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「電通」と自民党・公明党・CIA、「電通」を取り巻く、日本でいちばん醜い利権の構図

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http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/805.html
投稿者 シチズン 日時 2009 年 8 月 26 日 05:10:14: 5ciTDWA0eEak2

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「電通」と自民党・公明党・CIA、「電通」を取り巻く、日本でいちばん醜い利権の構図

~エゴポイントも、東京オリンピックも、世界陸上も、自民党・公明党の広告宣伝費も、みーんな「電通」の利権です!~

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(第1章)「電通」と自民党・公明党・CIAの歴史


参考
http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-1.html

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-2.html

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-3.html

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-4.html

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-6.html

http://blog.goo.ne.jp/nande_ya/e/efaf6c4fa9c64880684b4423f94d753b

1895年(明治28)

11月、瀬木博尚によって教育雑誌の広告取次店として「博報堂」が創業。
社名の由来は、瀬木博尚の経営理念「博く、華客に奉仕報酬する」から付けられた。

1901年(明治34)

広告代理業「日本広告株式会社」の併設機関として、通信業「日本電報通信社(電通)」を創立。


≪黎明期の電通≫

http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-September/003431.html

1935年(昭和10)の2.26事件が起きる前年、吉田秀雄は上海に渡り、排日運動が熾烈をきわめる中で、
邦字新聞、日系漢字新聞など、中国市場の媒体の殆どを電通扱いにしている。

この吉田秀雄の快挙の背後には、
当時の中国市場、ことに情報機関を完全に掌握していた日本軍との、何らかの連携があったに違いないが、
そのあたりのことは、現在の「電通」幹部は、全く知らないようだ。
ただ一つ、はっきりしているのは、この時、上海で吉田秀雄は塚本 誠なる人物と懇意になっている、ということだ。

この人物は、戦後、吉田秀雄に迎えられて「電通」に入社し、取締役になっている(1975年8月死亡)。

塚本 誠は、元憲兵大佐であり、戦前は、上海で有名な影佐禎昭大佐の「梅工作機関」など、いわゆる特務機関と連携し、
或いは特務機関の束ね役として、反日運動などの弾圧の指揮をし、汪精衛の南京政府づくりの舞台裏でも活躍したようだ。

実は、吉田秀雄が上海で塚本 誠と懇意になったのは、
こうした時代、つまり塚本 誠が中国市場の情報関係の人間たちに絶大な力を持っていた時代なのだ。

尚、塚本 誠は、東条英機が政権をとると憲兵特高課長に迎えられているが、
一方では近衛文麿と、彼をとりまく学者、ジャーナリストたちとも親しく、憲兵特高課長という顔の他に、
ジャーナリズムとの根回し役もつとめていたようだ。

この時代、吉田秀雄は、「読売」の正力松太郎、「同盟」の松本重治、「毎日」の吉岡文六、田中香苗、
そして、「朝日」の団野信夫、宮崎世龍などと懇意になっている。

1936年(昭和11)、2.26事件が起き、日独伊防共協定が締結されるなど、日本が、破滅への途を選んだ運命の年だが、
「電通」にとっても、大きな選択を、それも無理矢理に強要された年だった。

報道管制が行われ、日本政府、そして日本軍は、報道調整という言葉を使った。
報道を掌握するには、情報チャンネルの一元化が必要で、そこで先ず、新聞に内外の情報を提供する通信社を統合して、
単一の国策通信社をつくることを考えたのである。

国家にとって都合の悪い情報は遮断する。情報整理、そして情報操作。
1936年(昭和11)1月、政府は、地方新聞など反対派を強引に封じ込んで国策通信社である社団法人・同盟通信社を発足させた。
そしてこの時から、「電通」は、通信社部門を失い、広告代理行専業の会社になったわけだ。


1906年(明治39)

「南満州鉄道」設立(初代総裁は、後藤新平)。

後藤新平は、現NHKの初代総裁であり、正力松太郎に資金援助し読売新聞を買い取らせた人物であり、
通信社を独立させ、翌年には逆に通信社が広告会社を合併。
「電通」はこの年、ロスチャイルドと関係の深い「ロイター(1871年、既に長崎・横浜に支局開設)」と契約。

1907年(明治40)

「満鉄調査部」設置、米国に創立された「UP(現在のUPI)」と契約。


1931年(昭和6)

満州事変が勃発

→注.謀略で起こされた満州事変とメディア(「満州国通信社」)pdf
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/08.pdf

1932年(昭和7)

満州国建国。国策通信社「満州国通信社」初代社長には、里見 甫(さとみはじめ)が就任。

里見 甫は、裏社会とつながりがあり、満州国高官だった岸 信介の命によって、
アヘンの密売であげた巨額の利益を、関東軍の資金にする犯罪行為の一端を担っていた人物。

「満州国通信社」は、当時の軍国主義下の国策通信社であり、その阿片マネーから、児玉誉士夫、笹川良一といった人間に繋がり、
阿片を利用し戦争指揮をとった東条英樹、「満州は、私の作品」と豪語する岸 信介、そして、日本の右翼勢力とも元々密接な関係があり、
更には、中国の裏社会(マフィア)との繋がりもあった。


