2014年1月18日
古来、天のメッセージを授かるものは限られていました。聖人といわれた高次元の存在、そのサポートをする天使や仙人、陰・陽の関係でいう陰の世界の鬼神・サタンなどそれぞれの役目を果たしています。
日本の場合、昔から鬼神が庶民の願いを聞き届ける代わりにその代価として金品を要求し祀り上げるようにさせていました。執着心の強い人々は言うなりに魂を売り渡すことになってしまいます。
一方、2000年以上前にアジアの各地に降臨された老子・孔子・釈迦・キリスト・マホメットなどの聖人といわれた伝道者は天地造物主の詔を伝える役割でした。先人が受け継いだ天地造物主の詔を学び、そしてその時その地域の人々に合った詔を伝える崇高な天命を行使しました。そのような役割を享けるようになるまで、艱難辛苦の人生を経験しそこから節度を体得して天意に対する畏敬の念を養いました。
今、私たち人類がこうした聖人と同じ位置に就こうとしていることを、あらためて意識する必要を感じます。そういう意味では今という時期はかつて人類の歴史上にないとても価値ある時期です。仏教では法華経で繋ぎ華厳経でその物語を伝承しています。
毎日のように宇宙の高次元の同胞からたくさんの励ましと、状況が理解できるよう個々では掌握できない地球の状況や高次元のエネルギーの変化とその科学を超えた世界を伝えてきています。その内容は驚くばかりで理解を超えていると感じることもありますが、これから数千年の間、様々な機会を経て人々は大いなる覚醒と進化をとげてゆくという意味で目の前にまさに高次元の現実影像を見ているようです。
この壮大な環境に慣れるまでは、幸い様々な機会が与えられていますが、私たちも慎重にとらえ、正しく努力する必要を感じます。たとえば聖書でも仏典でも2000年も前に今の状況が伝えられていて、当時の信者がこれをどう解釈し受け止めたかという点に注目してみます。
NESARAやOPPT、ファースト・コンタクトなどがいつ始まるかという期待に対し、高次元の存在の詳細な説明を受けていますが、人々は、世紀末予言を信じる感覚と同じように、まもなく!・今年は!と繰り返され、いつまでたっても実現しないことに不信感を抱きながら、またその心持も同じように繰り返してきました。ノストラダムスの予言やファティマの予言をまるでそのようにならなければ納得しないかのように、一方ではその破滅が起きてほしいかのように習慣化してしまいます。
これは、ちょうど新聞の情報を見て、それをまるで自分が発信しているかのようにほかの人に伝えることに似ています。内容を吟味せず、裏づけがなくとも日本の経済は見通しがよい、そのほうが自分に都合がよいこと、つまりその場しのぎの悪習慣と化してしまいました。
予言のようにならなかったことがとても重要なことなのに、この惰性的習性はとても恐ろしいことです。 この風潮が雪だるま式に人々を堕落させ、奴隷を管理する者がその堕落したマインドを飴や鞭で自由にコントロールしてきました。
彼らにつけ入る隙を与えた自らは、自らその原因をつくり、災いを広げその結果の業報を自ら受けています。それがまとまって戦争や災害として襲いかかってきます。隙を作れば彼らを活かすことになってしまう、結果的に救わなければならない彼らをも貶めてしまうことになっていました。時代はそのようにして悪化してきました。
宇宙からの様々なメッセージを見て、同じメッセージを見ても人によって何に関心があるかは人様々です。実に様々であることを知り、断固とした天の使いに蘇る威儀を知るべきです。
幸い人類は一元化に向い、最終的な混沌を超えてニュー・エル・サレムを創造しています。
しかし、同じ3次元的世界にいながら意識の覚醒によって体験が異なっています。それぞれがそれぞれのタイムライン上にいるという見方もあります。しかし、どうして70億もの人類が地球という同じ環境の中でこんなに大事な時期を迎えているのでしょうか?
聖人は蟻一匹の命をも惜しみます。人間一人の命はこの大宇宙の中でもっとも尊いとも言います。そのエネルギーは爆発的な力を秘めています。
私たちの真心、霊性といわれる本来の純粋な心を取り戻すため、純粋な心に覆いかぶさった善悪を判断する心、またその心さえ覆うようになった悪の心、その汚れを清め、中心に隠されている本来の純粋な心を発顕する、この一大事業のため、すべてをそのチャンスにかえるため、あらゆる努力がなされ、偉大な葛藤がまき起こっています。静かであるはずのこの心の中に価値ある葛藤が渦巻いています。
真心とは強靭な自己