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ブッダ涅槃像(インド、クシナガル)。
彼は死んで「もはや生まれ変わらない」とされた
仏教の目指すもの、そしてキリスト教の目指すものは、それぞれ何でしょうか。
両教が究極的に目指しているところは、きわめて対照的です。両教の考え方を見てみましょう。
仏教は輪廻からの解説を目指した
仏教は「解脱」(げだつ)して「涅槃」(ねはん)に入ることを目指した教えです。なにからの解脱(解放)かといえば、「輪廻」(りんね)からの解脱です。「生死輪廻」からの解脱とも言います。
ですから「解脱」や「涅槃」について理解するには、まず輪廻説についてよく知る必要があります。
輪廻説によると、世界は限りない大昔から存在していた、とされています。
たとえば『法華経』によると、シャカは人間界に初めて現れた仏ではなく、第七番目の仏とされています(過去七仏の思想)。そして第六番目の仏と第七番目の仏との間には、じつに「一八〇劫(こう)」の歳月が流れている、と述べられています(化城喩品)。
「一劫」は、仏教学者によると、四三億二〇〇〇万年という長大な期間だそうです。四・三・二と、続き数字だから覚えやすいでしょう。または、
「一六〇キロメートル立方の大きな岩があって、これを三年ごとに一回だけ天人の羽衣でなすり、ついにその岩が摩滅し尽くすまでの期間」
であると仏典に説明されています。もし一劫を四三億二千万年として計算すると、「一八〇劫」は七七七六億年になります。仏教は、そんな大昔に人間や、人間社会が存在したとしているのです。ほかにも、仏典にはあちこちに、「考えられないほどの幾千万億劫の昔」に存在したという、人間世界のことが述べられています。
第6番目の仏と第7番目の仏との間には、
じつに「180劫(こう)」(7776億年)の歳月が流れている
仏典に記されているこうした数字の前では、進化論者のいう宇宙の年齢「一五〇億年」という膨大な数字でさえ、色あせてしまいます。なにしろ仏典は、宇宙も地球も人間社会も、何千億年、何兆年、いやもっともっと前から、"今のような姿で"存在していた、としているのですから。
さて輪廻説によると、生命は次の六つの世界の間を、永遠の昔から永遠の未来にかけて輪廻転生し続けています。
1 地獄(じごく 罰の世界)
2 餓鬼(がき 飢餓に苦しむ亡者の世界)
3 畜生(ちくしょう 愚かな獣、動物界)
4 修羅(しゅら 恐れる魔類、怪物の世界)
5 人間(人間界)
6 天人(てんにん 天の住人の世界、神々の世界)
これらのうち人間界と畜生界は、私たちも直接肉眼で見て知っている世界ですが、ほかの四つの世界は、仏教における想像の世界です。
さて生命は、これら六つの世界を永遠に輪廻転生し続けるというわけですが、インド人はこれらはどこも、"苦しみ"と考えました。
「地獄」が苦しみというのは、すぐわかるでしょう。地獄に行った者は、一番短い場合でも「一兆六二〇〇億年」もの間苦しまなければならないのだそうです。
また「餓鬼」「修羅」「畜生」なども、あまり楽な世界ではなさそうです。
「人間」世界も、やはり多くの苦しみがあります。生老病死の苦しみをはじめ、愛別離苦(あいべつりく 愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく 憎い者と会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく 求めて得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく 煩悩の苦しみ)など、「四苦八苦」(しくはっく)と呼ばれる様々の苦しみが満ちています。
最後の「天人」の世界は、様々な快楽が満ちていて、最も苦しみの少ない世界です。しかし、苦しみがないわけではありません。仏教の天人には、死があるのです。
天人は、最も寿命の短い者でも、「九〇〇万年」の寿命が約束されていますが、いずれ必ず死にます。そしてまた、輪廻の世界のどこかに生まれなければなりません。
その意味で仏教の「天」は、永遠の生命の世界であるキリスト教の「天国」とは、大きく異なっています。
輪廻の生存は苦痛
輪廻説によると、生命は生まれ変わり・死に変わりを繰り返して、六つの世界を、いつまでもグルグル回り続けなければなりません。いま人間界で生きている人間も、やがて死ねば生前の「業」(行為)に応じて、これら六つの世界のいずれかに、生まれ変わらなければなりません。
