮半島有事の際は、再び難民が押し寄せる事でしょう。
本当に歴史は繰り返すものですネ。
放射能、黄砂、PM2.5、花粉・・・
3次元物質世界も生活しにくくなってきた模様です。
そろそろ、地球の浄化作用が発動してもおかしくない状況に思えます。
今回は、藤原北家と藤原式家のおさらいをしながら、妄想を楽しみたいと思います。
皇室は1200年以上の長きに渡って、藤原氏の占領状態にある。
日本の真の実力者は、現在も藤原家なのである。
過去に生じた日本の戦乱は、藤原家の内部抗争にすぎない。
即ち、藤原鎌足の次男である藤原不比等の子孫達による争いなのです。
先ずは、不比等の息子である藤原四兄弟。
長男、武智麻呂(むちまろ)・・・・・ 南家
次男、房前(ふささき)・・・・・・・・・・北家
三男、宇合(うまかい)・・・・・・・・・・式家
四男、麻呂(まろ)・・・・・・・・・・・・・・京家
(下画像引用元 藤原四家の盛衰 )
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余談だが、殆ど歴史には名前が残っていないが、不比等には兄がいた様だ。
藤原鎌足の長男とされる定恵(じょうえ)。
この謎多き人物については、またの機会に触れたいと思う。
それでは、現在も皇室を占拠している藤原北家の系図を確認してみよう。
繰り返すが、藤原北家の開祖は藤原不比等の次男である藤原房前。
(下画像引用元:系図でみる近現代 第10回)
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この藤原房前の曾孫である藤原冬嗣は、文徳天皇に娘を嫁がせる事に成功。
以後、朝廷内に絶大なる権力を確保するのである。
源氏の祖とされる清和天皇。
この清和天皇の父が文徳天皇で、母が藤原冬嗣の娘である藤原明子である。
つまり、清和天皇は藤原北家にとって初の天皇誕生となった訳である。
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藤原北家はその後、藤原5摂家を確立。
即ち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家であります。
この5摂家が、現在まで日本の影の支配者として君臨しているのです。
参考:摂家
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藤原五摂家が、現在も続いていると本気で思っている方は極めて少数かと思われます。
しかしながら、藤原五摂家と徳川家が婚姻政策で皇室と融合している事実は否めません。
現代でも徳川宗家と5摂家筆頭である近衛家は親密であります。
この日本では、最も伝統と権威を誇る天皇家と如何に親密になれるかが、権力闘争に勝ち抜くための必勝法なのです。
1336年に、源氏である足利尊氏によって後醍醐天皇が吉野に退去。
京都には、光明天皇が迎えられます。
以後、京都が北朝で吉野が南朝と称されるのです。
確かに文科省のカリキュラムでは、北朝・南朝は統合されて現在に至る事になっております。
現実には、今日まで北朝派と南朝派が存在しているのです。
この様な経緯を持って、当ブログでは藤原北家=源氏=北朝派と表現させて頂いております。
そもそも、北朝派のルーツは天武天皇にあります。
参考:日本会議 (WIKI)
一方の南朝は、藤原式家を母体とする勢力です。
藤原良継の父が、藤原式家の祖である藤原 宇合(藤原不比等の3男)。
平成13年(2001年)12月18日、今上天皇は「韓国とのゆかり」発言をされております。
当然ながら、桓武平氏との関係も深い。
織田信長は、桓武平氏を名乗っていたとされている。
相馬氏の所領は磐城国。
磐城国は、現在の福島県浜通り、中通り白河郡、宮城県南部。
上杉氏、葦名氏も現在の福島県と縁があります。
興味深いのは、石田三成の出自が相模葦名家との説がある事です。
関ヶ原合戦の徳川VS石田は、北朝(北家)VS式家(南朝)そのものだったと言えそうです。
余談ですが、相馬氏の末裔と麻生元総理との関係は深い様です。
