12/6(水) 11:14配信
トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、在イスラエル米大使館を商都テルアビブから移転する意向を示したことに対して5日、アラブ諸国は一斉に反発した。欧州や国連も、米国の一方的な行動だとして懸念を強めている。
トランプ氏は5日、中東地域の大国であるサウジアラビアのサルマン国王や、イスラエルと国交があるヨルダンのアブドラ国王、エジプトのシシ大統領とも電話で協議し、移転の方針を伝えた。
サウジ国営通信によると、サルマン国王はトランプ氏に対して「世界中のイスラム教徒の感情をあおり立てることになる」と強調。アブドラ国王も「地域の安定と安全保障に危険な影響を与える。米国が進める和平協議の障害になる」との声明を発表した。またシシ大統領も声明で「中東での平和の機会を奪いかねない措置で、地域情勢が複雑化しないよう求める」と訴えた。
アラブ連盟(21カ国と1機構)も5日、「アラブ諸国と全イスラム教徒の権利に対する侵害」と批判し、「エルサレムを首都と定めると、地域と世界の平和や安定への深刻な脅威になる」との声明を発表。アラブ連盟は同日、パレスチナ自治政府の要請でエジプトの首都カイロで緊急会合を開催しており、「エルサレムの法的・政治的地位を変更するどんな手段も取るべきではない」と主張した。
フランスのマクロン大統領も5日にトランプ氏と電話協議した後、「米国の一方的な首都の承認になるのではないかと懸念している」と述べた。欧州連合(EU)のモゲリーニ外務・安全保障政策上級代表は、「パレスチナ国家独立とイスラエルとの共存を目指す『2国家解決』を覆すいかなる行動も、絶対に回避されなければならない」と主張。国連のグテレス事務総長も「2国家解決を覆しかねない一方的な行動には警告を続けてきた」との声明を出した。【久野華代】
最終更新:12/6(水) 11:42
転載:軌跡と覚書 2016-05-14 聖書における「イスラエル」の意味(1) イスラエル論 聖書研究 これまで、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?」という問題について扱ってきました。この問いが関わってくる最大のテーマは、「イスラエル」という用語の意味です。「イスラエル」についての考え方(イスラエル論)は、前回まで見たような旧新約聖書の関わり方をどのように考えるかによって規定されていきます。
今回はイスラエル論に関する神学的主張の比較を取り上げますが、次回以降は聖書本文から「イスラエル」という用語についてワードスタディを続けていきます。
今回はいつもより少々長い記事となってしまいましたが(15,000字超え!f^_^;)、ここで取り上げた神学者たちの主張は、分割せずにひとまとめにしてしまった方がよいと判断しました。その内容は最後の「今回の結論」でまとめていますので、そちらを御覧になってから各主張を読んでいただけると分かりやすいかと思います。
新改訳聖書第三版では、「イスラエル」という用語は旧約聖書(以下旧約)で2,550箇所、新約聖書(以下新約)では80箇所の聖句に登場する*1。この登場回数から見ても、「イスラエル」は聖書の用語の中でも非常に重要であるということがわかる。
「イスラエル」(Israel)という単語は古代中東に存在した王国に対しても使用されるが、一般的には現代のイスラエル国を指すことが多いだろう。
「イスラエル人」という場合には、特に英語圏ではIsraeliteを用いるか、Israeliを用いるかによって異なる意味を示す。前者の場合は古代イスラエル人を指し、「ヘブライ人」や「ユダヤ人」と同義語として定義されている場合もある*2。したがって、ここには人種あるいは民族の概念が含まれていることがわかる。一方、後者の場合には(現代)イスラエル国民を指し、基本的にここには人種的あるいは民族的区別はない。
どのような意味で用いるにしろ、我々が通常「イスラエル」と言う場合には、国家、国民、民族といった概念と関連させているのだということができる。
しかし、「イスラエル」という用語の聖書的用法に関しては、議論が複雑化してくる。聖書における「イスラエル」という存在の捉え方については、これまで扱ってきた「新約の啓示は旧約の意味を変更したのか」という問題と直結している。ある者は「旧新約を通してイスラエルの意味は変わっていない」と主張し、またある者は「新約になってイスラエルは新たな意味を持つようになった」と主張する。
本論で詳しく述べるが、後者では、ほとんどの場合、新約におけるイスラエルの新しい「意味」(あるいは指示物)とされているのは「教会」(ekklesia)である。したがって、ある者のイスラエルに関する理解(すなわちイスラエル論)は彼の教会に関する理解(すなわち教会論)に大きな影響を及ぼす、ということは容易に理解され得る*3。