1934年(昭和9)

後に「電通」第4代社長に就任する吉田秀雄は、上海にて中国進出し、中国市場の媒体の殆どを「電通」扱いとした。


1936年(昭和11)

「日本新聞聯合社(聯合)」と「電通」の通信部門合併により、「同盟通信社」を設立。
その際、「電通」の広告部門は、「日本新聞聯合社(聯合)」の広告部門を吸収し、広告のみを扱うという現在の姿の原型が完成。

同年10月に、岸 信介が、満州国の国務院(満州国における行政機関。満州国は議会を持たなかった為、国政の最高機関であった)
の実業部総務司長に就任している。


1945年(昭和20)

敗戦に伴い、「同名通信社」は解体され、
政治、社会、一般ニュースを扱う「社団法人共同通信社」と、経済報道を扱う「株式会社時事通信社」に分社化。

しかし現在では、「共同通信社」、「時事通信社」、「電通」は株式を持ち合い、設立当初の寡占状態を回復している。


1947年(昭和22)

吉田秀雄が「電通」第4代社長に就任。
この頃から、「日本電報通信社(電通)」は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功する。

吉田秀雄は、戦犯として公職追放された政財界人、満州や上海から引き上げてきた旧軍人、満鉄(満鉄調査部、満州国通信社)関係者などを
大量採用し、これが、「電通」が“満鉄調査部の後身”と言われる所以である。当時の電通ビルは、“第二満鉄ビル”と呼ばれていた。
彼らは、広告のノウハウは無かったものの、実質フィクサーとして活動し、現在の日本支配の礎を築きあげていった。
また、吉田秀雄はこの頃から、米国式広告=“プロパガンダ”手法を導入。


≪終戦直後の電通≫

http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-September/003431.html

1947年(昭和22)5月、前社長の公職追放により、吉田秀雄が社長となった。
この経営危機の時期に、吉田秀雄は、何故か旧軍人、軍属、或いは「満州鉄道」関係者をどんどん採用しているのである。

市川 敏(満州国弘報処長)、小沼治夫(陸軍少将)、島崎千里(産業経済新聞)、高橋 渡(満州日報業務局長)、
高橋威夫(満鉄文書課長)、塚本 誠(憲兵大佐)、松本豊三(満州日報理事長)、古賀 叶(満鉄錦州鉄道局長)、
高田元三郎(毎日新聞社)、森山 喬(大陸新報理事)、森崎 実(満州日報編集局長)、芝田研三(南満州鉄道)、
金沢覚太郎(満州電信電話)、古瀬甲子郎(満州日報営業局次長)、峯間信太郎(天津米穀統制会理事長)、
白川威海(毎日新聞社)、山名文夫(資生堂意匠部)、蜂谷輝雄(台湾総督府外事部長)、東郷青児(画家)、
中西寅雄(東大教授・陸軍嘱託)、宮崎博史(三越宣伝部長)、小滝 彬(外務省情報部長)、新田宇一郎(朝日新聞社取締役)、
新保民八(花王石鹸取締役)

広告業界の連中は、誰もが「電通」ビル(旧電通ビル、中央区銀座七-四)を「第二満鉄ビル」と呼んだ。
あまりに満鉄関係者が多かったからである。

吉田秀雄は、経営が危機に瀕していた時期に、何故、広告のことを皆目知らない、言わば使いものにならない連中をこれ程集めたのか、
吉田秀雄は、旧軍人、満鉄関係者たちを社員として採用しただけではなく、公職追放となった政治家や財界人、新聞人などの為に、
「旧友会」という、言わば“サロン”をつくって、彼らが、月一回集まって食事をしながら、心置きなく談笑出来るように設え、
そればかりではなく、彼らの為に「ユニバーサル広告社」という会社までつくっているのである。

戦後、「電通」が大きく躍進出来た原因の一つが民間ラジオ放送で、もう一つが民間テレビ放送だと言われている。

テレビに執念を燃やしたのは、吉田秀雄よりも正力松太郎(読売新聞社主)のほうで、ついに「日本テレビ(読売)」開局に漕ぎつける。

NHK編の『放送五十年史』は、正力松太郎のテレビ計画を、
「講和、独立を控えた特殊な情勢の下で、米国の極東戦略に深く関連しながら、全国のテレビ網を一挙に手中に収めようとした」
と、極めて含みの多い表現で説明している。

正力松太郎のテレビ計画の周辺を取材すると、旧軍人たち、それもGHQとの関わりの深い情報プロたちの影が、何人も浮かび上がってくる。
そして、旧情報将校たちが米国に足繁く通う中で、折から、公職追放中だった正力松太郎が、何故か突如追放解除となり、
それをきっかけに、テレビ開局計画が急ピッチで具現化するのだが、そのキーマンとして動いたのが、カール・ムントという人物なのである。

