Ray:これは一つの例ですが、人の生命と人類の歴史において最も大切な課題【真理】について、それは曖昧な答えに彩られています。解らないから邪教が氾濫し歴史を歪めてきました。 質問: 真理とは何ですか?
転載:https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-what-is-truth.html
答え: およそ二千年前に、真理は裁判にかけられ、偽りに徹している人々によって裁かれました。実際に、真理は24時間以内に六つの裁判にかけられました。そのうちの三つは宗教的なもので、残りの三つは法的なものでした。最終的に、それらの裁判に関わった人たちのうちに「真理とは何か」という問いに答えることのできる人はほとんどいませんでした。
逮捕されると、真理はまずアンナスという名の、ユダヤの腐敗した元大祭司のもとに連れて行かれました。アンナスはその裁判中、自宅でその裁判を開いたり、被告から自己告発を誘導しようとしたり、その時点では全く有罪とは認められていなかった被告を打つなど、ユダヤの法律をいくつも破りました。アンナスの次に、真理はアンナスの娘むこであった当時の大祭司カヤパのもとに連れて行かれました。カヤパとユダヤ最高評議会の前に、多くの偽の目撃者たちが進み出て真理を非難しましたが、何一つ証明されず、いかなる不正行為の証拠も見つけられませんでした。カヤパは真理に有罪を宣告しようとして、少なくとも7つの法律を破りました。(1)その裁判は秘密裏に開かれました。 (2)それは夜間に執り行われました。(3)それには贈収賄が関わっていました 。(4)被告には彼を弁護する人が一人もいませんでした。(5)二人か三人の証言の必要条件を満たすことができませんでした。(6)彼らは被告に対して自らを有罪に追い込むような供述を用いました。(7)彼らは同日中に被告に対する死刑を実行しました。これらの行為はすべてユダヤの法律によって禁じられていました。とにもかくにも、カヤパは真理を有罪と宣告しました。真理が受肉した神であると自称したからであり、カヤパはそれを冒涜であるとしたのです。
朝になると、真理の三つ目の裁判が執り行われ、その結果、ユダヤ最高評議会は真理が死に値すると宣告しました。ところが、ユダヤ評議会には死刑を実行する法的権利がなかったので、彼らは真理を当時のローマ総督であったポンテオ・ピラトという男のところに連れて行かざるを得ませんでした。ピラトはティベリウスによってユダヤの第5代総督として任命され、紀元26年から36年までその務めを果たしました。代理長官として、彼には生殺与奪の権利があり、最高評議会によって可決された死刑宣告を覆すことが可能でした。真理がピラトの前に立つと、彼に対してさらなる偽りの申し立てがなされました。彼に敵対する者たちは「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」と言いました(ルカの福音書 23:2)。真理は皆に税金を支払うようにと命じていた(マタイの福音書 22:21)のであり、自身がカイザルに挑戦する者であるとは一度も言っていなかったのですから、それは偽りでした。
この後、真理とピラトの間で大変に興味深い会話が持たれました。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』イエスは答えられた。『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』ピラトは答えた。『私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。』イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか』」(ヨハネの福音書 18:33-38)。
「真理とは何ですか」というピラトの問いは、歴史を通して繰り返し発せられてきました。 それは、誰も彼に告げることのできなかったことを知りたいという物憂い願望だったのでしょうか、冷笑的な侮辱行為だったのでしょうか、あるいは、もしかするとイエスの言葉に対する無関心で苛立ちのこもった返答だったのでしょうか。
真理を知ることは不可能であるとするポストモダンの世界において、この問いに答えることはこれまでになく重要なこととなっています。 真理とは何か?