ですからインド人にとって、生きていることは即、輪廻することでした。そして彼らは、これを大変な"苦痛"と考えていました。
それはそうでしょう。どこの世界へ行っても苦しみがあり、それらの世界を、ただ永遠に行き来しなければならないのであれば。
彼らにとって、生存は即、苦痛でした。このことは、仏教の本質を理解する上できわめて重要です。
人々は輪廻の世界に"また生まれてきてしまったこと"そして死ねば、"また何かに生まれなければならないこと"を、苦痛と感じたのです。彼らは結局、生存そのものから解放されたい、と願いました。
自殺をしてもダメです。またどこか別の世界に、生まれ変わってしまうでしょう。彼らにとって、「生存」とは牢獄のようなもので、きわめて逃れ難いものだったのです。
そこで人々は何とか、もはやどの世界にも"生まれなくてすむ者となる"ことを願いました。いつの日か輪廻の束縛から解放されて、
「二度とこの世に生を受けない者」(法華経)
になることを、願ったのです。仏教初期の経典『スッタ・ニパータ』にも、
「二度とこの世に戻ってくるな」
と書かれています。これが「生死輪廻からの解脱」ということなのです。
涅槃が生存から脱することであるのに対し、
キリスト教の「永遠の生命」は、私たちの命が
神の大いなる生命の中に参加することである
仏教は生存からの脱却を目指した
仏教は、輪廻の世界からの解放、生存そのものからの解放を目指しました。『法華経』には、こう書かれています。
「深く思いこみ、物事に固執する原因は、自己の生存である。自己の生存の原因は、この世に生まれること(生)である。この世に生まれたがゆえに、老とか死とか、憂いとか、悲しみとか、苦しみとか、不快とか、悩みとかが、一緒に生じるのだ」
つまり苦しみの原因は、自分がこの世に生まれてきたことだ、というわけです。
では、どうしたらこの苦しみと、苦しみの原因である生存から解放されるのでしょうか・・シャカは、苦と生存から解放されるためには、すべてのものに対する"執着心"を断つことだと、教えました。
「この世界のすべての事象は移り変わるもので、実体を持たない『空』だから、それを悟って執着心を捨てよ。執着心を捨てて、欲望を断ち切るとき、自分を輪廻の世界に生まれさせている『業』は消滅する。そうすれば、輪廻の生まれ変わり・死に変わりから解放されて、生存から解放される」と。
法華経にはこう書かれています。
「深く思いこむ心(執着心)さえなければ、自己の存在は問題とならず、自己の存在を否定すれば、(輪廻の世界に)生まれることがなくなる。そして生まれることがなければ、老いも死も、憂いも、悲しみも、苦しみも、悩みも、すべてなくなるのだ」
このように、仏教は、生そのものを否定することを目指しました。もはや輪廻の世界に生まれることがなければ、苦しみからも解放されるのだと、教えたのです。
したがって、「悟り」を開いて執着心を捨てた者には、もはや、"生まれ変わる"ということがありません。
「聖者(仏)には輪廻は存せず、彼はもはや生まれ変わることがない。聖者の身体は、永遠の昔からの輪廻の過程における最後の身体であり、これは最後の生涯である。いまや再びのちの生存に入ることがない」(長老の詩)
と仏典は記しています。「仏」は、「もはや生まれ変わることがない」のです。シャカが「仏」になったのであれば、シャカはもう輪廻転生することはありません。
最近、新興宗教の一つで「幸福の科学」というのがあって、その教祖に大川降法という人がいます。彼は数多くの本を出版し、自分は「シャカの生まれ変わり(再誕)である」と主張しています。
しかし、本来の仏教の考え方からすれば、シャカは決して生まれ変わらないのです。仏教の求めたものは輪廻の生存からの脱却であり、シャカは「もはや生まれ変わらない者」になったと信じられたからです。
「解脱」は、二度と生命を受けないことであり、二度と生存に戻らないことです。輪廻の"輪"から脱出することです。
たとえて言うなら、ひもの先につけられてグルグルと回転していた石が、ひもが切れて飛んでいき、宇宙空間にまで行って自由になったようなものです。
仏教では、執着心・欲望・煩悩という"ひも"を断ち切れば、生死輪廻の世界から解脱して、いわゆる「涅槃」に入れる、と説くのです。「涅槃」とは、解脱した状態のことです。
