2016年11月14日
この説は、「自由な遊び」をしている子供の世界と考えてください。そう「思いつき」と言ったほうが適切です。そうでなければ物理や数学を知らないものが、自分の考えを述べる根拠が見当たらないからです。
超ひも理論のような理論物理の特徴は、アインシュタインの重力場の方程式などのように一定の方程式を導きます。
まず、これらの方程式がどう位置づけられるかを定義するために、宇宙は「無限」であると言う考えについて明確にする必要があると考えます。「無限」と言う言葉の反語は「有限」で、物質的な意味では勿論宇宙は「有限」ですが、その大きさが無限大のようであるという表現として使われ、宇宙が成長・消滅を繰り返しながら拡大を続けている状態であると解釈しています。
また、道理で考察すると唯一絶対創造主という極まりない存在の一部が、進化(拡大)の目的のために必要な宇宙環境を無限に創造して、この性命の営みの循環(スパイラル状に)の要となる「鼎(かなえ):木・火・土・金・水など5元素のようないろいろなものを煮込む」状態を言い、その塵のような微細なあるいはナノのはるか数兆分の一の物質の変化さえも、その瞬間の際限ない関連性が無限としか言いようのない実体表現になるのではないかと思います。勿論それは宇宙と言う有限の中で創造された物質世界をいいます。
こういう考えの中でしか方程式は成り立ちません。それ以外の何もない高次元世界では、方程式を立てる光など一切の対象物がないからです。と言ってもこの説明では今の複雑な理論では論拠が見出せないと思います。何もない世界とは、例えば「愛」とか「信頼」とか「勇気」という人間の意識をこの宇宙の中で物質として方程式であらわすことが出来るでしょうか。勿論エネルギーとして識別は可能かもしれませんが、そのそれぞれ異なるエネルギーを創りだす元をどう定義できるでしょうか。古来この世界を「玄妙」と言い、そこに至る「墺妙」とか「微妙」と言う表現が類似のものでした。「微妙」と言うのは、まさに微妙な表現です。「愛」とか「信頼」とか「勇気」・・・と言う世界はまさに微妙で奥深い世界です。
「自転車の車輪」を例えにすると何本ものスポークでまわりの金属の車輪を支えその車輪が空気の入ったゴムチューブを支えクッションになっています。この部品のどれが欠けても車輪は機能を果たしません。これを「玄妙」という考えから説明すると、この車輪が機能するのは部品の存在によってではなく、車輪が作られると円の中に空間が出来、スポークがあることでその円の空間はいくつもの円錐形の空間になり、もしその空間が構成されなければ車輪は機能しないという理屈なのです。この空間が昔のように材木を重ねて空間のない丸い車輪を作っていた時代は?と考えるともっとその空間の意味は具体的になります。つまり車輪の円形の持つ機能はそれを構成する物質とは別な意味なのです。総じてこれを「理」と言います。女性・男性も同じように形では分かっていますがその「理」における理解はまだほとんどわかってはいません。この理の世界が唯一絶対創造主そのものです。
では、本題の≪超ひも理論で「真理」を明かす≫事を試みて見ます。日常的にヒモや髪の毛などは放って置くと絡み合って解くの大変だった経験があります。同じような特質を持ったヒモ、目に見えないどころかナノの何兆分の一という極小な物質のヒモが存在していることが分かり、その統一理論の研究が行われています。ここで一般に認識できるレベルでヒモの原理を考えてみるとヒモは短ければ直線にも見えます。しかし直線は延長すると必ず曲線になります。この原則からいうとヒモはもともと「一」で「一」が変化したものです。何千キロも伸ばすと変化して止みませんが縮小すると「一」になり、「一」が限りなく縮ぢむと「点」になります。
この辺は何度も説明してきたことですが、超ひも理論にこの原理を当てはめると一本一本のヒモのもともとは「点」から始まっていると言うことになります。「真理」でいう「一点」は一つではなく「超ひも理論」のヒモの数ほどあると言うことになります。しかも限りなく微小で、この宇宙には無限の数があり、いつでもどこにでもあると言うことになります。その一点一点から常に創造の理力が発進され大宇宙を営んでいるとすれば、「真理」から見て「超ひも理論」の法定式は「∞(無限)」以外は引き出せないことになります。
この「自由な遊び」の「思いつき」を締めくくると、「超ひも理論」は方程式化しようとする範囲(人類に与えられた一定の枠)に収まらず、しかも「真理」とは異なる領域であると言うことになります。科学の限界を超えた科学、それが高度な宇宙科学でも、宇宙史の中で争いを起こした原因に、高度な生命体の欲望を誘引した歴史があったことが人類の記憶のどこかにあるはずです。
空間は幻想です。
Deshi A
Blog 道 より転載