真理の意味と基準は何であるのか、これは哲学の永遠の問題である。対応説、整合説、権力説という主要な学説を検討しながら、その本質に迫ってみたい。
1. 真理対応説「真理とは何か?」という問いに対する最も素朴な答えは、「現実との対応」である。例えば、「これは木だ」という命題が真であるかどうかは、私が指差した方向に木があるかどうかで検証されるというわけだ。しかし私たちが現実と考えている思惟の対象は、いつも既に思惟によって意味を与えられている。ある人が、
それは木ではない。聖なるトーテムであり、私たちのご先祖様だ。
と反論したとする。私が
何を言っているのだ。よく見てみろ。たんなる木ではないか。このようなものが君の先祖であるわけがない。
といくら言ったところで相手は納得しない。
真理対応説は、直接経験的に検証されない命題の場合、さらに無力になる。「ニュートリノに質量がある」という命題を検証するために、手のひらにニュートリノを直接載せて重さを量るというわけにはいかない。歴史的事実の証明のように、対象が消滅している場合にも、直接対象を指示して命題を検証することができない。そもそも真理とは何かが問題となるのは、こうした解釈の差が大きな争点になる場合なのである。かくして真理対応説は、真理整合説へと止揚される。
2. 真理整合説真理整合説は、ある理論が真であることをその理論が無矛盾的で整合的であることと同一視する。この真理整合説は、真理対応説を止揚する包括的な理論である。認識が現実に対応しているかどうかは、理論が経験と無矛盾であるかどうかだからだ。真理整合説は、経験との整合性に加えて、さらに理論的命題相互の整合性も要求する。認識とは、経験と矛盾しない複数の要素命題を整合的に結合していく作業であるというわけだ。
真理整合説の難点は、矛盾に直面した時、どこを否定したらいいのかについて手掛かりを与えてくれないところにある。ある理論が
「Aである」かつ「Bである」かつ「Cである」かつ …という要素命題の連言から成り立っているとしよう。この理論に矛盾が生じる時、そこから論理的に帰結することは、
「Aでない」または「Bでない」または「Cでない」または …という各要素命題の否定の選言である。このうちどの否定を選べばよいのだろうか。その基準はプラグマティックだ。ここで真理権力説が登場する。
3. 真理権力説ここでいう権力とは、システムを存続させる力のことである。真理権力説は、真か否かをシステムの存続に貢献するか否かと同一視する。このことは、システムが矛盾を抱えた時、最もシステムに負担をかけずにすむ方法が優先的に行われるということを意味している。
そもそもなぜ知のシステムは矛盾してはいけないのかを考えてみよう。知のシステムが矛盾を認めると、何を主張しても真ということになってしまい、あらゆる選択を放棄することになる。システムとは選択のことであるから、選択を放棄するということは、エントロピーの増大、すなわち死を意味する。学者が、ライバルから指摘された矛盾を克服しようと説明の努力を続けることと生物が増大するエントロピーに抗してネゲントロピーとしての自己を維持しようと努力することは同じことなのである。
私たちの知のシステムには中心と周縁がある。中心の信念は固くて揺るがないが、周縁の信念は不確かである。小さな矛盾が発生した時、トカゲが尻尾を切って生き延びようとするように、システムにとって最も重要性の低い周縁の知が切り捨てられる。修正する箇所が少なくて周縁であるほど、修正のコストは少なくてすむのだ。だから一つの経験的な反証例で長い間信じられてきた理論全体がひっくり返ることはまれで、「他人からの伝聞だから信用できない」とか「何かの測定間違いだろう」と自分の都合の良いように解釈してしまうのである。しかしトカゲの尻尾切ではうまくいかなくなったとき、宗教的回心に喩えられるような劇的な変化が起きて、中心的な信念が揺らぐ時がある。
同じ事は社会システムについても言える。科学者の集団はひとつの社会システムを形成しているが、正常科学を信奉する多数派は、中心で人事権と研究費を独占して、安定した地位を得ている。周縁にいる異端の科学者たちが、正常科学の矛盾を指摘しても、彼らは既存のパラダイム内部での「パズル解き」で問題を解決してしまう。しかしパズル解きでは対処できない時がある。周縁の異常科学が中心の正常科学に取って代わる科学革命の時である。中心的な知が放棄される劇的な革命は、そうでなければ、システムの存続が危ぶまれる時に起きる。だから科学革命論は真理権力説を否定するものではなく、むしろ逆に肯定する。
何が真であるかは、知のマーケットにおける自然淘汰で選択される。正常科学がマーケットを独占しても、科学のシステムは他のシステムと予算の配分などで競争しなければならない。科学が予算の配分を受けられるほどの成果を出せなくなった時、ドラスティックな科学革命が起きる。
真理権力説は、しばしば既存の権力の追認と誤解されやすいが、実は「真理に近いシステムほど長期的には存続可能である」というきわめて理想主義的な主張である。腐敗した権力は、短期的にはともかく、長期的には瓦解する。多数の要素命題を整合的にまとめ上げる学問的能力と、多数の利害を整合的にまとめ上げる政治的能力は同じなのである。ちなみに、日本語の知るという言葉には、知事という言葉に残っているように、かつては支配するという意味があった。
読者の中には、「癌患者に本当のことを言うと、ショックで早く死んでしまう場合がある。真理を知れば長生きできるなんてうそだ」と反論する人がいるかもしれない。これは反論になっていない。「あなたは癌で、余命6ヶ月です」と言われてショック死する人は、死に対する準備ができていない人で、人生の真理を悟っていない人なのだから。
それでも「民は由らしむべし、知らしむべからず」という論語式戦略の方が優れていると思う人がいるだろうか。独裁者は、えてして情報操作により国民をマインドコントロールしたがるものである。自分の国を地上の天国と信じ込まされている北朝鮮の洗脳された人々は、癌を告知されない患者と同様に、ある意味で幸せかもしれない。しかし真理を隠すシステムの方が、情報公開をしているシステムより統計的に短命であることは、歴史が示している通りである。