提案されていえる真理の定義
真理を定義するにあたっては、まず真理がどういうものでないのかを特筆することが役に立ちます。
• ただ何であれうまく機能するものが真理なのではありません。それは目的対手段型のアプローチをする実用主義の哲学です。現実には、嘘が「うまく働く」ように見えることがあっても、それはやはり嘘であって真理ではないのです。
• ただ理路整然としていたり、理解できるものが真理なのではありません。ある一団が集まって一定のうそを基に陰謀を形成して、皆が一致して偽りの話を語ることに同意しても、それで彼らの説明が真理になることはありません。
• 人々を良い気分にさせるものが真理なのではありません。残念ながら、悪い知らせが真実であることがあります。
• 大多数の人たちが本当だと言うことが真理なのではありません。ある集団内の51%の人たちが誤った結論に達することもあります。
• 包括的なものが真理なのではありません。長々しく詳細にわたる説明でも間違った結論に終わってしまうこともあります。
• 真理は意図によって定義されるものではありません。善意でも間違っていることがあります。
• 真理とは私たちがいかにして知るかではありません。真理は私たちが何を知っているかなのです。
• ただ信じられていることが真理なのではありません。信じられている嘘はやはり嘘なのです。
• 公的に証明されていることが真理なのではありません。真実は内密に知られうるのです(例 埋められた宝の位置)。
「真理」という意味のギリシャ語はアレーテイア(alētheia)で、字義的には「非隠ぺい」あるいは「何も隠さないこと」という意味があります。それは、真理が常にそばにあり、常に開かれていて誰にでも見ることができ、隠されていることや分かりにくくされていることは何もないという考えを伝えています。ヘブル語で「真理」に当たる言葉はエメト (emeth)で、「堅固」「不変性」「持続」を意味します。そのような定義は永続的な実体や頼ることのできる何かを暗示するものです。
哲学的な視点からみると、真理を定義するには次の三つの単純な方法があります。
1.真理は現実と一致するものである。
2.真理はその目的に合致するものである。
3.真理とは単純に事実をありのままに述べるものである。
まず初めに、真理は事実に一致します。それは現実なのです。真理はまた事実上一致するものです。別の言い方をすれば、それはその対象に合致し、その指示物によって知られています。例として、クラスの生徒たちに顔を向けている教師が「この教室の出口はたった一つだけ右側にある」と言ったとします。その教師に向かい合っている生徒たちにとってはその出口は彼らの左側にあるかもしれません。しかし、その教師にとっては、出口が右側にあるというのは絶対に本当なのです。
真理はその目的に合致します。ある人には何ミリグラムか必要な薬でも、望ましい効果を得るためにはその同じ薬が別の人にはもっと必要であるかもしれないし、あるいはそれほど必要でないかもしれないということが、絶対的真理であるかもしれません。これは相対的な真理ではなく、ただ真理がいかにその目的に合致するかの例えを示すものです。患者が医者に不適当な量の薬を要求したり、自分たちの特定の疾患のために使う薬は何でもいいと言うことは、間違った(そしてもしかすると危険でもある)ことです。
要するに、真理とは単に事実をあるがままに語ることです。それはものごとの実際のありさまであり、他のいかなる見解も誤りなのです。哲学の根本原則は、真理と誤りとを識別することができることです。すなわち、トマス・アクィナスが述べたように「区別をするのは哲学者の仕事」なのです。
真理に対する異議
アクィナスの発言は今日ではあまり人気のあるものではありません。ポストモダンの相対主義の時代にあって、区別をつけることは時代遅れであるようです。「これは真実だ」と言う発言は、今日でも、それが「よってそれは誤りである」という発言に続かないかぎりは受け入れられます。これが特に目につくのは、真理に関してはいかなる信念体系も対等であると想定されている、信仰や宗教の問題においてです。
真理という概念に異議を唱える哲理や世界観は数多くありますが、それぞれをじっくり分析するとそれが本質的に自滅的なものであることが分かります。
相対主義の哲理は、すべての真理が相対的であり、絶対的真理というようなものは存在しないとします。しかし、問わねばなりません。「すべての真理は相対的である」という主張は相対的真理なのでしょうか、それとも絶対的真理なのでしょうか。それが相対的な真理であるとすれば、それは実際には無意味なものです。私たちには、それがいつどこで適用するのか、どうすれば分かるのでしょうか。もしもそれが絶対的な真理であるならば、絶対的真理が存在することになります。さらに、相対主義者が絶対主義者の見解は間違っていると言う時、その人は自分自身の見解に背いて発言しています。絶対的真理が存在すると言う人たちもまた正しくてもよいのではないでしょうか。突き詰めると、相対主義者が「真理はない」と言う時、彼はあなたに彼のことを信じないよう要請しているのです。そして彼の忠告に従うのが最善なのです。
