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観音菩薩伝~第40話 大師、猿群の難を脱する、 第41話 栗の実で飢えを凌ぎ、瞑想で寒さを防ぐ

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2015年2月9日

第40話 大師、三歩一拝の法で猿群の難を脱する

 三人は水溜りの所に辿り着き、手ごろな石に腰を掛けて休みました。数々の難行と緊張の連続に堪えて得たこの短い間の休息は、疲労を回復させるのに極めて有効でした。永蓮は托鉢を取り出して水溜りから清水を汲み上げ、恭しく大師に捧げました。大師はおいしそうにこれを飲み、余った分を保母に回し、保母は有難くこれを受け取り静かに飲んで鉢を永蓮に返しました。永蓮は、もう一度汲んで今度は自分が飲み干しました。これで三人は、疲れも取れてすっかり元気になりました。

 永蓮は坐ったまま足元にある小石を拾い、何気なく水溜りに向かってそれを投げ込みました。水は沫(しぶき)を上げて、中心から波紋が広がり大変美しい模様を描きました。大師はそれを眺めて笑いを含みながら言いました。

「永蓮よ、石を投げると水は沫を上げます。この中に何かの妙意を含んでいますが、そなたにそれが

解りますか」

 永蓮は答えようとして口を動かしかけたが、急に思い直したように

「どうぞ、大師様から先におっしゃって下さい」

と言いました。

「水は静的なものですが、そなたが石を投げたことによって急に動に変わり沫を上げました。一動一静、この中に造化の機密があるのです」

 大師の言葉に、永蓮は首をかしげながら答えました。

「私は、こう考えます。本来、水というものは動的なものです。その証拠に、私が石を投げ込まなくても、昼夜絶えず流れ動いています。あの石こそ静的なもので、私が投げ込まなければ、石は自分から進んで水溜りの中に飛び込めません」 

大師は笑いながら、なるほどと感心しました。永蓮は自分の意見が大師に認められたと思い、やや得意そうに顔を上げました。すると何処からか小石が飛んで来て永蓮の足に当たり、傷付いてしまいました。「痛い」と思わず悲鳴を上げて辺りを見廻しましたが、誰もいる様子はありません。永蓮は不思議そうに

「これは、どうした事でしょう。静的なはずの石が、どうして自分で飛んで来たのでしょう」

と言いました。大師は急いで薬を与えましたが、大したことはないようです。そして永蓮に

「これでそなたは、また一つ体験を増しましたね」

 二人がこんな会話を交わしている時、突然谷間の向こうから騒々しい奇声と共に一群の猿が現われました。永蓮は猿を見て、石を投げたのはこの猿の悪戯(いたずら)だと分かりました。猿は人真似が上手で、永蓮が水溜りに石を投げていたのを真似て永蓮に石を投げたのです。始めの内は遠くに居たのですが、危険が無いと分かったのか、猿群はだんだんと三人に近寄って来ました。集団の猿群は、時には凶暴性を顕します。猿群の中で特に顔の赤い大きな雄猿が三人に向かって今にも飛び掛らんばかりの気勢で迫って来たので、保母と永蓮は青くなって思わず逃げ出そうとしました。大師は急いで二人を止めて

「走ったり逃げたりしないように。逃げても猿のほうが敏捷ですから直ぐに追いつかれ、とても逃げ切れるものではありません。却って襲われるだけです。猿は古来から山の神の使者です。素直に振舞ったら、そんなに危害を加えるものではありません。気を静かにして、この場を切り抜けましょう」

「でも、だんだん近寄って来ます。どうしたらよいのでしょう」

「私に考えがあります。猿は人真似が上手です。この習性を利用して、上手く逃げましょう。良い方法があります」

「どのような方法でしょう」

「先ず猿に背を向け、山に向かって三歩行っては立ち止まって一回拝み、また三歩行っては立ち止まって拝むのです。きっと猿もこれを真似しますから、後ろから襲われる心配はありません。さあ、勇気を出してやってみましょう」

 大師は猿の大脳が発達して知能が高いことを知っておられたので、この方法を思いつかれたのです。早速三人は、三歩一拝を繰り返しながら遠ざかり始めました。大師の予想通り猿はこれを見て面白がり、三人の行動を真似て一定の距離を保ちつつ後ろについて来ます。三人は進んでは拝み、拝んでは進みながら退いていますので、思うように距離が広がりません。今のところ猿は面白がって真似をしているから害を加えられる心配は無いが、それも何時まで続くことでしょう。保母と永蓮は、気が気ではありません。どうしたらよいだろうか、案じていた時、突如空中から凄まじい声と共に一陣の風が吹き付けてきました。何事だろうと思って三人が空を見上げると、何時何処から現われたのか一羽の鵬(おおとり)のような鳥が三人の頭上を旋回しているのです。この鳥は普通の鷲(ワシ)や鷹(タカ)よりも何倍か大きく、翼は陽を蔽い足は雲を掻き乱すほどの大きさです。猿は、このような大鳥を一番懼れます。特に高山に棲む鷲や鷹の類は性質が獰猛であり、何の前触れも無しに空中から突然獲物に襲い掛かって来るので身を躱す暇(いとま)もありません。その鋭い嘴や爪に掛かれば、小さい動物などは一たまりもありません。手向かったところで、両足で捕まえられたうえ空中で振り回され地上に叩きつけられます。普通の鷲や鷹にでさえこのようにして簡単に殺されてしまうのに、ましてや鷹よりも遥かに大きな鵬が姿を見せたものですから、猿は人真似どころではありません。すっかり怯えて、蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げてしまいました。猿群が逃げてしまったのを見届けたかのようにして鵬も旋回を止め、何処かへ飛んで行ってしまいました。

