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道の淵源~達摩大師伝(7)

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 ※前回の(8)と順序が入れ違いになりました。お詫びして訂正いたします。

七.大師、慧可(神光)に法義を論す

 大師は慧可(えか)に対し、如来の正法眼蔵(しょうほうげんぞう)・微妙法門(びみょうほうもん)・実相無相(じっそうむそう)・教化別傳(きょうげべつでん)・不立文字(ふりゅうもじ)の法を以心傳心(いしんでんしん)によって授け、得道の後次の偈(げ)を慧可に示されました。

「有情なれば来たりて種を蒔く、地に因って果は自から生ず。

 無情なれば必ず種も無し、地無くばまた生ずることもなし」

 これを説き終わった大師は、再び坐行に入られました。慧可は語下に大徹悟し、初めて性は悟ることを要し、命は傳えることを要すべきことを知り、これこそ眞に上上一条の妙諦であることが分かり、即座に頂礼して謝恩しました。拝し終って慧可は頭を挙げ

「師の御慈悲を乞い、御指示を賜らんことを」

 大師は、眼を開けて慧可を見詰めました。

「先程、師は左旁(さぼう)のことに触れられましたが、これについて明らかな御指示を願います」

「道には三千六百の旁門、七十二種の左道がある。故にこれらを総称して左旁と言う。これらは全て術・流・動・静(じょう)を為す四果の門である。只わが一貫先天の大道のみが、三教を合一する不二の法門である」

(一)術・流・動・静の理について

「何をもって術・流・動・静を四果の旁門と仰せられますか」

「術とは法術の事である。およそ符を書き、咒(じゅ)を誦え霧に駕し、雲に騰(の)り、空を飛び、虚空を歩く。あるいは星を踏み、斗(と。星座)を歩(わた)り、雷を呼び、将を遣わし豆を撒じて兵となし、木火土金水の五行を借りて五遁の変化をなし、象(しょう)を降して陰に走るなど七十二種の法術がある。しかし、いずれによっても超生了死(ちょうせいりょうし)はできない。これは、全て正しいことではない。

 流とは、週流である。雲に遊び、天涯(てんがい)に至り、山を朝(おが)み、佛像を礼す。十方を募り化し、寺を修(おこ)し、塔を建て、星相を卜し、人病を医(なお)し、数を算(かぞ)えて吉凶を推測す。よく過去・未来の吉凶・禍福を知り霊験新たかなること神の如し。これらには九流三教がある。諸子百家は口頭三昧一切の流道に従うが、いずれによっても超生了死はできない。これは、全て正しいことではない。

 動とは行動である。およそ八段錦を習い、運を搬(はこ)んで吐納(呼吸を整える)す。掌(てのひら)を擦り、拳(こぶし)を撫でる。背を晒して反睛(はんもく)し、霧を食し、気を服し、薬(やく)を採って丹を煉り、乳(にゅう)を服用して精を飲む。立ち坐り歩き走るの運気の功、および一切の動作行為は有形の道であり、結局は超生了死することはできない。これらはまた、全て正しいことではない。

 静とは寂静(じゃくじょう)である。およそ菴(いおり)に隠れ、洞窟に蔵(ひそ)み、静坐して空を観じ、息を数えて念を止め、殻を避けて形を煉る。あるいは泥丸(でいがん。竅の一、以下同じ)を守し、あるいは尾閭(びりょ)を守し、あるいは穀道(こくどう)を守し、臍輪(せいりん)を守す。ある者は眼は鼻を観、鼻は心を観る。血心をもって黄庭と為し、肝臓・肺臓をもって龍虎と為す。心臓・腎臓をもって坎離(かんり。水火)となす。ある者は両乳の中(あいだ)を守り、ある者は性を修めて命を修めず。ある者は命を修めて性を修めず。一切は陽寡(すく)なく、陰孤独にして妄修瞎練(もうしゅうかつれん)の道である。いずれによっても超生了死はできない。これは、また全て正しいことではない。

 更に寃(つみ)の深い孼(げつ。罪)の重い人らは、例え大道に入っても天命を知らないから少しも心を低くしないであろう。少しでも自分に糸ほどの功があると自らを能とし、師と称して祖となる。自分で別の門派を立て一戸を構え、世を欺き人々を哄(だま)す。このような罪は莫大である。どうして超昇することができようか。これらもまた、正しくないことである。

 以上四つの事を四果の旁門と言う。汝はよくこれに勉め、願によって行わなければならない」

 慧可は平伏して、師の論理に感じ入っていました。

「左道旁門は人々の生と死を悞(あやま)らせるもので、その罪は極めて重く、弟子は今日初めて過ちを知りました。必ず改め、敢えて濫りに行ないません。どうぞ師父様、私に入道の路經(天道に入る道筋)は如何にして手を下すべきか、その始まりと重き所をどこに置くべきか、明らかに分析して御指示頂きとうございます」

「よく聞いてくれた。さすがに四十九年間の修行をしてきただけあって、着眼がよい。道に入るには、必ず皈(き)に遵(したが)い戒(かい)を守ることがその手始めである。一貫の道は、玄関を指(さ)されることがまず最初である。さらに一・三・五の数に重きを置き、九転の煉丹を脚場(あしば)としなければならない」

「それは三教合一のことですか」

「三教は二つもなく分けられないが、分けたのは人間である。分けた事自体が間違いで、当然三教合一の理を明らかにし、一・三・五の数を行なうことが大切である」

「一・三・五の数とは何でしょうか」

(二)一・三・五の数について

「一とは一貫である。

三教は一に合一する。人身で言えば、萬殊が根に帰るところから一竅となす。故に、

道教では、元を抱いて一を守るを旨となし、

(感応。抱元守一。修身練性)

佛教では、萬法を一に帰するを旨となし、

(慈悲。萬法帰一。明心見性)

儒教では、中を執りて一を貫くを旨となす。

(仁愛。執中貫一。存心養性)

 三教とも一に帰すことを説いている。これによって、全て同じ道から来たことが分かる。

 易では『天は一をもって水を生じ(気学では一白水性という)、水は坎に属す』とある。眞陽は中に陥ちて本に帰すことはできない。明らかに一竅を得れば離汞(りこう)を運んで灌漑となし、坎鉛をして上昇せしめる。水火既済すれば先天に還る。必ずや一身の元気を収めて一性の中に帰せば一粒の粟米(眞丹)が結成される。この工夫には一心不二を要し、切に雑念による耗散を忌み嫌うべきである。

 三とは三家である。

 一つの本性は三つに分けられる。すなわち、人身の精気神である。これを人身の三寶と言う。

 道教に三清、佛教に三皈、儒教に三綱があり、法は三つに分けられるが、理は一つである。

 天は三をもって木を生じ(気学では三碧木性という)、木は震に属す。眞陽が下に潜んでいるので本に返ることができない。ここに明らかに一竅を得れば西舎の郎(おとこ)を呼び寄せ鼓舞させて東家の女児(おんな)をして歓會せしめる。これは金木が並び合して先天に還るのである。必ず精気神の三家の眞寶を収めて一性の中に帰し、三花聚頂(さんかしゅうちょう。精気神の三家が三関九竅(人身の背骨に沿ってある尾閭関・夾脊関・玉枕関とそれぞれの周辺にある竅の総称)を經て泥丸宮、崑崙頂に聚り玄関に下ること)の工夫を煉成して三帰を清浄にする必要がある。切に三厭(さんえん。禽獣虫魚すなわち空を飛ぶもの、地を走るもの、水に潜るものといった畜生三種類の総称)をもって穢れ散ずるを忌み嫌わなければならない。