懐疑主義の哲理に従う人たちは、単純にすべての真理を疑います。ですが、懐疑論者は懐疑主義に対して懐疑的でしょうか。彼は自らの真理の主張を疑うでしょうか。そうだとすれば、何のために懐疑主義に目を向けるのでしょうか。そうでないとすれば、私たちは少なくとも一つのこと(つまり、絶対主義が存在すること)を確信することができます。この場合、皮肉にも懐疑主義が絶対的真理となるからです。不可知論者は、私たちには真理を知ることができないと言います。しかし、その考え方は、少なくとも一つの真理、すなわち私たちには真理を知ることができないという真理を知っていると主張しているのですから、自滅的なものなのです。
ポストモダニズムの信奉者たちはどのような特定の真理をも肯定しません。ポストモダニズムの守護聖人、フリードリヒ・ニーチェは真理を次のように説明しました。「では、真理とは何であろうか。隠喩、隠喩語、擬人化から成る遊動軍... 真理は幻想である... 絵柄を失ってしまい、もはや金属としての価値しかなく、もはや硬貨としての価値のない硬貨。」皮肉なことに、ポストモダニズムの信奉者はその手中に、もはや「ただの金属」でしかない硬貨を握っていながら、少なくとも一つの絶対的真理、つまり、いかなる真理も認められるべきではないという真理を認めているのです。他の世界観と同様、ポストモダニズムは自滅的であり、それ自体の主張によって正しいと認められることができません。
広く受け入れられている世界観に多元論がありますが、それはすべての真理主張が同等に妥当であるとします。もちろん、それは不可能なことです。ある女性が今妊娠しているという主張と彼女は今妊娠していないという主張の両方が同時に真実であり得るでしょうか。多元論は、何かが同時に、同じ意味において、ともに「A」であり「Aでない」ことはあり得ないとする、非矛盾の法則の下で崩壊してしまいます。ある哲学者による気の利いた皮肉のように、非矛盾の法則は真理ではないと信じる(そして、自動的に、多元論が真実であると信じる)者は誰でも、打ちのめされて焼かれるべきです。そうすれば、彼らは打ちのめされて焼かれることが、打ちのめされず焼かれないことと同じではないことを認めるでしょう。また、多元論が、それが真理であり、それに反するものは何でも誤りであるとしていることにも注意してください。それはそれ自体の基礎的な教義を否定する主張なのです。
多元論の背後にある精神は、何でも受け入れようとする寛容の姿勢です。しかしながら、多元論は誰もが同等の価値を持っているという考えと、すべての真理主張が同等に正当であるということとを混同しています。もっと単純に言うと、すべての人々は平等であるかもしれませんが、真理主張のすべてが同等なのではありません。多元論は意見と真実との差異を理解しそこなっています。これは、モーティマー・アドラーが「多元論は、真理に関する領域よりも、むしろ好みに関する領域においてのみ望ましく、また許容される」と特筆している区別です。
真理の不快性
真理という概念が中傷される場合、それはたいてい以下に挙げられた理由のうちの一つあるいは複数のものによります。
信仰や宗教に関して絶対的真理を知っていると主張する人に対する共通の苦情は、そのような姿勢が「狭量」であるというものです。しかしながら、批判家たちには、真理が本来狭いものであるということが理解できていません。2+2は4にしかならないと信じる数学教師は狭量なのでしょうか。
真理に対するもう一つの反論は、ある人が正しくて別の人が誤っていると断言することは傲慢であるというものです。しかし、もう一度先の数学の例に触れるなら、ある算数の問題に対して正しい答えが一つしかないと主張する数学教師は傲慢なのでしょうか。あるいは、鍵師が、施錠されたドアを開けることのできる鍵は一つしかないというのは傲慢なのでしょうか。
信仰や宗教に関して絶対的真理を固守する人たちに対する三つ目の非難は、そのような見解がだれでも受け入れようとするものではなく、むしろ、排他的であるというものです。しかし、そういった苦情は、真理が本質的にその反対のものを除外するものであることを理解していません。4以外の解答はすべて、2+2が何であるかという事実から除外されるのです。
真理に対するさらにもう一つの抗議には、真理を有していると主張することが侮辱的で不和を生じさせるものだというものがあります。批判家たちは、その代わりに、ただ重要なのは誠意なのだと主張します。この見解の問題は、真理は、誠意や信条、また願望の影響を受けることがないことです。私たちが間違った鍵がドアに合うとどれほど本気で信じるかは重要ではありません。その鍵は鍵穴に入らず、ドアは開かないのです。真理は誠実さに影響されることもありません。毒の入った瓶を取り上げて誠実にそれがレモネードであると信じる人は、不運にも毒の作用に苦しむことになります。最後に、真理は願望の影響を受けるものではありません。ある人が自分の車がガス欠でなければよいのにと強く願ったとしても、タンクが空になっていることが燃料計に示され、車がそれ以上走らないなら、どんなに願ったとしても奇跡的にその車を走り続けさせることはできません。
中には、絶対的真理が存在することを認める人たちもいますが、その人たちも、そのような姿勢は科学の領域においてのみ有効なのであり、信仰や宗教に関しては通用しないと主張します。これは論理実証主義と呼ばれる哲学で、デイヴィッド・ヒュームやA.J.エイヤーといった哲学者たちによって広められました。本質的に、そのような人々は、真理主張が(1)トートロジー(例 すべての独身男性は結婚していない男性である)であるか、(2)経験的に証明できるもの(つまり、科学によって検証可能)かのいずれかでなければならないと主張します。論理実証主義者にとっては、神に関する話はみな無意味なものです。
