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諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承~2016年神の幕やが降り、世界の魂の解放が日本からはじまる

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 古代日本とユダヤ・キリスト教

諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承


なぜ聖書のイサク奉献伝承が、
日本の諏訪大社で祭りとなったのか。


アブラハムがイサクを捧げようとしたそのとき、
天使が現われ、彼の手を止めた。

 聖書の創世記二二章には、アブラハムが神の命令を受けて、「モリヤ」の地で、ひとり子「イサク」を捧げようとしたという記事が記されている。
 じつはこのイサク伝承が、なんと、パレスチナからはるばる離れたこの日本のある神社で、祭りとなって生き生きと伝えられていた・・・・。


諏訪神社の御頭祭(おんとうさい)とミサクチ神、守屋山

 イサク伝承を祭りとしてきたというその神社は、長野県の諏訪大社である。
 諏訪といえば、縄文文化の中心地である。この地には、諏訪大社という大きな神社がある。
 諏訪大社では古来、「御頭祭」(酉の祭ともいう)という祭りが行なわれてきた。諏訪大社には上社と下社があり、「御頭祭」は、上社の「前宮」で行なわれている祭りである。


諏訪大社上社前宮

 前宮の祭神は、正式には「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」とされている。しかし、諏訪地方で民衆が古くから信仰している諏訪大社前宮の神は、この神ではない。諏訪の神は「ミサクチ神」である。長野県茅野市発行の『神長官守矢(じんちょうもりや)史料館のしおり』は、
 「諏訪大社の祭政は・・・・ミサクチ神を中心に営まれている」
 と述べている。諏訪大社の「御頭祭」は、このミサクチ神の祭である。
 「ミサクチ神」は、漢字では「御佐口神」と書いたり、「三社口神」「御社宮司神」「佐久神」「射軍神」「尺神」などと書いたりする。しかし定説はない。いずれも当て字であって、元来は外来語と思われる。
 諏訪大社はまた、「モリヤ山」(守屋山)と呼ばれる山のふもとにある。かつてアブラハムがイサクを捧げようとした「モリヤの地」も、小高い山であることが思い起こされる。
 この守屋山(モリヤ山)のふもとの諏訪大社で、御頭祭が行なわれている。
 さらには、「御頭祭」を古来つかさどってきた人々の名を、「モリヤ家」(守矢家)という。モリヤ山(守屋山)は、モリヤ家(守矢家)の聖地である。
 今日、諏訪大社と言うと、一般には「御頭祭」よりも、「御柱祭(おんばしらさい)」を思い浮かべる人のほうが多いであろう。巨大な柱をめぐるこの祭には、多くの人が集まる。
 それに比べて「御頭祭」は、今日はそれほど盛大ではない。しかし古来、それは諏訪大社で最も重んじられていた祭であった。御頭祭は、古い時代には非常に盛大に行なわれた。
 御頭祭は、毎年四月一五日に行なわれる。この祭の様子が、聖書に記されたイサク奉献の伝承に、驚くほどよく似ているのである。 



イサク伝承

 まず、「イサク奉献の伝承」とはどんなものであるか、簡単に述べておきたい。
 創世記二二章によると、神はアブラハムに、愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行くように、命じられた。そこでイサクを「全焼のいけにえ」として捧げよ、というのである。
 アブラハムは、激しい苦悩を覚えたであろうが、結局その命令に従い、モリヤの地に向かった。そこに着くと、イサクを縛り、たきぎの上に横たえた。
 しかし、アブラハムが小「刀」を振り下ろそうとしたまさにその時、神は「天使」を通じて、彼の手を止められた。
 神はアブラハムに、近くの「やぶに角をひっかけている一頭の雄羊」を示された。アブラハムはその雄羊を、イサクの代わりに、全焼のいけにえとして捧げた。
 こののち、神はアブラハムを祝福し、ひとり子イサクを通してその子孫を星のように多く産み出された。
 この出来事は、神学的には三つの意味がある。第一は、この出来事は、神がこの二千年後になそうとしておられたことの予型だった、ということである。
 神はすでに、この二千年後に、ご自身の愛するひとり子イエスを犠牲として死に渡すことを、決意しておられた。イサクが捧げられようとしたこの出来事は、その予型であった。
 事実、アブラハムが愛するひとり子イサクを捧げようとした「モリヤの地」とは、後代のエルサレムである。イサクが捧げられようとしたまさにその地で、主イエスは十字架の死を遂げられた──私たちの罪のための犠牲として。
 また、アブラハムは出発してから「三日目に」(創世二二・四)、モリヤの地についた。この三日間、アブラハムの心の中でイサクは死んでいた。モリヤの地でアブラハムの手が止められたとき、「彼はいわば、イサクを生き返して渡されたわけである」(ヘブ一一・一九)。
 これは、神の御前で御子イエスが三日間死なれたことの予型であった。
 第二の意味は、アブラハムを試み、彼を真に"信仰の父"とすることであった。
 イサクは、アブラハムの子孫を「星の数のように」増やすとの神の約束を果たすために与えられた子であった。神はその子を捧げよ、と言われる。しかし、その子が死ねば、アブラハムの子孫も絶えてしまうはずである。
 けれども、アブラハムは神の善なる意思を信じた。神がこれを命令される以上、そこには必ず善い目的があるに違いない。アブラハムはどこまでも神を信じたのである。
 アブラハムは、神がかつて「わたしは全能の神である」(創世一七・一)と言われたのを、思い起こしたに違いない。アブラハムは、神の全能の力を信じた。人を復活させることもできる神の力を信じたのである。
 「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」(ヘブ一一・一九)。
 そして第三の意味は、私たちが神に従い、自分の最も大切なものさえ神に捧げてゆだねるとき、神は"犠牲の小羊"を備えて、私たちを祝福して下さる、ということである。
 聖書で、神の御子イエス・キリストは象徴的に「神の小羊」と呼ばれている。
 かつてアブラハムのために、神は一頭の小羊を用意して下さった。そのように、神は私たちのためには、ご自身の「小羊」イエス・キリストを用意して下さったのである。
 イエス・キリストは、私たちの罪の犠牲として死なれることにより、私たちの救い主となって下さった。神は彼を通して、私たちを祝福される。