 五とは五元である。

 人身では心・肝・脾・肺・腎の五臓に当たる。故に五行があり、佛教に五戒があり、儒教に五常がある。いずれも同じくこの道である。

 天は五をもって土を生ず(気学では五黄土性という)。これは中央戊己(つちのえ・つちのと)である。これを上下に散ずれば本の位に還ることはできない。明師の明らかな一竅を得れば、呼吸を整え運び、戊をもって己に付かせる。戊己の二土をもって刀圭(丹薬)を結成し先天に還る。必ず五臓の精華を収めて一性の中に帰し、五気朝元(ごきちょうげん。五気は五臓の気、濁気を変じて清気に返す守玄の工夫)を煉成することである。その工夫は五戒を精厳に守すると共に、切に五葷(ごくん。三厭と共に食することが五臓に害を及ぼすとされる葱類の総称)をもって冲散させるのを忌み嫌わなければならない」

 慧可は感激の涙を流して、一句も聞き漏らすまいとしました。大師の言葉の終るのを待って

「師よ、五葷は如何なる弊害をなすものでしょうか、お教え願います」

 大師は偈をもってこれに答えられました。すなわち

「この五葷は、草の将軍であり気味凶険なり。

葱(ねぎ)・蒜(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・興渠(あさつき)等の性質は各々偏る。

葱を食せば腎臓が傷付けられ、水気を外に駆逐する。

蒜を食せば心臓が傷付けられ、火気を湮滅する。

韮を食せば肝臓が傷付けられ、木気が把われ消散し尽くす。

薤を食せば脾臓が傷付けられ、土気が困倦(苦しめ)される。

興渠を食せば肺臓が傷付けられ、金気を冲散する。

これらの五気に傷を受ければ、どうして結丹できよう。修道の人は五葷を戒め、始めて是れ正傳なり。五戒を厳しくし、始めて五気朝元を煉り得るなり」

(三)五戒の理につて

「五戒の理は弟子浅くしか知らず、精詳(つまびらか)ではありません。師の御解明を願います」

 大師は、歌にして

「殺生(せっしょう)を戒めるのは、元来仁徳が本となっているからである。

上天の好生の德を体し、殺を戒め放生(ほうじょう)を勧めるのである。

人は寅の會に東土に生まれ、沈み埋もれて苦しむこと久しい。

人は畜生に転生し、畜生は人に転生し、死んでは生まれ、生まれては死ぬ。長い歳月の間に迷昧する者数知れず、作った業罪は甚だ多い。

人が畜生類を食らえば、畜生もまた人を食らう。情け容赦はしない。

人は、得道して帰天し、極楽浄土で永遠の生を享けるべきである。

過去に造った罪業は未だに償われず、これを消すにも消すことは成らない。

必ず命(いのち)あるものを慈しみ、罪の借財を消し去るようにしなければならない。

そうしない限り、寃孽(えんげつ。つみ)の身を逃れることは叶わない。

殺を戒めなければ、天理の良心を損ない、罪の借りを更に増やすことになる。

佛の慈悲は如何に大であろうとも、罪の借りを免じてくれることは決してない。

寃孽によって玄関を迷わすことになれば、退嬰の心を起こし道を信じなくなる。

せっかくの法縁を無にすれば、再び縁を頂くことは永遠にあり得ない。

何がこのような憂き目に遭わせるのか、よくよく考えるべきである。

天は象(かたち)ある世界を生んだが、罪業が清算されなければ容赦なく劫難(きょうなん)を降す。

世人は皆凶悪にして頑固であるが、そのため禽獣虫魚を傷付けて造った罪は決して軽くない。

上天ラウムは、天律の定めるところにより、已む無く劫運を降下する。

魔王に命じて、全世界に文字通り蜂の群れ(末刧)を一斉に蜂起させる。

人が四生を殺せば四生また人を殺し、それによって始めてこの劫運が解かれる。

修行の人が生命のあるものを殺せば、その罪は十倍になって返ってくる。

儒教の忠恕、佛教の慈悲、道教の感応

この六字を心に留め、自ら範を示して他人(ひと)にも勧めるがよい。

天の心を体し、人の心を動かしてこれを萬象に及ぼすべし。

己れが成道した暁に他を成道に導くことは、決して小さい事ではない。

植物を損傷するのも動物を殺傷するのも、全て罪の定めがある。

空腹を満たすために殺生するなどという事は、とんでもない事である。

殺生の戒めは、理論的根拠が多岐に亘るため全てを論じ尽くすことはできない。

 次に、偸盗(ちゅうとう)の戒めについて明らかに指示しよう。

偸盗を戒めるのは、原来義気を重んずるためである。

偏見を持ち他を害する心を抱くような事のないよう切に望む。

男女平等とは言うものの、男の志は外に向かい、女の志は内に向かう。

己れの業を守って妄(みだ)りに分不相応な物を求めようとしない人は、志ある人と言える。

男も女も、全て端正を学ぶ必要が有る。

妄りに貪るなかれ、妄りに取るなかれ、清廉潔白こそ肝要である。

一根の草、一文の銭、それぞれを受けるのに分というものがある。

一縷の糸、一条の線といえども、それぞれに持ち主がいる。

物を買うにも物を売るにも、公正を旨とすべきである。

人の財物を哄(だま)せば、遅かれ早かれ罪に問われることになる。

金銀が山と積まれているのを見ても、気に掛けることはない。

それが手の届く所にあり、目に止まったとしても決して心を動かされてはならない。

たとえ手に入れてよい場合でも、やり方がいい加減であったり、数を誤魔化すような事があったりしてはならない。

もし不法に金品を取ったりすれば、義に反し、聖人に背くことになる。

佛門に入って大道を修めようとするなら、戒律を守り、心を清浄に保つことが肝要である。

德の少ない小人とは異なり、全て慎重に事を運ばなければならない。

俗世間では物情騒然としており、誰一人として金品・財産を貪るのに汲々としていない者はない。

目を閉じて、上等・中等・下等の各人品の差異に想いを馳せてみるがよい。

ほとんどが迷いに陥って勘定高くなり、一人として気心を通じ合える者が居ない有様である。

天の良心に違(たが)うのは盗賊だけだと言ってはいけない。

盗人(ぬすっと)とまで行かないまでも、金儲けを夢見ない者はない。

俗人は利に敏(さと)いものが多いなどと説いてはならない。

修行の人でも、利を見て心を動かされることがある。

財という字は、魂を動かす元凶と見るがよい。

これから以後、戒めを厳守すれば、生死を超脱することができよう。

修行の人は、常に功徳を積み重ねるよう努めるべきである。

少しも貪ることなく、悪に染まらぬよう心掛け性眞を涵養すべきである。

一旦功成れば、持て余すほどの金銀財宝を身に帯びることになるであろう。

聖飯を食し、聖衣を着て、快く時の流れを楽しむことができる。

 邪淫を戒めるのは、原来礼節を本とするためである。

常に節度を守り、決して欲念を生じさせてはならない。男は貞を旨とし、女は潔きを守り、意馬心猿(いばしんえん。心意)の乱れを抑えるべし。

当に廉恥の心を玄関に保つべし。

心は口に問い、口は心に問い、自ら厳しく、自ら慎むべし。

俗人と同じような情に走らず、その芽となり根となるものを切り取るべし。

天地の間に雌雄混媾するのは禽獣のみである。

羞恥を省みない醜い行為は聞くに堪えない。

人は、萬物の霊長として、廉節を厳しくせよ。

若し倫理に背けば、人といえども禽獣と異なるところはない。