「涅槃」について、仏教界には二つの解釈があります。
一つは、喜びも悲しみもない絶対的静寂(絶対の無の状態)という解釈です。
これがおそらく、オリジナルの考えだったでしょう。実際、「涅槃」と訳されたサンスクリット語ニルヴァーナは、"吹き消された状態"という意味の言葉です。
ちょうど、"強風に吹き飛ばされて消え去った火炎"と同じように、「涅槃」は、生命の炎が吹き飛ばされて消え去ってしまうことです。もはや"存在"としては数えられないことです。
ですから、ある日シャカは、
「(涅槃に入って)滅びてしまった人は、存在しないのでしょうか。あるいは永遠であって、損なわれないのでしょうか。」
と尋ねられて、こう答えています。
「(彼には)それを測る基準が存在しない。彼を『ああだ、こうだ』と論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆる事柄がすっかり絶やされ、あらゆる論議の道は、すっかり絶えてしまったのである」(スッタ・ニパータ)
つまりシャカは、「涅槃」とは輪廻の生存の外側へ脱することなのだから、通常の"有無"の次元で、
「涅槃に入った人は存在するか、しないか」
などと問うことはできない、としたのです。「涅槃」とは、輪廻から脱して、生命に関するすべての事柄が絶やされてしまった状態のことなのです。
しかし、涅槃に「何もない」では、あまりに味気ないということで、後世になると涅槃には喜びがある、という解釈も生まれました。これが「涅槃」の第二の解釈です。
しかも、しだいに涅槃は、あたかもキリスト教でいう「天国」と同じようなイメージさえ、与えられていったのです。涅槃は「浄土」とか「仏国土」などの言葉と結びつき、そこには歓喜、幸福、永遠の生命がある、とされました(大乗仏教は、この解釈に立った教えです)。
しかしこうした考えは、本来の仏教的考えというより、後世になって付加された考え、または変質した教えというべきでしょう。初期の仏典を調べるかぎり、涅槃は、生命に関するすべての事柄が絶やされた絶対的無を意味します。
仏教は元来、生死輪廻からの解脱を目的として起こりました。それは生存の外側への脱却を目指して、起こったのです。
キリスト教の救いとは神の大いなる生命の中へ参加すること
仏教のこうした考え方に対して、キリスト教の考え方は、きわめて対照的です。
キリスト教においては、生を否定しようとする考えはありません。生存から解放されたいとか、もはや何にも生まれなくてもすむようになりたいとか、そのようには考えません。
むしろ、キリスト教は徹頭徹尾、「生命」に固執します。どこまでも、生命を求めていくのです。キリスト者は、本当の生命、充実した生命、永遠の生命を求めます。
これは輪廻説に立つ仏教と、創造論に立つキリスト教の違いでしょう。
キリスト教においては、世界や人間は、創造されたものです。永遠の昔から存在していたわけではありません。世界にも人間にも、始まりがありました。
また、現在の私たちの生も、初めての生であって、「前世」(本当は「前生」と書いた方がわかりやすいのですが)というようなものがあったわけではありません。さらに死後はまた何か動物とか、他の人に生まれ変わるとかいう、輪廻転生説は信じません。
この生は、神から自分に与えられた、一度限りの大切な生です。私たちは、この生を神から預けられ、管理しています。
ですから与えられた生を、とことん大切にしようとします。「もはや何にも生まれなくてすむようになることを願う」のではなく、むしろ、この世に生を受けたことを感謝します。
したがってキリスト教は、生存からの脱却を目指しません。むしろ現在の生命に使命を与え、生存に愛と、清さと、躍動と、喜びと、永遠性を与えることを目指します。
キリスト教は、私たちが無へ脱却することではなく、神の大いなる「永遠の生命」の中へ入ることを目指すものです。生命の外へ行くのではなく、大いなる生命の躍動の中に帰入することを、目指します。
仏教の「涅槃」が、"何もない宇宙空間に飛び出す"ことにたとえられるとすれば、キリスト教の「永遠の生命」は、むしろ、生命の大海に帰入することです。その大海は、水ではない生命と光に満ちた海であって、そこに入った者は、愛と、力と、歓喜と、清さと、尽きぬ平安に満たされるのです。
