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観音菩薩伝~第30話 保母と永蓮は須達徳に救いを求める、 第31話 大師、跣足の行脚を覚悟される

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2016年 8月23日

第30話 保母と永蓮は須達徳に救いを求める

 保母と永蓮の二人は、やっとの思いで塞氏堡に辿り着きました。早く誰かに会って救いを求めなければと辺りを見廻すと、向こうの屋敷の前で大勢の人が石垣を作っているのが目に入りました。二人が急いで近付いて行くと、相手の工人たちも二人の比丘尼姿を見て珍しそうに近寄って来ました。この地方には、尼僧がいないのです。

挨拶もソコソコに保母は哀願に似た表情で金輪山での出来事を語り、直ちに救助に向かって欲しい旨を伝えました。周囲で話を聞いていた工人たちは開いた口が塞がらないといった表情で驚き呆れ返っていましたが、暫くして一人が

「何という恐ろしいことを」

と口を切ると、皆が次々に言い出しました。

「危ない事ですから、行くのは止めなさい」「貴方たちが助かっただけでも幸せです」

 誰一人として、助けに行こうとは言いません。二人は、必死に哀願しました。丁度その時そこへ役人が来て大声で

「仕事もしないで、何を騒いでいるのか」

と怒鳴り付けたので、工人たちは驚いて左右に分かれて道を開けました。工人頭が進み出て役人に二人の話した一部始終を告げた後、更に小声で何事か話し合っていましたが、話し終わると役人は

「お二人を私の家まで丁重に案内するがよい」

と命じました。この役人の名は須達(すだっとく)と言い、長年塞氏堡の堡官(ほうかん)を務め、また村長でもあります。品徳が備わっていて、平生は善を楽しみ、物を貧者に施すことが好きで、この地方では人徳者として人々から慕われています。

 保母と永蓮は須達の家に案内され心の籠った待遇を受けましたが、怪物に攫われた大師の事を思うと二人は気が気でなく、厚く礼を述べると共に大師の救助を急ぎ取り計らってもらいたい旨、再三に亘って須達に依頼しました。しかし須達は、固く首を横に振り

「彼等は、怪物でも夜叉でもありません。未開の人間です。平素は外部と隔絶された状態で生活しており、言葉も通じず、勿論情理の分かる種族ではありません。風俗習慣も全く異なる一種の食人種で、しかも非常に凶暴で大変危険な種族です。それにあちこちの山野に散在していて、定まった住居すら分かっていないのが実情です」

と気の毒そうに言いました。

「では、どうすればよいのでしょうか」

「お助けする方法はありません。ご同伴の師父も、今頃は既に命を落としていることでしょう。無慈悲なようですが、彼等の残忍さは私がよく知っています。今まで道に迷い彼等に捕らわれた人で助け出された者は、一人もおりません。もう、諦める他ありません。お二人で須彌山に行き、師父が成佛されるよう祈って上げなさい」

 二人は、この言葉を聞いて堪え切れず、思わず俯伏して号泣しました。特に保母は、取り乱して

「大師様。貴方は今まで専心修行されて、美声も耳を悦ばせず、美香も貴方の鼻を乱すことが出来ず、美味・美色も貴方を擾(みだ)すことが出来ず、一切の富貴栄華も貴方の心意を動かすことが出来なかったのに。私が今暫しの山景を貪り眺めただけで、このような災難を招くとは。今後、どうすればよいのでしょう」

 腸(はらわた)を千切られるような慟哭は、周囲の人々の涙を誘いました。

「私の所為で、大師をこんな結果に陥れてしまいました。私は、何と言う罪深い女でしょうか。大師を失って、私の生涯に何の目的がありましょう。王に何と言ってお詫びすることが出来ましょう」

 幼少の頃から大師を育て、大師と行を共にして来た保母の悔恨は無理からぬ事です。須達は、ただ目を固く閉じてこの嘆きの言葉を聞くばかりです。

 長い間泣き続けて少しは気が静まった保母は、身なりを正して須達に向かって丁寧に頭を下げ、取り乱した無礼を謝し、永蓮を促しました。

「永蓮よ。私たちがここで取り乱していても、何の益にもなりません。彌陀の御加護を祈って、二人で参りましょう」

「何処へ」

「金輪山へ。私たちは、大師のお供をしてここまで来たのです。大事な大師を失った今、二人だけで須彌山へ行って何になりましょう。もう一度、金輪山へ戻りましょう。恥と悔いを抱いて生きるよりも、大師の後を追って美しい名を飾りましょう」

