道とは私たちの本性で、儒教ではこれを良心といい、仏教では「金剛心」(刃金のように堅く変質しないもの)と言い、「菩提心」や「仏性」と称しています。道教では「生死の門」あるいは「谷神」とも言います。このように色々な名称や言い方が異なっても究極は同じものです。道教・儒教・仏教・キリスト教・回教の5教が同じ源(唯一絶対の天地造物主)であることの一端を知ることができます。
中庸の書に曰く「天の命ずるこれを性と言い、性の出るところこれを道と言う」とありますが、道とは、抽象的な言葉で無形・無像、音声もなく匂いも無いもので、生きず亡びず増えず減らず、空のようで空ではなく、有るようで実際は無い、また無いようで実在しているものです。これは筆墨で描写表現することができないものです。また、口舌で形容することができないもの、それが大道の実体です。実体は形が無く、しかし真相を妙有しています。凡界の名声・色形などの仮(一時的)の物体ではありません。
道教では「道可道非常道、名可名非常名」(道の道とすべきは常の道にあらず、名の名とすべきは常の何あらず)と言い、道の定義は実に微妙なもので簡単に言い難いもので、また言語で一口に説明ができたら、これは不変の常道ではないことになります。同じように道から生じた徳の名についても名相で表現することができないわけです。そこで老子は「無明天地之始、有名万物之母」(名無しは天地の始め、名有るは万物の母)をもって定義としています。
道は一言で道徳とも言います。道は徳の本体で、徳は道から生じ、道の妙用であり、且つ又不変なものでもあります。そして道徳は人類本来の姿であり本能でもあります。
老子曰く「天地は最初無から生ず、天地は万物を包蔵するが故に万物もまた無の中から生ずるのであります。道は無であり有であります。道は万物の母、また主宰者とも言います。」
道は○、点、または一をもって代表符号といたします。一の字は点の連続集合であり、一の字を折り曲げて両端をつなげれば○となります。点と一の字はすべての字を書く基礎でありかつ大体です。
儒教にあっては「執中貫一」
仏教にあっては「万法帰一」
道教にあっては「抱元守一」
キリスト教では「黙祷親一」
回教にあっては「清真返一」
と言っており、これも5教同源の一証左になります。
万物の主宰は微妙で名前が無く、強いて名づけて「道」と言いました。○を拡大すれば一つの宇宙となり、縮小すれば点となります。道は森羅万象を包含し万霊の主宰者とも言われます。
「天地は大なりと謂えどもこの妙道を得ざれば成り立たず、人はそれぞれに霊ありと謂えども道なければ生成できない」と謂います。そこで私たちは、道は理であり、理は性、性はすなわち良心、良心は仏、仏性は人類本来の姿であることが理解できます。
人間は誰もが均しく良心・仏性を持っております。しかしながらこれを知るものはいたって少ない実情です。また人は誰でも本来、道徳を日常の行為の標準としていますが、それを知らず、いたずらに名利にはしり、末を求め本を失い、欲に迷い、それによって社会がますます暗黒になってしまいました。
「道を知るものは務めて本源に還り仙・仏となり、道に迷うものは地獄の鬼畜となる」と謂います。
修道の目的は仏教では仏に成ると言い、道教では仙人になると言い、儒教では聖人になると言われています。
仙・仏、人間、鬼畜、この三者の関係は「人間が修道すれば仙・仏となり墜落すれば鬼畜となる。また人間は仙・仏の墜落したものであり仙・仏もさらに墜落すれば鬼畜となります。しかし鬼畜といえども常に修道を積めば最後には神仙になれるのです。
そこで、この道は先天(性の源)に帰還する唯一の法門経路であり、この性は唯一絶対の造物主から分受されたもので、良心とは人間の諸行為善悪分別の表現で道心とも言います。
超古代より、あらゆる形象の原点は道です。