また「涅槃」が"強風に吹き飛ばされて消滅した火炎"にたとえられるとすれば、神の「永遠の生命」は、むしろ、消えることなく燃え続け、輝き続ける"永遠のエネルギー体"にたとえられるでしょう。それは、旧約聖書に出てくる「燃えているのに焼け尽きない柴」(出エジプト記三・二)に似ています。
預言者モーセは、シナイ山においてこの「柴」を、神によって見せられました。それは燃えているのに、いつまでたっても焼け尽きないのでした。これは神の永遠の生命、またモーセや、クリスチャンたちに与えられる永遠の生命を象徴していたのです。「永遠の生命」は、光と熱と愛に大いに躍動しているのです。
モーセが見た「燃えているのに焼け尽き
ない柴」は、永遠の命を象徴していた
仏教の「涅槃」には、私たちはやはり、ネガティブなものしか感じられません。しかし神の「永遠の生命」は、大いに躍動しています。
キリスト教の説く「救い」は、神の大いなる永遠の生命の中へ、私たちが参加することです。私たちが大いなる永遠の生命の中へ取り込まれ、その愛と、清さと、喜びと、尽きない幸福にあずかることなのです。
永遠の生命とは何か
けれども人々の中には、
「永遠に生きられるとしても、何の良いことがあるだろうか。退屈なだけではないだろうか」
という人もいるでしょう。しかし、聖書の説く「永遠の生命」は単に"いつまでも生きる"という生命ではありません。
自分の内に喜びと幸福の源泉を持っている生命は、いつまでも生きることによって退屈したり、空しくなったりすることは決してありません。
たとえば、私たちがプレゼントをもらう・・嬉しいでしょう。しかしそれもその時だけで、やがて嬉しさはどこかへ消えてしまうでしょう。
また、念願のマイ・カーを持てた・・その時は嬉しいでしょう。しかし何年かたってくると、汚れてきて、エンジンの調子は悪くなり、スタイルも旧式になってしまい、
「えい、ポンコツめ」
ということになるでしょう。
なぜ、このような嬉しさは長続きしないのでしょうか。それはその嬉しさや幸福感が、"外部"のものに依存しているからです。プレゼントも、マイ・カーも、みな自分の外部のものです。そのほか、あらゆる財産や、恋人、ひいては名声なども、すべて自分の外部のものです。
しかし"内部"に、喜びと幸福の源泉を持っている生命は、いつまでも生きることによって、生きることに飽きたり、退屈したりすることはありません。
永遠の生命は、そのような生命なのです。永遠の生命の本体であられる神は、ご自身の内に真の愛と、清さを備えておられるので、永遠に生きることによって退屈したり、空しくなったりすることはありません。
太陽が自らの内に光源を持っているように、永遠の生命は、自らの内に幸福の源泉を持っているのです。
私たちはどうしたら、永遠の生命にあずかることができるのでしょうか。イエス・キリストは言われました。
「永遠のいのちとは……唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネの福音書一七・三)
永遠の命とは、神とキリストを知ること
キリストは、永遠の生命は神とキリストとを「知る」ことにある、と教えられました。神とキリストを真に「知る」なら、その人は「永遠の生命」にあずかることができるのです。
聖書において「知る」は、単に頭の中で知識として知ることではなく、相手と自分が、深い関係に入ることを意味します。それは自分の全存在をあげて、相手とかかわることなのです(創世記四・一、マタイの福音書七・二三)。
ですから神とキリストとを「知る」とは、神およびキリストと、自分が、深い関係に入ることにほかなりません。自分の全存在をあげて、神とキリストにかかわり、その"交わり"の中に入ることです。
つまり、私たちが「信仰」によって、神とキリストに結ばれることだ、と言えます。もしあなたが、天地の造り主である神を信じ、神からの救い主キリストを信仰しているなら、あなたはすでに、神およびキリストとの"愛と生命の交わり"の中にいるのです(ヨハネの手紙第一、一・三)。
永遠の生命は、その交わりの中にあります。その交わりが、永遠の生命なのです。
あなたの永遠の生命は、現在の世においては、信仰によって、小さな種のようにあなたの魂に宿っています。しかしやがて来たるべき世(神の国)においては、全面的に開花することになるでしょう。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。
「救い」とは、私たちが神とキリストの持つ「永遠の生命」の大海に帰入することなのです。
久保有政著