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華僑とは、海外に仮住まいする中国人という意味の言葉である。本来は中国国籍を持つ在外中国人を指し、現地の国籍を取得した2世や3世は華人と呼ぶのが正しいが、日本では中華人民共和国及び中華民国(台湾)以外に在住の中国人を 一般的に広く華僑と呼ぶ。
今日、華僑の存在が世界的に注目されている。なぜなら、日本に続く経済発展を遂げ、アジアの四小竜と称せられるNIES(新興工業経済地域)諸地域のうち、韓国を除く台湾・香港・シンガポールの三地域が中国系の国であり、東南アジアでNIESに続く国とされるタイとマレーシアも、その経済発展の原動力を華僑が担っているからである。華僑こそは、世界の発展センターと目されるアジア地域においてその原動力となっている存在なのである。
それでは華僑は歴史上どのように発生したのであろうか。
中国人の海外移住は、三つの重要な時期に分けて考えることができる。端緒期は、対外貿易の発展した8-9世紀の唐代であり、展開期は16世紀の明代である。
16世紀は世界貿易がヨーロッパの大航海時代の訪れとともに活発となった「商業の時代」であるが、当初明朝では日本との勘合貿易に代表されるように外国との貿易をに対し朝貢貿易に限定し、沿岸住民の私貿易と海外への出国を原則として禁止する海禁政策を取った。
これに不満を持った華南地方の沿海住民は密貿易を盛んに行い、後期倭寇の中心として明朝に対抗した。倭寇の跳梁に手を焼いた明朝では、16世紀の後半に倭寇の根拠地であった日本方面への海禁を維持する一方で,東南アジア方面への海禁を解除したため、交易のため東南アジア方面へ向かう中国商人が増大した。
東南アジアは17世紀の前半まで、朱印船で銀をもって来航する日本商人と,日本銀と中国産の生糸を交換する中国商人との出会い貿易の場としても繁栄したのである。一方で明朝の腐敗と重税と人口増加を背景に華南地方の沿海住民が華僑として東南アジアに流出する事態も起こった。
大量流出期は、清朝も混乱期に向かう19世紀以降にやってくる。
1819年イギリス東インド会社の植民地行政官であったラッフルズによってシンガポールの開発が始まり、労働力として中国人が東南アジア地域に流入するようになった。
そして1842年、アヘン戦争の敗北で南京条約を結んだ中国が開国したことによって、中国人の大量流出が本格化する。
アヘン戦争後の銀の高騰と重税に苦しむ農民たちが、海外資本や海外資本と結託した中国人買弁の手によって各地に輸出された。
イギリスがマレー半島のスズ鉱山の労働力として、既存の華僑商人のネットワークを利用して中国人労働力を導入した東南アジアばかりでなく、新大陸に向けても、黒人の奴隷労働に代わる安価な労働力として苦力(クーリー)と言われる奴隷に近い労働者として中国人が導入され、北米ではゴールドラッシュで湧く太平洋岸で鉱山労働に、ついで大陸横断鉄道の建設などに従事させられ、中南米においてもサトウキビ・プランテーションなどに、インド人とともに導入されていったのである。
華僑の多くは 初期には社会の最底辺にあった。しかし団結心の強い彼らは、同族・同郷の出身者で結合して「幇」と呼ばれる団体を結成し、助け合うようになった。
そしてこの結合関係のネットワークを利用し、相互扶助によって社会的地位を上昇させた。しかし、そのことは新たな中国人排斥運動をしばしば呼び起こした。
この時、異境にあって排斥運動に直面した彼らは、彼らを保護してくれない清朝政府の無力さに絶望し、中国国家の変化と強大化を求めて中国革命に多くの支援を行うようになった。
孫文が華僑を「革命の母」と呼んだ事実は広く知られている。
日中戦争においても華僑は国民党政府に多大な支援を行い、華僑の青年の中には自ら志願して日本との戦いの前線に赴くものも多かった。
しかし、そのために太平洋戦争によって東南アジアが日本の占領下に置かれた時に、日本軍の弾圧を受けて数万人の華僑が虐殺されたと言われる。
華僑の歴史は、政治的には苦難の歴史である。第二次世界大戦後においても東南アジアの現地政権は経済の実権を握る彼らを警戒してマレーシアのマハティール政権のマレー人優遇政策に見られるような現地人優遇政策をとった。また弾圧事件もしばしば発生しており、インドネシアにおいては、共産党が軍部によって壊滅に追い込まれ、スカルノに代わってスハルトが権力を握る契機となった1965年の九・三〇事件をきっかけに、中国共産党を支持し、インドネシア共産党に加盟していた華僑党員とそのシンパ数十万人が虐殺されたともいう。
また中華人民共和国の文化大革命が激化した時期には、帰国華僑と国内華僑親族はブルジョワ・知識人・スパイとして迫害を受け、海外華僑との関係も希薄化した。しかし中華人民共和国の文化大革命が終了し、改革開放政策がとられるようになると、中華人民共和国も華僑との関係改善に乗りだし、香港やシンガポールの華僑による対中投資も活発化した。そして激しい反中華人民共和国政策を取り、大陸との交流を一切禁止していた台湾が1987年に政策の大転換を行って大陸との交流を認めた結果、台湾の人・モノ・カネも中華人民共和国に流れ始めている。 その結果香港と台湾と広州を中心とする華南地方沿岸部の発展は著しく、この地域を中心とした大経済圏が成立しつつある。 21世紀は中国・中国系人の世紀となるのかもしれない。