科学だけにしか真理主張をすることができないという観念に固執する人たちが認識しそびれているのは、科学が無効である真理領域が数多くあるということです。以下はその例です。
• 科学には数学と論理の領域を証明することはできません。科学がそれらの領域を前提としているからです。
• 私自身の精神が存在するということ以外には、科学では心理などの形而上的真理を証明することができません。
• 科学には道徳や倫理の領域において真理を提供することができません。例えて言うと、ナチスが邪悪であったことを証明するために科学を用いることはできません。
• 日の出の美しさなど、科学には美的観念に関する真理を言明することができません。
• 最後に、「科学が客観的真理の唯一の供給源である」と誰かが発言する場合、その人はただ哲学的主張をしているのであって、その主張は科学によって検証することのできないものです。
また、絶対的真理は倫理の領域には当てはまらないと言う人たちもいます。しかし、「無邪気な子どもを苦しめ殺害することは道徳的か」という問いに対する回答は絶対的、且つ普遍的な「否」です。もしくは、問題をもっと身近なものにすると、道徳に関して相対的真理を信奉する人たちも、常に、彼らの配偶者が自分に絶対に誠実であることを望んでいるように見受けられます。
真理はなぜ重要なのか
なぜ、人生のすべての領域(信仰と宗教を含む)において、絶対的真理という概念を理解し、受け入れることがそんなに重要なのでしょうか。単純に、人生においては間違いにはその成り行きが伴うからです。誰かに誤った分量の薬を与えればその人は死んでしまうかもしれません。投資マネージャーに財政上の決断を誤らせれば、家族に貧困をもたらすかもしれません。間違った飛行機に搭乗すれば、あなたが行きたくない場所に行き着くことでしょう。そして不誠実な結婚相手を持つと、家族の崩壊や、果たしては病気に至る可能性もあります。
キリスト教護教論者のラヴィ・ザカリアスが言うように、「事実、真理は重要なのです。特に、私たちが嘘をつかれている場合には。」そして、このことは何よりも信仰や宗教の領域において最も重要なのです。永遠というのは、間違いを犯すにはひどく長い時間なのです。
神と真理
イエスの六回の裁判の間に真理(義)と偽り(不義)の間にあった対比は間違えようのないものでした。真理であるイエスはそこに立ち、そのすべての行いが嘘にまみれた者たちによって裁かれていました。ユダヤの指導者たちは、不当な有罪判決から被告を守るために策定されていた法律のほとんどすべてを破りました。彼らは躍起になってイエスを有罪とする証言を見つけようとしましたが、業を煮やし、偽りの証言に頼りました。しかし、それでも彼らは目的を達成することができず、また別の法律を破り、無理やりイエスに自らを関与させたのでした。
ピラトの前に出ると、ユダヤ人指導者たちは再び嘘をつきました。彼らはイエスを冒涜の罪で告発しましたが、それがピラトにイエスを殺させるのには不十分であることを知っていたので、彼らはイエスがカエザルに挑戦し、群衆に税金を支払わせないように促してローマの法律を破っていると申し立てました。ピラトは速やかに彼らの表面的な欺きを見抜き、その容疑には一切触れもしませんでした。
義であったイエスが不義な者たちによって裁かれていたのです。悲しいことに、後者は常に前者を迫害します。そのためにカインはアベルを殺したのです。真理と義、また偽りと不義の間の関連は、新約聖書中の多くの例によって示されています。
• 「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです」(テサロニケ人への手紙 第二 2:11-12下線引用者)。
• 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(ローマ人への手紙 1:18下線引用者)。
•「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ローマ人への手紙 2:6-8下線引用者)。
• 「[愛は]礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(コリント人への手紙 第一13:5-6下線引用者)。
結論
ポンテオ・ピラトが何世紀も前に尋ねた問いは、完全に正確なものとするために言い換える必要があります。「真理とは何か」というローマ総督の発言は、多くのものごとには真理を有することができるが、実際に真理でありえるものはただ一つしかないという事実を見逃しています。真理には、どこかに起源がなければなりません。
純然たる現実であるのは、二千年以上前のあの日の早朝に、ピラトがすべての真理の源を直視していたということです。逮捕されてその総督のもとに連れて来られる少し前に、イエスは「わたしが真理である」(ヨハネの福音書 14:6)と単純に述べていました。これはいささか信じられないような発言でした。ただの人間がどうして真理でありえるでしょうか。彼が人間以上のものでない限り、それはありえないことでした。そして実際に、彼は自らのことを人間以上のものであると主張していたのです。実際に、イエスが死者の中から復活されたとき、その主張の正当性は立証されたのでした(ローマ人への手紙 1:4)。