カール・ムントは、米上院議員であり、カール・ムントは、1951年4月、米上院で、次のような演説を行っている。

「共産主義は、“飢餓”と“恐怖”と“無知”という三大武器を持っている。こうした共産主義に対する闘いにおいて、
米国が持っている最大の武器はテレビである。我々は『米国のビジョン』なるテレビ・ネットワークを海外に普及させる必要がある。
それを最初に試験的にやるべき地域は、ドイツと日本で、
例えば、日本の隅から隅まで行き渡らせる為のテレビ網建設費は460万ドル。これはB29爆撃機を2機つくるのと同じ金額である」

テレビは、共産主義勢力に対する武器としては軍事力などより遥かに強力で、しかも安いというわけだが、
このムント構想が打ち出されるや、直ちに正力松太郎の密使が米国に飛び、ムント議員と接触している。
その密使が、柴田秀利(後に日本テレビ専務取締役)である。

柴田秀利は、GHQの新聞課長インボデン少佐にも、関係者たちの話では、「かなりどろどろした手段を使って」深く食い込み、
正力松太郎を、共産主義殲滅の代理人にさせる、との約束を取りつけたようだ。

「米国が、直接行なうと、情報支配の形があまりに露骨で、日本人の神経を逆なでする。日本人の手でやらせた方が遥かに効果的だ」
との柴田秀利の説得が功を奏したものらしい。

「電通」が、戦後、初めて商売として政治と関わりを持ったのは、1952年10月、日本が独立した最初の総選挙の時だった。
吉田 茂(麻生太郎の祖父)自由党としては、国民に対して大PR作戦を展開することにし、その大きな柱の一つとして、
戦後初めて全国の主要新聞に大々的な広告を打つことになったのだが、そのプロデューサー役を演じたのが「電通」だった。

関わりが深まるにつれて、政治は次第に、吉田秀雄「電通」にとって、商売の対象だけではなくなってきたようだ。
それが、一つの頂点に達したのが、1960年の安保騒動だった。
革新陣営に「これで新聞は死んだ」と嘆かせた、所謂、「七社共同宣言」のフィクサーも、実は吉田秀雄だったと言われている。

「七社共同宣言」とは、東大生だった樺美智子が殺された直後、1960年6月17日に、
全国紙五紙(「朝日」、「毎日」、「読売」、「日経」、「産経」)と「東京新聞」、「東京タイムズ」の七紙が、
「暴力を排し議会主義を守れ」との声明文を掲載したもので、この共同宣言は、反安保の盛り上がりに水を浴びせる役割を果たした。


≪不起訴により釈放され、裁判を免れたA級戦犯被指定者≫

青木一男、安倍源基、天羽英二、安藤紀三郎、石原広一郎、岩村通世、岸 信介、葛生能世、児玉誉士夫、後藤文夫、
笹川良一、正力松太郎、須磨弥吉郎、高橋三吉、多田 駿、谷 正之、寺島 健、梨本宮守正王、西尾寿造、本多熊太郎、
真崎甚三郎、近衛文麿(自殺)、小泉親彦(自殺)、橋田邦彦(自殺)、本庄 繁(自殺)、徳富蘇峰(不起訴により自宅拘禁解除)

尚、A級戦犯に指名されながら、釈放された者は少なくとも70名強存在するが、網羅的な資料が存在せず、その人数は確定出来ない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF

1952年(昭和27)

10月の総選挙で、自由党・吉田 茂首相が「電通」にキャンペーンを依頼したことが発端となり、「電通」と吉田 茂、「電通」と自民党の関係が深まっていく。
元々、旧軍が中心だった「電通」の人脈は、政党政治家に拡大していき、「電通」は反共・安保擁護の為の保守体制に組み込まれることになった。

更には、吉田 茂を介した政界浸透や、「電通」で採用していた旧軍人・満鉄関係者の公職追放解除に伴う政府要職復帰、
コネ採用による有力者の子弟の取り込みなどにより、電通人脈は更に強力に、日本中に張り巡らされていくことになった。

こうした吉田秀雄の人脈戦略は大きな成功を収めることとなり、「電通」は総理府の宣伝予算をほぼ独占、
“影の情報局” “築地のCIA”と呼ばれるほど威力を拡大し、現在に至っている。

1953年(昭和28)

「電通」は、テレビ放送開始に着目し、多くのラジオ局・テレビ局の設立に関与、吉田秀雄は、幾つかの放送局で取締役に就任。
中でも「TBSテレビ」は吉田秀雄の関与が深く、現在でも、民放で最も電通と親密だと言われている。

何故、日本テレビの社名は「日本テレビ放送網」となっているのか?「網」の字にはどんな意味があるのか?その理由は設立時の秘密にある。
実は、日本へのテレビの導入は、米国による情報戦の一環だった。テレビ放送網は、そのまま「反共の防波堤」であり、
更に軍事通信網にもなるはずだったのである。
「テレビの父」である正力松太郎のテレビ構想は、米国側に巧みに利用されたものに過ぎない。
CIAは正力松太郎に、「ポダム」という暗号名まで付けていたのである。

http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/11/post_9600.html

結局、ラジオ・テレビ化の流れにいち早く対応出来た「電通」、そして少し遅れて進出した「博報堂」が、
戦後広告業界の1位2位として固定し続けることになる。
1950年代始めは、現代の広告代理店業界地図の枠組みが出来上がった時期と言える。

