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コモン・ロー(英:common law)は、多義的な概念であるが、もっとも一般的な用法においては、英国法において発生した法概念で、中世以来イングランドで国王の裁判所が伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことによって発達した法分野のことを指し、この場合はエクイティを含まない概念である。
この概念によれば、「記録のない時代からイギリス人を律してきた慣行(usages)と慣習上の準則(customary rules)で成り立ち、私人間の正義(private justice)と公共の福祉の一般原理で補足され、国会制定法で変更を受ける場合がある」完成された理性(the perfection of reason)であり「神の法」とされる[1]。
広義では、大陸法系の対概念として英米法系を示すものとして用いられる。この文脈では、英国領またはその植民地であった歴史を持つ国々(アングロ・サクソン系諸国)において主に採用されている法体系を指し、エクイティを含む。
コモン・ローは普通法とも訳されるが、同じく普通法と訳される、ローマ法や教会法における「一般法」(ユス・コムーネ、en:jus commune)、ローマ法を継受したドイツ法における「共通法」 (Gemeines Recht) とは異なる概念である。また、教会法との対比では世俗法を、制定法との対比では不文法を指す用語でもある。
その多義性[編集]
コモン・ローは、歴史的には、イングランドにおいて、それぞれの地方における地域的な慣習に優先する全国共通の慣習にしたがって裁判の準則を醸成する過程において登場した概念である。コモン・ローが、特にもっとも一般的な用法として、中世イングランドの国王裁判所が発展させてきた法体系を示す用語となった理由としては、ノルマン人の王朝が従来のアングロ・サクソン人のそれぞれの地方の慣習に優越する概念として「王国の一般的慣習」 (general custom of the realm) の意味でコモン・ローという用語を用いたのがきっかけである。
この意味でのコモン・ローは国王の世俗的権力の強大化に伴い、教会法の対概念である世俗法のことを意味して用いられるようになる。
コモン・ローとは別の救済をもたらすエクイティという法概念が定着すると、コモン・ローはエクイティの対概念として用いられるようになる。
英国の国際的地位の向上に伴い、コモン・ローは、大陸法(Civil law、シビル・ロー)と並ぶ二大法体系の一つとして認識されるようになり、大陸法系の対概念にあたる英米法系(広義)として認識されるようになった。
コモン・ローは、幾多の判決(判例)が積み上げた合意を基盤として成り立っている。制定法(成文法)の整備に従い、コモン・ローはそれらの対概念である「判例法」や「不文法」のこととして用いられるようにもなる。この意味で用いられるコモン・ローという概念にはエクイティや商慣習法、カノン法など、本来のコモン・ローとは異質なものも含まれる。
教会法における「一般法」(jus commune)は、各地の教会の特別な慣習に優先する一般的慣習という意味である。また、ドイツ法における「共通法」(ゲマイネス・レヒト)は、領邦を超えて帝国に共通して適用されるローマ法のことを指す概念である。アメリカ法において、各州を超えた連邦の「一般法」 (general law) という概念がフェデラル・コモン・ロー (federal common law) と称されたこともあるが、現在は判例によって否定されている。
なお、コモン・ローの「ロー」は、日本語の「法」、「法律」とかなり意味合いが異なるので注意が必要である。もともとコモン・ローは、中世のイングランドで対立する当事者の申立てを比べあわせて伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことに由来するが、コモン・ローを適用する際に用いられる論証の形式は、決疑論や事例判断として知られている。要するに、できる限り当事者双方に主張立証を委ね、裁判所は伝統や慣習、先例に照らして各論点ごとにいずれの当事者の論証が説得的であるかということに重点を置いてその事案を裁判すべきとされてきたのであり、その意味で裁判所は紛争の調停者であるといわれる。このような、裁判所の中での議論を重視する審理態度は、制定法という裁判所の外から与えられる規範への適合性を重視するという、大陸法圏における審理態度と好対照をなしている。
