Q、 あなたの哲学と、キリスト教の哲学との違いは何なのでしょうか?
これは不思議な質問だ。
不思議なというのは、キリスト教には哲学などないからだ。あるのは神学であり、そして哲学と神学には大変な違いがある。
神学は信条に、つまり信仰に始まる。
そして哲学は疑いに、つまり論理に、理性に始まる。哲学とは思考することだ。そして神学とは、思考することなく信じることだ。思考したら、人はキリスト教徒ではあり得ないし、どんな宗教の信者にも決してなることができない。なぜなら宗教は考えることを許さないからだ。だからいかなる宗教にも哲学はない。あらゆる宗教にあるのは独自の神学だ。
先ず第一に、キリスト教には哲学などないということだ。
それはただ、「信ぜよ」と言う。救世主を信ぜよ、イエス・キリストを信ぜよ、彼が神の独り子であることを信ぜよ、三位一体を信ぜよ、と。常にそれは「信じなさい」なのだ。だが信じることは、人を偽善者にする。なぜなら、そうした信条が真理になることなどあり得ないことを、心の奥深くでは人は知っているからだ。
心の深いところでは、それが単なる信念に過ぎないことを知っている。
自分でそれを体験したわけでもなく、それには根拠がない。そしてたった一つの疑いでも起きれば、大伽藍(がらん)はすべて、地面の上に砕け散ることになる。
さて、キリスト教徒は、イエスが処女の母親から生まれたと信じている。
そんなことが考えられるだろうか? 考えるならば、疑いが必要だ。なぜならそれは、信じることしかできない事柄だからだ。そして信じる中において、それが不自然んなことであり、起こり得ないことであることを完全に知っている。
キリスト教は、イエスは死んで後に復活したと言う。
それについて何の証明も何の証拠もないから、人はそれをただ信じなければならない。イエス・キリストが生きていた同時代の文献には、イエスの名前さえ言及されていない。磔(はりつけ)にされ、復活したというような大事件が、まったく知られずにいたと思うだろうか? 死者を蘇えらせた人間が、どこにも報告されていないというようなことがあるだろうか? 水の上を歩いた人間が?
この人が磔にされただろうと、あなたは思うだろうか?
そんな人間がいたら、ユダヤ人自身が歓呼して救世主として迎え入れたはずだ。というのも、それ以上の何を求められるだろう? イエス・キリストのような人物がいたという言及すらない。
思考したら、こういうことは信じることはできない。
神について考えたら、信じることはできない。だからキリスト教には哲学はない。そしていかなる宗教も哲学的であることなどできない。それはただ、神学的であることができるだけだ。
私が不思議な質問だと言ったのは、私にも哲学などないからだが、別の理由によって、また私にはいかなる神学もない。私は、信じるということを信じていないし、私は疑うということも信じていない。私が信じているのは探求すること、探し求めることだ。
私には生き方はあるが哲学はない。
だから私には、「これが私の教理問答集の事柄だ」と言うことはできない。私の生き方はすべて単純なので、それにはたいそうな哲学など要らない。それは実に単純なことだ。静かになることを学び、自分の思考を見ていることを学ぶことだ。
そして、自分の思考を見ているようになればなるほど、思考は消え始める。
すると、無心の状態がやってくる。それは全面的に目覚めて気づいており、完全に意識しているのだが、意識している対象は何もない状態だ。それはただ気づいており、ただ意識しているだけだ。
これこそ、生におけるもっとも価値ある瞬間だ。
なぜなら存在というものは、そのあらゆるエネルギーは円を描いて動くからだ。意識が、意識すべき対象を見出せないならば――この「対象」(オブジェクト)という言葉の意味を覚えておきなさい。それは妨害物や反対するもの、妨げるものを意味する――だから意識がどこにも、何の妨げも持たずにどこまでも進むなら、そのときそれは自分自身に戻ってくる。
なぜならものごとというものは、存在の中では輪のように円を描いて動くからだ。それがあらゆるエネルギーの動く形であり、やり方だ。そして意識がそれ自身を意識するようになるとき、それが私の呼ぶ光明だ。それは単純なことだ。
哲学とはたいそうな言葉だ。
私は大げさな言葉は好まないし、そういうものは常に偽物だ。私の生へのアプローチは、ごく単純で直接的だ。私はどんな哲学も持たないし、どんな神学も持たない。私にあるのは方法論だけであり、そしてその方法論の名前は「瞑想」だ。
だから誰も私のところに来るために改宗する必要はない。
私には宗教はないからだ。だからイスラム教徒も私のところに来ることができるし、ヒンズー教徒も、ユダヤ教徒もキリスト教徒も来てかまわない。そして実際、彼らは私のところにやって来ている。それは私がいかなる改宗も求めないからだ。
私は彼らが、彼ら自身の生の源泉を知ることができるように、単純な方法を教える。
それを知ることが、神性を知ることだ。