3S政策とテレビ放送
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060315


1955年(昭和30)

「森永乳業」の粉ミルクに砒素が混入する事件(砒素ミルク事件)が発生。

死亡者は138人、被害者は1万人以上を数えたが、「電通」は、クライアントだった「森永乳業」を守る為に報道統制を行ったが、
後にそれが明るみに出て、「電通」は世論の激しい非難を浴びることになった。
何故、電通がメディアの報道を統制出来たか?といえば、1951年に「新聞用紙割当統制」が解除された結果、
新聞紙の自由競争時代に入り、新聞社・雑誌社間の広告獲得競争が厳しくなったことに起因しており、
競争が激しくなった結果、多くのメディアは「電通」の存在に依存するようになり、自力での広告獲得能力を失ってしまった。

「電通」は、広告主の“宣伝” “媒体探し” “広報対策”を引き受ける一方で、
マスメディア側の“広告集め” “広告主対策”なども一手に引き受けていた為、広告業のノウハウ・情報が一元的に「電通」に集まってしまった。
その為、新聞社の中には、朝日新聞のように「電通」と資本関係を結んで、緊密な関係になるものまであった。

こうなった最たる原因は、「電通」が余りにも巨大になり過ぎたことにあり、
更には、関連会社の「共同通信」と「時事通信」が、新聞記事のネタ元になる通信記事を配信しており、
広告だけでなく、ニュースにおいても寡占状態にあることがこれを後押しした。

その上、メディアは本格的なテレビ時代を迎え、徐々に放送内容への「電通」の介入が当たり前のことになっていった。

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-3.html


1961年(昭和36)

現在広告代理店業界4位の「東急エージェンシー」が、東急グループ総帥五島昇の肝煎りで設立。

「電通」が「第九連絡局」を介して官僚から仕事を取るのに対して、「東急エージェンシー」は首脳間のやり取りに負うところが大きい受注の構造
http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-5.html

1964年(昭和39)

「電通」は東京五輪の広告主の協賛活動の支援を行い、国策イベントであるオリンピックに深く関与。

この経験を基に「電通」は、スポーツ・ビジネスの可能性を開拓し、
1980年のロスオリンピック以降、五輪そのものが商業化したことと併せて、スポーツ・ビジネスを確立させていった。

現在、「オリンピック」、「ワールドカップ」、「アジア大会」、「世界陸上」、「世界水泳」など、テレビ放映している主だったスポーツ大会の殆どで、
「電通」は諸権利を有しており、一方で、「博覧会」という新たなイベントにも関与を深めている。

http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-23-3.html


1965年(昭和40)

「大正製薬」の風邪薬ショック死事件が発生、
「電通」は、1955年の砒素ミルク事件と同じように、クライアントだった「大正製薬」を守る為の報道統制を行った。
「電通」にとっての大きな金づるであった「大正製薬」の、自社生産の風邪薬を飲んでショック死した人々についてのニュースを「電通」が検閲し、
内容を変えさせたことが発覚したが、森永砒素ミルク事件ほどの社会的ムーブメントにはならなかった。

1970年(昭和45)

「電通」は、この年の大阪万博を皮切りに、沖縄海洋博覧会・つくば科学万博・大阪花博に参画。

愛知万博(愛・地球博、別名・“トヨタ博”)も「電通」が取り仕切ったが、愛知万博の成功の背景には、「電通」と「トヨタ」の二大企業のタッグがあった。
報道管制力を持つ「電通」と、巨額の広告費を持ち、批判はクライアントタブーである「トヨタ自動車」が組めば、マスコミは完全に沈黙してしまう。


1971年(昭和46)

「公共広告機構(AC)」の前身となる、任意団体「関西公共広告機構」が大阪市で設立。
発起人は、佐治敬三・サントリー社長(当時)で、当初の活動は、近畿地方が中心だった。
設立時に模範とされたのは、米国のアド・カウンシル(Ad Council)。

1973年(昭和48)

「電通」、取扱高世界一を達成

1975年(昭和50)

「電通」の取扱高が3000億円を突破、
高度成長の波を受け、「電通」は名実ともに巨大資本としてマスコミ界に君臨。

任意団体「関西公共広告機構」が社団法人化され、「公共広告機構(AC)」と改称し、全国組織となる。
主な業務内容は、様々なメディアを通した公共広告により啓発活動を行うこと。
広告を取り扱う企業を会員とし、会員から集めた資金で運営されており、会員社数は、放送業界・新聞業界・広告業界など1356社(2004年度)。

1986年(昭和61)

同年4月、「テレビ東京」が踏み切ったのをきっかけに、各放送局が自粛していた消費者金融の広告・放送が解禁された。
最後まで自粛していた「TBSテレビ」も2001年から流している。
新聞でも、「朝日新聞」が最後まで抵抗していたが、結局、解禁した(この時の「電通」側の人物が成田 豊)。
消費者金融の最大手である「武富士」の年間広告費は、2002年度が151億円で、この大半を「電通」が取り扱った。
「電通」の“天皇”成田 豊と、武富士の創業者である“天皇”武井保雄は、一緒にゴルフをする仲だった。