参考:桓武平氏から出た戦国武将
安土桃山・明治・昭和(戦後)・に影響力を発揮。
日本国内では、尾張・薩摩・長州・新潟・福島がキーワードでしょうか・・・
藤原式家=桓武平氏=南朝のルーツは天智天皇であります。
参考:世界連邦運動
ここまでは、北朝と南朝のおさらいをしてきました。
それでは次に、天武系と天智系について復讐してみましょう。
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決定的な差は、百済派か新羅・唐派かの違いであります。
全ては、 白村江の戦い に集約されるのです。
大和朝廷と親密だった朝鮮半島の百済。
この百済に唐・新羅の連合軍が攻め込みます。
百済は滅亡。
当時、日本に住んでいた百済王子の扶余 豊璋 。
百済復興の為、朝鮮半島に30年ぶりの帰還。
時の皇極天皇(斉明天皇)は、百済の応援要請に答えます。
皇極天皇は百済救援の軍を差し向ける前の661年に崩御されます。
皇極天皇の父である茅渟王 (ちぬのおおきみ・ちぬのみこ)は、百済王との説もあります。
百済救援は、息子の天智天皇(中大兄皇子)によって663年に実行されるのです。
当時の情勢を考えますと、唐・新羅の連合軍に大和・百済残党連合軍が戦いを挑むのは無謀と言えるでしょう。
乙巳の変 で、蘇我氏を駆逐。
大和朝廷の実権を掌握した中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足。
百済王子の扶余 豊璋と藤原鎌足の同一人物説もあります。
何れにせよ、百済滅亡による大量の難民が現在の大阪府に定住する事になったのです。
参考:百済群
後に、短期間ながらも朝鮮半島に百済は復活します。
この間、百済は再び日本に応援を要請。
時は922年、醍醐天皇の治世。
父の宇多天皇は、宇多源氏の祖。
藤原北家=源氏=北朝派が百済を支援するはずがありません。
参考:後百済
(下画像:藤原氏と百済氏の関係)
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壬申の乱で勝利した、天武天皇。
外交政策は、親新羅となります。
高句麗の圧力によって劣勢になっていく新羅。
やがて滅亡します。
旧新羅の難民が日本に押し寄せます。
天武天皇は、主に今の関東地方を中心に新羅難民を受け入れます。
参考:新羅の入寇
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何度でも申し上げますが、北朝派と南朝派の争いは藤原北家と藤原式家の内部抗争。
その原因は、藤原不比等の妻にありそうです。
不比等の妻は、生没年不明の謎多き、蘇我娼子。
北家の祖である次男、房前(ふささき)の母である。
式家の祖である三男の宇合(うまかい)の母も蘇我娼子となっているが、房前と宇合の歳の差は13歳。
普通に考えて、覇王であった不比等が別の女性に生ませた子が三男の宇合(うまかい)だったと思われる。
では、宇合(うまかい)の母親は誰だったのか?
私には知る由も無いが、ヒントは宇合(うまかい)の妻にありそうだ。
宇合(うまかい)の妻は、石上麻呂の娘。
物部氏の末裔であり、天智天皇に重用された人物の娘である。
つまり、北家は蘇我。
式家は物部。
知ってのとうり、物部氏は蘇我氏に覇権を奪われております。
したがって、物部氏は南朝派であります。
この様に、因果応報の歴史は現代まで延々と続いているのです。
現実には、北朝派・南朝派の明確な線引きは不可能です。
同組織内に北朝派と南朝派が入り乱れて存在しており、権力闘争の為の裏切り等は日常茶飯事だからです。
男系と女系によって解釈も分かれる事でしょう。
物部氏と言えば出雲、吉備、熊野。
尾張氏、熊襲。
六芒星、亀甲、スサノオ神。
そして、龍神。
明日で、東日本大震災発生から丸2年。
鶴と亀は、統合されなくてはなりません。
春は目前です。
最後まで、個人的な妄想にお付き合い頂きましてありがとうございました。
Blog 噂の真相-真実を追い求めて!より転載