パリに住んでいたある男性の話があります。彼には田舎から初めて彼に会いに来た人がいました。その客にパリの壮麗さを見せたくて、彼はその人をルーブル美術館に連れて行って優れた芸術を見せ、それから壮大なオーケストラホールでのコンサートに連れて行って素晴らしい交響楽団の演奏を聴かせました。その日の終わりに、田舎から来た客はその芸術も音楽も特には彼の気に入らなかったと言いました。それに対して男性は言いました。「 彼らが試されているわけではないのだよ。試されているのは君なんだ。」ピラトやユダヤ人指導者たちは自分たちがキリストを裁いていると思っていました。ところが、現実には、裁かれていたのは彼らの方だったのです。 その上、彼らが有罪としたお方が、いつか彼らを実際に裁くことになるのです。彼は、不義をもって真理をはばんでいる者たちみなを裁くことになるのですから。
明らかにピラトは真理を知ることはありませんでした。歴史家でありカイゼリアの司教でもあったユーセビウスは、ピラトが最終的にカリグラ帝の治世中に自殺をしたと記録しています。これは悲しい結末であり、真理を無視すれば必ず望ましくない結果になることを私たちに思い知らせています。
転載:https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-what-is-truth.html
答え: およそ二千年前に、真理は裁判にかけられ、偽りに徹している人々によって裁かれました。実際に、真理は24時間以内に六つの裁判にかけられました。そのうちの三つは宗教的なもので、残りの三つは法的なものでした。最終的に、それらの裁判に関わった人たちのうちに「真理とは何か」という問いに答えることのできる人はほとんどいませんでした。
逮捕されると、真理はまずアンナスという名の、ユダヤの腐敗した元大祭司のもとに連れて行かれました。アンナスはその裁判中、自宅でその裁判を開いたり、被告から自己告発を誘導しようとしたり、その時点では全く有罪とは認められていなかった被告を打つなど、ユダヤの法律をいくつも破りました。アンナスの次に、真理はアンナスの娘むこであった当時の大祭司カヤパのもとに連れて行かれました。カヤパとユダヤ最高評議会の前に、多くの偽の目撃者たちが進み出て真理を非難しましたが、何一つ証明されず、いかなる不正行為の証拠も見つけられませんでした。カヤパは真理に有罪を宣告しようとして、少なくとも7つの法律を破りました。(1)その裁判は秘密裏に開かれました。 (2)それは夜間に執り行われました。(3)それには贈収賄が関わっていました 。(4)被告には彼を弁護する人が一人もいませんでした。(5)二人か三人の証言の必要条件を満たすことができませんでした。(6)彼らは被告に対して自らを有罪に追い込むような供述を用いました。(7)彼らは同日中に被告に対する死刑を実行しました。これらの行為はすべてユダヤの法律によって禁じられていました。とにもかくにも、カヤパは真理を有罪と宣告しました。真理が受肉した神であると自称したからであり、カヤパはそれを冒涜であるとしたのです。
朝になると、真理の三つ目の裁判が執り行われ、その結果、ユダヤ最高評議会は真理が死に値すると宣告しました。ところが、ユダヤ評議会には死刑を実行する法的権利がなかったので、彼らは真理を当時のローマ総督であったポンテオ・ピラトという男のところに連れて行かざるを得ませんでした。ピラトはティベリウスによってユダヤの第5代総督として任命され、紀元26年から36年までその務めを果たしました。代理長官として、彼には生殺与奪の権利があり、最高評議会によって可決された死刑宣告を覆すことが可能でした。真理がピラトの前に立つと、彼に対してさらなる偽りの申し立てがなされました。彼に敵対する者たちは「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」と言いました(ルカの福音書 23:2)。真理は皆に税金を支払うようにと命じていた(マタイの福音書 22:21)のであり、自身がカイザルに挑戦する者であるとは一度も言っていなかったのですから、それは偽りでした。
この後、真理とピラトの間で大変に興味深い会話が持たれました。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』イエスは答えられた。『あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。』ピラトは答えた。『私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。』イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか』」(ヨハネの福音書 18:33-38)。
「真理とは何ですか」というピラトの問いは、歴史を通して繰り返し発せられてきました。 それは、誰も彼に告げることのできなかったことを知りたいという物憂い願望だったのでしょうか、冷笑的な侮辱行為だったのでしょうか、あるいは、もしかするとイエスの言葉に対する無関心で苛立ちのこもった返答だったのでしょうか。
真理を知ることは不可能であるとするポストモダンの世界において、この問いに答えることはこれまでになく重要なこととなっています。 真理とは何か?