(註一)三歩一拝して朝山(ちょうざん。名山に登って師父にお目に掛かるという意味)すると言う言葉の由来は、実は大師がこの猿群の難を避けたことから始まったと言われています。

(註二)菩薩の佛像の中には鵬が数珠を咥えて空中を舞っているものがありますが、これはこの時の情景に由来しており、鵬は菩薩道護法の神鳥とされています。鵬は一度に九萬里を飛ぶと言われる霊鳥ですが、実際にこの鵬はどんな種類か審(つまび)らかではありませんが、恐らく鷲や鷹の一種ではないかと考えられます。

第41話 栗の実で飢えを凌ぎ、瞑想で寒さを防ぐ

 鵬のお陰で猿群が逃げてしまったので、三人はようやく安心して三歩一拝の行を止め、再び山を登り始めました。保母と永蓮は、助かったと安堵しながら、大師が機知を利かせて咄嗟に取った三歩一拝の妙策を賞賛して

「大師、どうしてあのような妙案が急に思い浮かばれたのですか」

と永蓮が訊きました。

「心意が落ち着き、精神が錯乱していなかったからです」

「私は、女身であるため心身の乱れを収めるのに苦労が多いと思いますが」

「修行に男女の別はありませんが、昔から女人には五障があります。

 一には、梵天王になることを得ず、二には帝釈天、三には魔王、四には轉輪王、五には佛身となることができないのです。ですから常に勤苦(ごんぐ)して行を積み、心意の寂然(じゃくねん)を計らなければなりません」

「端坐していない時でも、急に心意を統一することが出来るのですか」

「修行というものは、普段から霊気を養うものです。歩いていても、寝ていても、坐っていても、つまり行住坐臥、時々刻々霊気を散乱させてはなりません。霊気を一箇所に集めれば、自在の本性を観ることが出来ます。しかし残念ながら私は、未だその域に達していません。妙智慧の門を開くことが先決です。本来の本性を観るのに、女身に垢穢(くえ)が多くその法器ではないと言われていますが、私は全ての人に微妙(みみょう)の浄(きよ)い法身(ほっしん)を証知させ、大乗の門を開いて衆生の苦を度脱させてあげたいのです」

「妙智慧が顕われたら、それが出来ますか」

「出来ます。妙智慧が顕われると、人間の真諦が悟れます。男女の身を超えて、無上菩提が得られるのです。この悟りが開かれたら、やがて彼岸に到れます。その時が、いよいよ到来しました」

 大師は感慨深く、須彌山を望みながら言われました。

「妙智慧が開かれたら、自然に彼岸に到れるのですか」

 今度は、保母が訊きました。三人の話題は、猿の話からとうとう佛理の話に移りました。

「そうです。悟りを開けば妙智慧が顕われ、色受想行識の五蘊は総て空になり、円通無礙となって通ぜざるものは無く、達せざるものはありません」

「妙智慧は、どのようにして五蘊を皆空にしますか」

「妙智慧を陽光に譬えれば、五蘊は闇に当たります。陽光が照り輝けば、暗闇は消えてしまいます」

「どのようにして消えますか」

と、保母と永蓮は、同時に訊きました。

「そうです。妙智慧という光が現れたら、全ての五蘊という暗黒は難なく自然に消えてしまいましょう」

 すると永蓮は、真剣な表情で、大師に問いました。

「五蘊が皆空になった時の極致感をお教え下さい」

「先ず、五蘊について詳しく説明しなければなりません。人間には、誰にでも五蘊の念があります。大圓鏡智、六根清浄になれないのも、六慾七情に囚われてしまうのもこの五蘊に由来します。

 五蘊の始まりの色蘊は即ち萬物の形象であり、あらゆる眼界に映る有形の物質の総該を指します。受蘊は感受・印象の意念で、境に対して事物を受け込む心の作用です。想蘊は連想・思索の意念で、境に対して事物を想像する心の作用です。行蘊は実行・作為の意念で、その他境に対して瞋(いか)り貪るなどの善悪に関する一切の心の作用と身体の行為です。識蘊は意識・記憶の意念で、境に対して事物を了別・識知する心の本体です。分かりますか」

 二人は、歩きながらも、大師の話を一言も聞き洩らすまいと熱心に耳を傾けました。

「心の意念と言うのは、たいへん恐ろしいものです。種々の物質を見ると、これを印象として心に感受します。感受すると我欲が生じ、何とかして手に入れたいと妄想し、今度は得ようとして実行に移します。これが、得ても得なくても心に残ってしまいます。そこに歓喜や悲哀・恐怖・嫌悪や怨恨・煩悩・愛恋が生じて、流離顛倒してしまいます。この五蘊は、各々相互に関連し合っているのです。