柳下恵(魯の国の獄官の長。廉節を重んじ、よく正道を守った人)は全てに乱れざることを心掛け、独り天の良心を守り通した。

魯の男子、門戸を閉ざし、この美情に目を背けた。

大道に進む人は、皆尽く仙佛の縁を頂く分あり。

ラウムの皇胎子(児等)は九六の原人(万人・万民)である。

寅の會より東土に生まれて正に六萬年。

張の男と生まれ、李家の女と生まれ転々として停(とど)まるところを知らず。

三期白陽期に至り、普渡開かれて原人本に返る。

九六家に転じ帰り、共にラウムを看る必要あり。

修行の人、骨親を想い、共に霊山の脈運あり。

本来全てはラウムの児、何らの情を挟む要なし。

既に修行している人ならば、淫欲を一刀の下に断つべし。

かの西施に勝る美貌の持ち主であっても、景に対して情を忘れよ。

常に畏れ懼(おのの)くこと虎狼蛇蝎に対するように、また深い淵に臨むように、あるいは薄い氷を踏むときのように戦々恐々たれ。

微に入り細に亘って戒め余すところ無ければ、佛仙になることも容易に掌中に収められる。

淫は凡ゆる魔の中の首魔であって、道を誤る総病ともいうべきものである。

口先ばかりで心や体が付いて来ない者がいる。

言うこと為すこと姿かたちから判断すれば道を悟った人のようであるが、心の中を見れば、穴倉に潜む畜生同然である。

男も女も、心の中を模索して自問自答してみるがよい。

現実を直視すれば、道を踏み破るのは全て邪淫が原因であると推察される。

生まれてから死ぬまで、色事に明け暮れる夢から覚めることがない。

醒めても未だ覚らず、覚っても未だ醒めず。昏々沈々とし、

ただ損なうばかりで屍は山の如く、遺骨は嶺の如く堆(うずたか)く積もるのみ。

仙佛の根が塵界に沈むのを見るのは実に痛ましい限りである。

大志ある人、一念発起するときは、鉄石の如く志を堅固に保つべし。

空なる塵界にあっても、形象は恒(つね)に在ることを忘れるべからず。

長く修行して志を固く保持すれば、無人・無我の境地に達して四相(我相・人相・衆生相・寿者相)は全て浄化される。

また本来の面目である性体は、圓明に還ることになる。

邪淫の戒めは、児戯ではない。よくよく謹慎すべし。

次いで、酒肉の戒めを分明に略説す。

酒肉を戒むるは原来智慧を本とし、清濁混ぜざるを要とす。

香味を除き、美餚を断ち、濁りを去り身を清浄に保つべし。

切に口腹を貪り、眞性を迷乱するなかれ。

五百の戒めは酒を頭となす。汝軽く看るなかれ。

かの酒は、これ水といえども毒気甚だ激しく、

三杯続けて腹の内に入らば、面(かお)紅(あか)くして心は昏(くら)し。

飲し酔えば瘋癲(ふうてん)の如く迷いて醒めず。

廉恥を喪(うしな)い、徳行を失い暴気凶横となる。

かの時は、諸々の親族知人を問わず。

口を開けば罵り、手を挙げれば打ち、卑(目下)を虐げ、尊(目上)を慢(あなど)る。

また高き低きを省みず、性命の生死を考えず。

天を包む禍いを起すも法は情を容れず。

酒醒め来たりて、遂に後悔するも、また遅れること甚し。

早く志を立て、酒を唇に浸すことを止めるべきである。

禹王に倣い、酒を嗜むを憎み、善言をこれ好しとす。

酒嗜まざれば乱れることなく、至聖心に存す。

况(いわ)んや酒は、これ腸を穿つ毒にして、三寶を損傷するなり。

国が敗れ、家を亡ぼすことあり。禍いを招く総根なり。

俗人達もまた将にこれを戒め懍(おそ)れ慎むを要す。

清皈(規律)を守り志を立てて修行する人がこの戒めを破ることあらば、誠に由由しき問題である。

甜酒(あまざけ)を飲むのは厳しく禁じられていないなどと説くなかれ。

このような念いを断ち切らなければ、また心神を乱すことを免れない。

かの肉(三厭)と五葷は、いずれも美味で上等な飲食物であると言われても、功あって他を超度することあれば、そのとき始めて少しだけ嗜むことは支障なかろう。

若しもかの寃(つみ)を解く功無ければ、地獄が待っているであろう。

委細は老閻君が来て判断するが、寃八両(約三百グラム)あれば功半斤(同じく約三百グラム)を返すことが要求されるであろう。

肉という字をよく見ると人という字が二つ含まれているが、これはどういうことであろうか。

人が肉を食らえば、人を還す必要がある。これは嘘偽りではない。

人は天地の清気を稟受して性となる。

かの畜物は天地の濁気を稟(う)けて生まる。

既に道を悟った以上、その濁気を尽く去る必要がある。

濁気を除けば、始めて悟り得て清気上昇せん。

 第五に妄語を戒め、信実を本と為すを要す。

人に會えば、切に虚(いつわ)りの情を言談すべからず。

言に典あり、行に則あり、忠信篤敬たるべし。

来たりし時清く、一概に言を飾りて論を巧みにす。

風雨(問題・事件)を招き、衆人を妄哄(まどわ)す。

東に好(よし)と説き、西に歹(あしき)と説き、好歹を説き尽す。

姿は慈悲にして心は毒悪、口は佛にして心は蛇の如し。

舌は刀の如く人を殺して逃れる所なし。

意は剣に似て人を斬り、労少分離せしむ。

ただ図るは他(かれ)、飽煖(まんぞく)を得て始めて安穏なり。

何故人は苦甜(苦楽)に會うのを全く尋ねようと想わないのか。

現世で棘のある言葉を巧みに操り人を傷付けたりすれば、地獄に帰ったとき心臓や肝臓を割かれ、間違いなく舌を抜かれるであろう。

修行の人は、妄言を吐くようなことをせず、言に信を置くべきである。

まさに美辞麗句を全て排除すべし。

人に會って講ずるときは、孝・悌・忠・信・禮・義を談じ、廉・恥を述べ、民人を善化すべし。

逆らう者には孝を勧め、淫(おぼ)れる者には貞を勧め、邪(よこしま)の人には正を勧め、愚かな者には賢を勧め、悪なる者を善に化し、人心を挽(すく)い転(かえ)すべし。

一方毎によく人々を勧めて信に遵い、邪匪無く凶横無ければ、自ずから清平(太平)を見る。

天と地および萬物は信によるを本と為す。

若し信無ければ、何処の世界に人倫ありや。

天に信ありて日月星、斗柄(北斗七星の柄の部分に相当する三星)に信じ従う。

地に信ありて水火風、崑崙に信じ運ぶ。

年に信ありて四時(四季)に温・涼・寒・熱あり。

月に信ありて朔(ついたち)望(十五日)に逢えば分毫の差あらず。

日に信ありて十二時、子午準を為す。

時に信ありて毎一時に八刻五分あり。

卦に信ありて乾と坤は坎離を定めとなす。

信は土に属し、五常を貫き、五行に一貫す。

天、地に合せば、年月日は信によりて運化す。

かの萬物と民人、信に応じて生ずる所なり。

生ずれば化し、化すれば生ずるも各々一信あり。

もし信無ければ化するも化せず、生ずるもまた生ぜず。

この五戒を精厳する必要あり、五行と並び合すべし。

更に必要なるは、三花を頂に聚(あつ)め三厭を排除して人身を浄化すべし」

(四)三厭と三皈の理について

慧可「では三厭とは何ですか、師に明らかに御指示を願い上げます」

 大師は詩に託して

「この厭の字は、その昔倉頡(そうきつ)聖が造ったものであって、明らかに鑑(かがみ)とすべきものである。まさに日の字を四陰の中間に安んじてあり、上の横線は陰であって下の月も陰、左の撇(おおい)も右の犬も陰である。これは日月を食らい尽くす故に天狗(てんぐ)と名付ける。