「保母様。よく言って下さいました。金輪山へ行って毛人たちに加害されるのも、前世からの宿命でしょう。一緒に参りましょう」

 二人は、急いで発とうとしました。須達は、これを見て驚いて二人を押し止め

「とんでもない。そんな無茶なことを。早まってはなりません。お二人の気持ちはよく解りますが、虎口に入るのをみすみす座視するわけに行きません。まあ、落ち着いて座って下さい」

「いいえ。これは、私たちの心愿(心願)でございます。堡官様とは、何の関係もございません。止めて下さいますな。生死を共にするのが、私たちの運命です」

 二人は、どうしても留まろうとしません。須達が引き止めるのを振り切って、出て行こうとしました。須達は、慌てて家人を呼び二人の袖を引いて留めました。こうして揉み合っているところに、一人の村人が息を切らして飛び込んできました。

「堡官様、大変です。たった今、堡外に白象に乗った一人の行者が現れました。尼僧のようですが、こちらに向かって来ます。どうしましょうか」

「もしかしたら、貴方たちの師父ではありませんか」

 永蓮は、首を振って

「大師様は、徒歩で、何にも乗ってはおられません。別の方でしょう」

と言ったものの、もしも大師であったなら、という淡い希望もあって二人は急いで外へ飛び出しました。村外れまで走りながら、保母も永蓮も両眼を一杯に見開き、遠くの方から近付いて来る白象の行者を見詰めました。

 象は、ゆっくりと近付いて来ます。白象の上に端然と座っている姿は、大師と寸分も違いありません。

「正しく大師様だ」

 二人は同時にそう叫ぶなり、歓声を上げて走り出しました。嬉しそうな二人に出迎えられた大師は、無事な再会を心から喜ばれました。大師は二人に案内されて村人たちが集まっている広場まで来ると、ゆっくりと象から降りて丁寧に合掌し、出迎えた須達と集まった村人たちに挨拶をしました。

 やがて須達の家に落ち着いた大師は、須達や家人に保母と永蓮が世話になった事を謝し、皆の質問に答えて今までの出来事一部始終を語りました。何という奇蹟的な生還でありましょう。皆は、感動して、大師の話に聞き入ってしまいました。

「私はこの村に長年住み今では堡官と村長を兼ねていますが、今まで金輪山に登って捕らえられた者が無事に帰ってきたという話を聞いたことがありません。何と聡明な智慧深きお方でしょう。それにこの白象の出現は、きっと佛陀が貴方様のために差し遣わされたものに違いありません」

 力を籠めて言う須達の言葉に、皆も本当だ、本当だと相槌を打ち、手を叩いて心から大師の生還を祝うのでした。

第31話 大師、跣足の行脚を覚悟される

大師の奇蹟的生還が瞬く間に全村に伝えられ、大師を一目でも見ようとして大勢の村人たちが詰めかけたので、須達の屋敷は忽ち人で一杯となりました。これを見て須達は、何か考え込んでおりましたが、やがて大師に願い出ました。

「大師様。この地方では、佛陀の教えが未だ余り伝えられておりません。今日は大師様の奇蹟の生還で村人たちは、佛陀の偉大さに感動しております。大変お疲れでしょうが、大勢集まっておりますので、愚かな私たちに説法して下さいませんでしょうか」

 未だ疲れの取れない身体でありましたが、大師は喜んでこの申し出に応じ広間に出て行きました。

「諸衆と縁を結ぶことが出来たことを幸せと存じます。世の中は縁生・縁滅の憂苦・煩悩の世界であり、諸行は無常です。人はこの中に溺れ罪業を為して四生六道の輪廻に巻き込まれ、その尽きない苦しみの柵(しがらみ)から脱することが出来ません。富貴栄華は一場の夢、名利恩愛は瞬間の幻です。人間の一切は皆苦であります。先ず生まれて一生を活きていくことは苦であり、老弱も苦であり、病魔も苦であり、死もまた苦であります。更に、怨み憎む者に会うのも苦であり、愛する人と別れるのも苦であり、求めて得られないのも苦であり、この有情を形成する色受想行識の五蘊の心身に及ぼすもの總べてはみな苦であります。

