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2014-03-02 12:14:50
テーマ:超古代史、歴史ミステリー 公式ハッシュタグランキング:位 <最新版!世界文明の起源は日本だった>さて、日本の真の歴史を知るためには、世界最古の「カタカムナ文献」以降の記録である「竹内文書」などの古史古伝の内容を知ることが必要です。そしてそれらを紐解くと、日本の歴史は、カタカムナ文献でいう「宇宙の二元性原理」に貫かれています(二元性史観)。
カタカムナ文献で語られる世界が「潜像界=目に見えない世界」とすると、古史古伝で語られる世界は「現象界=目に見える世界」で、宇宙はこの二つの世界で成り立っています。そして日本の歴史という現象は、「東西」「南北」「表裏」というフラクタル構造(相似象)の時系列変化で成り立っています。
そういう意味で、戦前まで主流を占めた古事記、日本書紀以降の表面的な史実だけに限定する「記紀史観」も、戦後の主流を占める、反皇国史観と いうべき人間の神性を否定する「マルクス史観」も、ともに正確ではありません。そこで日本人を覚醒させる真の古代史を明らかにします。(次回に続く…)
1、世界の"元つ国"日本
神道では、日本列島は上向き下向き二匹の「龍」が重なり合った形をしているといいます。また、台湾まで入れると、世界の五大陸が凝縮された形になっているとも言います。つまり、日本は世界の"元つ国"であり、ひな形なのです。
ところで、日本で最も古い文献は「古事記」「日本書紀」とされていますが、記紀以前の書として「先代旧事本紀」「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」「上 記」「安倍文書」「和田家文書」などがあります。そこで、これら古史古伝を中心に、日本の超古代からの真史とその本質を明らかにします。

先ず、日本には旧石器時代のものとされる「カタカムナ文献」があり、それによると10万年以上前の超古代に、超高度な文明が兵庫県"六甲(カバラ=生命の木)"山近辺にあったことが、天才物理学者・楢崎皐月博士によって明らかにされています。ちなみに、日本では世界最古の旧石器も発見されています。
そして、近年の調査では、この兵庫県神崎郡神河町と朝来郡生野町にまたがる八幡山には、空海によって四国・剣山から移置された世界中心の象徴「契約の箱アーク」があると言われ、上森三郎氏ら専門家による探索活動が行われています。
また、創建1万5千年の熊本県・日の宮幣立神宮の御神体「日文石板」は、炭素放射線測定の結果約20〜30万年前のものとされていますが、そこには「豊国文字」で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。

この意味は「大量の糸の原料となる真麻欄(まおらん)を採取し、それから取った縷(細い糸)を紡ぎ、衣料を整え、強い兵士を大量に育成せよ。そうすれば交戦してくる悪い部族の敵は彼方に退散する。神様がくださった広大な田畑を心してしっかり耕作せよ」となるとされています。
さらに、全国約800カ所からは「阿比留草文字」「出雲文字」「秀真文字」「守恒文字」「神山文字」「アイヌ文字」等約54種類のペトログラフ(岩絵文字)が発見されています。注目に値するのは、海外で見つかったペトログラフが絵画中心なのに対し、日本のものは文字が中心である点です。
一方、これらペトログラフからは"ムー文明"の記憶が見られます。まず下関市彦島や角島、北九州にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島海底遺跡と類似する神殿跡やペトログラフがあることから、西日本を中心にムーの生き残り「メネフネ族(先住日本人の海人族)」がいたことが推測されます。
下関市教育委員会と九州大学の調査によると、彦島杉田丘陵のペトログラフには、「遠い世の父母より世に生まれ交わり、子々孫々栄え来たり。地の都となる世の来るまで、敵を倒し、我らを助け、突き進み、世も昼もみそなわす我らが日の神」と書かれていて、
これらの痕跡とムー文明を結びつける傍証としては、ニュージーランド北方のポナペにある、1万2千年前の「ナンマドルの海底神殿遺跡」です。またハワイやイースター島でも古代遺跡が発見されており、上記日本の遺跡と類似している事から、太平洋上に大陸があった事も推測されます。

2、神代文字の世界的伝播
ところで、「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」等によると、太古の昔、天から天之御中主大神が降臨して国を開き世界を統治し、また日本人から黄人、白人、黒人、赤人(ユダヤ人)、青人(スカンジナビア人)ら世界の「五色人種」が分かれたとされています。

実際、スイスの考古学者デニケンが、エクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である」と公表しています。

