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観音菩薩伝~第22話 大師、貧民を救済し、布施の義を説く、 第23話 大師、坐行の極地を教えられる

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2016年 8月17日

第22話 大師、貧民を救済し、布施の義を説く

 寒風の吹き荒ぶ、厳しい冬がやってきました。崑崙(こんろん)山脈の峰々は、すっかり白銀一色に蔽われました。興林国は高地に位置しているために冬は早く訪れ、寒さも厳しさを増します。それに金光明寺は一段と奥まった山腹にあるため、冷気は更に人の肌を刺し、人々はすっかり冬籠もりしてしまいました。
 あれほど盛大であった説法会も、寒さの所為か集まる人は僅かになり、寺は日ごとに淋しさを増してきました。寒い冬には出足が鈍って集まりが悪くなるのは無理からぬ事ですが、それにしても最近の激減に不審を抱いた大師は、保母にその原因を問いました。
「それは、決して大師の所為(せい)ではございません。御存知ないかも分かりませんが、聴講に来られる大多数の方は貧しい人達ばかりです。今年の冬は例年に比べて寒さが際だって厳しく、私の聞き及んだところによれば、衣服が無くて出るに出られない状態だとのことです」
「それは知りませんでした。何故、もっと早く話して下さらなかったのです」
大師は直ぐに比丘尼を呼び、寺院尼僧が織った布生地を全部出させ、早速衣服や頭巾(ずきん)を縫わせました。自らも縫い、比丘尼達や在家の優婆夷(うばい)達も手伝って、昼夜を分かたず衣料を縫い続けました。足りない分は城下まで買いに行かせました。
 この噂が伝わって、養蚕農家や製糸に携わる家々から数多くの生糸が送られ、また牧畜織物を業とする人々から毛織物が贈られ、綿花を産する人達からは布団(ふとん)用の綿が寄進されました。人々は大師が人から施される喜捨を好まないことを知っておりますので、夜中に黙って寄進の品々を持ってきては寺院の軒下に置いて帰りました。
 興林国は一般農業のほかに多くの綿花を産し、また桑樹の生育に適した土地柄から養蚕業や製糸業が発達し、緬羊中心の牧畜も盛んなため毛織物業も進んでいました。
 大師は、このようにして出来上がった衣服や頭巾などを説法会に来た人々に施し、また遠く山河を遍歴して求法に来た人には止宿させ、温かい食事と衣服をあてがって休息させました。大師は遠近を問わず救いを求めて来た人には、一視同仁、平等観を以て鄭重に接し、熱心に法義を説きました。
 このような大師の温かい配慮によって人民は救われ、説法会には再び人々が集まり始め、以前にも増して活気に溢れるようになってきました。
 人々は慈悲深い大師のお側に住みたいと願って続々と寺院に詰めかけてきたため、終には寺院に収容しきれなくなりました。そこで大師は、これらの人々に随意山林を切り拓いて自分達の家を造ることを許しました。
 この事が人々の間に大きな反響を呼び、大師の傍らに住める喜びを抱いて国中から集まってくる人々が後を絶たず、このため猛虎が棲むと恐れられていた耶摩山麓一帯は一変して市街地と化し、住民は嬉々として心から満ち足りた日々を過ごしていました。
 潤いのある生活、煩悩と憂愁のない生活は、如何なる富貴や地位にも勝ります。権勢・財力があっても、怯えと危惧のある毎日を過ごす者は不幸であります。生死に不安なく永遠に超脱を得られた人々は、一時的に天下を取った人よりもなお至福です。一世を風靡するような権力を握ったとしても、それがやがて失われるものである以上、むしろ久遠の徳を積むほうが遙かに栄誉であります。
 今や耶摩山の別天地は人々の憧れの場所となり、理想的な極楽境となりました。大師の慈悲は人々の大きな支えとなり、また人々の小さな誠が結集して大きな寄進の原動力となり、城下の富豪・財産家達も感動して、進んで多額の喜捨・寄進を申し入れるようになりました。しかし大師は、一部の人の虚栄心と功名心に利用されることを懼れて、当初は鄭重にこれを断りました。富豪達は自分の誠意が認められないことを怨みましたが、大師の戒めの意を知って、真実、誠の表れであることを示すために匿名で金品を金光明寺の財施箱に入れました。これがために大師の貧民に対する施しは、長く続いて絶えることがありませんでした。

