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諏訪の「御柱 (おんばしら) 祭」~ 最後の”縄文王国”の謎~(その2)

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転載:# 星の扉(とびら)

前回の記事では長野県、諏訪の御柱祭(おんばしらさい)についての記事を書き、途中になっていましたが、その後「つづき」と書いたにもかかわらず、だいぶ時間がたってしまいました。

皆さんのほうでももう忘れてしまっているかもしれませんが、一応はそのつづきということで、まだ書いていなかった自分なりの解釈、感想などを書いてみたいと思います。(もっとも、過去の記事「古事記の創世神話」などを読んでくださっている方にはなんとなくお分かりかもしれませんが・・・)

以下は御柱祭と縄文(じょうもん)人の歴史について述べているところを私が動画から抜粋したものですが、それによるとこの祭りの歴史は相当古く、最後の氷河期直後の時代にまでさかのぼる可能性がありそうです。


・・・・・・御柱祭はいつ、何のために始まったのか。

鎌倉時代に柱を立てていた記録はあるが、それ以前の歴史はなぞである。

しかし日本列島各地の縄文遺跡で、巨木の祭りの痕跡が見つかっている。

北陸で発掘された2700年前の木。

御柱と同じく綱に使う植物を通したとみられる穴がみつかっている。

巨木への祈りが生まれたと考えられる縄文時代。

15000年前から10000年以上にわたり、日本列島各地でつづいた。


縄文人の主食はトチ。栗。 

落葉広葉樹の森から、木の実を集めた。

冬も狩猟のため森へ。

獣の毛皮をはぎ、肉は干して保存食にした。

森は生きるための全てを与えてくれた。


諏訪でみつかった縄文遺跡は900近く。これほどまとまって密集している遺跡は他にはない。

諏訪湖を中心に縄文人の集落が広がっており、当時は森と湖に恵まれた楽園だった。

諏訪は5000年の歴史

諏訪の縄文遺跡
 諏訪湖周辺の縄文遺跡。 ( 写真はこちらよりお借りしました )


(以下はまとめ)
◎諏訪は縄文文化圏の一大中心地だった。・・・その証拠に、諏訪で取れた黒曜石が東日本の各地や東北のほうでも発見され、広い範囲に広がっていたことが分かった。

◎諏訪の人たちは、黒曜石を取引することで豊かな生活をしていたらしい。

黒曜石2
       黒曜石 
             
  黒曜石3
         
黒曜石は割ると鋭利な角を持つため、狩りのための矢尻などに使われた。


◎後の時代に大陸から弥生(やよい)の民が来て水田稲作の技術をもちこみ、西日本から順に日本中に広がったが、諏訪の縄文人は最後まで水田稲作を拒んでいた。

◎だが、最後には縄文の神も弥生の神(征服者のことだと思われる)に負け、稲作を受け入れたが、弥生の神のもと、幸いにも御柱祭だけは生き残った。


前回の続きで、その後の御柱祭の流れ(上社と下社に分かれているのでここでは上社の場合)を書き出してみようと思います。

なぜなら、御柱祭といえば柱が坂を勢いよく落ちることで有名ですが、他の部分も含め、初めから終わりまでの祭りのストーリー全体がとても興味深いからです。 


諏訪大社上社 里曳き(さとびき)

川越しを終わった8本の御柱は、安国寺の御柱屋敷(上6の地点)に曳き揃えられ、
5月の里曳きまで安置されます。(前記事はここまで)

そして山出しから一カ月。
晴れの舞台を待っていた御柱に、
いよいよ華やかな里曳きの時がやってきます。

里曳きは華やかな祭典絵巻のような祭りです。御柱屋敷を出た御柱は、大勢の氏子と見物客の中を、各社に向かってゆっくりと優雅に進みます。

marker_kamisha_s1_photo.jpg 



「お舟」御輿(みこし)が、御柱を迎える

里曳きの1日目は、御柱屋敷を御柱が出発する時を同じくして、本宮からは宮司や、「お舟」と呼ばれる御輿を担いだ白丁姿の山作り衆らが行列をつくって御柱を迎えに出発します。

先頭の本宮一之御柱は、迎えの一行に続いて本宮を目指します。

御柱祭 上社 里曳き お舟 本宮出発

(私が始めて見た時に驚いたのはここ!・・・・・・どうして「舟」が出てくるのでしょう?
長野県の、それも諏訪といえば山に囲まれた場所で舟とは無縁のはず・・・(諏訪湖をのぞけば)。

現地の方々はこれについてどういう風に捉えているのでしょうか。
私はといえば、これはノアの方舟(はこぶね)を表わしているのではないかと思ってしまいました。) 


めどでこが外され、建御柱((たておんばしら)の儀

御柱を各神社の境内に建てることを「建御柱」といいます。

前宮・本宮(それぞれ下図の上7、上8と書いた地点)に曳きつけられた御柱はめどでこを外し、柱の先端を三角錐状に切り落とす「冠落し」を行って威儀を正します。

(こうして上1の地点から出発した上社の御柱は、それぞれの地点での祭りを終えながらほぼ同じ方向に移動し、最終地点に落ち着くわけです。)

曳行マップ


冠落しが終わった御柱にワイヤーやロープを付け、掛け声に合わせて車地(しゃち)が巻かれると御柱はゆっくりと立ち上がります。

             御柱祭 上社 里曳き


御柱の先端に乗る氏子の手によって長さ1.5mの大御幣が打ち付けられます。
この時、奥山のモミの大木はまさしく神となります。

翌日には、御柱の根元を大木槌で叩いて固める御柱固祭。

こうして仮見立てから2年、山出しから2ヶ月におよぶ上社の御柱祭は宝殿遷座祭を経て厳粛に終わりを告げることになります。


    めどでこが外され、建御柱の儀


(以上、 諏訪大社上社 里曳き より)


 ~(その3へつづく)~


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