提案されていえる真理の定義
真理を定義するにあたっては、まず真理がどういうものでないのかを特筆することが役に立ちます。
• ただ何であれうまく機能するものが真理なのではありません。それは目的対手段型のアプローチをする実用主義の哲学です。現実には、嘘が「うまく働く」ように見えることがあっても、それはやはり嘘であって真理ではないのです。
• ただ理路整然としていたり、理解できるものが真理なのではありません。ある一団が集まって一定のうそを基に陰謀を形成して、皆が一致して偽りの話を語ることに同意しても、それで彼らの説明が真理になることはありません。
• 人々を良い気分にさせるものが真理なのではありません。残念ながら、悪い知らせが真実であることがあります。
• 大多数の人たちが本当だと言うことが真理なのではありません。ある集団内の51%の人たちが誤った結論に達することもあります。
• 包括的なものが真理なのではありません。長々しく詳細にわたる説明でも間違った結論に終わってしまうこともあります。
• 真理は意図によって定義されるものではありません。善意でも間違っていることがあります。
• 真理とは私たちがいかにして知るかではありません。真理は私たちが何を知っているかなのです。
• ただ信じられていることが真理なのではありません。信じられている嘘はやはり嘘なのです。
• 公的に証明されていることが真理なのではありません。真実は内密に知られうるのです(例 埋められた宝の位置)。
「真理」という意味のギリシャ語はアレーテイア(alētheia)で、字義的には「非隠ぺい」あるいは「何も隠さないこと」という意味があります。それは、真理が常にそばにあり、常に開かれていて誰にでも見ることができ、隠されていることや分かりにくくされていることは何もないという考えを伝えています。ヘブル語で「真理」に当たる言葉はエメト (emeth)で、「堅固」「不変性」「持続」を意味します。そのような定義は永続的な実体や頼ることのできる何かを暗示するものです。
哲学的な視点からみると、真理を定義するには次の三つの単純な方法があります。
1.真理は現実と一致するものである。
2.真理はその目的に合致するものである。
3.真理とは単純に事実をありのままに述べるものである。
まず初めに、真理は事実に一致します。それは現実なのです。真理はまた事実上一致するものです。別の言い方をすれば、それはその対象に合致し、その指示物によって知られています。例として、クラスの生徒たちに顔を向けている教師が「この教室の出口はたった一つだけ右側にある」と言ったとします。その教師に向かい合っている生徒たちにとってはその出口は彼らの左側にあるかもしれません。しかし、その教師にとっては、出口が右側にあるというのは絶対に本当なのです。
真理はその目的に合致します。ある人には何ミリグラムか必要な薬でも、望ましい効果を得るためにはその同じ薬が別の人にはもっと必要であるかもしれないし、あるいはそれほど必要でないかもしれないということが、絶対的真理であるかもしれません。これは相対的な真理ではなく、ただ真理がいかにその目的に合致するかの例えを示すものです。患者が医者に不適当な量の薬を要求したり、自分たちの特定の疾患のために使う薬は何でもいいと言うことは、間違った(そしてもしかすると危険でもある)ことです。
要するに、真理とは単に事実をあるがままに語ることです。それはものごとの実際のありさまであり、他のいかなる見解も誤りなのです。哲学の根本原則は、真理と誤りとを識別することができることです。すなわち、トマス・アクィナスが述べたように「区別をするのは哲学者の仕事」なのです。
真理に対する異議
アクィナスの発言は今日ではあまり人気のあるものではありません。ポストモダンの相対主義の時代にあって、区別をつけることは時代遅れであるようです。「これは真実だ」と言う発言は、今日でも、それが「よってそれは誤りである」という発言に続かないかぎりは受け入れられます。これが特に目につくのは、真理に関してはいかなる信念体系も対等であると想定されている、信仰や宗教の問題においてです。
真理という概念に異議を唱える哲理や世界観は数多くありますが、それぞれをじっくり分析するとそれが本質的に自滅的なものであることが分かります。
相対主義の哲理は、すべての真理が相対的であり、絶対的真理というようなものは存在しないとします。しかし、問わねばなりません。「すべての真理は相対的である」という主張は相対的真理なのでしょうか、それとも絶対的真理なのでしょうか。それが相対的な真理であるとすれば、それは実際には無意味なものです。私たちには、それがいつどこで適用するのか、どうすれば分かるのでしょうか。もしもそれが絶対的な真理であるならば、絶対的真理が存在することになります。さらに、相対主義者が絶対主義者の見解は間違っていると言う時、その人は自分自身の見解に背いて発言しています。絶対的真理が存在すると言う人たちもまた正しくてもよいのではないでしょうか。突き詰めると、相対主義者が「真理はない」と言う時、彼はあなたに彼のことを信じないよう要請しているのです。そして彼の忠告に従うのが最善なのです。
懐疑主義の哲理に従う人たちは、単純にすべての真理を疑います。ですが、懐疑論者は懐疑主義に対して懐疑的でしょうか。彼は自らの真理の主張を疑うでしょうか。そうだとすれば、何のために懐疑主義に目を向けるのでしょうか。そうでないとすれば、私たちは少なくとも一つのこと(つまり、絶対主義が存在すること)を確信することができます。この場合、皮肉にも懐疑主義が絶対的真理となるからです。不可知論者は、私たちには真理を知ることができないと言います。しかし、その考え方は、少なくとも一つの真理、すなわち私たちには真理を知ることができないという真理を知っていると主張しているのですから、自滅的なものなのです。