 このようにして全国各地から匿名の金品が続々と贈られてくると、これを取り扱う比丘尼の中には、知らず知らずの間に物を粗末に扱う者が出てきました。大師は、少しでも物を粗末に扱う者には厳しく誡めました。
「諸比丘尼よ。物を粗末に扱うことは、人の真心を粗末に扱うことです。
仏陀の教えの中に
『仏家の一文の銭は重きこと須弥山の如し、もし誠心を以て修めざれば毛を被り甲を戴きて還す』
とありますが、修行者は人の施しを自分の為に用いるは勿論、修養に利するにしても間違いの無いようにしなければなりません」
 また、特に個人への布施を極力戒め
「およそ仏門に帰依する者は、一文の施しを受けても重い責任を負わされます。もしこれを疎かにし、また報いなければ、来世は畜生に転生して償うことになります。人の施しに甘んじて人に施すことを忘れた人は、大きな罰を受けなければなりません」
 このとき永蓮が大師に問いました。
「大師はいつも富豪者からの喜捨を極力拒んでいるようにお見受けしますが、それはどういう意味でしょうか」
 大師は永蓮を見て
「貧者、富者の施しに量の多少はあっても、真心の表れには変わりはありません。それをお受けして用いる私達に、人を計る目の高低があるのを怖れます」
「どうしてですか」
「貧富の差はあっても施す人の心に大小はありませんが、修行の未熟な人は、受けた量の大小によって人を見る目に違いが生じるのです」 「そう言われますが行者は、十方(じっぽう)の供養を受けてもよいと聞いていますが」
と永蓮は、納得できないので聞き返しました。
「十方の財施をお受けしても、今言ったように、十方に法施をもって還さなければなりません。行者は法を求め、正覚(しょうかく)を得るために苦行難行をしているのです。その目的を達するために、人の助けを借りるのです。まず、仮の肉体を維持するために真心のある人から食を乞うのですが、やがて自分がその目的の法を悟り得て得道した暁には、逆に法を施してその霊を救ってお還しするのです。ところが、そのお受けした糧の量だけの法を果たして私達は、法施して人々の心の飢渇を充たすことが出来ましょうか」
「よく解りません。もっと詳しくお話し下さい」
「行者は法を求めるために食を乞う、これは目的があるからよいのです。俗家はそれによって行者との因縁が結ばれて、仏門に功徳として残るでしょう。つまり一椀の残飯といえども仏の因縁があり、一掬(いっきょく)の茶水にも菩薩との縁があります。お受けした行者は、一日も早く得道して正果を成就し、その人達を度(すく)う責任があるのです。私はまだ法を悟得しておりませんが、果たして法を得たとしても、その人達に仏縁の機が熟しているかどうか分かりません。ですから、法施を還されない人達から寄進を受け取ることが出来ないのです」
「どうして富豪者に法施して還すことが出来ないのですか」
「富豪者には、物質に対する傲りがあります。迷いが深いのです。同じ施しでも、貧者に比べて功名心が強いのです。場合によっては、財施が救いの条件になると錯覚します。だから同じ喜捨を受けるにしても、先ずその人の心を見定めなければなりません」
「けれども今までに喜捨を受け取っておられますが、それは法施することが出来るお考えがあるからではないのですか」
「匿名の喜捨は、私にではなく、仏門に寄進したのです。未だ得道していない私には、応供者になる資格がありません。仏門に喜捨すれば、やがて仏陀の得られた正法を得る機会に巡り会いましょう」
「ところがその財施は、実際には仏に捧げたのではなく、人々に施してしまっておられますが」
「仏陀は、お金を必要としません。報恩のつもりで献じた金子物品は、今度は仏陀の恩徳として人々に与えられるのです。私達は施しをした人と、それを受けた人の両方に縁を結んで上げています。その何れとも、仏陀が求め得た正法を求め得られるでしょう」
「喜捨すれば功徳が与えられると言われていますが、匿名でも分かりますか」