また、イスラエル論は(宇宙論的)終末論*4にも影響を及ぼすものである*5。
終末論の形成は、大部分が旧新約の終末に関する預言の解釈に依拠している。その中でも、特に旧約預言については、ほとんどの場合が「イスラエル」に直接関連したものである*6。すなわち、「イスラエル」の意味をどのように捉えるかによって、それらの預言が指示している事柄は異なって解釈されるということになる。したがって、論理的には、イスラエルについての考え方は終末論に直接的に影響を及ぼすものである。
教会論も終末論も、キリスト者にとっては重要なテーマである。教会論という教理体系は、我々自身が教会という「キリストのからだ」(1コリ6:15;同12:27;エペ1:23;コロ1:24)に属しているが故に、重要である。終末論については、それが聖書に書かれている宇宙規模の神のご計画を理解しようという営みの結果であるが故に、聖書全体を神の啓示と見做す福音主義者は、真摯に向き合っていく必要がある。
以上のことから、この「イスラエル」という用語についてワードスタディをしていくことは、福音主義者が聖書を理解する上で非常に重要な「鍵」であるといえるだろう。
「イスラエル」についての詳細なワードスタディに入る前に、まずは聖書における「イスラエル」の意味について、幾人かの神学者たちがどのような主張をしているかに触れておきたい。
少々短絡化した形となってしまうが、「イスラエル」の意味についての近年の神学者たちの主張は、次の2つのいずれかに分類されるといっていいだろう。
前者の考え方は、結論としては「教会がイスラエル民族に置き換わった」というものである。こういった考えに基づいた神学的立場は、通常、置換神学(replacement theologyもしくはsupersessionism)と呼ばれる。対して、後者の「イスラエル民族と教会とは別個の存在である」という考えに基づいた神学的立場を非置換神学(non replacement theologyもしくはnon-supersessionism)という。置換神学と非置換神学については、後に項を改めて記述することとする*9。
1–1.ブルッゲマンの主張ブルッゲマンは、旧約における「選び」という概念について次のように述べている。
「選び」とは、YHWHが世界の中からイスラエルを特別な自分の民として「選んだ」こと、またYHWHが御自身の未来をイスラエルの幸いのために献げることへの確信を言い表す伝統的な手法である。……つまり、YHWHはこのような決定をなす神であり、絶対にぶれることはなく、イスラエルと結びついている神である。*10
また、その「選び」に基づいた旧約のイスラエル論を次のように要約している。
YHWHの選民というイスラエルの特別な身分には、トーラーを遵守することを通して、YHWHに服従して生きるための、根本的な、交渉の余地のない要求が伴うことは明白である。YHWHが、地上のすべての民の中から自分の宝としてイスラエルを選んだのは、イスラエルがYHWHの意志に従うためである。*11
ブルッゲマンによれば、神によるイスラエルの「選び」という概念の故に、旧約には「イスラエルの神は天地の造り主であり、それゆえ多くの人々の神である」という一見矛盾した認識*12が存在している。これは、イスラエルの選びを通して全人類が祝福されるという「聖書本文の決定的な主張の本質」*13に基づいている。
創世記12:1-3で、アブラハムに対するYHWHの約束によると、アブラハムを通して、すべての人々が祝福されることになっている。個人に対して約束を結んだ行為にもかかわらず、他者も考慮されている。……つまり、イスラエルの出エジプトとともに、YHWHは多くの民族──イスラエルの敵を含む──を「脱出」させている。イザヤ書42:6-7と49:6では、イスラエルは「諸国の光」になる。*14
一方で、彼の主張においては、アブラハムという個人からイスラエルという民の選びを通して諸国民が祝福されることによって、「YHWHから選ばれる民は複数となり、イスラエルは独占的な身分を持たなくなる」ものと理解されている*15。ここで彼はイザヤ書19:23-25を取り上げ、「この聖書本文が度々示唆することは、この神が他民族にもそれぞれ固有の選びの物語を与えているということである」と結論づけている*16。
日本の秘密は神によって隠されてきました。以下、長文ですが関心のある方はこれまでの歴史的諸説をご参照ください。http://balien.hatenablog.com/entry/2016/05/14/172323