まぼろしの諏訪王朝(増澤光男)
第四章 限りなく諏訪は日本
諏訪はどこからきたか(200p)
渡来した首都スハ(201p~)
・・・古代諏訪の音はスハであった。古事記をはじめ羽、波、方、芳と、みんなハを充てて、ワではない。それに古代語の母音は発声法が今と違っていて、ハは唇を合わせて発音した。するとハはホァに近い音になる。・・・
そのスハはまず山口県の周防(すほう)へとぶ。周防も諏訪もまったく同音のスハである。上古の周防国はタケミナカタの故地であり、同じスハであった。ここからスハは海を渡って韓国のソウルにつながる。金沢庄三郎の「日韓同租論」によると古代朝鮮では首都のことをソホリ(金城)と呼んだ。スハはこのソホリの転化だというのである。朝鮮語は日本語の母体といわれるが、この場合ラ行はこもって脱落する。ノラやカブラが野や蕪(かぶ)になったように、ソホリはソホとなる。すなわちスハは首都だったのである。
上古の日本は朝鮮半島と交流がきわめてひんぱんであり、今日のような国境意識のなかった時代、すべての文物と同様にスハは渡来したのだが、その語源は半島にとどまるものではなかった。スハはさらにそのルーツを求めて大陸に雄飛をはじめるのだが、それはさておき、諏訪が首都だったという意味あいはおいおい理解いただけよう。
諏訪は有史以前から国のまほろばであった。旧石器時代といわれる一万年間、列島の原住民たちは黒曜石を握って生きた。まずこの国に最初の曙がさしたのは黒曜石を擁するスハの国だったのである。つづく縄文時代もそうだ。コンピューターがはじき出した縄文中期の人口は全国で二十万人、うち30%近くが中部高地に住んでいた。その中心に諏訪がある。どこを掘っても遺跡といわれる密度の高さと、出土品の豪華さがそれを物語る。その縄文という八千年にわたる平和な時代にも、国のまほろばとして存在したのはスハだったのだ。そしてやがて大陸から「首都」という美しいエコーがわたってきたのである。
「諏訪する」国柄
古代、まず言葉があった。そこに文字が入ってきて、最終的に「諏訪」と決まった。そのプロセスである州羽、須波、須羽、などは発音記号であって、文字自体に意味はない。だが、この「諏訪」という文字は調べていくと、たいへんな意味が浮かびあがってきた。まず中国の説文解字に、「訪」と「諏」が並んで次のように出てくる。
訪=汎謀曰訪。・・・・・・・・・・・・漢字が難しく略します。・・・・・・
諏=・・・・・・・・・・・・・・・漢字が難しく略します。・・・・・・
・・・要するに「訪」とは広く謀ることであり、「諏」とはおおぜいに謀ることであって、つまり諏も訪もともに謀るという意味なのである。いうまでもなく謀るとは相談してものごとを決めることだ。
この二字をつないだ諏訪は、漢読みではシュホゥだが、これがその後中国で”諏訪する”という詞を生み出した。唐書のなかに「軍中事多所諏訪」とあって、戦に挑んでさかんに作戦会議をやったことが出てくるのである。すでに前掲の文中にも「文王が蔡原に諏(と)い、辛君に訪(と)うた」とある。文王とは古代中国において理想の天子と仰がれた人で、三千年の中国では話し合いでものごとを決める国柄であったことを物語っている。これがなかなかおもしろい。というのは、諏訪はずっと大昔から「諏訪する」国柄だったことを思うからである。
かつて諏訪国はそれぞれの石神ミシャグジを奉ずる部族の合衆国であった。大切な祭りごとは神々にとい、はかり、行われてきた。やがてヤサカトメ、タケミナカタの登場によって諏訪王朝がきづかれてからも、この祭政体制はいっそうルール化されていくのである。・・・
転載:つながっているこころ 2 http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-7857.html
書き写ししましたのでまず読んでください。