コモン・ローの特質[編集]
法の支配コモン・ローにおける公法は当初は司法運用にかんするもので、王国裁判所の確立により王国の一般的慣習がコモン・ローへと変質していった。このため、王国の一般的な慣習がコモン・ローにおける公法であるため、その慣習たるコモン・ローには「国王といえども法の下にある」とする「法の支配」つまり、「コモン・ローの支配」の原理が生じたのである。これは、1215年ジョン王時にマグナ・カルタへの王の署名により最終的に確立したものとされる[2] 。なお、コモン・ローでは公法と私法の分化の不明確性が指摘される。大陸法は私法に重点が置かれ、かつ公法と私法が明確に区別されるが、コモン・ローではその分化が十分成熟でない[3] 。
司法権の独立13世紀にエドワード1世が裁判官を官吏から選ばずに弁護士の指導者の中から選び、行政から司法を分離したことにより始まるとされる。コモン・ローでは、当事者にそれぞれの真相を明らかにする十分な機会を与えれば、正義が最もよく達成されるとされた。このため、大陸法の裁判官は真実発見のために裁判官自身が証人尋問を行うなど中心的な役割を果たすのに対し、弁護士の指導者でもあるコモン・ローでの裁判官は、対立する当事者同士の仲裁者 (arbiter) としての役割を担った。この結果コモン・ローに独特な当事者主義が確立した。
陪審制コモン・ローを継受した国では、一般市民から構成された陪審によって有罪と表決されなければ、重罪について有罪の判決を与えられることはない。陪審の独立が確立したのは、1670年のBushel事件(en)である。
判例法主義ここでの判例とは将来の裁判を拘束する判決の先例のことであり、イギリスでは長い歴史を経て19世紀末に判例法体系が確立されたとされる。貴族院判決は最終審理裁判所(a final court of appeal)の判決であるため、その判決には先例として以後の裁判に対して拘束性が与えられる。全ての裁判所においてその判決以後、同一事実による裁判について先例と同一に判決させる判例となる。この判例は法的安定性を保つためその変更をイギリスの司法内部では絶対に許さない。
ローマ法からの疎隔ローマのブリテン征服は殖民のためではなかったため、他のヨーロッパの支配地のようにローマ法による政治組織や法律体制が確立されずブリテンの法文化の侵食がなかった。しかし、その後ローマ法の継受が国王によって画策されなかったわけではなく、ヘンリー8世はオックスフォード、ケンブリッジにローマ法の研究のため王立講座を設け、そのため行政官や大権裁判所 (Prerogative Courts) ではローマ法法律家が活躍したが、コモン・ロー裁判所にはその影響力を及ぼしえなかった。一般にその理由として、第一に法曹を生み出す法学院の組織が伝統と多くの既得権を持っていた上、裁判所の組織の改変が事実上不可能であったこと。第二にコモン・ローの硬直化がエクイティーの成立で緩和されたため、他のヨーロッパ諸国やスコットランドにおいて達成されたローマ法の継受は成立しなかったためとされる。しかし、その最大の原因はヨーロッパ諸国ではラント諸侯が絶対的な支配階級となり絶対主義的な後期ローマ法の継受を進めたが、イギリスでは大諸侯が国王に対して反抗して成果を収め、固有の法習慣たるコモン・ローの擁護が政治的に有利であったからとの分析[4]がある 。
歴史[編集]
コモン・ローの歴史は、1066年のウィリアム征服王によって英国で封建制が確立したことに始まる。その意味でコモン・ローの歴史は、英国法の歴史でもある。詳細は、英国法を参照。