また、同年10月、読売グループの「第一広告社」と、セゾングループの「エスピーエヌ」が合併し、「I&S」となった。

1993年(平成5)

8月9日、細川護煕・日本新党代表を首班とする、非自民・非共産8党派連立内閣(細川内閣)が発足される。
9月16日、日本新党と民主改革連合が、参院会派「日本新党・民主改革連合」を結成、
更に11月18日には、新生党も加わって、参院会派「日本・新生・改革連合」を結成する。

この年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、
第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉純一郎は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣の職を辞職。

郵政民営化は、小泉純一郎の自論などではない
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2009/06/post-468f.html

http://www.asyura2.com/09/senkyo66/msg/1045.html

1994年(平成6)

4月25日、細川内閣総辞職。新生・日新・民社・自由党・「改革の会」が衆院会派「改新」を結成。
4月26日、社会党が連立政権から離脱。
4月28日、羽田 孜内閣発足するが、2ヶ月の6月25日には総辞職となる。
6月30日、自民・社会・さきがけによる村山富市内閣が発足し、日本新党は下野する。
12月9日、日本新党は解散、翌日10日、新進党結成される。
「自民・社会・さきがけ」の枠組は、第2次橋本内閣改造内閣が終了する1998年(平成10)半ばまで引き継がれる。

1996年(平成8)

同年4月、電通グループの広告制作会社「電通テック」が設立。
この「電通テック」の前身となったのは、
1943年(昭和18)に設立された、広告イベント・スペース・CM・映像制作会社「電通プロックス(旧電通映画社)」と、
広告印刷会社「電通印刷株式会社(電通アクティス)」と、広告製本会社「電通コーテック」の3社である。

「電通テック」は、広告プロダクションとしては世界最大規模と売り上げを誇る、文字通り、世界最大の広告制作会社。
「オリンピック」、「ワールドカップ」、「愛知万博」など、メガイベントの実制作も手がけている。

http://www.dentsutec.co.jp/

1997年(平成9)

→注.オムニコムグループの参入は、郵政民営化をはじめとする規制緩和・民営化を後押しする為のものと考えられる。

同年10月、現地法人「フライシュマン・ヒラード・ジャパン」が設立。
「フライシュマン・ヒラード」は、1946年(昭和21)に創設され、本社をセントルイスに置き、現在世界35ヵ国、33の現地法人を含む
83に及ぶPR拠点を持つグローバルなコミュニケーションコンサルティング会社。
「フライシュマン・ヒラード」は、米国の大手広告代理店グループである「オムニコムグループ」傘下の会社である。

http://fleishman.co.jp/hc/unit/index.html

1946年と言えば、吉田秀雄が「電通」第4代社長に就任する前年であり、
その頃から、「日本電報通信社(電通)」は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功する。


郵政選挙における「電通」・「BBDO」・「フライシュマン・ヒラード」の関係と役割
http://amesei.exblog.jp/2879210/

http://amesei.exblog.jp/9729548/

1998年(平成10)

同年3月、「I&S」(1986年参照)が、米国の大手広告代理店グループである「オムニコムグループ」と資本提携・傘下に収まり、
同年6月、「オムニコムグループ」傘下の「BBDOワールドワイド」と業務提携。

2000年4月には、オムニコム/BBDOグループの明確化の為に、「I&S/BBDO」に社名変更する。
2003年4月には、「BBDO」ネットワーク統一ロゴマーク導入により再度社名変更し、現社名の「I&S BBDO」になる。
(但し、現在も「読売グループ」・「セゾングループ」との資本関係は続いている)
「BBDO」という広告会社は、現在、日本では「電通」・「博報堂」と並ぶ広告代理店「アサツーDK(ADK)」を吸収する形で日本に進出しており、
この会社のクライアントには、自民党もしっかりと入っている。森田 実氏の話では、電通もこの「BBDO」に乗っ取られつつあるということだ(2006年時)。
尚、「アサツーDK(ADK)」は、1991年に中華人民共和国の「新華社」と業務提携している。


http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/199812/12toku1.html

http://www.isbbdo.co.jp/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%84%E3%83%BC_%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4

郵政選挙における「電通」・「BBDO」・「フライシュマン・ヒラード」の関係と役割
http://amesei.exblog.jp/2879210/

http://amesei.exblog.jp/9729548/

1999年(平成11)

同年5月、与野党ともに「郵政民営化」がタブー視されていた当時、超党派の国会議員で構成される「郵政民営化研究会」が立ち上げられた。
会長を小泉純一郎(神奈川県横須賀市、清和会)が、事務局長を松沢成文(現・神奈川県知事、松下政経塾)がそれぞれ務め、
メンバーには中田 宏(前・横浜市長、松下政経塾)、前原誠司(松下政経塾)、堂本暁子、上田清司らの名前があった。
「郵政民営化研究会」では、郵政民営化の実施計画として、
郵政持株会社の傘下に郵便会社、地域別の郵貯銀行、地域別の簡保会社をそれぞれ設ける案を提示していた。

