道は極まりない理からくる真理であり、人に与えられて本性となって、これを性理または良心もいいます。この性理は私たち人類が天よりいただいた根で性命の大源であり、真の我の姿でもあります。人が活きるのも「是の如き処」より来て、死ねばまさに「是の如き処」から去ってゆくべきで、生死には必ず経過する真経の正路です。(是の如き処とは生死の門戸であり、正法眼蔵の発源地であり、十字架と喩えている処で、明師《師》より指点を受けるべし)
人と道との関係
中庸に「道は須臾も離る可からざるなり、離る可きは道にあらざるなり」 “道は片時も離れることができないものである。
離れられるものは道ではない” 道とは真理であります。
人が必ず通じなければならない路であります。
人が平常道徳に依存しているのは、あたかも汽車が軌道の上を走り、船が水上に浮かび、飛行機が空中を飛ぶ様なものです。
もし汽車が軌道を離れ、船が水を離れ、飛行機が空気を離れれば、危険この上なく必ず大事故を引きおこします。
同様に人がもし道を離れると、社会に於いては法律の制裁を受け、死後は陰府(地獄)で閻魔王の制裁を受け、輪廻に墜ち、四生(胎生、卵生、湿生、化生)、六道(天道、人道、地獄道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道)の間を転変して止むことなく、無辺の苦海を彷徨うこと極まりがありません。
孔子様は「君子は死すとも善道を守る」と申され、又、「君子は道を憂い、貧を憂えず」「君子は道を楽しむ」などと言って“道を体得された方は死を以て道を守り、貧乏を嘆かず、道の足りないことを嘆き、又、道の成就されることを楽しみにした”と申されました。
顔回(顔子)は道を得て、拳々服膺して、片時も道を忘れることなく、そして終身これを失いませんでした。
曽子は道を得て、戦々兢々として畏れ慎み、一日己の身を三省しました。このようにして見れば、道と人との間の密接な関係がありますが、惜しいことに世人は皆これを度外視しています。
孔子様は「誰か能く出ずるに戸によらざらんや、何ぞこの道に由らざるはなし」と言って“何びとと雖も戸によらずして出づることができましょうか、又、何ごともこの道によって、その物事が成就するのに、世の人々はこれを知らないのである”と嘆かれました。
※ 三省: 曽子曰く
吾れ日に三たび吾が身を省みる
1、 人のために謀りて忠ならざる乎:友人の相談にのって、それのみならず、その人のために行動して忠実であったか。
2、 朋友と交わりて信ならざる乎:真義を欠いていなかったか。
3、 習わざるを伝うる乎:よく呑み込んでいないのに相手に教えていなかったか。
※人と人との関係は、すべて道(真理)に到る道理があります。それを正しく学ぶのが学問であり、行う習わしを修道(道を修める)と言います。