ノルマン征服以前のイングランドでは、シャー (shire) と呼ばれる州に設置された民会 (shire moot) が議会と裁判所としての機能を併有し、その民会の長 (ealdorman) は、シェリフと呼ばれる代官 (shire reeve) を置いて治世にあたっていた。そこでは共同体ごとに異なり、上層階級が気まぐれに押しつけることも少なくない不文の地域的慣習によって民衆は支配されていた。裁判所は仲間内の記録も残さない非公式の会議によって構成され、対立する当事者の申立てを比べあわせて慣習や常識に従って判断するのが通常であった。もし真偽不明で結論に達することができなければ、神判や決闘によって決着がつけられた。神判は、糾問主義の審理で、真っ赤に熱した鉄器を運ばせたり、熱湯が煮えたぎる大釜の中から石を掴み出させたりして、もし被告人の傷が所定の期間内で治癒すれば、彼は無罪として釈放された。もし治癒しなければ、その後直ちに死刑が執行されるのが普通であった。シャーは、ハンドレッド (hundreds) と呼ばれる村に分かれており、各ハンドレッドにもまたそれぞれ裁判所が存在し、その構成員は犯人を告発・追跡する義務を負うなど警察的な機能を有していた。このハンドレッドの構成員の告発義務がやがて私人訴追主義・弾劾主義・当事者主義的訴訟構造の発展を促すことになる。
ウィリアム1世は、国王と国王を補佐するバロンと呼ばれる貴族からなる「王会」 (Curia Regis) を設置したが、これは民会と同様議会と裁判所としての機能を併有し、国王自身が主宰していたことから、「国王裁判所」と呼ばれていた。ノルマン朝は、このようにノルマン人を支配階級とする強固な封建的支配体制を確立しつつも、古来からのゲルマン的な伝統を尊重するという妥協的な政策をとり、シャーをカウンティ (county) 、民会の長をカウント (count) 、民会を州裁判所 (county court) と名前を変え、他にも荘園法裁判所や教会法裁判所といった様々な伝統をもつ裁判所をそのまま存続させ、第一次的裁判権を与えたので、国王裁判所と多種多様な裁判所が並列して別個に裁判を行うという多元的な司法制度が続くこととなった。もっとも、シェリフのみは従来の世襲制を廃止し、国王が直接登用した有意な人物を全国各地に派遣することとし、このことが後に巡回裁判制に発展してコモン・ローの発展を促すことになった。
1154年ヘンリー2世がプランタジネット朝最初の王として即位すると強力で統一された司法制度、裁判システムを創設した。特に神判を禁止して、宣誓をした市民による陪審制度を復活させたこと、全国各地に国王直属の裁判官を派遣する巡回裁判 (assizes) 制度を創設したことが地域的慣習を全国的なものに組み入れたり、格上げしたりして、法(ロー)を全国共通(コモン)のものに改め、地方ごとの支配体制のバラツキをならし、恣意的な救済をなくすことができるようにしてコモン・ローの発展を促したのである。このように経緯から、コモン・ローにおける「法」 (Law) とは、成文化された「法律」 (a law,Laws) のことではなく、不文の慣習法のことであり、判例が第一次的法源とされ、中世慣習との歴史的継続性が強調されるようになった。もっとも、当時の裁判は、民事事件と刑事事件の区別もなく、陪審も、「証人」としてその地域の常識に基づいて意見を述べればよく、必ずしも証拠が存在しなければならないというものではなかった。この点が、現代の裁判制度と異なる特徴的な要素である。
1215年のマグナ・カルタは、王権が成立する前に存在するコモン・ローが王権に優位するとしてバロンの中世的特権が保護したが、ヘンリー3世の治世に、地方の名望家の出身である弁護士から人民間訴訟裁判所の裁判官を任用するようになると、徐々に貴族のみならず、コモン・ローの適用を受ける庶民 (commoner) [5]も通常裁判所による裁判を通じて王権の専制から保護される道が開かれ、コモン・ローは極めて司法的なものとなっていく。これが後に法の支配の原則の確立に結びついていく。
その後、王会は、大評議会と小評議会に分かれ、小評議会は国王評議会 (King's Concil) に発展した上で、財務府と、大法官に分かれたが、徐々に国王自身が直接裁判を主宰することもなくなり、これに変代わって聖職者や法曹が裁判を行なうようになる。そのような流れの中で、財務府は、エドワード1世の治世に、「王座裁判所」 (Court of King's Bench) 、「財務府裁判所」 (Court of Exchequer) 、「人民間訴訟裁判所」 (Court of Common Pleas) [6]に分かれて発展し、第一次的裁判権を有する多種多様なゲルマン的裁判所の(今日でいうところの)上訴権にあたるものを持つものとされたことから、ここに全国各地の訴訟記録が集積するようになり、コモン・ロー裁判所 (common-law court) と呼ばれるようになった。
