Ray:家畜の恐怖、それは人間の尊厳すべてを奪われている恐怖、事態は深刻です。熟達者は、根本創造主の天命によって派遣された”師”の指導を直接うけながら”道徳規範”と”地球の環境”を回復させ守るという実践的な教材をもって、人々の苦しみを根本から取り除く聖なる仕事がはじまります。
2017.7.19

生命保険会社に勤務するかたわら、「働く意味」をテーマに執筆、講演などに取り組む。12万部を超えるベストセラーになった『人事部は見ている。』(日経プレミアシリーズ)、『就職に勝つ!わが子を失敗させない「会社選び」』(ダイヤモンド社)など著書多数。近著に『定年後』(中公新書)がある。
定年後~60歳からの「黄金の15年」をどう生きるか
「いつかは、その日が来る」。それはだれもがわかっているが、近づかないとピンとこない。いつまでも「この仕事」が続くかのように感じていても、それは、いずれ終わる。60歳が定年だとすると、家族の扶養義務からも解放されて、かつ他人の介助も受けずに裁量をもって活動できる75歳位までは案外と長い。それを「黄金の15年」にできるなら、人生の締めくくりとして素晴らしい。では、その15年をどのように生きるか。また、その時が来てから慌てないために、いつから、どんな備えをすればいいか。書籍『定年後』(中公新書)の著者である楠木新氏が語る。

定年退職の直後に感じるのは、「現役時代は、いかに社会と関わりが持てていたか」ということだ。組織から切り離されたときから、人は「名前を呼ばれない」日々を生きることになる。60歳からを「黄金の15年」にするために、このリアリティショックを乗り越える必要がある。(ビジネス書作家 楠木 新)
「半年経つと立ち直れない」もう10年近く前になるが、活力あふれるシニアの増加を目指すNPOからセミナー講師の依頼を受けたことがある。「中高年からライフワークを見つけた人たち」というタイトルで話をした。
セミナーが終了した時に、事務局の人たちと居酒屋で歓談の機会があった。その時に60代の男性がNPOに参加した理由を語りだした。
「定年になって初めの1ヵ月程度は解放感に満たされたが、それ以降はやることがなくて本当に辛かった。働こうと思ってハローワークなどにも通ったが、履歴書を送っても面接までたどり着けない。家に引きこもりがちになって半年もするとテレビの前から立ち上がれなくなった」。そんな話だった。その後このNPOの存在を知って救われたという。
彼は「『何をするかは失業保険を受け取ってから考える』と話す同僚が多かったが、半年間何もしないことに耐えられない人が少なくないはずだ」と自らの体験をもとに語ってくれた。
また私が執筆の場にしているレンタルオフィスに訪れた会社員当時の先輩は、「この事務所には、どれくらい来ているの?」と聞いた。
「週に4、5日くらいですかね」と答えると、「それじゃ、生活のリズムがついていいなぁ」と彼はつぶやいた。
さらにその後、近くの喫茶店で話し込んだ時に、「生活のリズムをつけるのは大変ですか?」と私から尋ねてみると、「朝起きてやることがないと、朝食をとるとまた寝てしまう」という。「寝てしまった後は、外出する気分も失せてテレビを漫然と見ていることが多い。だから二度寝をしないように、できるだけ外出することを心がけている。図書館や百貨店、映画館などをぶらぶらしていることが多い」そうだ。
気心の知れた先輩なので本当のところを語ってくれたのだろう。私の事務所を訪れたのも何か自分にヒントになることはないかと思っていた、ということだった。
仕事も同僚もスケジュールもすべてなくなる紹介したNPOの事務局で運営に携わっている人や、オフィスを訪れた先輩の定年後の困惑、戸惑いは私にも十分伝わってくる。
私は60歳で36年間勤めた生命保険会社を退職した。65歳まで働くという選択肢もあったが、「定年後」を自ら体験しながら執筆したいと思い、どこの組織にも属さずに過ごしている。
会社員のほぼすべてがそうであるように毎日通勤電車に揺られて職場に入り、そこで長時間働くのが日常だった。ところが定年の日を境に、満員電車に乗り込む必要はなくなり、机の前に座ることも、同僚と話すことも、なすべき仕事も何もかもなくなった。
私の場合は10年近く会社員と執筆活動の二足の草鞋を履いていたので、会社との距離は相当あると自分では思っていた。それでも会社を退職した当時の解放感は予想以上に大きなものだった。しばらくは原稿を書くために机に向かうことができなかったくらいだ。
そして退職して2~3週間くらいは「明日から会社に出勤せよ」と命じられても問題なく現役復帰できる状態だった。
