2014年7月24日
強いエネルギーに慣れる時間があれば、自力の底上げもでき力がつきます。個々にはなかなか考えが及ばないものですが、その大切な機会が与えられています。それは「何もない機会」です。
「いかに犠牲を少なくするか」が、変化の時期に最も配慮しなければならない人の道です。人類が13000年の暗黒の夢から覚めたときに、暴動をおこさず、敵を敵とせず、焦らず確実に一歩一歩、自分のことも周りの人たちのことも、丹念にいたわり、世界の調和も、そして壮大な宇宙の調和へと拡大してゆきます。機会が与えられました。
人類の尊厳を回復し、宇宙の平和を実現する天の真理であり、人間個々の存在意義です。しかし、あまりにも長く周到な計画の中に閉じ込められていたため、いろいろな悪慣習を自然だと思い込み、すっかり染まってしまっています。
この機会を生かすにはどうしたらよいか、メッセージや社会の環境変化を通じてたくさんの励ましや、道を示してくれています。それでも気がつかない人がたくさんいて、まだまだたくさんの目覚める機会が必要とされています。
1987年から本格的に国の指導者を通じ、あるいはユーロ圏のようなプロジェクトを通じ、チャネリングや啓示など様々な方法でサポートを受けてきましたが、マスコミなどの影響で、実際は人々の心にほ、一時的なことに終止しさめてしまいました。計画が遅れた原因の一端を人類が自ら創り出してしまいました。
頑張ってきたのに、そこ知れない恐怖のため先に進めなくなってしまいました。こういう状態で何かをしようとしても、表向きのことに終始して空回りしてしまいます。周辺の変化や矛盾に気がつくよう、天はディスクロージャーに重点を置いていますが、これもマスコミの影響が強く出ることになります。
対立や二元性の意識ではなく、内面の力量に重点を置き、見る目を養い、物事の道理に明るくならなくてはいけません。親を敬う心がなければ、天を敬う心を知りませんし、愛がわかりません。
暴力・麻薬・売春を一部でも肯定したり、加担したりすれば、自分を弁解する立場になってしまいます。もちろん国と言う公の不正、あるいは人の命にかかわる戦争や医療における無関心は、自己本位による逃避の積み重ねがそうさせました。この物質社会で物事を理解するには、ディスクロージャーに頼ることもひとつの重要な手段です。
生活防衛と欲望を満たす徒労の繰り返しでしたが、しかし、人間には、良心とか真心・思いやりの心があります。 池でおぼれかけている子供がいたら、誰もが自分の命の危険もかえりみず助けようとする心が動きます。ここまで追い込まれても向きを変えようとしないのに、親が子を、兄弟が、友達がお互いに少しでもできることをして助け合おうとします。
いつも最後の力を振り絞って、まるで絶望の淵で、真っ暗な闇の中で、爆発寸前の状態でも辛抱強くがんばっています。自分を失った状態でも、何かを示そうとします。自分が無力のときも、他によって継続的に進化できます。
釈迦の慈悲、キリストの賽血(博愛)の意義はここにあります。その犠牲は、天と人との間の失った関係を再び立てるための命です。人類は、聖なる存在であり、その存在から決して離れることができません。他人の過ちを求めず、人の罪を挙げず、むさぼりを離れれば、人は「何もない機会」が光の世界であることに気がつきます。
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