12~13世紀にかけて、ボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年にローマ法大全の標準注釈が編纂されると、 全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、英国にも一部ローマ法の理論が持ち込まれた。しかし、既に英国全土の共通法ともいえるコモン・ローの発展を見ていた英国では、大陸において発展した「一般法」(ユス・コムーネ、jus commune)を取り込む必要は乏しかった。
かえって14世紀に法曹一元制が確立し、13世紀~15世紀にかけて法曹のギルドである法曹院が成立すると、王権から独立して権限を行使する法律専門家の手によって徐々に、大陸法とは明確に区別される、コモン・ローの特色が形成されていった。英米法#特色も参照。
法曹院では、徒弟制 (apprenticeship) の下で法廷弁護士候補生に高度な内容の法教育が施されるようになり、法曹が一体となってコモン・ローを整理・体系化し専門化していったが、陪審制度の下では、素人でも適正な判断をすることができるようにする必要があった。そのため専門家である法曹が素人にもわかりやすい一定の判断基準が示す必要が生じ、その結果、コモン・ローでは手続法を通じてその隙間からにじみ出てくるように実体法が形成され、大陸法系のような総則規定や抽象的な法律行為等の専門的な概念を嫌われるようになり、また、弾劾主義・当事者主義 (adversarial system) を背景として、口頭主義、直接主義、伝聞法則等に支えられた高度で専門的な法廷技術が発展したのである。
しかしながら、他方で、コモン・ローは、慣習から発見されるもので、人の手によって変更することができないものと考えられていたことから、実質的に公平な結論を導くため判例として拘束力を有する判決理由 (ratio decidendi) と有しない傍論 (Obiter dictum) に分け、更に先例となっている訴訟記録における重要な事実を現に問題になっている事件の事実を「区別」 (distinction) して先例の拘束力を免れるといった技法が編み出されるなどして過度に専門化する傾向を生じたが、その限界のため次第に形式化・硬直化していった。
そのため、15世紀ころから、コモン・ローの制度によっては認められるべき救済が得られないと考える当事者が、国王に直接訴願することもできるという慣行が成立した。例えば、コモン・ローにより与えられる損害賠償では、所有地に侵入され、占拠されたことに対する賠償として不十分であり、その代わりに不法占拠者を立ち退かせるべきであるなどと主張するがごときである。ここからエクイティ(equity、衡平法)という制度が発達した。エクイティに関しては、大法官が大法官部裁判所において所管した。元来、エクイティとコモン・ローはしばしば矛盾する。そのため、一方の裁判所と他方の裁判所とが相反する裁判をなし、法廷での争いが何年にもわたって続くということもしばしば起こった。こうした状況は、17世紀にエクイティの優越が確立された後も続いた。有名な例としては、架空の事案ではあるが、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』に登場する 「Jarndyce 対 Jarndyce」 の訴訟がある。
16世紀から17世紀にかけて、マグナカルタ以来のコモン・ローの優位、古き国制 (ancient constitution) の伝統が中世慣習との歴史的継続性の強調によって復活し、法の支配がエドワード・コーク卿らの法曹によって発展し、名誉革命によって確立する。
その後、コモン・ロー裁判所とエクイティ裁判所が、1873年と1875年の裁判管轄法で統合され、抵触事例 (conflict case) ではエクイティが優越することになり、現在に通じるコモン・ローの特色は一通り完成するのである[7]。