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アジアの平和、南北朝鮮分断のゆくえ~東西ドイツの壁はなぜ崩壊したか

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2013年4月29日

東西ドイツの統一後、ヨーロッパはユーロ圏の統合に動き出し、平和の礎を築いた。アジアでは、南北朝鮮分断がアジアの調和に大きな影を落としています。中国の民主化がこの問題の解決に影響があるのか、国連がどう対応できるのか、東西ドイツの統一の歴史を改めて見直してみた。

朝鮮分裂の経緯
第二次世界大戦後、連合国は日本の統治下にあった朝鮮で信託統治を実施する計画を策定し、北緯38度線を境とする2つの施政区域に朝鮮を分割した。そして、朝鮮南部にアメリカ軍が、朝鮮北部にソ連軍がそれぞれ進駐して、軍政を開始した。
しかし、朝鮮南部の民族主義者などから信託統治反対運動を受けた米ソは、信託統治の実施を巡って対立を深め、冷戦の影響もあったことから、最終的に朝鮮は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という2つの独立国家に分裂した状態となった(朝鮮分裂)。
その後、北朝鮮は朝鮮統一を目指して朝鮮戦争を引き起こしたが、韓国側に参戦したアメリカ軍を中心とした国連軍の反撃を受け退却する。さらに、韓国側が朝鮮半島全土を制圧しそうになったところで、北朝鮮の要請に基づいて、中華人民共和国が人民解放軍を「志願兵」として100万人規模の派遣をして戦線を押し戻した。その後、両者は膠着状態となり、休戦によって朝鮮は軍事境界線で分断されることとなった。両国は未だに平和条約を締結していない 

ーウィキペディアー

東西ドイツの壁はなぜ崩壊したか

国民の不満
東ドイツは「社会主義統一党」という名前の政党により支配された独裁国家でした。この社会主義統一党は、事実上、共産党と同じでした。国民には政治的自由や言論の自由がなく、特に「国家保安省」と呼ばれた秘密警察による監視が厳しかったのです。一般市民の中に国家保安省に情報を提供する協力者がたくさんいて、例えば「近所の○○さんが政府を批判していた」というような密告が行われました。

 しかも、この協力者であることは秘密にされたので、家族の中にも知らないうちに協力者がいることもあったといいます。だから夫婦や親子の間でさえ、政府を批判するなどの会話は難しかったのです。家族といえど腹を割って話し合うこともできない状況でした。国民は常に行動を見張られている、といっても過言ではありませんでした。

 このような体制の中で、1980年代を通じて、東ドイツでは国民の間に政治に対する不満が高まっていきました。また、西ドイツやアメリカ、日本など西側の国に比べ商品の種類が少なかったり、質が劣っていることも事実でした。例えば車では、東ドイツで一般の人が買えるのは2種類くらいしかなかったので、街中を同じ車が走っているようなこともありました。

東ドイツの代表的な車「トラバント」。このように同じ種類の車ばかりが見られるのが東ドイツでは当たり前だった

・ハンガリーの鉄条網撤去
 東ドイツと同じ社会主義国だったハンガリーでも国民の不満が高まり、ハンガリー政府は自由化へと動き出しました。1989年5月にはオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去を始めました。越境するにはパスポートやビザなどが必要とされ、境界線付近は警備兵が監視していましたが、鉄条網撤去は自由化の象徴と見られました。

 これに目をつけたのが西ドイツへの出国(亡命)を目指す東ドイツ人でした。ハンガリーからオーストリアへ越境することを狙って、この年の夏には数万人とも言われる東独人が「休暇・旅行」の名目でハンガリーに滞在しました。そして不法ながら国境を突破してオーストリアに入った人が夏だけで200~300人もいたのです。

・ピクニック事件
 1989年夏、ハンガリーの反政府団体が集会を開きました。集会が開かれた場所は西部の観光名所ショプロン。オーストリアへの国境近くの町です。この集会には東ドイツ人も多数参加していました。そして「汎ヨーロッパ・ピクニック」というイベントを計画していました。これは、ハンガリーから国境を越えてオーストリアに入りこむことで、東西ヨーロッパを自由に通行できることをアピールしようという内容でした。

 そして実際に、このピクニックは実施されました。国境地帯まで歩き、鉄条網は撤去されていたものの閉鎖されていた国境の柵を開けてオーストリア側に越境しました。ハンガリーにも国境警備兵がいて監視体制を敷いていたのですが、不思議なことに越境を見逃したのです。ピクニックに参加していた東ドイツ人は、そのままオーストリアになだれ込みました。この日だけで東ドイツの900人が越境したと伝えられます。8月19日の土曜日でした。オーストリアは西側自由主義国だったので、オーストリアに入った東ドイツ市民は、簡単に西ドイツへ行くことができました。   ーベルリンの写真館ー

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

 


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