 人はこの八大苦に冒され五体の束縛を受けて五濁の世界に繰り返し転生し、何時の世にも生死の超脱が出来ないままに今日に及んでいます。ところが、この時佛陀が命を受けて顕現され、十六年間苦行した結果、燃燈佛(ねんとうぶつ)から般若の正法を授記され、瑜伽菩提(ゆかぼだい)の密法を得、煙雨降りしきる中で遂に大圓鏡智(だいえんきょうち)、無相三昧(むそうざんまい)の境地に至られ無上正等正覚を得られました。そして身を立て、衆生に未来永遠の解脱の法を伝え、涅槃への正道を縁有る人々に伝え導かれました。諸衆がこの理を悟り、前業を愧(は)じて解脱を欲するならば佛道にお入り下さい。如来の寶筏(ほうはつ)は、縁者を乗せて彼岸に到らせます」

 大師はここで皆の顔を見廻してから更に解り易く佛陀の根本義、正法の宏大無辺を諄諄と説かれました。溢れるばかりに集まっていた人達は、深閑とした静寂の中で咳(しわぶき)一つ無く、時の経つのも忘れて熱心に聞き入っておりました。

 説法が終って大師を部屋へ案内した須達は、感激を面(おもて)に表わしながら訊きました。

「お見受けしたところ大師は芳齢(おとし)もお若く、その上人品も卑しからぬ御風貌で、確かに高貴な身分のご出身と思われますが」

 大師は、静かに笑うだけで答えません。すると永蓮が一膝乗り出し、大師の言付けも忘れて

「そうです。大師は興林国の第三王女に当たられる方でございます。ご幼少の頃から富貴に惑わされず、只一心に佛陀の瑜伽の大理想を慕い、只管(ひたすら)修行に励んでこられたお方です」

と語り始め、花園修行の事から白雀寺焼失の事など涙と共に話し、更に

「災難を免れることが出来ましたあの草鞋も、実は大師ご自身が平素修行の傍ら編まれたものでございます」

と大師の日常のご様子を皆に聞かせました。

須達をはじめ、家人はただ感激するばかりでした。側にいた保母は、優しく永蓮を眺めながら

「永蓮様はもと王様の忠実な官女で、王様の命を受けて姫君であった大師の監視役に来られたのですが、偉大なる大師の教えを悟り修行を決心されたのです」

と語りました。益々深く感動した須達は、大師に向かい

「大師の御決心は必ずや正果を成就し、それによって萬代の功徳が培われましょう。私たちは、喜んで大師に帰依いたします。それにしても大師が苦労して編まれた百余足の草鞋が毛人に奪われ、さぞかし御不便でしょう。今後千里の行脚に履き替えが無ければお困りでしょうから、教化旁々数日間御滞在願えれば、代わりの草鞋を編んで差し上げたいと存じます」

すると大師は、掌を合わせて厚く礼を述べ

「堡官よ、あなたの真心は心に刻んで忘れません、しかしそれを頂くわけには参りません」

「草鞋も無く、今後どうなさるお心算ですか」

「跣足で行脚を続ける覚悟です」

 これを聞いた須達は、驚いた様子で

「大師、それはとても無理なことです。須彌山までは千里の道程です。さらに風雪と険しい山河、深い谷が横たわっております。また、砂漠も越えなくてはなりません。とても跣足で行くことはできません」

「跣足で行脚するのも修行です。やって出来ないことはありません」

 須達は、大師の心を計りかねて

「出家人は、十方の供養を受けると聴いています。何故お受け取り下さいませんか」

と問いました。

「そなたは、その一を知っていても二を知りません。出家人が十方の供養を受けることは、間違いではありません。しかし行者が受ける一飲一飯には前から定まった因があります。仏法ではこれを縁と言います。私が宮中で罰せられて草鞋を編んだのは、因を蒔いていたのです。この度この草鞋のお陰で、虎口を脱することが出来ました。これは、果を収めたのです。因果とは、相報いることです。草鞋と私との縁法は既に尽きました」

「それでは、ほんの僅かな数だけでもお受け取り下さい」

「いや、例え一足でも頂けば因となります。私はもうこれ以上、別の因果を蒔きたくありません。まして彼の草鞋は、私の命を助けた功があります。だから今後は、再び履くわけには参りません。例えばここに私達の命を救った恩人があるとすれば、私達がその人を尊敬することは当然です。それを尊敬しないばかりか、反対に踏み付けて陵辱することは許されるはずがありません」

「草鞋は、人間ではありませんが」

「そうです。草鞋と人間は比べられませんが、その理は同じです。私は、今後甘んじて素足で行脚する決意です。また道々白象に乗りますから、どうかお心遣いはなさらないようにして下さい」

 須達はじめ家人達は、大師の決心に心から感激して、これからの行脚が無事でありますようにと祈りました。

続く


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