少年が縛られ使いが来て解放される

 さて、諏訪大社の御頭祭を見てみよう。
 御頭祭では、「おこう」(御神とか神使と書く)と呼ばれる少年が、主人公である。この少年は、一五歳未満の子供であり、"神の使い"としての役割を与えられる。
 「おこう」と呼ばれるこの少年は、まず、「御贄柱(おにえばしら)」とも呼ばれる柱に「縛りつけられる」。この少年を"生け贄"とするための柱である。
 柱に少年を縛りつけるときには、桑の木の皮をより合わせて作った縄が用いられる。
 つぎに、人々は少年を柱ごと、竹のむしろの上に押し上げる。そこには、小さな「刃物」も登場する。
 しかし、諏訪の国の司からの使者や、神官がそこに現われる。その後、桑の木の皮で縛られていた少年は、解き放たれるのである。


御頭祭(おんとうさい)における御贄柱(おにえばしら)。

 ただ、残念なことに、この「おこう」の風習は、今日の御頭祭ではもう見られない。長野県茅野市の守矢史料館の職員に、電話で尋ねてみたところ、今日では「御贄柱」の風習は残っているものの、「おこう」の風習はすたれてしまったという。
 しかし「おこう」の風習は、少なくとも江戸時代頃まではあったと教えてくれた。実際、江戸中期の国学者、また紀行家であった菅江真澄が、自分の見た御頭祭の「おこう」について、次のように書き記しているのである。

 「神長(祭祀のリーダー的人物)が・・・・篠の束の縄をほどき、篠をばらばらにして・・・・先のとがった柱を押し立てる。これを御杖とも御贄柱ともいう。・・・・
 御神(少年)といって八歳ぐらいの子供が、紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせて、かの竹の筵の上に押し上げて置いた。・・・・
 そこへ上下を着た男が、藤刀(ふじがたな)というものを、小さな錦の袋から取りだし、抜き放って長殿(神長)に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。・・・・
 例の神の子供達を、桑の木の皮をより合わせた縄で縛り上げる。・・・・いよいよ祭は最高潮となる。


藤刀(ふじがたな)と、根曲太刀(ねまがりのたち)
(御頭祭に参加する神官の一人がさしていたもの)。

 諏訪の国の司からの使者の乗った馬が登場する。その馬の頭をめがけて、人々は物を投げかける。しかし、この馬はとても早く走る。・・・・その後ろから、例の御贄柱を肩にかついだ神官が、
 『御宝だ、御宝だ』
 と言いながら、長い鈴のようなものを五個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走り出し、神の前庭を大きく七回まわって姿を消す。
 そして長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られていた子供達が、解き放たれ、祭りは終わった」。
 (『菅江真澄の信濃の旅』信濃教育会出版部刊)