かの三厭は三花を削る、原(もと)より三件に属す。飛禽の身は横(水平方向)に飛ぶ、天厭の根元である。走獣は身を横に走らせる。これを地厭と名付ける。水厭と名付けられる水族は水の間を横に泳ぐ。修行の人は、純陽を煉り陰気を犯してはならない。

かの五穀(米・麦・黍・粟・豆など五種類の穀物)は身直長であって、地に立ち天を頂く。そもそも三厭は幻体(一種の霊体)に属し、これを食すること自体惨めなことになると知るべきである。三花を煉り、三皈を守ってこそ始めて眞傳と言える」

 慧可は言葉を続けて

「この弟子は、三皈の理についてはその大概を存じておりますが、未だ詳しくは明らかではありません。更に詳しく御指示をお願いします」

 大師は、また歌にして言いました。

「佛に帰依するには慈悲を発(おこ)し、常に清浄であるべし。

勤めて本来の面目と無字眞經(むじしんきょう)を参悟すべし。

那(か)の富(ふ)と貴(き)の世俗の浮景を貪(むさぼ)らず。

那の恩と愛の紅塵の美情に恋(れん)することなし。

まさに酒色と財気を一刀のもとに斬り尽くし、

一人の大丈夫を学び、凡塵を超出すべし。

人、我を打たば手を還さず、彌陀を念じ定め、

人、我を罵らば口を還さず、哈哈(はっは)と声を連ぬべし。

他(彼)、我を害せば唯(ただ)当(まさ)に他を把(と)りて我敬い、

我を嫉妬せば我唯当に我に情ありとすべし。

我を誹謗せば我ただ良言をもちて相敬い、

我を欺き圧すれば我、額外(ことのほか)に彼を把りて欽(うやま)い尊ぶべし。

人に逢えば善言を談じ、諄々と訓(おし)え告げ、

賢愚を分かち人によりて訓え、機を見て情を生ずべし。

常に古仙佛は、如何なる動静なるかをよく窮究すべし。

佛の行持を学ぶことできずして、どうして超生することできようか。

佛、佛、佛、原来これは塵縁を放り尽したものであって、通常目にする塑像は偶像崇拝の対象に過ぎず、全て有像有形である。

形象あるものは、これ即ち後天の産物であってやがて損壊するものである。

無為の体、太虚に合するならば生死を超越する。

行住坐臥、二六時中方寸(玄関)を離れることなかれ。

観自在は行深くして般若なるゆえ、法輪を転ず。

精は気と化し、気は神と化すという妙義は、口先だけでは論じ難い。

神は虚に還り、虚は無に還る。さすれば性光、霊通が得られる。

眞中に假あり。假中に眞あり。眞如自ら静ならば、

始めて孝行なる児童に数えられ、佛と因を結ぶこととなる。

これ即ち佛に帰依する結果となることを汝に指示しておこう。

ここで再び法に帰依する点について講ずるゆえに、改めてよく聞くが良い。

法に帰依するには点点(規律)を必要とする。法則を紊(みだ)すなかれ。規矩(法規)に循(したが)い礼義を講じ、身心を洗滌すべし。

上、下を待するに慈悲を要し、規によりて示し訓え、

下、上を諌めるに礼によりて行ない、章程(規則)を乱すなかれ。

講道の間に品格を立て、衣冠を正しくする必要あり。

閒(ひま)をみて坐行するときは、泰山の如く黄庭(玄関)を守り定むべし。

神佛堂(天壇)を清潔に保てば、諸佛これを歓び幸いとす。

四時(子・卯・午・酉の刻)に香を捧げるときは敬虔を旨とせよ、然れば性、神明に透らん。

眞經を懐(いだ)き、雑念を除けば神気は並び交わる。

賢良を整え、法度(ほっと)を設け、計り事心に随いて生ず。

道友を見れば、謙遜和気を要し、礼は必ず恭敬を要す。

心低きを学び、気下がるを学び、もって下(しも)の人を慮(おもんばか)れ。

道を談ずる時、嬉笑するなかれ。また、争論すべからず。

先天の道理窮まり無く、各々深浅あり。

驕傲の心、假(いつわ)りに満ちた心を一概に除き尽くし、

奸(よこしま)、貪りの心、詭(あざむ)き、詐(いつわり)の心を九霄(きゅうしょう)の雲に捨て去るべし。

慳吝(けちおしみ)の心、刻薄(残忍・冷酷)の心を乾浄(きれい)に掃除し、嫉妬の心、是非の心、稍(いささ)かも存すべからず。

名利の心、恩愛の心、方寸(すこし)も積むべからず。

酒色の心、財気の心、全て根から除くを要す。

驕り高ぶりの心、執着の心、捨去るを惜しむなかれ。

修行を論ずれば、人・我無く、世界は一人なり。

苦難を畏れず、力勇みて前進し、

一人の鉄石の心を存し、群を抜萃(ぬきで)るべし。

この外(ほか)の法則は、一言にして講じ尽くせず。

再び、将にかの心傳の法、聖となる点を明らかに指差する。

心法と言えば、雷を呼んで応顕するものではない。

また風雨を喚(よ)んで将兵を遣すものでもない。

法、法、法は原(もと)無法、法は即ち自性(じしょう)である。

空、空、空は空に落ちず、空は眞空である。

丹による時、心(人心)を滅して眞息を運び調える要あり。

子午の針は上下に対す。前に降りて後ろに昇る。

鉛は汞に投じ、坎と離は交わり、金木並合す。

三花聚(あつま)り五気朝(かえ)れば聖なる嬰(あかご)を養育す。

一顆(か)の黍米(しょまい)、球を結び凡を脱し聖となる。

仙鶴に跨れば法像顕れ、憂い無く驚きもなし。

これを眞(まこと)なる法則と名付ける。余、今指差し醒ます。

続いて将に那の僧に帰依する事について、略(ほぼ)その情を叙(の)べる。

僧に帰依するとは、即ちかの俗景に恋せざることである。

その心を正し、その意を誠にし、歩を穏やかにして行なうべし。

一個の大丈夫となり、困苦を畏れることなかれ。

塵の垢(よごれ)を把(と)り速やかに洗い了り、生死を悟り透すべし。

道を悟った人は、眞(まこと)と假(いつわ)りの路經を識(し)り透すべし。

是と非、邪と正、好(よし)と歹(あしき)、自ら明らかにすべし。

根無き種は佛法を受けることあっても、心に把柄(とりえ)はない。

道に進むにも、意を専らにせず、徒に虚名に務むのみ。

また、あるいは利息を想い苦(もっぱら)に銭を掙(あらそ)う。

また、あるいは家務(生活)が常に安寧でない事に思いを致し、

また、飢えを怕(おそ)れ、また累を受けることを怕れる。

賬(ちょう。貸し金)を放っても、また回収不能となることを怕れ、

一天天(一日一日)晩に到るまで気忙しく、安静に過す閒なし。

老・幼・子・孫みな心中に懸かり、毎日労碌を受け、

憂心耿々(ゆうしんこうこう。心中不安)とする。

修行をしようと想っても、思いどおりに行かず。打坐念經する時もまた同じ。

これらの人々は、眞に糊塗(曖昧)愚蠢という他ない。

既に悪に浸って下(げ)に居る人に何の誠心があろうか。

そのような人は、僧に帰依する気持ちなど疾うに消え去っていること知る由も無かろう。

恩愛に恋し、家財を貪ることが、僧に皈依(きえ)することになる筈なし。

僧に皈依する事は、身は塵界にあっても心は塵に交わらないという事である。

俗に居るとはいえ俗に累せず。各々一能あり。

二六時中、忙中に閒を作り、騒がしい中にも静を求める。

