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シンプル・ライフ~真理の目(2)

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          古代エジプトのプロピデンスの目

人類の秘法(道=真理)がどのように伝えられてきたか、各宗教の経典に伝承されていますが、時代が下るとその解釈は有名無実となってしまいました。老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯(キリスト教の『聖霊と火』によるバプテスマ的秘儀)を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命(性)の微妙な出入り口)

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝え「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」【粘華微笑、玄嚢鼻直】と説法し、正しい法が目の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)への妙なる心のように、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

聖書では、ヨハネ14章1節ー6節、トマスが言った。「主よ、どこへ行いけばいいのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 

「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 父のもと(天国)へゆくには、「道であり、真理であり、命である」わたしを通らなければならない、と・・・。

道と真理が意味する「命」とは、本来の魂のことでスピリチュアル(霊)のことです。漢字文化では「性」、つまり創造主の分霊の意味です。

「わたしを通らなければ」は、キリストがゴルゴダ(しゃれこうべ)の丘で磔にされた3つの十字架の真ん中の十字架(真理の目)、それが道であり、真理であり、性(わたし)に通じなければならないと・・・

どの経典でも、これは名のつけようもなく、あえて「道」といい、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。

 縄文時代の遺跡の標本にも眉間に仏像と同じように心眼の印がある。海外に持ち出されているコレクションには歴史の真実を隠蔽するためのものもある。

※ このデータベースは東京大学総合研究博物館・人類先史部門所蔵の土偶、その他土製品、岩版、岩偶などの石製品若干数、総計800点ほどの先史・考古学標本の画像データベースである。当コレクションは1877年のE.S.モースによる東京大森貝塚の調査まで溯り、ほとんどの標本が明治期後半から昭和初期に収集され、中でも明治期に由来するものが多い。これらの標本は、日本の人類学、考古学の草創期に本学の研究者による学術調査の一環として、あるいは寄贈品として集積されたものである。このため、当館のコレクションには学史的に重要な標本が多数含まれ、また、優品が少なくない。

Blog「  」より転載 

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