菅江真澄による神前供物のスケッチ


 藤森照信氏は、この御頭祭について、
 「謎に満ちている。御神という子供を御贄柱と共に押し上げ、その後、立木に縄で縛りつけるのは何故か」
 と記している。
 子どもがこうして縄で縛られ、そののち竹のむしろの上に置かれるあたりは、イサクが縄でしばられて、たきぎの上に置かれた光景を思い起こさせる。
 また、アブラハムがイサクを小刀でほふろうとしたように、「おこう」のもとには小刀が出されている。
 また、菅江真澄が見た江戸時代の御頭祭の描写においては、馬に乗った使者や、御贄柱を肩にかついだ神官が現われている。彼らは使いとして現われているわけだが、彼らが現れた後、おこうは解放される。
 旧約聖書でも、「主の使い」(天使)が現われて後、イサクは生け贄になることから解放されている。このように、御頭祭の様子は、まさにイサク伝承そっくりではないか。


鹿がいけにえとなる

 御頭祭の神事では、さらに動物犠牲がささげられる。先述した菅江真澄は、こう描写している。
 「そこには、なんと鹿の頭が七五、まな板の上に並べられていた。その中に耳の裂けた鹿がある。この鹿は神様が矛で獲ったものだという」。
 御頭祭では、「鹿」がいけにえにされるのである。旧約聖書では、解放された少年イサクの代わりに、羊がいけにえにされている。

                                                                          
                                                                          耳裂鹿(みみさけしか)

 御頭祭では、羊ではなく鹿だが、これはもしかすると、日本にはもともと羊がいなかったことが理由なのかも知れない。羊の代わりに鹿が用いられたのであろう。
 今日の御頭祭では、生きた鹿ではなく鹿の剥製が用いられている。しかし、昔は本物の生きた鹿がその場で殺された。動物のいけにえの風習のなかった日本においては、この諏訪の鹿のいけにえの風習は、たいへん奇異に見られていた。
 鹿の頭が七五個、捧げられる。「御頭祭」の名前もここから来ている。七五個も捧げられると、中には「耳の裂けた鹿」がある。この鹿は、"神様の矛にかかったもの"と信じられ、特別視された。
 旧約聖書のイサク伝承では、「角をやぶにひっかけている一頭の雄羊」が登場する。この羊は、"神が獲ったもの"である。
 角をやぶにひっかけていれば、当然あばれて、耳が裂けたに違いない。このように御頭祭の「耳の裂けた鹿」と、イサク伝承の「角をやぶにひっかけている雄羊」とは、何らかの関連があるようにも思える。
 鹿の頭が奉納され、すべての神事が行なわれると、最後に、「おこう」と呼ばれる少年は神の使いとして近隣の各地に派遣される。
 以上が御頭祭のあらましである。


諏訪のモリヤの地で行なわれモリヤ家が主宰する

 これらが、モリヤの地(守屋山)の諏訪大社で行なわれるのである。
 また、諏訪大社の御頭祭を司る人物を「神長」(のちに神長官ともいう)というのだが、この「神長」は古来、「守矢家」(モリヤ家)が世襲としてきた。
 室町時代初期に記された『諏訪大明神画詞』によると、古い時代に守矢氏は、「神長」という筆頭神官の位についた。守矢氏は以後、代々、この地の祭祀と政治の実権を握ってきたのである。現在、守矢家の御当主は、七八代目であるという。
 諏訪大社のとなりにある「モリヤ山」(守屋山)も、守矢家の聖地である。モリヤ山(守屋山)は、守矢家の祖先神とされる「モリヤの神」にかかわる地でもある。
 守矢家の祖先神は、伝承では「モリヤの神」(洩矢神(もりやのかみ)、または守矢神(もりやのかみ))ということになっているのである。
 「洩矢神」は"もれやのかみ"と読まれることもあるようだが、前掲『神長官守矢史料館のしおり』によれば、やはり"もりやのかみ"と読む。この「モリヤの神」は、もとは、あのイスラエルのモリヤの地でアブラハムとイサクに現われた神ヤハウェではなかったか。
 「モリヤ」という名は、このようにモリヤ山(守屋山)、モリヤの神(洩矢神、守矢神)、モリヤ家(守矢家)というように、様々に残っている。
 漢字では、いろいろに書くが、いずれも当て字であって漢字自体には意味はないと思われる。大切なのは「モリヤ」という音である。これらすべては、ルーツを一つとするものだろう。
 また、「おこう」は漢字では御神とか神使と書いたりするが、これらの漢字はその無理な当てはめ方から見て、当て字であることは明白である。はじめにあったのは、「おこう」という音であろう。
 じつは創世記二二・二の「ひとり子イサク」の「ひとり子」は、ヘブル原語では「ヤアコウド」 という。「おこう」は、この言葉が若干なまったものと思えてならない。
 さらに、御頭祭は「ミサクチ神」の祭であると述べたが、これについて『諏訪神社 謎の古代史』(彩流社刊 一九九五年)の著者・清川理一郎氏は、「ミサクチ」は、
  M・ ISAKU・CHI
(接頭語子音)(イサク) (接尾語)
 で、「イサク」のことに違いないと述べている。
 「ミサクチ」は、もとは"ミ・イサク・チ"あるいは"御・イサク・チ"だったのであろう。つまり「ミサクチ神」とは"イサク神"である。御頭祭は、イサクを記念した祭ではないか。