身は俗にあっても性は天中にあり、少しも俗の情なし。

僧と俗、両条(ふたすじ)の路經は疆界(境界)を分かつべし。

清と濁、分け開かずして、何の功成ることを望むなりや。

賢良に嘱(ことづ)ける。速やかに悟り醒めて回光(えこう。回向)を自ら問うべし。

怎様(いかよう)にすれば、才(まさ)に苦海の深坑を脱すること出来ようや。

内功について論ずれば、僧は即ち眞人の名姓である。

勤めて参悟すれば、才にその中の妙音を明らかにすること能う。

呼吸を運び眞息を調え、玄より出て牝(ひん)に入る。

甘露の水、百脈に潤い、薬苗(甘露)が自然に湧いて出る。

眞陽動けば三関に透り、五頂に転ずるまでに至る。

黄婆が媒証となり、嬰児と生みの母は相親しむ。

蜜綿綿としてその妙は言い難く、楽景は限り無い。

一粒の九曲の珠結ばれ、毫光騰騰とする。

これ三皈修行の人は、平常の事として奉じ行なうべきである。

まさに三寶を一片と煉り、一字の金丹となすべきである」

(五)一の字の精微につて

慧可「只今お教えくださいました一の字の精微の道を詳しく御教示願います」

大師「この一字は、無極の中の一點の霊性である。これは西天の大聖人であって、骨髄の眞經である。東土の衆の萬物と一切の霊蠢を生ずる。三界の中は、概ね一の字によって生成される。

この一の字は天地を安んじ、陰陽両儀を制定する。

陰陽を生じ、男女を生み、人根を制定する。

この一の字は三寶を生じ、三教の綱領たるものである。

三才を統べ、三界を立て、乾坤掌住する。

この一の字は四牲(四生)を生み、四相の位を定める。

四方に通じ、四季を分かち春・夏・秋・冬となる。

この一の字は五穀を生じ、五気を運化する。

五湖ならびに五嶽を生じ、また五行を生ずる。

この一の字は六米(まい)を生じ、六気の性を分ける

六爻(ろくこう)に按じ、六畜を化し、六道に轉輪する。

この一の字は七孔を生じ、また七政を生ずる。

毎一方に七宿を立て、北斗七星とする。

この一の字は八卦を生じ、八大神聖とする。

八方に分かち、八海を制し、八部龍神を生ずる。

この一の字は九江を生じ、九曲珠を定める。

九宮を分かち、九関あり、九転して丹と成す。

この一の字は十方を生じ、十佛定まり掌る。

十方に按じて、また十殿の閻君を下して制する。

この一の字は無極に従う、先天の運化である。千佛ならびに萬祖と無数の眞人を生ずる。星斗と山河を生じ、草木と萬姓を造る。この様に一の字によって発生しないものはない。この一字の玄機蘊妙は説き尽くせない。人、一を得れば萬事畢(おわ)り生死を超える」

大師は吟じ終り、慧可は喜びを禁ずることができません。この一字は先天の大道であり、限りない造化があることを知り、想わず心が明快になり、精神が爽やかになりました。この時忽然として大師の言葉の中に一・三・五の数の道が説かれたのを思い出して、これこそ精微な理であり、自分では河圖(かと。五行の順行、自然無為の道)に帰する天の生数であると、また地の生数に二・四の理があるが、未だ詳しくその義を深く認識することができないのを知って、虔(つつし)んで大師の前に跪き、

「師の御慈悲により、どうぞ弟子に一・三・五の数と、二・四の数について御示し願います」

と求めました。

(六)九六の原理につて

「一・三・五の数は、合して九となる数である。易に、陽は九を用いるとある。二・四の数は、合して六となる。易では、陰には六を用いると言われている。九は陽に属し、軽清の気であって、上に浮かんで天となる。六は陰に属し、重濁の気であって下に凝り固まって地となる。故に修道の君子は濁を去って清を留めなければならない。三教の聖人は、ただ一・三・五を合して九数になる道を用いて、二・四を合して六となる数を用いない。善をなせば天堂に昇り、悪をなせば地獄に墜ちて行くので、その理は明らかである。旁門と正門もまたよく知るべきである」

 慧可は、喜んで更に問いました。

「では、二・四の数はどのようにして分別しますか」

「二とは、心猿意馬である。四とは、眼・耳・鼻・舌の四相である。この心猿意馬と眼・耳・鼻・舌の四を合して六根の働きとなり、六根から六賊が生じ、六塵(六賊・六塵共に天性を穢す色・声・香・味・触・法の総称)となって分出するのである。そして、六道の輪廻がある。即ち人道は二つであって、畜道は四つである。人間の性が母の腹にあって先天の時、母と一気が相通じている。その時、心意は聚(あつま)り會って四相は和合している。ただ一竅があって三寶に通じ、五元が混合して一体となる。動くことはできるが、言うことができない。それが十か月の胎が満つるに及んで、ちょうど瓜が熟して蔕(へた)から落ちるのと同じように、もんどりうって地に落ちる。そして胎中の襖(おう。母腹)を脱して臍帯の根を剪断する時、先天の気は収まり、後天の気が接してくる。何故、産声を挙げるのであろうか。それは、苦海に墜ちて根に帰り難いからである」

「では苦海とは、何を指しているのですか」

「眼・耳・鼻・舌を四大苦海と言う。

 性(たましい)が眼によって耗散すれば、卵生に墜ちる。

 性が耳によって散乱すれば、胎生に墜ちる。

 性が鼻によって散逸すれば、化生に墜ちる。

 性が口によって散失すれば、湿性に墜ちる。

 再び、心意が一動すると六慾が生じる。

六塵を惹起すれば、一片の重濁の気が凝り固まって地獄となる。

人転じて畜生となり、畜生転じて人となり、生まれては死し、死しては生まれ輪廻して停(とど)まらない。故に、人の始まりの性(たましい)は本(もと)善である。『性は相近付き、習性は相遠のくものなり』と言うのはこのことである」

 そうして偈にして言われました。

「帰戒の法語を述べ清(あき)らかにす。爾(なんじ)に一竅の霊明を點ず。

 三心四相を斉しく掃き、十悪八邪を清らかに除くべし。

 三寶を煉って一品となせば、六賊収まり根に帰り来る。

 呼吸一竅を通じて帰し、出入は玄牝の二門にあり。

 これにより苦悩を超脱す。十殿の閻君を怕れる必要があろうか。

 これ神佛の道である。行住坐臥、心に留めおくべし」

 慧可は恐懼感激して

「師の超度を賜わりまして、これに過ぎたる感激はございません。どうぞ弟子の百拝をお受け下さい」

 慧可は大師に謝恩の礼拝を完り、再びとまた口を開いて

「更に師の御慈悲を懇願します。どうぞ三関九竅は何処にあるか、御明示願います」

(七)三関九竅と性命の根源について

「三関九竅(さんかんきゅうきょう)は、尋常な事ではない。これによれば十殿の閻君を避けることができるし、また爻(こう)を抽(ぬ)いて象を換えることができるので小さい事ではない。

 今、爾は初進のところなので思量すべきではない。またこの道を最上乗と名付け、よく凡骨を化して仙眞と為し、眞なる性の一點は三界を超え、十方の萬霊を尽く根に帰らせることができる」