「法光は無量無辺、三千大千世界を隈無く照らし、天眼仏眼は三世万世を見通されます。いくら匿名にしても、功徳として残ります。その代わり私達は、私心無く公明正大に、これらの寄進を衆生済度のために使わなければなりません。それが私達の役目です」
 永蓮は、感激して、大師に深く頭を下げました。

  第23話 大師、坐行の極地を教えられる

 耶摩山麓が開かれて以来、猛虎の害は全く見られなくなりました。貧者・富豪を問わず絶えることのない喜捨があったお陰で大師の慈悲行は何時までも続けることが出来、大師の徳が高まって行くに連れて金光明寺一帯は興林国の平和境として、また信仰の仏地として賑わいました。
保母は温順・慈覚の性に富んでいたため、修行も深まりました。一方、永蓮の進歩は群を抜き、その卓越した理論は若い尼僧を啓蒙するほど急速に進み、大師も大層喜ばれました。保母の静に比し永蓮は動的に物事を処理して、両者よく大師の行を補佐しました。
 しかし大師は、心底から今の行に満足しているわけではありません。大師の心の隅から離れないのは、須弥山への遍歴求法(ぐほう)であります。早く訪れて自らの手で白蓮(びゃくれん)を探し求めたい、それに加えて、かつての花園で老僧から告げられた得道を果たしたいことであります。
 一日も早く面授(めんじゅ)口訣(こうけつ)を実現し、世の衆生を救済して霊苦を解脱(げだつ)させて上げたい。無尽の法門を学知し無上の仏道を証せんとする弘誓・大願を果たすにしても、先ず自らの心眼を開いて悟境に達することが必要なのです。この切実な問題は、日が経つに連れて朝夕深刻に大師の心を占めるようになりました。
 無辺の衆生を済度し、無数の煩悩を断じてきましたが、ただ何事の成就にも機があります。機が熟さなければどうすることも出来ず、耶摩山中に人が集まるほどに大師は重い荷を負うような気持ちになり、法を聞く人が増えるに連れて大師の悩みは多く募るばかりでした。そのような毎日を送っていたある日、永蓮が目を輝かして大師の部屋に入ってきました。
「大師、昨夜私が瞑想に耽っているとき、夢(ゆめ)・現(うつつ)の中に奇妙な現象を観ました。私の霊魂が身体から離れて、一路南に向かって跳出していたのです」
 大師は、永蓮の顔を見ながら、目でその先を話すように促しました。
「気候の暑い方向へ何百里、何千里歩いたところ、ある海辺に差し掛かりました。そこには襤褸(ぼろ)を纏った大勢の人の群れがざわめいて集まり、何かを話し合っていました。みな痩せ細って顔色は青白く、全く生気なく困窮している様子でした。何の集まりで何を困っているのかと私が問いますと、万国四方から逃れてきた難民だと言うのです。今、世を挙げて災害と戦乱の最中にあって農地は荒らされ、家は兵火に焼かれ、命辛々ここまで逃げて来たのです、と涙を流して語ってくれました。そして口々に、私達は未だよいほうで、生民(しょうみん)は塗炭(とたん)の苦しみに遭い、着る物もなく木の葉で身体を蔽い、食べる物もなく草の根を掘って飢えを凌ぎ、寄る辺なき日々に救世の聖者を待ち望んでいる状態です。彼らの悲惨な姿に比べると、未だ私達のほうがましな生活をしています、と話してくれました。
私は憐憫の情を抑えきれず、彼らに言いました。もし本当に楽土と救世の大非者を捜そうと思えば、西方興林国、耶摩山麓にある金光明寺にお越し下さい。そこに妙善大師がいらっしゃって皆様の災難をお救い下さるでしょう、と言って別れを告げ、心を残しながら帰り掛けました。すると丁度その時、砂を飛ばし石を走らせる一陣の突風が吹き、見る見るうちに今まで語り合っていた難民は、虎や狼に変じて私に襲い掛かってきました。吃驚(びっくり)して声を挙げて逃げようとしたとき、誰か私を呼んでいる声を聞いて私は瞑想から目覚めました。そして傍らを見ると、保母様がいらっしゃいました。決して、眠って夢を見ていたのではありません。一体、どうしたわけでしょうか」
「永蓮よ。それは、そなたの坐法が迅速に入定(にゅうじょう)に進んでいるからです。入定の状には真理を悟り一切の煩悩の過非を離れた清浄無垢の智慧(ちえ)を現す場合と、幻覚・影覚が心境の中に人天(じんてん)の色声(しきしょう)を映ずる場合と二通りあります。前者は元神(げんしん)の出竅(しゅっきょう)であり、後者は識(しき)神(しん)の出竅です。識神の出竅は比較的容易ですが、元神の出竅は容易ではありません。そなたが見た現象は識神の出竅で、未だ色象界(しきしょうかい)から離れていません」