ポストモダニズムの信奉者たちはどのような特定の真理をも肯定しません。ポストモダニズムの守護聖人、フリードリヒ・ニーチェは真理を次のように説明しました。「では、真理とは何であろうか。隠喩、隠喩語、擬人化から成る遊動軍... 真理は幻想である... 絵柄を失ってしまい、もはや金属としての価値しかなく、もはや硬貨としての価値のない硬貨。」皮肉なことに、ポストモダニズムの信奉者はその手中に、もはや「ただの金属」でしかない硬貨を握っていながら、少なくとも一つの絶対的真理、つまり、いかなる真理も認められるべきではないという真理を認めているのです。他の世界観と同様、ポストモダニズムは自滅的であり、それ自体の主張によって正しいと認められることができません。
広く受け入れられている世界観に多元論がありますが、それはすべての真理主張が同等に妥当であるとします。もちろん、それは不可能なことです。ある女性が今妊娠しているという主張と彼女は今妊娠していないという主張の両方が同時に真実であり得るでしょうか。多元論は、何かが同時に、同じ意味において、ともに「A」であり「Aでない」ことはあり得ないとする、非矛盾の法則の下で崩壊してしまいます。ある哲学者による気の利いた皮肉のように、非矛盾の法則は真理ではないと信じる(そして、自動的に、多元論が真実であると信じる)者は誰でも、打ちのめされて焼かれるべきです。そうすれば、彼らは打ちのめされて焼かれることが、打ちのめされず焼かれないことと同じではないことを認めるでしょう。また、多元論が、それが真理であり、それに反するものは何でも誤りであるとしていることにも注意してください。それはそれ自体の基礎的な教義を否定する主張なのです。
多元論の背後にある精神は、何でも受け入れようとする寛容の姿勢です。しかしながら、多元論は誰もが同等の価値を持っているという考えと、すべての真理主張が同等に正当であるということとを混同しています。もっと単純に言うと、すべての人々は平等であるかもしれませんが、真理主張のすべてが同等なのではありません。多元論は意見と真実との差異を理解しそこなっています。これは、モーティマー・アドラーが「多元論は、真理に関する領域よりも、むしろ好みに関する領域においてのみ望ましく、また許容される」と特筆している区別です。
真理の不快性
真理という概念が中傷される場合、それはたいてい以下に挙げられた理由のうちの一つあるいは複数のものによります。
信仰や宗教に関して絶対的真理を知っていると主張する人に対する共通の苦情は、そのような姿勢が「狭量」であるというものです。しかしながら、批判家たちには、真理が本来狭いものであるということが理解できていません。2+2は4にしかならないと信じる数学教師は狭量なのでしょうか。
真理に対するもう一つの反論は、ある人が正しくて別の人が誤っていると断言することは傲慢であるというものです。しかし、もう一度先の数学の例に触れるなら、ある算数の問題に対して正しい答えが一つしかないと主張する数学教師は傲慢なのでしょうか。あるいは、鍵師が、施錠されたドアを開けることのできる鍵は一つしかないというのは傲慢なのでしょうか。
信仰や宗教に関して絶対的真理を固守する人たちに対する三つ目の非難は、そのような見解がだれでも受け入れようとするものではなく、むしろ、排他的であるというものです。しかし、そういった苦情は、真理が本質的にその反対のものを除外するものであることを理解していません。4以外の解答はすべて、2+2が何であるかという事実から除外されるのです。
真理に対するさらにもう一つの抗議には、真理を有していると主張することが侮辱的で不和を生じさせるものだというものがあります。批判家たちは、その代わりに、ただ重要なのは誠意なのだと主張します。この見解の問題は、真理は、誠意や信条、また願望の影響を受けることがないことです。私たちが間違った鍵がドアに合うとどれほど本気で信じるかは重要ではありません。その鍵は鍵穴に入らず、ドアは開かないのです。真理は誠実さに影響されることもありません。毒の入った瓶を取り上げて誠実にそれがレモネードであると信じる人は、不運にも毒の作用に苦しむことになります。最後に、真理は願望の影響を受けるものではありません。ある人が自分の車がガス欠でなければよいのにと強く願ったとしても、タンクが空になっていることが燃料計に示され、車がそれ以上走らないなら、どんなに願ったとしても奇跡的にその車を走り続けさせることはできません。
中には、絶対的真理が存在することを認める人たちもいますが、その人たちも、そのような姿勢は科学の領域においてのみ有効なのであり、信仰や宗教に関しては通用しないと主張します。これは論理実証主義と呼ばれる哲学で、デイヴィッド・ヒュームやA.J.エイヤーといった哲学者たちによって広められました。本質的に、そのような人々は、真理主張が(1)トートロジー(例 すべての独身男性は結婚していない男性である)であるか、(2)経験的に証明できるもの(つまり、科学によって検証可能)かのいずれかでなければならないと主張します。論理実証主義者にとっては、神に関する話はみな無意味なものです。
科学だけにしか真理主張をすることができないという観念に固執する人たちが認識しそびれているのは、科学が無効である真理領域が数多くあるということです。以下はその例です。
• 科学には数学と論理の領域を証明することはできません。科学がそれらの領域を前提としているからです。
• 私自身の精神が存在するということ以外には、科学では心理などの形而上的真理を証明することができません。
• 科学には道徳や倫理の領域において真理を提供することができません。例えて言うと、ナチスが邪悪であったことを証明するために科学を用いることはできません。
• 日の出の美しさなど、科学には美的観念に関する真理を言明することができません。
