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諏訪湖のあたり。
八ヶ岳山麓では、旧石器・縄文時代の遺跡、遺物が多く発掘され、狭い地域ながら縄文中期には日本では最も人が集まっていた人口稠密地帯、すなわち縄文王国でした。
黒曜石です。
産出地 ウィキより
黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている[2]。 後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られる。このうち、姫島の黒曜石産地は、国の天然記念物に指定されている[3]。隠岐。姫島。伊万里。 これって神話の軌跡ですね
黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、佐賀県腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。こうやってみると、列島を横断できますね。
巧みにフォッサマグナが峡谷を作り、通り道になっている。
志賀島の安曇族の安曇野なんて諏訪の黒曜石のためにここに来たことが地図上はっきりしますね。
そして冬は閉ざされるが、夏には涼しく快適な旅路の場所です。
人々は冬を避けてここに集まり、黒曜石と各地の物産を物々交換していったでしょう。
そして管理元の諏訪では高度な土器などが発達した。
それが下図です。
上諏訪地区最大の遺跡、穴場遺跡から出土した蛇体文装飾付釣手土器です。
縄文時代中期中葉(約4500年前)のもの・
縄文時代一二〇〇〇年の中でそれを〇年から12000年と比定すると、そのあとで弥生時代2000年があると考えると
この土器は縄文年間1万年ころの出来事ですね。
この図で早期7000年のあたりから弥生のあたりまで諏訪は都だった。聖地だった。
やはりこの縄文1万年の研究が大事ですね。
その世界に天孫族や邪馬台国や大和王権が入り込んできた・・・・
実は諏訪湖は7000年間くらい、
縄文世界の都、聖地だったのではないか。
そうすると京都どころの話ではない。
永遠の京都1200年。
大和王権以来約1500年。
聖地諏訪の存続機関は7000年?5000年?
地層からだけ見るば10000年です。
黒曜石が使用されて以来でしょうからとにかく別のスケールの時間の話です。
そうするとこの諏訪の神話の世界はどこへ行ったのでしょうか。
神話と言ってもすでに銅や鉄の剣が登場し、
高天原にさえ畑や田があるような出雲や日向の神話とは格段に時代が違う。
トロイ遺跡に対してのシュメール遺跡のようなそんなスケールの違いを感じる。
三内丸山遺跡でも1500年続いたという。諏訪勢力はどうか?
この土器は4500年前のものです。
出雲の大国主の息子が逃げ込む弥生時代はたぶん0年から300年ころ。
するとなんと驚くことに4500年から5000年くらいの時がたってる。
最低でも諏訪は4000年の聖地です。
でもその前から続いているからやっぱ7000年の都、
まあとにかく年代はべつにして空前の古さと長さの都です。
このとてつもない時間の流れを評価するすべがないということです。
諏訪大社もあります。
諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは
全国でも群を抜いており
当地が繁栄していた様子がうかがわれる。
これは圧倒的な数と密集具合なのですね。
これを地図にあてはめると
見事に集落は諏訪湖のある平野全部が湖であったことを証しているようです。
ついでにいうと地図の左の安曇野の平野も湖だったという説もあります。
それだけの淡水の量にしてはじめて食料調達が可能だったと思われます。
さらに諏訪の4つの社はみな旧古代湖岸にそってあります。
縄文5000年の都です。