一方、インド、エジプト、南米、アフリカなどの古代遺跡で、日本の神代文字を発見している日本探検協会の高橋良典氏によると、豊国文字とハングルの類似性から「古代朝鮮も日本と同じ文字を使用しており、少なくとも約6000年以前から日本にあった豊国文字を参考にして作った」と指摘しています。
さらに、約2000年前に書かれた中国の「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。
ちなみに、「アジア」とは、古日本語の「アジナ」が訛ったもので、「アジナ」とは"分家"を意味し、当時、ユーラシア最大の国だった中国(シナ)を意識していたものと言われています。
また、インドでも、インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印をトヨクニ文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読め、"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字を発見、風化が激しい中「……マツラバヤ(祭らばや)」と。
さらに、キリストが日本で習得し故国に持ち帰ったのが「イスキリ文字」、釈迦が持ち帰ったのが「梵字」そして「サンスクリット語」となり、これらがローマ字になったといわれています。
3、大和朝以前の先行王朝と神武以前の"古天皇"
そして、先述のペトログラフや古史古伝によると、大和朝と神武天皇以前にも先行王朝や、スメラミコト(古天皇)がいたことが記されています。これを神々と王朝、天皇の関係で整理すると、
"元無極躰主(母止津和太良世)"に始まる「造化準備時代」、"天津身光"に始まる「造化時代」、"天之御中主"に始まる「修理個成時代(白山王朝)」、"国常立"に始まる「万国統治時代(富士王朝)」、"饒速日命"に始まる「鵜芽葺不合朝」、"天照"に始まる「神倭(大和)朝」となります。
但し、スメラミコトが「天皇」と記されているのは、初代・天之御中主天皇、高木天皇(高御産巣日神)、天地明玉主照天皇、国之常立男天皇、大斗能地王天皇、大綱手彦天皇、弥広殿造天皇、造化氣万男身光天皇、富金足中置天皇、神心伝物部建天皇、伊邪那岐天皇、天疎日向津比売天皇などです。
ちなみに、「スメラミコト」は元々シュメール語で「シュメールの王」、即ち"スサダミコ(スサノオ)"を意味します。また「スサノオ」の息子が「饒速日命(ニギハヤヒ)」、義理の息子(末娘の夫)が「大国主」、そして、妻が九州の地方豪族「倭国(安曇氏)」の「卑弥呼(後の天照)」となります。
まず、神々が降臨し(?)、天皇として姿を現した「修理固成時代」の「白山王朝」ですが、竹内文書などによると、国名を「天之越根中津国」といい、富山県婦負郡久郷村御皇城山に歴代の皇祖皇大神宮が置かれていたそうです。スメラミコトのスメラは「皇」ですが、「白」と「王」からなっています。
そこでは、おびただしい神代資料が発見され、とくに酒井勝軍によって発見、翻訳された神足別豊耡天皇からモーゼに与えられたという表裏二つの「モーゼの十戒石」の写し石は刮目すべきです。裏十戒石には、宗教、国家、人種を越え、天下万民が遵守すべき律法が書かれています。
ちなみに、聖書では、モーゼはシナイ山で十戒を授かったといわれていますが、竹内文書では、アカバ湾から船に乗って来日し、皇祖皇大神宮で41日間修行をし、石川県の宝達山で天皇から十戒を賜り帰国、ユダヤ民衆に与えたとあります。つまり、ユダヤ教の発祥地は日本の「高天原」ということです。
次に、豊後国の大守だった大伴能直が「山窩(サンカ)」の伝承を記録した「上記(うえつふみ)」によると、「鵜芽葺不合王朝の第二十五代、二十六代天皇は、皇子たちを世界に派遣し文字を伝えた。富金足中置天皇は一万五千四百八十五年前に、四百六十年間に渡って治世した」と有り、
これらは、大分県国東半島で発見された巨石上のペトログラフ「豊国文字」にも記録されています。また、秦の始皇帝が不死の薬を求めて日本に派遣した物部系古代ユダヤ人徐福が、富士山麓で書き残した「宮下文書」をもとに、三輪義煕が編纂した「神皇記」によると、
神武以前に先行王朝が三つあり、初めは富士山麓にあった「富士高天原王朝」で、「大陸から九州方面に大軍が押し寄せて来たため、附地見島(九州)に海佐知毘古を元帥として送り、海軍を編成、王朝も阿蘇切枝間に移し千五百日目に全島の鎮圧を完了した(阿蘇豊国王朝)」とあります。
4、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」
その後、近畿地方で長髄彦(ナガスネヒコ)尊が反乱を起こしたため、日高佐野王が海路から久真野に上陸、湯野崎水門近くの二高の宮を行宮として賊軍を討ち、大和国橿原宮で即位、「鵜芽葺不合王朝」が始まった、と記述されています。
が、この点に関して「記紀」によると、長髄彦尊と戦ったのは神武天皇(神倭朝=大和朝)であり、一方、「神皇記」のいう「日高佐野王」は"日高"とあることから「富士王朝」ないし「日高見王朝」の天皇である可能性が高く、また日高佐野王=神武天皇とすると、不合王朝初代天皇となって矛盾します。
そこで、「白山王朝」→「富士王朝」→「不合王朝」→「神倭朝(大和朝)」という流れから考えると、富士山の爆発で阿祖山大神宮(富士王朝)は一旦崩壊した後、関東に都を移し「日高見王朝(後の東日本"日之本王朝")」を建て、
実際、他の文書によると「不合朝」傘下には、北から「荒覇覇吐国」「日高国」「蔵王国」「飛騨国」「熊野国」「吉備国」「出雲国」「不弥 国」「投馬国」「伊都国」「奴国」「熊襲国」などがあり、緩やかな連合体を形成していたが、最終的に「神倭(大和)朝」に統一されたとされています。
だとすれば、次に問題となるのは、「神倭朝」の前の「不合王朝」の中心はどのような部族だったか、という点です。結論から言えば、島嶼国である日本人の50%を占める海人族(海洋民族"港川原人")を中心にしたものだったのではないか、ということです。
勿論、その後も他民族の流入があったので、日本人のルーツは、1)南アジア(4万5千年前)、2)南西諸島(3万5千年前)、3)シベリア(2万年前)、4)華南、南西諸島(7千年前)、5)華北、蒙古、半島、シベリア(2千年前)となります。https://www.youtube.com/watch?v=43Hbp27OYas
5、太古の歴史とユダヤ人(原初日本人)の出戻り
ところで、太古の地球の歴史を紐解くと、「ノアの大洪水」が起こります。この事実は竹内文書等の古史古伝の他に「聖書」、シュメールの「ギルガメシュ叙述詩」、インドの「マハーバラータ」にも記録されています。
更に地球は氷河期に入り、食糧難に喘ぐ日本列島に居住していた原初日本人"カラ族"の多くは、食料を求めてユーラシア大陸を西に向かって、王権(ムーの?)の証である「契約の箱アーク」と「三種の神器」を携えて移動して行きました。
実際、日本人が世界に分布した痕跡が見つかっています。日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人がいて、約6500年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにベーリング海を渡って北米にも生活圏を拡大した可能性が高いと指摘しています。
この説は、米国ブロンスウィック大学のレ・クイナー教授も唱えており、「アメリカインディアンが日本人と同じ習俗、語彙、顔を持つ事から、彼らの多くは太平洋の西からきたモンゴロイド海洋民族である」と主張。これには、スミソニアン博物館やハワイ大学等も同様の見解を発表しています。
その中で、最も西に展開したカラ族は、現在のエジプトやパレスチナにまで達しました。が、ローマ帝国等の東に急展開してきたアーリア人(アトランティスの生き残り)と衝突、多くの戦いを経て、メソポタミア(シュメール)、インダスと都を遷しながら西に移動します。
結局、最後に到達したのが"伝説の故郷"日本でした。これが海部氏、山部氏(白山部氏=山家…シャンカ)、物部氏、安部(安倍)氏、忌部氏、斎部氏、乙部氏、綾部氏、卜部氏、蘇我氏、秦(羽田、羽田野、川端)氏ら古代ユダヤ10支族の日本渡来で、それは日本への"出戻り”だったのです。
彼らの"帰国"は、縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて、"さみだれ式"に行われたようです。が、大きくわけて「前期出戻り組」の山部氏(山渡人)、海部氏(海渡人)らと、「後期出戻り組」の蘇我氏、秦氏の二グループに整理できます。
このうち「前期出戻り組」は、「日本列島居残り先住民」の海人族(安曇氏)やアイヌ族(阿蘇部)とは穏やかに合流を果たしたようです。理由は、「聖櫃アーク」や伊勢神宮、熱田神宮に保管されていると言われる「ユダヤ三種の神器」が、同族である証として示されたからのようです。
その証拠に、日本人の40%に見られ、中国、韓国人には見られない「Y染色体ハブログループD系遺伝子」は、世界中に分散した古代ユダヤ10支族とその末裔のチベット人や中南米のインディオなどに見られるE系統と同類であることが証明されています。つまり「不合王朝」の中心は物部系だった?