ただ退職後、3週間余りが経過すると、だんだん曜日の感覚がなくなってきた。土曜日、日曜日はそれほどでもないが、平日の曜日が分かりにくい。先日出かけたセミナーは何曜日だったかなとか、映画を見たのが昨日だったか、一昨日だったかが明確でなくなってきた。
その原因の一つは手帳を頻繁に見なくなったことだ。日によっては一度も見ない。ほとんど頭の中で把握できるくらいしか予定がないからだ。
会社はメリハリを与えてくれる場所だった退職から1ヵ月余り経過したゴールデンウィーク前の金曜日に繁華街に出た。夜の8時頃だったが、居酒屋、飲み屋、レストランは、どこもかしこも超満員だった。これからの連休を控えて仕事から解き放たれた様子の会社員であふれていた。そのときに「自分にはこのような週末はもうやってこない」ことに気がついた。
会社員は自分で工夫しなくても、会社が自然とオンとオフのスイッチを入れてくれる。始業、昼休み、終業の各々のチャイム、同僚と一緒のランチなどだ。
また毎週のチーム打ち合わせ、部内の会議、夜のちょっと一杯、周囲の仲間との談笑や雑談、上司からの無茶ぶりなども仕事がマンネリにならないように適当にちりばめられている。
面倒だった出張もなくなってみると、単調になりがちな仕事のスパイスだったと思えてきた。忘年会、歓迎会、新年会なども同様な機能を持っていると言えそうだ。
同時期に退職した学生時代の友人は、「今は一つのことをずっと考え込んでしまうが、会社では電話や上司の指示でいつも考え事が遮られる。これが精神衛生上とても良かった」と語っていたのが印象に残っている。
また彼は、若い人から年配者までが一緒に集まっている場所は、会社のほかにはないことに気がついたとも話していた。
満員電車とは無縁になって、会社からの拘束や仕事上の義務もなくなった解放感は依然として続いていたが、同時にそれらの拘束や義務の中に自分を支えていたものがあったことに気づき始めた。人は失ったものに目がいくようになる傾向があるのだろう。
名前を呼ばれるのは病院だけ
楠木新著
中公新書 定価780円(税別)
定年退職は誰にとっても大きな環境変化であるが、その変化をどういう点で感じるかは人によってさまざまだ。
営業をやっていた友人は「定年退職して受け取る年賀状が今までの3分の1になった」と嘆いていたが、会社の経費で飲めなくなったことが寂しいという人もいた。
私にとって一番印象的だったのは、誰からも名前を呼ばれないことだった。どこにも勤めず、無所属の時間を過ごしていると、自分の名前が全く呼ばれない。
社内では、「〇〇さん」、「〇〇調査役」などと当然のごとく声をかけてくれた。それがいかにありがたいことだったかは退職して分かった。
家族からは「おとうさん」と呼ばれ、電話、FAXも自分宛てのものは来ない。退職した当初は、引き継いだことや仕事の確認のため電話が入るかもしれないと思っていたがそれも全くなかった。
退職した年末に、病院で順番が来た時に看護婦さんに「〇〇さん、次が診察ですのでこちらでお待ちください」と声をかけられたのが唯一だった。これは笑い話ではなくて本当だ。
この話を同年代の定年退職者にすると、自分もそうだという人が多い。ある人は通りを歩いていて自分の名前を大きい声で呼ばれたので珍しいなと思って振り返ると、一緒に歩いていた息子の友達が声をかけたことに気がついたという。
また別の退職者は、ハローワークの相談員と面接した時に自分の名前を何度も読んでくれたことがとても新鮮だったそうだ。
彼からその話を聞いた時に、「たしかcallingというのは、英語で職業という意味だったな」ということが頭に浮かんだ。
辞典を見ると、「職業」のほかに「 天職;(神の)お召し」という意味もある。会社勤めの時には意識しなかったが、定年後一人になれば、何らかの意味で、誰かに呼ばれなければやっていけない。
それは職業上であろうと、家族や地域の人やボランティア仲間、誰であっても構わない。名前を全く呼ばれないということは社会とつながっていないことを意味する。
私は、楠木新(くすのき・あらた)というペンネームがあり、編集者やセミナーの主催者とメールなどでやり取りしているので、何とかもっている。
そうでなければちょっと耐えられないかなと感じている。やはり人は一人では生きていけないのだ。
多くの定年退職者の話を聞いていると、定年はある日を境にやってくるが、人は一気には変われない。このギャップを埋めるためには、かなり前からの助走が必要だ。そういう意味では、「定年後」は50歳あたりから始まっているというのが実感だ。
この連載では、定年前の助走や定年後の社会とのつながり、居場所についても考えていきたい。
(ビジネス書作家 楠木 新)