《古代ケルトの暦》
中央アジアの草原からヨーロッパにやってきた、インド・ヨーロッパ語の民族がケルト人です。
イギリスやヨーロッパの先住民で古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていました。
ケルト人の1年の終りは10月31日。
これがハロウィンのルーツとして有名な話ですね。
夏の終わりと冬のはじまりでもあるこの日は、収穫祭でもあり、アイルランドと英国のケルト人たちは、作物と動物の犠牲を捧げたそうです。
またこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたとかで、灯を灯す習慣もあったといいます。
収穫したカボチャをくりぬいて灯を灯すことの起源です。
しかし、現在ハロウィンが行われている10月31日という日付は、グレゴリオ暦です。
古代ケルト暦では、10月31日が年の終わり(大晦日)でハロウィンの起源ということはわかりましたが、いったいどんな暦のことをいうのでしょうか?
そして年初が11月1日であるならば、その年初である新年1月1日とは、いったい現在の暦でいういつに当たるのでしょうか?
ケルト暦は、いまだに研究者たちの間でも謎に満ちた存在です。
それはケルト民族が文字をもたなかったため、多くの記録は時の彼方へと失われていってしまったからです。
しかし、この定説には矛盾点が含まれています。
文字をもたずに衰退していったはずの民族が、なぜ暦には文字を使っていたのでしょう?
それはこの表面的な定説が、ケルト暦のバックボーンになっている隠秘学的な要素を見落としているからです。
ドルイド僧は、歴史の霧に包まれた黎明の時代から、ケルト民族を指導してきた人々です。
彼らは星の動きを読み取り、自然の力に精通し、民を裁き、病を癒し、死後の世界までを司る万能の司祭たちでした。
そのミステリアスなパワーは、己の生涯をその道に捧げる代わりに「秘儀伝授」される知識から生まれていたとされます。
そしてストーンヘンジ。
ストーンヘンジの建立そのものは、ケルト民族の隆盛よりもはるか昔に行われています。
建立した民族についての詳細は不明なままですが、太陽崇拝民族であったことや、この巨大な石造建築を駆使して、太陽や月の運行、日蝕や月蝕などを現代のコンピューター顔負けの精密さで観測していたことが分かっています。
これほどの叡智が簡単に消え去ってしまうはずはありません。
ドルイド僧たちに「秘儀伝授」されていた知識こそ、ストーンヘンジを建立した先住民族の叡智に他ならないのです。
その証拠に、ドルイド僧たちは、その秘密の叡智を活用して、ストーンヘンジを用いて天空の観測を続け、太陽の運行に基づいて、農業を効率的に運営するために季節を8分割し、ケルト民族繁栄の土台を築きました。
そして次に、太陰暦よりも複雑で、かつ魔術的な力に溢れたケルト暦を生み出すことができたのです。
ケルト暦に使われているオガム文字は、普通の文字ではなく、ドルイド僧が呪文を記すときにのみ使った「呪術文字」なのです。
彼らは、このオガム文字と、崇拝の対象であった「樹」を各月に結びつけることで、自由自在に儀式を執り行い、日々の暮らしをも思うがままにコントロールすることができたのだとも言われています。
ケルト守護樹暦とは、それ自体が荘厳な通年の儀式暦だったともいえるでしょう。
さて、ドルイド僧のような呪力を持たない我々一般の人間にとって、ケルト守護樹暦はどのような意味を持つのでしょうか。
それを説明するためには、ケルト民族独特の世界観を知る必要があります。
ケルト世界では、人間はおごりたかぶった特別な存在ではなく、地球の一員でした。
地球上に存在する動物、植物、鉱物・・・すべてが大きなひとつの家族でした。
ある守護樹のもとに生まれるということは、その守護樹に連なる巨大な一族の一員となることなのです。
守護樹は、この地球上に流れている運勢や時間、自然界でのエネルギーなども統合しています。
自分が属する守護樹を知ることで、自分の居場所、運勢の流れ、本当の生き方といった本質的な「自分自身」が理解できる。
つまり自分は独りではない、自分の居るべき場所がわかる、生きている意味を理解することができるのです。
◆古代ケルト暦(太陽暦)
ケルトの暦として一番古いのが、紀元前5世紀頃、つまり一説にケルト文明の最盛期とされている時期のサウェン(Samhain)を扱うものです。
グレゴリオ暦はおろか、その前のユリウス暦(紀元前46年制定)よりはるか以前のことになります。
サウェンというのは、今ではケルト4大祭祀のひとつとされています。
現在の暦で10月31日であるが、ケルトでは1日の始まりは日没からなので翌11月1日までを含む。
他の3つはそれぞれ、2月1日(Imbolc)、5月1日(Beltane)、8月1日(Lughnasad)である。
これらの規則性から、日付の元となるものが太陽の運行であることに気がつきます。
すなわち「Quarter Day」と呼ばれていた節目が冬至、春分、夏至、秋分で、それぞれユール(Yule)、オースターラ(Ostara)、リーザ(Litha)、メイボン(Mabon)と名付けられている。
これに対してケルト4大祭祀の日は「Cross Quarter Day」と呼ばれ、年を8つに区分していました。
その中でもサウェン(Samhain)とベルティナ(Beltane)は重要であったらしい。
ハロウィンの起源といわれる「年の終わりと始まり」の区切りであるサウェンはベルティナを対にした、年の「夏」と「冬」の分かれ目でもある。
もしかしたら10月31日という日付も、10番目の月の最後の日という意味合いだけなのかもしれません。
◆コリニーの暦(太陰太陽暦)
そののち紀元前1世紀末頃、コリニーの暦(太陰太陽暦)というものが使われていたとされている。
これは遺跡の発見により研究が進んでいるものです。
5年周期の暦で、年に30日と29日がほぼ交互に(途中逆になるところもある)12回繰り返され、1年目の頭(もしくは5年目の最後)と3年目の6ヶ月後(冬期の終わり)に閏月(30日)が挿入される。
天文的な意味ではなく、農耕や牧畜のための要素が強く、月に関しての細かい取り決めがある。
冬至点、春分点などの問題を、この暦に組み込むことは難しかったのかもしれません。
◆ケルト守護樹暦(13月の暦)
ケルト守護樹暦は「Beth-Luis-Nion」という月名に樹木の名前を充てたもので、別名「The Ogham Calendar」と呼ばれ、これも碑文などに残されています。
年を13ヶ月に分け、ひと月を28日として13種類の樹木を表しています。
オガム文字の使われていた時代から紀元後3~6世紀頃と推測されています。
ただし、コリニー暦もオガム文字も石に刻まれた文字という形での推定であるので、口承によって実際に使われていた時代はまったく不明です。
ケルトの歴史はキリスト教が布教され(紀元後5世紀~)、6世紀から8世紀にかけて花開いたケルト修道院文化の黄金時代も含めると長いように思いますが、カサエルがローマ軍を率いて制圧する紀元前52年頃には終わったとみる向きもあります。
もしくはケルトの中核を為したドルイドがその力をなくしたとき、ケルトは衰退したと考える方が自然かもしれません。
それならばコリニーの暦もケルト守護樹暦も、同じくらい古くから使われていたと考えられるのではないでしょうか。
古代ケルトの十字架の紋章が管理舎の屋根にある”守矢資料館”