• 最後に、「科学が客観的真理の唯一の供給源である」と誰かが発言する場合、その人はただ哲学的主張をしているのであって、その主張は科学によって検証することのできないものです。
また、絶対的真理は倫理の領域には当てはまらないと言う人たちもいます。しかし、「無邪気な子どもを苦しめ殺害することは道徳的か」という問いに対する回答は絶対的、且つ普遍的な「否」です。もしくは、問題をもっと身近なものにすると、道徳に関して相対的真理を信奉する人たちも、常に、彼らの配偶者が自分に絶対に誠実であることを望んでいるように見受けられます。
真理はなぜ重要なのか
なぜ、人生のすべての領域(信仰と宗教を含む)において、絶対的真理という概念を理解し、受け入れることがそんなに重要なのでしょうか。単純に、人生においては間違いにはその成り行きが伴うからです。誰かに誤った分量の薬を与えればその人は死んでしまうかもしれません。投資マネージャーに財政上の決断を誤らせれば、家族に貧困をもたらすかもしれません。間違った飛行機に搭乗すれば、あなたが行きたくない場所に行き着くことでしょう。そして不誠実な結婚相手を持つと、家族の崩壊や、果たしては病気に至る可能性もあります。
キリスト教護教論者のラヴィ・ザカリアスが言うように、「事実、真理は重要なのです。特に、私たちが嘘をつかれている場合には。」そして、このことは何よりも信仰や宗教の領域において最も重要なのです。永遠というのは、間違いを犯すにはひどく長い時間なのです。
神と真理
イエスの六回の裁判の間に真理(義)と偽り(不義)の間にあった対比は間違えようのないものでした。真理であるイエスはそこに立ち、そのすべての行いが嘘にまみれた者たちによって裁かれていました。ユダヤの指導者たちは、不当な有罪判決から被告を守るために策定されていた法律のほとんどすべてを破りました。彼らは躍起になってイエスを有罪とする証言を見つけようとしましたが、業を煮やし、偽りの証言に頼りました。しかし、それでも彼らは目的を達成することができず、また別の法律を破り、無理やりイエスに自らを関与させたのでした。
ピラトの前に出ると、ユダヤ人指導者たちは再び嘘をつきました。彼らはイエスを冒涜の罪で告発しましたが、それがピラトにイエスを殺させるのには不十分であることを知っていたので、彼らはイエスがカエザルに挑戦し、群衆に税金を支払わせないように促してローマの法律を破っていると申し立てました。ピラトは速やかに彼らの表面的な欺きを見抜き、その容疑には一切触れもしませんでした。
義であったイエスが不義な者たちによって裁かれていたのです。悲しいことに、後者は常に前者を迫害します。そのためにカインはアベルを殺したのです。真理と義、また偽りと不義の間の関連は、新約聖書中の多くの例によって示されています。
• 「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです」(テサロニケ人への手紙 第二 2:11-12下線引用者)。
• 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(ローマ人への手紙 1:18下線引用者)。
•「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ローマ人への手紙 2:6-8下線引用者)。
• 「[愛は]礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(コリント人への手紙 第一13:5-6下線引用者)。
結論
ポンテオ・ピラトが何世紀も前に尋ねた問いは、完全に正確なものとするために言い換える必要があります。「真理とは何か」というローマ総督の発言は、多くのものごとには真理を有することができるが、実際に真理でありえるものはただ一つしかないという事実を見逃しています。真理には、どこかに起源がなければなりません。
純然たる現実であるのは、二千年以上前のあの日の早朝に、ピラトがすべての真理の源を直視していたということです。逮捕されてその総督のもとに連れて来られる少し前に、イエスは「わたしが真理である」(ヨハネの福音書 14:6)と単純に述べていました。これはいささか信じられないような発言でした。ただの人間がどうして真理でありえるでしょうか。彼が人間以上のものでない限り、それはありえないことでした。そして実際に、彼は自らのことを人間以上のものであると主張していたのです。実際に、イエスが死者の中から復活されたとき、その主張の正当性は立証されたのでした(ローマ人への手紙 1:4)。
パリに住んでいたある男性の話があります。彼には田舎から初めて彼に会いに来た人がいました。その客にパリの壮麗さを見せたくて、彼はその人をルーブル美術館に連れて行って優れた芸術を見せ、それから壮大なオーケストラホールでのコンサートに連れて行って素晴らしい交響楽団の演奏を聴かせました。その日の終わりに、田舎から来た客はその芸術も音楽も特には彼の気に入らなかったと言いました。それに対して男性は言いました。「 彼らが試されているわけではないのだよ。試されているのは君なんだ。」ピラトやユダヤ人指導者たちは自分たちがキリストを裁いていると思っていました。ところが、現実には、裁かれていたのは彼らの方だったのです。 その上、彼らが有罪としたお方が、いつか彼らを実際に裁くことになるのです。彼は、不義をもって真理をはばんでいる者たちみなを裁くことになるのですから。
明らかにピラトは真理を知ることはありませんでした。歴史家でありカイゼリアの司教でもあったユーセビウスは、ピラトが最終的にカリグラ帝の治世中に自殺をしたと記録しています。これは悲しい結末であり、真理を無視すれば必ず望ましくない結果になることを私たちに思い知らせています。