 慧可は師の一句一句が眞髄に深く溶け込んで行くのを感じて、身が固くなる思いがしました。続いて

「性命二字の根元は何処から来たかを、お聞きしたいと存じます。二六時中何処にあって、身を安んずべきかをお教え下さい」

 大師は偈をもって示されました。

「眠る処は山の間、石の島である。僅かな時間で海に飛び空に騰がる。

坐する処は夜でも常に明るい。行く処は海の量のように寛(ゆたか)で宏い。

日月甲子(暦)を運行し、佛道の宗(もと)を証す。

朝(あした)に暮れに、東より昇り西に降る。子午の南北、相通ず。

帰って来ては黄庭(玄関)に安養し、恍惚として妙用窮まり無い。

須(すべから)く心を用いて追取する要あり、意、大きく放鬆(おろそか)にすべきではない」

 大師は続けて

「もし頓(ただち)に三界を超える必要があれば、単(ひとえ)に空中の霹靂を聞くがよい。一點の霊光舎利は、火に焚かれたり水に溺れたりすることがない」

 大師は更に次の偈を記(したた)め

「人身、中華(中土)には最も生まれ難く、眞道と明師は更に逢い難し。

既に人身を得て大道を聞かば、務めて早く煉り超昇すべし」

このように示された後に

「性命とは陰陽である。天にあっては日月となし、地にあっては水火となし、虚空にあっては風雲となし、方にあって南北となし、時にあっては子午となし、

卦爻にあっては坎離となし、人身にあっては性命となす。天に日月無ければ、星斗を懸げることはできない。地に水火無ければ、生霊を養い活かすことができない。虚空に風雲が無ければ、民人は清泰を得ることができない。方角に南北が無ければ、四方はどうして安寧でいられようか。卦爻に坎離が無ければ、水火はどうして昇降することができようか。時刻に子と午が無ければ、どうして昼夜を分別できようか。人間に性命が無ければ、週身全体に主持すべきことが無いことになる。陰陽を離れれば、萬物は何に従(よ)って生ずるか。この事をよく記憶すべきである」

と大師は言われました。

「では、何をもって高明天に配し、博厚地に配すと申しますか」

 大師は即座にこれに答えて

「乾を天となし、坤を地となす。先天に在っては、天は上に位し、地は下に位する。母腹を離れた後、臍帯一度(ひとたび)断ち一声啼(な)き哭(さけ)べば、四相(眼・耳・鼻・舌)は打ち開かれ乾坤は転倒する。その時、乾は中爻の陽を失って離となる。離とは、離れることである。先天の家郷を離れると、何時の日に帰られようか。坤は乾中の陽を得て坎となる。坎とは、陥落のことである。一點の眞陽は、後天の丹田に陥ちて原(もと)に還ることができない。

 博厚とは、重濁の気のことである。まさに離火の中の眞陰を坎に運び送り、眞陽をこれに換えて出し、眞陰を凝り固めて坤を地となすのである。

 博厚高明を極めれば、それは軽清の気である。まさに坎水の眞陽を離に吸昇して眞陰を陽に換えて出し、眞陽を結び乾天となすのである。その高明が極まって天を配し地を配すれば、天地として位が定まり本原に還ることができる。

 天の性は主である。地の命は賓である。人はよく常に清靜であれば、天地ことごとく皆帰す。陰陽合一する程に煉ることができれば、天地の造化に奪われることがなく、天地は我を拘束することもできない。そこで、どうして十殿の閻羅を怕れることがあろうか。四方の霊山路を打ち開けば、逍遥自在を得て古い観音を観ることができる。人あって造化の理を識り得れば、すなわち霊山に上人(ラウム)と會うことができる」

 これを強調するために大師は、更に偈を説かれました。

「腹中に眞經を運ぶ、泥丸は主と賓とに別る。

 霹靂一声響けば、手を撒(はな)して紅塵を脱す」

 慧可はこれを聞いて、「大師様、始めて性命の生死の根元由来を知ることができました」と喜びを禁ずることができず、自分の胸を打って

「私は数十年説法をして参りましたが、未だ曾てこの根源を悟ることができませんでした。そして無駄に歳月を費やしたことが残念に思われてなりません。只今から玄妙の理に覚めることができ、始めて紙の上のお經は全然価値が無いことを知りました」

 大師はこれを聞いて

「經とは經(みちすじ)である。人を入道修行に導く路經である。人が醒め悟ることを望めば、早く師に参じて道を訪れることである。得道の後は經をもって金を考(ため)す石となし、道の眞偽と理の是非を明らかにせねばならない。そして正道と旁門を別け、乱りに人に念じ誦えることを教えるものではない。生死を了らせることを主とし、人に講じ説くには閻君を躱すことを眼目とすべきである。眞經は文字や書紙になく、ただ口傳心授にある。汝は今、眞傳を受けたが、六神が宗(もと)に朝(かえ)ることを知っているであろうか」

 慧可は即座に答えて

「一點を得てより、即ちこれに応ずることができます」

(八)眞經歌と消長の機につて

 大師は頷いて

「神仙の道を既に得たならば、次第に金仙の道に昇れよう。吾に眞經の歌がある故、仔細に明らかに聞くがよい。

眞經歌、眞經歌、眞經を知らざれば、尽く魔に着す。

人々紙上(經典)に文義を尋ぬ、喃々(なんなん。くどくど)誦える者多し。

經呪を持し、法科を念じ、紙上に安排して超脱を望む。

もし、かくの如くして生死を超えること叶えば、遍く地の釋子(しゃくし。佛教人)はみな佛・羅漢となるであろう。

眞經を得れば、洪波(こうは。苦海)を出で、眞經を得ざれば奈何(なかん。地獄)に没す。

眞經の端(極)の処を知る必要があれば、先天の造化以外に特別なものは無い。

順じて行けば死に、逆に来れば活き、往々君に教えることあっても尋ね着すことはない。

眞經は原来一字も無し。されど衆生を度して極楽に登らせること能う。

眞經を求めるならば、道魔のことを知る必要がある。同類を除いて、相和することではない。

天を生じ地を生じ人を生じるために、陰陽造化の窩(か)を捨て難い。

眞經を説けば盈々(えいえい)として笑う。四川の澗庭(かんてい。谷底)に黄金を産出する。

五千四百黄道に帰せば、正に一部の大蔵經文に合す。

日満ち足れば気候升(のぼ)る。地は朝(あした)に応じ、天は星に応ず。

初祖達摩は親しく口で大乗、妙法蓮華の經を授ける。

初三日に正に庚(西)にて、曲江の上に月の華咲き乱れる。

花蕊(かしん)初めて開き、珠の露を含み、虎穴龍潭に濁清を探る。

水は二を生ず。月は正に眞(ただ)しく、もしその三を待てば進むべからず。

壬(みずのえ)水初めに来たり、次いで癸(みずのと)水来たる。須く、まさに急ぎ採取して浮沈を定めるべし。

金の鼎(かなえ)によって煉り、玉爐(ぎょくろ)によって烹(ほう)じ、温々たる文火にて暖め焙々(あぶ)るべし。

眞經ひとたび射れば玄関に透る。ちょうど箭(や)は準じて紅心に中(あた)るに似る。

遍く体は熱し籠蒸(せいろう蒸し)の如く、廻光返照すれば中庭に入る。

一度眞經を得れば酒に酔ったように、呼吸百脈に通じ尽く根に帰す。

精は気に入り、気は神に入り、混沌七日を經て魂また還る。

これら造化の眞なる消息は、料得(さだめし)世上明らかに知る人少なし。

活中に死し死中にまた生きる。古より神仙は眞經に頼る。

これらの造化をよく知り得れば、閻浮世上の人を渡し尽すべし。

大道は太極の先端に居し、父母未生以前に本づく。

人を渡すには、須く眞經を用いて渡せ。もし眞經は何かと問われれば癸これ鉛なり」

 慧可はこれを聞き完り、心中大いに頴悟(えいご。才智充溢)し、即座に拝礼を深くして恩を謝しました。今までに聞いたことも無い奥義を、心一杯に満喫した感でありました。

暫くして慧可は、再び口を開き

「師の御指示を蒙って弟子週天の造化が明らかになりました。ただ消長の機に間断のところがあって、未だ何故かが分かりません。お教えを受けたいと存じます」

 大師は厳かに口を開いて

「心は即ち佛である。佛は即ち心である。無人・無我・無衆生であらねばならない。三心四相を浄らかに掃き、十悪八邪を清浄に除く必要あり。恩愛情慾に少しも染まることなく、貪・瞋・癡・愛も共に生ずべきでない。