さて、神武天皇と長髄彦尊が大和で戦ったと述べましたが、「記紀」によると長髄彦尊は戦いに強く、神武の三人の兄を討った後、饒速日(ニギハヤヒ)の裏切りで殺されたとされています。が、饒速日は物部氏の祖神であり、実在性は低いと考えられます。
その後も長髄彦尊は生き続け、大和国(邪馬台国)を放棄した後「日高見国」に移り、関東を拠点にした「日之本王朝」を成立させます。「日之本」とは、日の出に近い場所、つまり関東地方を意味しており、埼玉古墳群では三種の神器が発見されています。https://www.youtube.com/watch?v=igRKLfX2zgM
また、中国の唐代の古文書「旧唐書」によると、「倭国と日本国は別の国だ」とあり、当時、日本には「倭国(大和朝)」とは別の王朝があったことを記録しています。 https://www.youtube.com/watch?v=sJOgjB37OaQ
ただその後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は内部分裂から大和朝の分断工作と侵攻を受け、一部は大和朝の傘下に(内物部)、長髄彦尊らは東北地方、さらには津軽地方に逃れ、「荒覇覇吐王国」に合流、後の「安倍(安東)王国」の土台を作ります(外物部)。
なお、ここにいう「安倍(安東)王国」は、その後も続いた大和朝との戦いの末の懐柔策として授けられた「安倍」姓が元になっており、最終的には安倍一族の一部は大和朝廷の中にも入り、安倍晴明、そして肥前国(水軍松浦党)、長門国へと落ちた安倍季任(安倍晋三総理の祖先)に至ることになります。
7、神武天皇と聖徳太子に関する仮説
一方、こちらも謎の多い「神武天皇」についてですが、神武天皇はモーゼ、聖徳太子(厩戸皇子…うまやどのおうじ)はキリストという説があります。青森県の戸来(ヘライ)村にはキリストと弟・イスキリの墓があります。https://www.youtube.com/watch?v=u8dZ7WOShOc
竹内文書によると、キリストは18歳のとき来日、皇祖皇太神宮の神主・武雄心親王から5年間、歴史や天文学、神業などを学び、狭野尊天日嗣天皇から「向こうで死んではならぬぞよ」との命を受けエルサレムに戻りました。が、迫害に会い再び来日、百十八歳まで生きたと書かれています。

