たとえば、インドにも競争心を抱かない社会がある。
インドにも土着の部族がいるが、彼らには競争は存在しない。当然、私たちの尺度からすれば、彼らはあまり進歩的とは言えない。私たちの進歩は、競争によって成り立つものだからだ。だが彼らは競わない。競わないから怒らないし、妬(ねた)まない。憎しみに満ちることもなく、暴力的でもない。彼らは多くを期待せず、生というものが自分たちにもたらすものを何でも喜び、感謝する。
生があなたにもたらすもの・・・だがあなたは何に対しても感謝を感じない。
あなたがいつも欲求不満なのは、常により多くを求めるからだ。期待や欲望には際限がない。だから苦悩を感じるなら、苦悩を見つめ、分析してごらん。苦悩を生み出す元となる、条件付けの要因は何だろう? それを理解するのはさほど難しくない。苦悩を生み出せるのなら、苦悩を生み出すのが得意であるなら、それを理解するのも難しいことではない。生み出すことができるのであれば、理解もできるだろう。
パタンジャリの立場はこうだ――人間の苦悩を見つめると、責任は自分自身にあることがわかる。人は何かをした結果、それを生み出しているからだ。しかもその行為は習慣化していて繰り返され、それはまるで機械的でロボットのようだ。だが注意深くなることで、あなたはそこから抜け出すことができる。「私はその動きに協力しない」とあっさりと言えばよい。そうすればあなたの内のメカニズムは、そのように機能し始めるだろう。
誰かがあなたを中傷する。
あなたはただ静止して、沈黙を守る――だが、あなたの内なるいつものメカニズムは動き始め、それはいつもの過去のパターンを呼び戻す。怒りが湧き、火が点いて煙が立ち昇りはじめ、あなたは気も狂わんばかりの心境になる。でも、あなたは静止する。協力してはいけない。そのメカニズムがしていることを、ただ見つめてごらん。あなたは自分の内側に複雑な状況を感じるだろう。でもあなたが協力しないから、今のところそれは不能になっている。
あるいはそのような不動の境地には留まれないと思うなら、部屋に入って扉を閉め、枕を前に置きなさい。そして枕を叩き、枕に怒りをぶつける。叩いて、殴って枕に怒り狂っている時、自分を見つめ続けてごらん。自分が何をしているか、何が起こっているのか、いつもの怒りのパターンがどのように繰り返されているかを見てごらん。
自分を静止させることができるなら、それが最良だ。
だが引きずられてそれは難しいと思うなら、部屋へ入って枕に怒りをぶつけなさい。枕によって、あなたの狂気がすべてあらわになり、表現される。そして枕は何も表現しない。除々に怒りが湧き起こり、怒りが衰えていくのをよく見つめてごらん。
その両方のリズムを見るとよい。
そして怒りが吐き出されたら、あなたはもうこれ以上枕を叩こうとは思わない。バカバカしいと思うか、あるいは笑い出すだろう。そうしたら目を閉じ、床に座り、起きたことを瞑想しなさい。まだ自分を中傷した人に怒りを感じるだろうか? それとも怒りは枕に叩きつけられて出て行っただろうか?
あなたはある種の静けさの訪れを感じるだろう。
そしてもはや相手に怒りを感じないだろう。むしろその人に、慈しみすら感じるかもしれない。
自分を翻弄する古い「強迫観念」を解き放つ
2年前のことだが、1人のアメリカ人の若者がここにいた。
彼は一つの強迫観念のせいで、アメリカからここへ逃げて来た。彼は常に父親を殺すことを考えていたのだ。その父親は彼にとって危険な人物だったに違いない。おそらくこの若者を、余りにも抑圧していたに違いない。若者は夢の中でも殺害を思い、昼間も白昼夢の中で父親を殺すことだけを考えていた。
そして父親のいない場所へ行きたいという目的のためだけに、彼は家から逃げた。
さもないと、もうすぐ何かが起こりそうだったからだ。狂気は常にそこにあり、それは今にも爆発しそうだったのだ。
彼は私とともにいた。
私は彼に「抑圧してはいけない」と言った。私は彼に枕を渡し、「これがあなたの父親だ。さあ、何でもしたいようにしなさい」と言った。最初、彼は笑い出し、それも狂ったように笑い、「そんなの馬鹿げてますよ」と言った。私は言った。「馬鹿げていてもいい。あなたのマインド(表面意識)にあるものをそこへ吐き出しなさい」
彼はそれから15日間、枕を叩き、殴り続け、引き裂き続けた。
そして16日目に彼はナイフを手にしてやって来た。私は彼に指示していなかったので、なぜナイフを持ち出したのかを尋ねた。彼は言った。「もう止めないでください。殺させてください。もはや枕は枕ではない。枕は本当に僕の父になったんです」。その日、彼は父親を、つまり枕を殺した。そして彼は泣き出した。
彼は落ち着きを取り戻し、リラックスして私に言った。
「父に対して、大きな愛と、大きな慈しみを感じます。いま、戻ることをお許し下さい」 今、彼は戻っている。彼と父親との関係性は完全に変化してしまった。いったい何が起きたのだろう? それはただ、彼の内で機械的に作動し続けてきた強迫観念が解き放たれたのだ。
エネルギーをどのように動かし、変化させるのか
至福や幸福、喜び、それを何と呼んでもいいが、それらはすでにあなたの中を流れている。ただそこにいくつかの岩があるが、その岩はあなたの生きる社会の条件付けだ。それらの条件付けを解きなさい。執着が自分の岩だと思うなら、無執着のための努力をしなさい。怒りが岩なら、怒りを打ち消す努力をしなさい。強欲があなたの岩なら、強欲を打ち消す努力をしなさい。
そのためには、ちょうど正反対のことをすることだ。
強欲を抑圧してはいけない。正反対のことをしなさい。強欲の打ち消しになることをしてごらん。(人にあげることかもしれない) 怒りを抑圧するばかりではいけない。怒りの打ち消しになることをしなさい。
日本には、腹を立てた時の伝統的な教えがある。
腹を立てたら、すぐに怒りを打ち消すことをするのだ。すると、怒りへ向けられていたのと同じエネルギーが、今度は怒りの打ち消しへと向かう。エネルギーというのは常にニュートラルであり、中立だ。誰かに腹を立て、顔を引っぱたいてやりたいと思ったら、その人に花をあげて、何が起こるか見てごらん。あなたは彼の顔に平手打ちを食わせてやりたかったし、何かをせずにはいられなかった、それが怒りだ。
あなたは怒りの打ち消しになるようなことをした。
そして自分の内面に何が起きるか、見つめてごらん。彼を引っぱたこうとしていたのと同じエネルギーが、今、彼に花をあげようとしている。そこにあるのはエネルギーの質の変化だ。しかし何もしないなら、あなたは自分を抑圧することになる。そして抑圧は毒となる。何かしなさい。ただし正反対のことをだ。
これは新たな条件付けではなく、あなたの内にこれまであった古い条件付けの解除なのだ。古いものが消え去れば、結び目は解消する。何かしなくてはと心配する必要はない。その時、あなたは自発的に流れていくことができるからだ。
The Path of YOGA
パタンジャリのヨーガ・スートラ
『魂のヨーガ』 OSHO 市民出版社
抜粋