 五蘊が空になれば、一切の煩悩・顛倒から解放されます。従って、一切の苦厄を免れることが出来ます。萬法が空寂無念になれば、彼岸の楽地に到ることは困難ではありません」

「よく分かりました」

「先ず、眼界を空にすること。眼に映る一切が心意に動揺を来たさなくなれば、煩悩妄想は生じません。形が形として心意に感受されるから、貪慾が生ずるのです。形を無為の空相として観ずるならば、本来執着すべき事物は何も無いことが分かります。形象・諸法、皆空相を悟れば、それによって来たる空無の妙玄不可思議、萬法一理の奥義が参透され、一切苦厄の因は亡びます。従って無量光・無礙光に通暁し、光明無限を得られましょう」

 二人は今更ながら大師の奥深い真理に触れ、大師に随いて修業出来たことを幸せに思うのでした。苦行を体験しているからこそ、真理を直接身を以って味わうことが出来るのです。体験して得た事は、千萬言の説法に勝ります。

 三人はこうして法理を話し合いながら歩いていましたが、やがて日も暮れてきたので、夜露を凌げる洞窟を探し、そこで坐を組み一夜を明かしました。こうして三日間は無事に過ぎ、ようやく山の中腹に辿り着きました。この辺りになると気温も下がり、手足が凍えてきます。しかも頂上から吹き下ろす強い山風は冷たく、針のように骨を刺す感じです。高く登るに連れて斜面の勾配も急になり、雪や氷が積もって足掛かりが無いため、登っては滑り、滑っては登るという苦しさでした。岩肌が刃物のように手足を突き刺し、三人とも切り傷や刺し傷で血だらけになりました。

 寒さは益々厳しくなる一方で、その上食べる物もありません。時が経つにつれて空腹が激しくなり、冷たさも加わって、手足を動かすのも苦痛となってきました。大師だけは相変わらずの足取りで、しかも跣足のままでいて少しも苦しい表情が見えません。保母と永蓮は、苦痛に顔を歪めながら必死になって登りました。

 こうして半刻余り登った頃、前方にさほど高くない二本の栗の木が見つかりました。永蓮は空腹を忘れて思わず駆け出しました。よく見ると、栗の実が一杯生っています。永蓮は枯れ枝で実を叩き落し、保母が落ちた実を石を使って割り、三人は生のままの栗を分け合いながら食べました。空腹が満たされると、身体に温もりが出て疲労や苦痛も減った感じになり、元気を取り戻してまた歩き始めました。やがて日暮れとなり、再び洞窟を探して三人は中に入ったが、寒さは少しも和らぎません。永蓮は耐え切れなくなって

「この寒さにはとても堪えられません。枯れ木を集めて火を燃やしましょうか」

と言いました。大師は首を振り、二人を窘めました。

「保母に永蓮よ。深夜の山上で火を焚けば、どうなると思いますか。焔の光を見て、山中の猛獣が近寄って来ましょう。そうすれば彼等に罪を犯させることになり、私達も禍を招くことになります。火を焚くことはなりません。それよりも私達は誓願を発し道を求め成道を願うものである以上、真心を専一にして心霊を一か所に集めることが肝要です。肉体的に刺戟や苦痛を受ければ受けるほど、心霊は更になお堅固になっていきます。千劫萬難を嘗め尽くした後に凝結した一団の神魂は、永遠に分散することなく、正果を成就することが出来ましょう。この神魂が将来肉体を離れた暁には、大千世界に逍遥無礙が得られ、大神通が得られます。私達は正果を得たいと願ってここまで苦行して来たのですから、寒冷や飢餓は当然受けるべきです。若しこれらの苦しみさえ忍べなかったら、道を証する望みはありません」

 大師は、謝ろうとする二人を制して、更に言葉を続けました。

「私達は、既に少なからぬ艱難辛苦を受けて来ました。丁度今は高い塔を建てて、頂上の屋根を作っているところです。辛くても暫くの間です。保母に永蓮よ、よく我慢するのです。今の一時の我慢は、未来萬年の光明と変わりましょう。人を済度する身です。自ら苦の極限を試し尽くしてこそ、人の苦厄を理解し、解脱させることが出来ます」

 大師の言葉は厳しかったが、二人を愛する深い情が籠っていました。保母は、素直に謝りました。

「私達の気が緩んでいました。大師の今のお話によって、気が引き締められたようです」

 永蓮も

「確かに心に隙がありました。お許し下さい」

 二人は元神を取り戻し、心に光明を見出しました、お陰で寒さも半減したかのように、冷たい洞窟の中で大師と共に端坐し休みました。何時しか刻は流れ、三人は無我の境地に到達したようです。呼吸を調息していると体内の血気が順転し、法輪が転じて無我自在性を観ずるかのようでした。これを法輪常転と言うべきか、無我の中に限りない醍醐・菩提の妙を得て、心神は神秘の玄境へ融合していきました。

続く


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