子(午後十一時から午前一時まで)午(午前十一時から午後一時まで)卯(午前五時から午前七時まで)酉(午後五時から午後七時まで)の時には、勤めて打坐する要あり。二六時(一日)中、放行散漫してはいけない。閻羅を躱してやり過す必要あり、常に彌陀と古き観音を伴うべきである。先ず自己の無縫の鎖(玄関の一點)を打ち開き、天鼓ひとたび響けば、主人驚き恍惚の間に三界を超える。霹靂一声すれば九淪(苦海)を出る。もし六門を緊(きび)しく閉ざすことなければ、六賊は門外に紛々と乱れる。堂前の主人は混迷されるゆえ、謹んで六賊が門に進むのを防ぐ必要がある。一切の眞なる寶貝を偸盗するのみ。一度主人が慌張(あわてふため)けば、闔(すべて)の家の老幼は安心し難くなり、一身の四体(両手両足)も安寧できなくなる。此れが即ち消長の理である。修行の弟子よ、心を明らかにすること肝要である。

(九)六賊、起・落・動・静等の理につて

慧可は、更に次のように質問しました。

「六賊の一つで、主に反するとは、如何なる消息ですか」

 大師は、これに対して次のように答えられました。

「六賊とは本来心を主とし、大小諸々の魔軍を主持しているのである。心は猿の如く、意は馬の如く、境によって移り、自由奔放に天空を駆け巡ることができて例え天兵天将といえどもこれを制伏し難いが、しかし佛の手から逃れることはできない。当然われわれの本性に帰して正果を成じ、帰一することを要する。全きに観音呪によれば、霊験がある。これは、心を収める巧妙な計りである。知者は容易に悟って、心に留める必要がある。賊の中の意馬は中良の臣であり、本性に皈依して西天に往かねばならない。若し本性に修めて正に帰することができなければ、龍馬は飛騰して人々を駭(さわ)がし殺し、そして天の涯に馳り巡って何人もこれを禁(と)めることができないであろう。これは魔王の総兵である。その中でも眼・耳・鼻・舌は魔の中の将軍であり、いろいろの消息を聞いて四門から迸り出る。貪瞋癡愛は裏に入ってこれを助け、酒色財気は外にあって営(たむろ)する。裏が外に応じて合し、王位を奪い、刀鎗箭戟(とうそうせんげき)は紛々として乱れる。若しこれ一人の眞の明主であるなれば、眞人を拝し請じて共に龍庭に坐るべきである。

観音とラウムは法術を施し、三教の聖人は国々と心を護る。これらの仙佛が、ラウムの無相印を請じて四妖を照し出し、相城より出で更に玉皇(らうむ)の眞なる勅令を請じて六賊を降伏させ主人を護る。その千妖萬怪は斉しく令を聞き、知止定静して天下は平らかになるであろう。八大金剛は緊しく鎖を関隘(くくりし)め、四天王は四門を守る。一切の眞人は常に擁護し、主人は巍巍として蓮心に坐る。ただ天鼓一声響くのを待って主人は、空(くう)に騰(あ)がって天外(理天)に往くであろう」

 一段と深い眞理を聞いて慧可は、一層心が明らかになりましたが、更に大師に伺いました。

「では何を起落動静とし、何を生死の根原といたしますか」

 大師は偈をもって答えました。

「起こる処は江を翻し海を擾(みだ)す。落ちる処は虚空を粉砕す。

 動ずる処は鑰(かぎ)で鎖を開くように、静する処は洪濛を開き破る。

 無相城郭を照見し、不老の主翁を現し出す。

 無生の地上に安眠し、偃月(えんげつ。半月)の爐中に自在す。

 降生は年月を識らず。来歴は終始を知らず。

 乳名を金剛不壊(ふえ)と言い、出入に形踪を見ず。

 爾時(かのとき)、彌陀はここに在り、何ぞ門外に去(ゆ)きて逢うべきや」

慧可「では、どうすれば家に帰って、ラウムに見(まみ)えることができましょうか」

 大師は、また偈に託して

「天に通じ地に達するまでに至れば、木母金公(金木交わる)に見え得る。

 嬰児と生みの母を扶け起し、同(とも)に一双の黄龍に騎(の)る。

 海を越え、山に翻り嶺を過ぎ行き極楽宮中に到る。

 無極ラウムを参拝し、団圓して遍く天宮に慶(よろこ)ぶ」

慧可「その自然の処に参ずるまでに到った時に自己は知っているでしょうか、知っていないでしょうか」

 大師はこれに答えて

「恍たり惚たり。その中に物あり。杳(よう)たり冥(べい)たり。その中に精あり。陰陽を覚(さと)り知るは、無知の人となるを要す。動中の静を知り覚れば、魔必ず侵すを熟知すべし。知ある者は即ち悟り易く、昧(くら)き者は即ち行い難し」

(十)鶏卵乾坤、三界無縫塔等の理について

 慧可は、恐る恐る尋ねました。

「何を鶏卵乾坤と言いますか。先に鶏があったのですか。それとも卵が先ですか」

 大師はこれに対して

「混沌の時は鶏も卵もなく、清濁の二気が混沌として一団となっていた。これが無極の体である。子の時を待って一陽の性が動き清気に感があり、ちょうど卵の中の白味のようなものである。丑の時に二陰の命が動き濁気の霊が通じて、卵の中の黄味のようなものとなる。陰と陽が交感すれば、二気の霊が通ずる。これが、無極から太極を生ずることである。一朝(ひとたび)洪濛が破れて闢(ひら)けば混沌が分出される。これは、太極が陰陽両儀を生ずることである。この時が、卵から鶏が生まれるようなものである。先に卵があって、後に鶏がある。もし、この理が明らかになれば、便(たやす)く天機を識ることができる」

と答えられました。続いて慧可と大師との間に次のような遣り取りが交わされました。

「佛を念ずるのは誰ですか」

「本性である」

「本心を除いたら誰がありましょう」

「霊光の発現である」

「現在は何処で身を安んじていますか」

「現在は当人にある」

「二六時中何処にあって立命をしますか」

「双林樹にある」

「私が今その双林樹を砍(き)り倒せば、何処に身を安んじますか」

「太虚空にある」

「では、その太虚空を撞(つ)き倒せば、再び何処に安心立命(あんじんりゅうめい)を求めるのですか」

「虚空を粉砕すれば、乾坤三界を跳出する」

「三界とは何ですか」

「東土の娑婆世界と、中天の気天界と、先天の無極世界(西天極楽世界)である。このうち先天の無極世界のみが、才(まさ)に男女の老(ふる)い家郷である。東土の衆生は迷昧が多く、悉く娑婆世界に蔵(かく)されている。西方極楽界に回(かえ)ろうと想えば、自性を明らかにしなければ故郷に回り難いであろう」

「西方は何処にありますか」

「十萬八千里を經れば明白な極楽宮に至るが、指をもって破れば西方は眼前にある。笑うべきは、迷える人に路が通じないことである」

「二六時中、何処に帰依すればよいのですか。何經を諷誦(とな)えればよいのですか」

「無縫塔に皈依して、無字經を黙然すればよい。口を開けば神気が散じ、静かに誦えれば法輪が転ずる」

「その無縫塔とは何処にあるのでしょうか」

「自己の眞寶は当人にある。何を好んで外に向かって尋ねる必要があろうか。内に一個の舎利子があり、昼夜を分かたず光明を放つ。無毛の師子は天を徹して飛び、蝦蟇(がま)は樹上で毛衣を披き、死せるものは活きているものに托して走り、蚊蟲の喞(な)きが起きるのを鉈回(だかい)と称する」

