達摩大師伝『上巻』(二)
二.大師、梁(りょう)の武帝と論法す
梁の武帝は元の名を蕭衍(しょうえん)と言いますが、全国に寺院や堂塔を数多く建立し、布教師を各地に派遣して説法と教化に当たらせるなど、極めて佛心(ぶっしん。佛教に対する信仰心)の厚い帝王と言えます。
国中至る所に五里に一つの庵を設け、十里に一寺院を建立して佛法の徹底を図られたほどの力の入れようです。そこで当然の事ながら印度から天命を奉じた名僧が入国したのを聞いて、佛道を更に深く究めようとされました。
大師も一見して道の後継者に相応(ふさわ)しく、武帝に法を傳えれば多くの衆生を目覚めさせることになろうと考えて、この対談に臨みました。
武帝「余は即位して以来、寺を造り、經を写し、僧を養い、衆を渡(度)す(どす。救う)こと数限りない。これらの業績による功徳は如何程あろうか」
大師「何の功徳もありません」
武帝「何をもって、功徳が無いと言うのか」
大師「それは只、ささやかな善行に過ぎず、煩悩の原因となるだけであって、言うなれば形に従う影のようなものです。功徳があるように見えて、実は無に等しいものです。叡智(えいち)は妙圓(みょうえん)であり、体(たい)はすなわち空(くう)です。このような功徳は、この世で求めるべきではありません」
武帝「何を聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)と言うのか」
大師は、これに対して簡単に「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えました。
武帝は聖なる眞理、佛法の第一義つまり根本原理、究極の眞義は何かと質問したのです。これに対して大師は、大空が爽快に晴れ渡って一片の雲も無い(廓然)ように、大悟の境地には聖諦と俗諦(ぞくたい)、佛と衆生、悟りと迷いというような互いに相反する二つの概念を二元的あるいは対立的に捉えようとする意識は全く存しないと言う意味の返事をしたのですが、もちろん武帝がこの意味を理解できるはずもありません。
武帝「余に対する者は誰か」
大師「識(し)らず」
余りにも冷たい返事に怒りを覚えた武帝は、言葉を荒げて
「汝、西域から来たならば、本性に通じているはずだ。人の生死(しょうじ)の根源が分かるか」
大師は平然として
「識っているようで知らず、知らぬようで識っています」
と答えました。
これに対して武帝は、詩を作って大師に訊きました。
「幾世(いくせ。一世=三十年)人間と生まれ、幾世をもって足るや。
幾時(いつ)から酒と肉とを戒め断ったか。
将(まさ)に何をもって君恩に報ぜんや。
誰が汝の眷属(家族・親戚)なりや。
昼間(ちゅうかん)は何処(いずこ)に行って縁を化し、夜間は何処に向かって宿となすか。
吾は将に八句をもって汝に問う。誰が天堂(極楽・天国)で、誰が地獄か」
大師も、すかさず詩をもって答えました。
「吾は九世人となり、十世をもって足る。
母の胎内を離れたときに酒肉を戒め断つ。
吾は将に經巻(經典)をもって君恩に報ず。
菩薩は吾の眷属なり。
昼間は千家(多くの家)の門戸に立ちて縁を化し、夜間は茅(あばら)の庵に向かいて宿となす。
吾は将に八句をもって汝に返す。吾は天堂であり、汝は地獄なり」
最後の詩の一句が理解できない武帝は、大師の心を知らず、怒髪天を衝くばかりに怒り出しました。
「この和尚(おしょう)め。全く道理を知らぬ奴だ」
大師は、平然として言葉を返されました。
「吾には窮まりない道理があるが、帝にはその事がお分かりにならないでしょう。帝にこそ道理が無いのであって、吾に道理が無いのではありません。吾に対してこのように仰せられた帝の将来に、何の良い事がありましょう」
これを聞いた武帝は、激昂して
「余は今までに五里に一つの庵を建て、十里に一つの寺院を建立している。庵や寺院は気まぐれに建てたものではなく、佛道を宣揚するためである。すでに大勢の僧侶を養成して、方々に遣わしている。それだけでも、無量の功徳があるはずである。ところが汝は余を地獄と罵り、将来に良い事が無いと言った。瓢(ひさご。ひょうたん)を提(さ)げ杖を頼りに十方(じっぽう)を乞食(こつじき)している貧僧が何で天国であり、そうして何で深い道理があり、また何の良い事があろうか。戯(たわ)けたことを申すな。もう我慢がならぬ」
そう言い放つと武帝は、「直ちに首を刎(は)ねよ」との命令を発しました。大師は、泰然として答えました。
「私の体(たい)は虚空に懸っているから、誰も私を斬首することはできないでしょう」
武帝「汝三歩進めば死し、三歩退けば滅ぶであろう」
大師「それでは横に三歩歩けば、何の妨げもないでしょう」
この言葉に愚弄されたと思った武帝は、即座に文武百官に命じて