神長官守矢家邸内のミサクチ社。

 ただ聖書では、人間は決して「神」とは呼ばれない。日本では偶像教との結合により、イサクは"イサク神"となって神格化されてしまったのだろう。
 そして神格化されたイサクの霊を、「おこう」と呼ばれる少年たちが受け継ぎ、地方をまわって土地の豊作を祈るというのが、この御頭祭の意味であるようである。
 このように御頭祭には、異教臭さがあり、不純物や変質が見られる。しかし核の部分では、諏訪大社の御頭祭はやはり、旧約聖書のイサク伝承をルーツとするものに違いない。
 それは古い時代に、ヤハウェ神を信奉し、イサク伝承を持つ一群の人々の渡来によって、日本にもたらされ、諏訪大社で祭となって古くから生き続けてきたのであろう。
 諏訪研究会の清川理一郎氏は、その著『諏訪神社 謎の古代史』の中で、こう述べている。
 「私は、諏訪の地に渡来した人たちの中には・・・・M・トケイヤー氏が指摘した偶像崇拝の人たちが、かなり含まれていたと考えている。しかし、諏訪の前宮にイサク伝承を伝えた一派は、これら偶像崇拝の人たちではなく、ヤハウェ信仰の一神教の人たちであった。
 この人たちが中核となって、諏訪にイサク伝承を正確に、そして確実に伝えたのである。
 一方、その頃の諏訪の地には、縄文時代に栄えた蛇神や、陰陽石に対する信仰の色が濃い文化が、依然として残っていた。
 そしてヤハウェ信仰の人たちがイサク伝承を伝えた時点から時を経て、イサク伝承は、諏訪の蛇神が濃い既存の文化と次第に融合し、現在のミサクチ神の姿に変貌していった(清川氏は、ミサクチの「チ」は蛇の意と解している。ヤマタノオロチなどの「蛇」である)。
 私は、このイサクをミサクチ神に変貌させた主役は、ほかならぬ偶像崇拝の人たちであったと考えている。そして変貌の過程で、現在私たちが見ることができるミサクチ神の神器である陰陽石、鉄鈴、鉄鐸などが次第に誕生したと思われる。
 とくに陰陽石の場合は、既存の陰陽石の信仰と融合しやすかったと考える。・・・・重要なことは、イサクがミサクチ神に変貌したとき、ミサクチ神の外見は、既存の諏訪の文化が形成した厚い外皮に覆われたが、中身を形成する"核"は、イサク伝承のまま残ったことである」。


神長官裏古墳

日本人が拝む聖書の教える神様

 以上、私たちは長野県の諏訪大社に伝わる御頭祭が、旧約聖書のイサク伝承をルーツとするものであることについて、見てきた。
 この事実は、いったい何を教えるのであろうか。かつて主イエス・キリストは、サマリヤの地を通られたとき、
 「あなたがたは知らないで礼拝しています」(ヨハ四・二二)
 と言われた。これは日本人にも当てはまる。日本人は、自分の拝んでいる方を知らずに拝んでいるのである。
 日本人は昔から神社を通し、また神道の教えや祭りを通して、「八百万の神」を拝んできた。しかし、その「八百万の神」は実在の神の姿ではなく、実在の神の御姿を変質して理解したものに過ぎない。
 今日、考古学者の研究により、多神教は一神教の堕落した形態であることが、明らかにされている。
 エジプトの宗教を研究したフリンダース・ペトリー卿は、エジプトの多神教は、はじめは一神教だった、と述べている。
 考古学上最も古い民族の一つと言われるスメリヤ人も、その文化の終わり頃には五千の神々を持っていたが、初期にはただひとりの神「空の神」がいただけであった。
 同様に、日本の「八百万の神」の多神教も、じつは堕落した形態であって、本来は一神教だったに違いない。古代の日本人は、唯一の神、また真の神であるヤハウェを知っていたのではないか。
 私たちが本当に拝むべきお方は、じつは聖書の教える神ヤハウェであり、またその御子イエス・キリストなのである。私たちはこのお方に立ち帰るとき、祖先の信じた真の神に立ち帰るのである。

                                  久保有政著(レムナント1997年7月号より)


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