「何を三心三會と言いますか」

「眼は過去心であり、燃燈佛の蓮池會(れんちえ)である。耳は現在心であり、釋迦佛の霊山會(りょうざんえ)である。鼻は未来心であり、彌勒佛の安養會(あんようえ)である」

「三千大千世界とは如何なるものですか」

「過去佛は、天下紅粉世界を管理し、現在佛は、天下娑婆世界を管理し、未来佛は天下清淡世界を管理する」

 大師は、更に偈をもって唱えられました。

「銅鉄の児は幾春秋、無窮無尽にして何の時にか休む。

 一声海に吼えれば天地を驚かし、乾坤四部洲を震い破る」

 慧可は続いて、大師に質問しました。

「何を四字經・六字經といたしますか」

(十一)四字・六字經と三蔵十二部について

「昔、文殊菩薩は曾て世尊に次のように問うたことがある。

 『修行の弟子があって、精誠妙を用いるのに、四字が眞ですか、六字が眞ですか』

 世尊はこれに答えて

 『四字も六字も法門に誘引するに過ぎない。初會には四字をもって公卿を引誘し、二會には六字をもって賢人を引誘し、三會には十字をもって群生を普度するものである』

と言われた。無極・太極・皇極の三名は經(すで)に五千四十八佛を闡(の)べ、八萬四千門を開いた。三災が及ぶに因って教化を闡(ひら)き、もって字のある經から離れられない人達を度(すく)うためのものである。

經中に生死の路を説き透し、一字不二門を拝むべきである。無字の眞經は聖賢を超える。次に偈の言葉があるから明らかに聴き分けよ。 

『眞經と紙の經は同じからず。紙上に經を尋ぬるも枉(むだ)に工を用う。

人ありてその中の意を参じ透せば、巍巍として不動の中に安んず』

また曰く。

『一人一人、一巻の無字經あり。紙や、筆墨を用いずして写し成る。

原来の無一字を展開せば、昼夜四時に光明を放つ』

また曰く。

『幻の身は小なりと雖も週天を配す。知音に説き与えて仔細に参ずべし。

三蔵十二部に帰り来たり、悉く人身に在りて内外安し』」

「三蔵・十二部とは何でしょうか」

「頭に頂くは金剛經なり。誰ぞ信を知るや。

 脚に踏むは般若經なり。那個(だれ)に聞き知るや。

 眼に観るは観音經なり。方寸を離れず。

 耳に聞くは雷音經なり。歌韻、琴の如し。

 鼻に聞くは彌陀經なり。玄より出で、牝より入る。

 舌に舐(な)むるは法華經なり。呼吸清く育つ。

 心に黙するは多心經なり。これを綱領と為す。

 意に守るは清浄經なり。前に降りて後ろに昇る。

 左肝家は青龍經なり。木母を守り定む。

 右肺腑は白虎經なり。金公を看て承(う)ける。

 北極經はよく水を鎮め、これを腎において存す。

 脾中の宮は黄庭經なり。法輪を転じ運ぶ。

 三蔵師は西天(西域)を過ぐるに辛苦尽きず、

 九九の災い、八一の難、死中に生を得る。

 悟空(孫悟空)は心、沙(沙悟浄)僧は命、三蔵(玄奘三蔵)はこれ性なり。

 白馬(龍)は意、八戒(猪八戒)は精にして五行に配合す。

 五千四百を一蔵となし、正に十四年。

 十萬八千里を行ない、始めて雷音に到る。

 先に無字の經を発し、後に字のある經に更(かえ)る。

 十二部の眞妙なる品は、ことごとく人身に在り。

 塵世の人、迷昧深く全然未だ醒めず。

 再び眞經の道は死を了え、生を超えるを窮めず。

 僧道ありて諸經を執りて打鼓唱念す。

痴(おろか)なる心にて鬼魂を度するを思い、全く虔誠無し。

五葷と三厭を吃(くら)い、葷口をもって読咏す。

假(いつわ)りにて求め拝し文書(符呪)を焼き、佛門を軽視す。

佛は先にその亡魂を主とするに罪三等を加う。

また假りの僧道は十分の過ちを記すを要す。

到頭来たれば一人一人、三途(火途・血途・刀途。かず・ちず・とず。それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道のこと)で困を受く。

因みに武帝は佛教を興すも大道明らかならず。

ただ求めるは空門を興し、食の路經を謀るのみ。

那んぞ法を乱せば、後世を誤るを暁(さと)らんや。

弟子に嘱(ことづけ)す。よく眞假の路經を惺悟せよ。

無字の經は自己を超(すく)い、ならびに宗親を度す。

掌教佛(釋迦佛)は流傳して二十八佛性に至る。

東土に到りて原人を找(さが)し、道根を接続せん。

時(つね)に指さし望むは皇胎児、旁(門)を去って正に従い、明師を求め眞訣の傳えを求め、超生了死すべし」

大師は、一切を慧可に示し終えるや座を立ち、何処ともなく去って行きました。慧可は無限の法義をいっぱい聞きましたが、さらに師の訓戒を受けたい心で大師のお姿を見ました。師のお姿からは皓皓たる毫光が輝いているのを拝し、ただただ平伏して何時までも顔を上げることができませんでした。

遠く師のお姿を見送った後、はじめて慧可の心に喜びと悲しみの情が湧き起り、わが身に掛かった命の重さを改めて認識しました。再び来られない師の姿を拝し丁寧にその洪恩を謝し、礼を終って詩を吟じました。

「先天無為の大道は成佛妙用の機関なり。

超生了死は等閑(なおざり)にするなかれ、得たるものは何ぞよく軽賎せんや。

我は生死性命のために左膀を卸下(きりおと)して傳えを得る。

熊耳山間に苦しく琢研し、はじめて一貫を明らかに得る。

師の層層(かさねがさね)の指破を感謝し、放し出ずれば天の如く、海の如く寛し。

収め来たれば芥子の如く一毫の端、眞にこれ一をもって萬を貫く。

切に後輩の佛侶に嘱ける。萬金あれど切に軽く傳えるなかれ。

苦海の衆生は誠虔あれ、妄(みだ)りを除き、眞に帰すれば岸を指さす。

ひとたび六道の輪廻を見よ、脱骨の山の如きは忍び難し。

まさに天機を悉く洩らし穿つを欲せども、また天監の逃れ難きを恐る。

半明半暗を得て、泄(もら)して後世の人に参じ与う。

師にこの玄関の指點を求むれば、永遠に極楽宮院を証す」

慧可は大師の正法を得、道脈を承け継いで感謝の念はなかなか覚めず、師を讃じて再び詩を吟じました。

「佛法を明らかに分かりて説き尽くせず、一巻の心經、字字眞なり。

 有字の原(もと)は無字より出で、南柯(なんか)の夢を裏人(みるひと)を喚(よ)び醒ます。

大海の波中に一盞(さん)の燈あり。剔(てき。解剖)起す人なければ分明ならず。

もし明師に遇りて親しく指點せられば、裏頭(うち)より外頭(そと)の人を照見す。

大海の波中に帆柱を起立(たた)す。わが佛は彼岸にて幾回か等(ま)つ。

三還九転して来たりて汝を度す。縁あらば遇り来たりて太微(極楽理天)を証す」

 慧可は、大師の名前(達摩)と自分の名前(神光)を頭にして一偈を作りました。

「達人命を知らば郷を思うを要す。摩して正根に着かば左旁を去れ。

 神仙、一人一人均(ひと)しく分あり。光明の大路は西方に透る」

 三日三晩降り続いた雪は、なおも一段と激しく風さえ伴ってきましたが、慧可の心はいよいよ燃えて、師との約束を必ず果たそう、果たさなければならないと堅く心に誓ったのであります。

(上巻終り)

 


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