「この僧を西廓(さいかく)の所に監禁せよ。罰として明日高台を設置し、その台の周囲に四十八巻の經典を蓮華の形に積み重ね、その上に座らせて説法させよ。もし眞(まこと)の僧であれば、自然に明心見性(みょうしんけんしょう)ができて、大衆が満足するような法を講ずることができるであろう。もし假(仮)り(いつわり)の僧であれば、そのとき自然に罰が当たり、天譴(てんけん。天罰)を受けるであろう」と、武帝は怒りのために身を震わせながら言いました。
その夜、諸々の文武高官が大師を訪れ
「和尚、あなたの来歴をお聞かせください」
と尋ねました。そこで大師は、謎を含めた言葉で諸官を悟らせようとしました。
「諸々の大臣よ、これから私の言うことをよく聞かれよ。私は混元一気(こんげんいっき)から来た。無生(むせい。無生ラウム)が私の親である。幼名は小皇胎(しょうこうたい)と言い、兄弟は非常に多く九十六億あって娑婆の世界に住んでいる。或る者は朝廷にあって天子となり、或る者は大臣高官となって快楽を享け、或る者は富貴栄華の家庭に生まれて財を恣(ほしいまま)にし、或る者は貧乏な家庭に生まれて苦しみに喘ぎ、或る者は罪多くして四生六道(ししょうろくどう)に輪廻(りんね)し、また中には参悟修練して神仙・菩薩・聖人の位に達している者もいる。この魂の兄弟たちは、寅の會(かい。一會=一萬八百年。天の時は、子の會から始めて亥の會に至る十二會すなわち十二萬九千六百年をもって一巡し、この周期を一元と言う)に別離してから今日まで数えて六萬年經っている。私が今ここへ来たのは、無生の命を受け、努力して兄弟たちを早く故郷(理天)へ帰らせんが為である。それなのに却って笑われ、あるいは誹(そし)られ、吾の言など一向に聞き入れられない。西方の地に帰りたくても、まだ目的を達していないから帰ることもできない」
これを聞いた文武百官は、大師の言葉の眞意を悟ることができず、むしろ大師は気が狂ったのではないかと訝(いぶか)って一人残らず退散してしまいました。
翌日大師の噂を聞いた都の人々は、朝から高台の周囲に集まり、黒山のような人垣を作りました。正午には、武帝が文武百官を従えて貴賓席に姿を見せました。
大師は高台に登って蓮台に座り、四十八巻の經典を一通り見渡しただけで、言葉を発することもなくじっと黙り込んでしまわれました。
大師の道は無字眞經(むじしんきょう)であり、以心傳心の法ですから文字によっては人に傳えられません。勿論大師は一切の大蔵經(だいぞうきょう)に精通されていますが、大衆が文字經文に執着することを惧(おそ)れ、敢えて口を開かれなかったのです。
何時まで經っても大師が一向に口を開こうとしないのを見て武帝は、
「汝に經を講じ法を説けと申し付けたのに、どうして一言も吐こうとしないのか」
と問い質しました。大師は、武帝の目をじっと見据えて
「見性すれば一転して三千巻、了意すれば一刻にして百部經。
迷いし人は西来の意を知らず、無字眞經は世に尋ね難し」
と詩で答えました。
武帝はその意を解することができず、大師を狂人と見做し、心の底から怒って
「棍棒をもって、この和尚を叩き出してしまえ」
と左右の護衛官に命じました。
大師「叩き出されるまで待っている必要は無い。貴方は恐らく福を断たれて、台城に於いて餓死し、瞑目できないであろう」
武帝はこの言葉を聞いて益々怒り狂い、「速やかに追い出してしまえ」と命じました。
大師は、一斉に打ち掛かってくる棍棒を僅かに受けたものの、軽々と身を躱(かわ)して殿外に難を逃れ、
「無縁かな、無縁かな、無縁かな」
と如何にも嘆かわしく三唱し、詩を吟じながら行く当ても無く歩き出しました。
「富貴の人を歎く。假(いつわ)りの名利の中に迷う人が余りにも多い。
塵の世の衆(衆生)の皇胎(こうたい。肉体)は、概ね紅塵(こうじん。この世)に困苦を味わう。
只、紅福(幸福)を享(う)け、勢力・利益の僥倖あれと願うのみ。
気が付けば、何時の間にか孼(げつ。罪)を重ね、その債(おいめ。借り)を背負ってしまっている。
梁の武帝、佛縁を結んで人爵の分は少なくないものの、惜しいことに彼は寃孼(えんげつ。罪)重く、一竅(いっきょう。玄関)を開く意味も解せない。
只心配なのは、福が尽きた時、彼の身に災禍が降り掛かることである。
将来、寃(つみ。罪)は寃を生み、やがて台城で困死することになろう。
佛はこれを忍びず、特に吾に命じ、前もって彼を指惺(しせい。指破)させようとしたが、遺憾ながら彼は迷昧すること甚だしく、全く我が意を理解することも出来ない。
已(や)むを得ず法船に乗って、また別郡に行くほか無い。
四部洲(*)を巡り歩き、有縁の人を尋ね訪れることにしよう」
(* 四部洲。須彌洲を中心に、東西南北の順に勝神洲・牛賀洲・胆部洲・倶盧洲に分かれる四部大洲。すなわち都の周辺諸国を指す。)
詩を詠い終って大師は、金陵の都に渡すべき人がないのを悟り、機の至らざることを知って十月十九日密に江北に廻り、十一月二十三日洛陽に着きました。
周 武帝
(続く)