2016年8月25日
現代の政治・金融・経済・医療・教育など生活や人生のあらゆる分野は、世界の一握りの人々によってコントロールされてきました。今日はその原因が驚くほどシンプルであることを知っていただきたいと思います。原点は「道・真理」です。これから人類は「道・真理」の世界に入ってゆきます。ここまで来るには人類創生以来の長い道のりでした。何百回、何千回の生まれ変わりを体験し、ある時期は意識が低下したため何度かの人類滅亡の体験もして来ました。その荒波の中で希望の光、それが超古代から普遍の「道すなわち真理」でした。
しかし「道・真理」を求める過程で人はそれぞれの段階(縁)があります。権力や財宝に目がくらんでいる者は「道・真理」から程遠く、大衆を支配するための道具としてまやかしの狐や狸の霊を霊験あらたかなものように敬いオカルト化してきました。
歪んだ人間の心が今日の災害や戦争の世界を造りだしたかを知っていただきたいと思います。
世界を支配している秘密結社の象徴として使われているプロビデンスはキリスト教の摂理という意味で、プロピデンスの目は神の全能の目を意味しています。
カバール(カバラー)とは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想で、独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがあります。しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を行わないという類似性であると言われ、教義や起源等の類似性までしか探究でないほど、ましては邪悪な者には至難の業でした。享楽的な意識ではこの「道・真理」に至るための艱難辛苦の修道機会は与えられることはありません。
カバラーはもともと「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味しています。カバラーが登場する以前のゲオーニーム時代には、単に口伝律法を指す言葉として用いられていました。これは釈迦仏教の口伝と同じで、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられました。 これがキリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段としてしか理解できないものになりました。
イルミナティとは、ラテン語で「光に照らされたもの」を意味しますが、後に宗教的な活動から「啓蒙、開化」をも意味するようになったようです。近世以降、この名前で呼ばれた秘密結社が数多くある。グノーシス的要素やテンプル騎士団、シオン修道会、アサシン、フリーメイソンとの関連等を持つとされる。
このほかにも中国の数々の宗教も秘密結社もみな同種の形象を受け継いでいます。しかし形象は「道・真理」と似て非なるものです。釈迦や達磨、観音やキリストが得た同じ殊宝を天が直接あなたに伝承するその時まで漏らされることはありません。
形象的な伝承、プロピデンスの目
本来、縦に長いピラミッドの上部に目がありますが、この意味を佛教では「玄嚢鼻直(げんのうびちょく)」と言います。嚢は鼻の穴の膨らんだ部分、鼻直と鼻の真っ直ぐ上を指しています。そこにあります。つまりピラミットは鼻を顕しています。その鼻の真直ぐ上にいわゆる神秘の目があることを指しています。仏像にも第3の目が眉間にあります。
十字架も薔薇十字のように交わる「点」をバラの華で強調しています。キリストがゴルゴダ(しやれこうべ:頭骸骨)の丘の十字架で磔になった時に、両側に盗人が2人処刑されました。聖書の姦淫は目が盗むことを意味します。2人の盗人は左右両目を、キリストは真中の真理の目を顕していました。十字架の中心点はプロピデンスの目と同じ真理の意味です。
古代エジプトのプロピデンスの目
人類の秘法(道=真理)がどのように伝えられてきたか、各宗教の経典に伝承されていますが、時代が下るとその解釈は有名無実となってしまいました。老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯(キリスト教の『聖霊と火』によるバプテスマ的秘儀)を伝授しました。
老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命(性)の微妙な出入り口)
釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。
また、摩訶迦葉に法灯を伝え「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」【粘華微笑、玄嚢鼻直】と説法し、正しい法が目の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)への妙なる心のように、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。
聖書では、ヨハネ14章1節ー6節、トマスが言った。「主よ、どこへ行いけばいいのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 父のもと(天国)へゆくには、「道であり、真理であり、命である」わたしを通らなければならない、と・・・。
道と真理が意味する「命」とは、本来の魂のことでスピリチュアル(霊)のことです。漢字文化では「性」、つまり創造主の分霊の意味です。
「わたしを通らなければ」は、キリストがゴルゴダ(しゃれこうべ)の丘で磔にされた3つの十字架の真ん中の十字架(真理の目)、それが道であり、真理であり、性(わたし)に通じなければならないと・・・
どの経典でも、これは名のつけようもなく、あえて「道」といい、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。
縄文時代の遺跡の標本にも眉間に仏像と同じように心眼の印があります。海外に持ち出されているコレクションには歴史の真実を隠蔽するためのものもあります。
※ このデータベースは東京大学総合研究博物館・人類先史部門所蔵の土偶、その他土製品、岩版、岩偶などの石製品若干数、総計800点ほどの先史・考古学標本の画像データベースです。当コレクションは1877年のE.S.モースによる東京大森貝塚の調査まで溯り、ほとんどの標本が明治期後半から昭和初期に収集され、中でも明治期に由来するものが多い。これらの標本は、日本の人類学、考古学の草創期に本学の研究者による学術調査の一環として、あるいは寄贈品として集積されたものです。このため、当館のコレクションには学史的に重要な標本が多数含まれ、また、優品が少なくありません。
Blog「 道 」より転載