一方、モーゼですが、神武天皇の正式名称は「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラミコト」ですが、ヘブライ語では「カム・ヤマトウ・イブリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音し、意味は十支族の一つのエフライム族の王=サマリアの王です。
また、ヘブライ語の「モー・シェ」は、エジプト語では反対に読み「セ・モー」→「ゼ・モー」「ジ・ムー(ムー人)」「ジンム」と転訛したものと、イスラエルのユダヤ民族研究家ヨセフ・アイデルバーグ博士やアビグドール・シャハン博士が指摘しています。
モーゼは物部氏として日本に帰国し、理想の国づくりを目指しました。このため、モーゼは物部系でしたが、天孫族系(蘇我氏、秦氏)が中心になって作られた大和朝においても、"共通の偉人"として尊崇の対象になったと考えられます。中国共産党と国民党の双方から崇められる孫文のような位置づけです。

ちなみに、釈迦は、皇祖皇大神宮で天之越根尊より指導を受け、インドに戻り仏教を説いたが、五十二歳で涅槃に入るとみせて日本に再度来日、天寿を全うしたといいます。釈迦の墓は青森県の梵珠山にあり、実際、古くから不思議な発光現象の目撃談が伝わっています。
8、「欠史八代」と秦氏
なお、第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までの「欠史八代」については、物部系海人族による政権が続いており、後に主流を占める「騎馬民族秦氏系北朝皇統」からは"都合が悪い"として詳細を封印されたものと推測されます。
この物部系海人族による政権の中心は「出雲系」と「邪馬台系」でしたが(不合朝?)、記紀によると「国譲り」によって大和王朝に平和的に統合され、合流します。が、後に、北イスラエルと対立していた、後から来た南イスラエルの蘇我氏と仏教問題で抗争になります。
その結果、物部氏は破れ一部は各地に離散、「山窩(サンカ)=山家」となり"田布施"などに隠れ住みました(外物部)。が、一部は大和朝廷内で残り(内物部)、海人族"大海人"皇子(天武天皇)が勝利した天下分け目の「壬申の乱」で復権します。これが後の「海人系南朝皇統」の始まりです。
なお、大海人皇子(天武天皇)が海人族だったという事実は、「壬申の乱」の際、拠点だった吉野で海人族(熊野族)から黄金での資金援助を受け、伊勢、尾張、美濃などへ迂回しながら東国から軍勢を集めたこと、天武天皇以降、正式な国名を「日本」にしたこと等から窺えます。
一方、「秦氏」ですが、日本では第15代応神天皇のとき、最後の古代ユダヤ十支族として渡来(帰国)します。この秦氏については、「騎馬民族説」の発端となった一族ですが、秦始皇帝の末裔と言われているスキタイ系古代ユダヤ人で、秦朝滅亡後は現在のウイグル近辺に「弓月」と言う国を作っていました。