郵政民営化の正体
http://www.asyura2.com/09/senkyo66/msg/1045.html

「米国年次改革要望書」と「日本道路公団の民営化」の関係
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/485.html

「郵政民営化研究会」再結成の動き?
http://www.asyura2.com/09/senkyo68/msg/884.html

手鏡事件と郵政民営化
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/526.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E6%94%BF%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96

2000年(平成12)

青木幹雄、野中広務らの支持により、幹事長だった森 喜朗が自民党の総理・総裁に就任。
同時に、清和会所属議員である小泉純一郎が、「清和政策研究会(当時、森派)」の会長に就任。
小泉純一郎は、“加藤の乱”を潰した功績によって、自民党内での評価を上げた。

http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/590.html


2001年(平成13)

森 喜朗が退陣した後を受け、同年4月の自民党総裁選で、小泉純一郎が自民党総裁に選出され、
4月26日の首班指名で第87代内閣総理大臣に就任。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など特殊法人の民営化など、
小さな政府を目指す改革(「官から民へ」というスローガン)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」というスローガン)を含む、
「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」と位置付けた。

郵政民営化の正体
http://www.asyura2.com/09/senkyo66/msg/1045.html

「米国年次改革要望書」と「日本道路公団の民営化」の関係
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/485.html

「郵政民営化研究会」再結成の動き?
http://www.asyura2.com/09/senkyo68/msg/884.html

手鏡事件と郵政民営化
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/526.html

同年10月26日、「博報堂」は、「大広」・「読売広告社」と経営統合し、「博報堂DYホールディングス」を設立。
1兆円グループとして、国内第1位の「電通」や海外広告会社と対峙している。
また、経営統合に伴い、「博報堂」を含め3社のメディア枠仕入れ部門は、「博報堂DYメディアパートナーズ」に移管された為、
「博報堂DYグループ」の1社として、媒体社に対してより大きな影響力を持つこととなった。


2002年(平成14)

日韓共同開催の「ワールドカップ」で「電通」は、スポンサー権の国内販売権を独占、
更には公式マスコットなどキャラクターの商品化権(ライセンス)に関する代理店契約を結んでいる。
長野五輪の中継番組はCMも含めて、「電通」の一括買い取りだった為、メディアも「電通」へのゴマすりに必死となった。

12月には、劇団四季専用の劇場が、電通本社ビルにオープン。
劇団四季創設者の一人で芸術総監督である浅利慶太は、中曽根康弘のブレーンとしても知られていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A%E5%9B%9B%E5%AD%A3%E5%8A%87%E5%A0%B4%EF%BC%BB%E6%B5%B7%EF%BC%BD

2003年(平成15)

「ホンダ」、「日本マクドナルド」といった企業が、「博報堂」「ADK」などの複数社の扱いから、事実上、「電通」の一社扱いになった。
「ホンダ」を「電通」にとられた「博報堂」では、“ホンダチーム”が解体された。

サラ金大手の「武富士」の盗聴事件が発生。
警察が、収集した個人情報を「武富士」に渡していたという、情報漏洩事件の取材を行っていたジャーナリストたちが、
「武富士」によって盗聴されていた、として告訴合戦に至った事件。

「武富士」は、武井保雄会長が盗聴で有罪確定となる前から、一部のマスコミに“盗聴疑惑”で叩かれたが、
「電通」は、“武富士報道潰し”に動いていた。
2003年初め頃、武井保雄に頼まれた成田 豊は、2003年4月に「電通」から数人を「武富士」に出向させた。
しかし、2003年12月2日に武井保雄が逮捕されたことによって、「武富士」のCM放送中止が相次ぎ、
在京の民放各局は同日2日、広告代理店などの要請で、同社CMの放送を当面取りやめる方針を相次いで決め、同日以降のCMを差し替えた。
「武富士」側も、世間を騒がせたとして、新聞広告やテレビCMをしばらくの間、自粛すると発表。

後に、「武富士」のCM自粛は解禁され、再び放送されるようになったのだが、これを許したのが、日本経団連という構図のようである。

同年4月には、、「I&S/BBDO」が、「BBDO」ネットワーク統一ロゴマーク導入により再度社名変更し、現社名の「I&S BBDO」になる。
(但し、現在も「読売グループ」・「セゾングループ」との資本関係は続いている)
「BBDO」という広告会社は、現在、日本では「電通」・「博報堂」と並ぶ広告代理店「アサツーDK(ADK)」を吸収する形で日本に進出しており、
この会社のクライアントには、自民党もしっかりと入っている。森田 実氏の話では、電通もこの「BBDO」に乗っ取られつつあるということだ(2006年時)。
尚、「アサツーDK(ADK)」は、1991年に中華人民共和国の「新華社」と業務提携している。

2004年(平成16)