『 神秘家の道 』 OSHO 市民出版社
これは不思議な質問だ。
不思議なというのは、キリスト教には哲学などないからだ。あるのは神学であり、そして哲学と神学には大変な違いがある。
神学は信条に、つまり信仰に始まる。
そして哲学は疑いに、つまり論理に、理性に始まる。哲学とは思考することだ。そして神学とは、思考することなく信じることだ。思考したら、人はキリスト教徒ではあり得ないし、どんな宗教の信者にも決してなることができない。なぜなら宗教は考えることを許さないからだ。だからいかなる宗教にも哲学はない。あらゆる宗教にあるのは独自の神学だ。
先ず第一に、キリスト教には哲学などないということだ。
それはただ、「信ぜよ」と言う。救世主を信ぜよ、イエス・キリストを信ぜよ、彼が神の独り子であることを信ぜよ、三位一体を信ぜよ、と。常にそれは「信じなさい」なのだ。だが信じることは、人を偽善者にする。なぜなら、そうした信条が真理になることなどあり得ないことを、心の奥深くでは人は知っているからだ。
心の深いところでは、それが単なる信念に過ぎないことを知っている。
自分でそれを体験したわけでもなく、それには根拠がない。そしてたった一つの疑いでも起きれば、大伽藍(がらん)はすべて、地面の上に砕け散ることになる。
さて、キリスト教徒は、イエスが処女の母親から生まれたと信じている。
そんなことが考えられるだろうか? 考えるならば、疑いが必要だ。なぜならそれは、信じることしかできない事柄だからだ。そして信じる中において、それが不自然んなことであり、起こり得ないことであることを完全に知っている。
キリスト教は、イエスは死んで後に復活したと言う。
それについて何の証明も何の証拠もないから、人はそれをただ信じなければならない。イエス・キリストが生きていた同時代の文献には、イエスの名前さえ言及されていない。磔(はりつけ)にされ、復活したというような大事件が、まったく知られずにいたと思うだろうか? 死者を蘇えらせた人間が、どこにも報告されていないというようなことがあるだろうか? 水の上を歩いた人間が?
この人が磔にされただろうと、あなたは思うだろうか?
そんな人間がいたら、ユダヤ人自身が歓呼して救世主として迎え入れたはずだ。というのも、それ以上の何を求められるだろう? イエス・キリストのような人物がいたという言及すらない。
思考したら、こういうことは信じることはできない。
神について考えたら、信じることはできない。だからキリスト教には哲学はない。そしていかなる宗教も哲学的であることなどできない。それはただ、神学的であることができるだけだ。
私が不思議な質問だと言ったのは、私にも哲学などないからだが、別の理由によって、また私にはいかなる神学もない。私は、信じるということを信じていないし、私は疑うということも信じていない。私が信じているのは探求すること、探し求めることだ。
私には生き方はあるが哲学はない。
だから私には、「これが私の教理問答集の事柄だ」と言うことはできない。私の生き方はすべて単純なので、それにはたいそうな哲学など要らない。それは実に単純なことだ。静かになることを学び、自分の思考を見ていることを学ぶことだ。
そして、自分の思考を見ているようになればなるほど、思考は消え始める。
すると、無心の状態がやってくる。それは全面的に目覚めて気づいており、完全に意識しているのだが、意識している対象は何もない状態だ。それはただ気づいており、ただ意識しているだけだ。
これこそ、生におけるもっとも価値ある瞬間だ。
なぜなら存在というものは、そのあらゆるエネルギーは円を描いて動くからだ。意識が、意識すべき対象を見出せないならば――この「対象」(オブジェクト)という言葉の意味を覚えておきなさい。それは妨害物や反対するもの、妨げるものを意味する――だから意識がどこにも、何の妨げも持たずにどこまでも進むなら、そのときそれは自分自身に戻ってくる。
なぜならものごとというものは、存在の中では輪のように円を描いて動くからだ。それがあらゆるエネルギーの動く形であり、やり方だ。そして意識がそれ自身を意識するようになるとき、それが私の呼ぶ光明だ。それは単純なことだ。
哲学とはたいそうな言葉だ。
私は大げさな言葉は好まないし、そういうものは常に偽物だ。私の生へのアプローチは、ごく単純で直接的だ。私はどんな哲学も持たないし、どんな神学も持たない。私にあるのは方法論だけであり、そしてその方法論の名前は「瞑想」だ。
だから誰も私のところに来るために改宗する必要はない。
私には宗教はないからだ。だからイスラム教徒も私のところに来ることができるし、ヒンズー教徒も、ユダヤ教徒もキリスト教徒も来てかまわない。そして実際、彼らは私のところにやって来ている。それは私がいかなる改宗も求めないからだ。
私は彼らが、彼ら自身の生の源泉を知ることができるように、単純な方法を教える。
それを知ることが、神性を知ることだ。
『 神秘家の道 』 OSHO 市民出版社