が、朝鮮の「好太王碑碑文」によると、漢から万里の長城造営などの苦役を強いられたため朝鮮半島に逃れ「秦韓」を建国。が、その後,大和朝による半島で の"天孫工作"で派遣された孝元天皇の皇子・彦太尊などの縄文海人族と民族的に交雑、数代後のホムダワケが「応神天皇」として迎えられます。
この時、ホムダワケは100万人から150万人を率いて来日(帰国)、養蚕、治水などの高度な技術をもたらすなど、我国のインフラ整備等に大いに貢献しました。が、その勢力拡大の一方で、先行渡来していた蘇我、物部系先住日本人との間で覇権争いが起こり、
秦氏系の中大兄皇子(天智天皇)と藤原氏(中臣鎌足)による蘇我氏追い落としが行われます(乙巳の変)。ちなみに、藤原氏ですが、そのルーツは半島(騎馬民族系)という説があります(中臣鎌足=百済王・豊章説)。
9、「二元性原理」に貫かれた日本の歴史
以上みてきたように、日本の古代史は、大きくみて「海人族系(居残り先住民)」と「騎馬民族系(出戻り日本人)」の対立構造になっています。そしてこの構造は、「壬申の乱」を経て「平清盛と藤原家の抗争」、「源平合戦」、
「南北朝対立」、さらには時代を経た「明治維新の真相」にも繋がっています。例えば、平清盛の時代に、常陸国から「第三次修正日本書紀」、つまり勧学院派の九世紀のものが多賀城にあったと献納しにきた者がありました。が、それば藤原氏を天孫族となしたもので、唐や朝鮮からの大陸人を良とし、
それ以外は賎とする内容だったため清盛は激怒、その者を斬首にした上、書き直せ、「天(あま)とは、古代アラブの水の意味で、大船団で熊野に入ってきた平家一門こそ、天の一門なり」と書き直させて、第三次日本書紀を焼いた事は、兵庫県西宮の荒深道太郎氏が研究成果として発表しています。
その他、鎌倉幕府以降、騎馬系天皇(北朝)が主導権を握った後に起こった南北朝の動乱と、その中で生き残り、" 裏天皇"になった海人系南朝・大塔宮・護良親王。明治天皇(護良親王の末裔で長州・大室寅之助)の擁立で果たされた南朝皇統の復活。
更には、都市伝説めいた話ですが、奥州、蝦夷に逃げて生き残り、"奥州・琉球連合"で頼朝への対抗を画策した源義経。信長を討ち果たした後、家康の側近・ 南光坊天海となた明智光秀。廃藩置県で失業、不満を抱えた旧武士団を歴史から消すのに一役買い、ロシアに亡命した西郷隆盛などは南朝系です。
このような「東西(日之本王朝と大和王朝)の天皇」、「南北の天皇」、「表裏の天皇」の存在などの二元的対立は、世界最古の文献といわれる「カタカムナ文献」でいう、"宇宙の二元性の原理(フラクタル宇宙論)"が顕現した結果だったのです。そして今、"二元性の止揚"の時が近づいています。
参照:「世界文明の起源は日本だった(上森三郎)」「超古代、最先端文明は日本だった(吉田信啓)」「日本とユダヤ運命の遺伝子(久保有政)」「日本、日本民族の起源(小谷部全一郎)」「キリストは日本で死んだ(山根キク)」「謎の竹内文書(佐治芳彦)」「謎の九神文書(佐治芳彦)」「超真相・東日流外三郡誌(佐治芳彦)」「富士王朝の謎と宮下文書(伊集院卿)」「日本教の聖者・西郷隆盛と天皇制社会主義(落合莞爾)」「天皇とワンワールド(落合莞爾)」等。