「セブンイレブン・ジャパン」が、「東急エージェンシー」から「電通」に移った。
「電通」の連結売上高が、1兆9104億円に達する。

8月20日、東京の築地本願寺で田原総一郎の妻の通夜が営まれ、
小泉純一郎首相(当時)をはじめとする政財界の有名人、「サンデープロジェクト」の出演者などが駆けつけていた。
その中にの姿もあったが、成田 豊の場合は、この葬儀を仕切る「葬儀委員長」として築地本願寺にいたのであった。
つまり、それは田原総一朗と成田 豊の親密な関係を意味する。

田原総一朗
「成田さんには僕が頼んだ。何故かというと、顔が広いから。
まさか政治家に頼むわけにはいかないし、いろいろな人が来た時に、彼ならみんな知っているだろうし、挨拶が出来る人がいいと思って頼んだ。
但し、「電通」で来たのは成田さんだけ。具体的に仕切ったのは「テレビ朝日」のスタッフだった」


2004年(平成16)

同年10月21日、「電通」は、2004年9月中間期の単独経常利益が、前年同期比35%増の252億円になったと発表した。
従来予想を30億円上回った。五輪効果で広告事業が好調だった上に、粗利益率も期初見込みより0.2ポイント改善。
IT(情報技術)関連の開発費が計画より少なくなり、販管費を抑えたことも寄与した。

http://mediainsight.jp/clip/2004/10/35.html


2005年(平成17)

日韓友情年

「電通」は、「韓流ブーム」を盛り上げるなど、メディアミックス的戦略を展開。
「電通」の“天皇”成田 豊が、日韓友情年の副委員長が務めていた。

総選挙となる8月5日の3日前の8月2日、
米国の広告代理店業界のドンである、アレン・ローゼンシャイン Allen Rosenshine が、突如首相官邸を訪れ、
小泉純一郎首相と極秘会談を持った。

http://amesei.exblog.jp/d2005-08-11

この年、郵政解散・郵政選挙が行われた。

総選挙実施日が米国同時多発テロ事件(2001年)が起きた9月11日であることなどから、“自爆テロ解散”、
自民党が分裂選挙で大敗するとの予想から、“やけっぱち解散”などと揶揄されたが、選挙後は“郵政解散”というネーミングで定着。
投票率は、小選挙区が67.51%(前回衆院選59.86%)、比例代表が67.46%(同59.81%)と上昇した。
期日前投票は、8,962,955人(有権者のうち8.67%)と国政選挙で最高を記録し、国民の関心の高さを窺わせた。

開票結果は、与党が327議席(自民党が296議席・公明党が31議席)と圧倒的勝利を収めた。
一方、野党は、民主党が113議席と選挙前の177議席から大幅に議席を減らす惨敗を喫し、
党代表だった岡田克也は責任を取って辞任し、後任には、民主党内の最右派・前原誠司(郵政民営化研究会、松下政経塾)が就任。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC44%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

また、同年、「オリンピック」の肖像権が選手個別に管理されることになり、
選手が「日本オリンピック委員会(JOC)」と契約せず、CM出演など、より自由な商業活動を希望した場合は認めることになった。
また、それまで広告代理店4社と契約していたマーケティング活動は、2005-2008年の次期システムでは、
36億円の収入を最低保証として提示した「電通」を基本的に専任とすることで一致した。

http://www.47news.jp/CN/200311/CN2003112801000339.html


2006年(平成18)

同年8月、「博報堂」は、世界最大の広告会社グループである「オムニコムグループ」の系列会社「TBWA」と共同出資し、
外資系広告代理店「TBWA/Hakuhodo」を東京に設立。出資比率は、「TBWA」が40%、「博報堂」が60%。

http://ja.wikipedia.org/wiki/TBWA%5CHAKUHODO

また、同年10月24日から携帯電話番号ポータビリティが実施された。


携帯の番号継続制度は「KDDI」の独り勝ちと言われているが、収益面から見ると、独り勝ちと手放しで言えるような状態ではなく、

本当の勝者は、急増したテレビCMなどの広告を一手に引き受けた“電通”である。

更に、「ソフトバンク」がブランド変更を契機に広告会社を「電通」に変えたことに加えて、番号継続制度導入による広告量の急増で、

収益面でも大幅な上積みがあった。

2007年(平成19)

「日本郵政株式会社」のグループ会社である「郵便事業株式会社(日本郵便)」と、
「電通」及び「電通テック」が、新しい郵便メディアの開発と関連事業の展開の為に、合弁会社を設立することで同意。

http://markezine.jp/article/detail/2080

同年6月30日、「日本 eスポーツ協会設立準備委員会」が発足。
この委員会は、「電通スポーツ事業局」企画業務推進部長の平方 彰が委員長補佐を務めており、
特別顧問には、「日本体育協会」会長である森 喜朗・元総理も参加している。

http://www.negitaku.org/news/10926/


また、同年12月、
「日本テレビ放送網」、「セブン&アイ・ホールディングス」、「電通」、「セブン・イレブン・ジャパン」、「イトーヨーカ堂」、「セブンアンドワイ」の6社は、
「メディアと消費の融合」をテーマに、テレビ・インターネット・小売業を結びつけた次世代型の「ショッピングポータルサイト」を運営する会社
「株式会社日テレ7」を共同出資で設立。
資本金は4億8000万円で、筆頭株主は、株式の51%を保有する「日本テレビ」である。
これまでにない番組視聴スタイルや商品購入スタイルを創造し、新たな販促&コミュニケーション市場を開拓するとしており、
2008年4月より、本格的なサービス開始が始まった。

尚、「セブン&アイ・ホールディングス」とは、2005年9月、
「セブン・イレブン・ジャパン」、「イトーヨーカ堂」、「デニーズジャパン」の3社が株式移転により、3社の持株会社として設立した会社。

2008年(平成20)

社団法人「公共広告機構(AC)」を「ACジャパン」と改称すると発表、
それに伴い、ロゴの下にあった「公共広告機構」の文字を「よりよい社会をめざす民間の広告ネットワーク」に変更。
改称の理由は、「公共広告機構」という官庁の組織のような名称によって生じる「公共広告機構は政府の機関である」という誤解を払拭する為。

企業広告を放送しない「NHK」も「ACジャパン」の会員企業であり、
2000年には「NHK」との共同による啓発キャンペーンとして公共広告を放送した実績がある。
尚、「NHK」で放送する場合に、ACのロゴは「公共放送 NHK」や「NHK環境キャンペーン」等に差し替えられるか、カットされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E5%BA%83%E5%91%8A%E6%A9%9F%E6%A7%8B

2008年5月、「博報堂」は、赤坂サカスにある赤坂Bizタワーに本社を移転。
先に移転を完了していた「博報堂DYメディアパートナーズ」との連携を強めた。その後も、グループ企業が赤坂に集結している。


その後、同年11月、「博報堂」は、障害者団体の定期刊行物に適用される郵便料金割引制度を不当に利用し、
家電量販店のチラシを2年半にわたり計約1100万通送っていたことが判明。顧客から「問題があるのでは」と指摘され取りやめた。
この制度の利用は、「博報堂」関連会社である「博報堂エルグ(福岡県本拠)」が提案し、勧めた為、企業が採用したが、
その後、大阪地方検察庁特別捜査部によって、翌年春にこの事案に関与した幹部らが逮捕起訴された。
これを受けて、内部処分も同時に行われた。

2009年(平成21)


6月3日、政府は、省エネ家電の購入支援策「エコポイント」の運営事務局に「電通」や「凸版印刷」などによる6社連合を選定した。
運営事務局に決まった「グリーン家電普及推進コンソーシアム」は、
「電通」、「凸版印刷」、郵便事業会社の子会社「JPメディアダイレクト」、「JP物流パートナーズ、コールセンター大手の「ベルシステム24」、
「トランスコスモス」で構成する。
事務局には7件の応募があり、第三者による評価委員会が審査して決めたという(が、恐らく随意契約)。

併せて、エコポイントと交換出来る商品の募集も、6月1日から始めた。
商品券やプリペイドカードのほか、地域産品、省エネ・環境に配慮した製品の提供事業者を11日まで募集し、
第三者委員会が6月中旬に決定する。

7月10日、2016年夏のオリンピックが米国になることを見越してか、「電通」は、ニューヨーク州に新会社「電通スポーツアメリカ」を設立。

http://markezine.jp/article/detail/7793

また、同年5月、「電通」は、連結子会社の「サイバー・コミュニケーションズ(CCI)」を完全子会社化する為、
株式交換契約を結んだ。
「CCI」は、「電通」と「ソフトバンク」の合同出資で1996年に設立。

→注.お父さん犬も、「電通」生まれ
http://www.j-cast.com/2007/12/07014303.html

http://journal.mycom.co.jp/articles/2009/07/24/dentucm/index.html

インターネット広告を手がけるメディアレップ(代理店)事業を展開し、メディアと広告主を結び付けてきた。
電通グループは、インターネットを中心とするデジタル事業領域を重視し、激化するインターネット広告の競争に本格参入。

これとまったく無関係ではないと思われるが、

同年8月の衆議院総選挙では、与党である自民党・公明党の圧倒的不利が伝えられる中、
本来、公職選挙法142条で禁じられているはずの、選挙運動でのインターネット活用を公然と行っている。
劣勢が伝えられる自民党は、民主党を痛烈に批判する所謂、「ネガティブ・キャンペーン」をホームページ上で展開、
18日の公示後も更新を続けている。
また、これらの誹謗中傷を書き連ねた資料は、党公認候補の事務所や、演説会で配布したり、
各選挙区のマンションなど、戸別にまで投函するなどして配布している。

また、ネット上では、新しい動画CMを公示後に流している。

http://www.yomiuri.co.jp/net/report/20090825-OYT8T00569.htm

共産党以外の各党は、献金以外にも、政党交付金を毎年受け取って党運営を行っているが、政党交付金は税金(贅金ではない!)である。
つまり、我々一般国民から徴収した税金で、このような悪質で陰湿なエゴに塗れた宣伝物(汚物)を、
「電通」と自民党が作って、ばら撒いているのを思うと、本当に許せない気持ちになります。

以下続きは、http://heiwarikkoku.jugem.jp/?eid=50


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