 聖者が全ての心想を滅し尽くして寂静(じゃくじょう)に至る過程には、坐行中、種々の現象を霊覚で見ることがあります。永蓮は、緊張して尋ねました。
「元神と識神の別を、もっと詳しくお教え下さい」
「元神とは元の霊性、即ち本来の仏性(ぶっしょう)です。純真玲瓏(れいろう)としていて、未だ六塵・六識そして人執を起こす思量のない末那識(まなしき)です。識神とは五感を得、五濁(ごじょく)に染められた習性のことです」
「識神の出竅について、もっと詳しく説明して下さい」
「識とは、客観万有の対象である色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の六境に対して、私達がそれぞれを見・聞き・嗅ぎ・味わい・触れ・知ることによって了別した眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の働きがある心を言います。平生の生活に、これらの働きが心霊の上にもそのまま再現して映ります。思量識も、蔵識も識神に数えられます。つまり眼界、意識界を通じた色受想行識の五蘊(ごうん)の境界で、言わば今の私達の感情的働きのある人心を主としたことを言います。例えば、坐行を組み瞑想に入ったとします。初めは色々な景色を見たり、声を聞いたりします。その状態が美景で素晴らしい匂いを覚えたり、味を感じたり、体覚・触覚を感じたりします。その声音が立派な響きであっても、よくありません」
「それは何故ですか」
「識界には極限があるからです。如何に広くとも、大きくとも無限ではありません。自分の霊作用に色声が映るのは、この慾界(よくかい)・色界(しきかい)を離脱していない証拠です。そなたの見た姿は、識神の現れで、現在の生民の塗炭の苦しみを見たものと思います。遠隔地から霊能が反応して、人々の苦しみからの解脱を求める声を聞いたのです。色象声音は、人心肉体の生活に結び付いているからです。およそ形象として見られ、音声として聞こえ、温冷として感じるのは、この生死間の色界、因果界だけです。想念の世界に幻影として浮かぶ間は、未だに因果界の輪廻(りんね)から脱することが出来ません。まして涅槃(ねはん)に至ることは、とても叶いません。実相真如を証する涅槃は、生死(しょうじ)を超越した不死の境界で、永遠不退転の境地です。色声があれば、念が生じます。念が生ずれば、煩悩の束縛を受け、内外の魔は即刻その念に乗じて入り、また所縁の纏わりを受けて人間に関連してしまいます。もし邪悪な念を起こせば、忽ち六賊が跋扈して、入定するのを掻乱してしまいましょう。識神の出竅中に邪念に侵されると、それを真正の霊覚と錯覚し、その色象、声音の命ずるままに走ります。その時の観念によって五慾の境を極楽境と思い、貪着の執心をもって真の仏・菩薩の所念と断じるようになります。気を付けないと、真に恐ろしいことです」
 いつの間に来たのか、側に保母と多利尼、そして舎利尼が熱心に話を聞いていました。次に、保母が尋ねました。
「元神の出竅をお教え下さい」
「元神が出竅すれば、無極限の大霊界に帰入することが出来ます。元神が出竅すれば、一念不生、六根清浄(ろっこんしょうじょう)の境地に至ります」
「どのような感覚がありますか」
「無念無想、無為無識、無人無我、無住無慾の境地に何の感じがありましょう
 保母は黙って頷きましたが、多利尼は納得できないので聞きました。
「何の情景が見えますか」
「無一物、無色、無限の境界に何が見えましょう」
 多利尼は解らなくなって
「何も感じず、何も見えなければ殺風景で、極楽境とは程遠いではありませんか」
 永蓮は思わず笑い出したが、大師はそれを窘(たしな)めて多利尼に答えました。
「無辺空無こそ無限楽・無尽楽の極楽の境地です。菩提感・醍醐味を味わえます。偏邪なき真理は、一切万有を創造する真空であるが、非空にして妙が無窮にあるのです。そこは、人世の如何なる譬喩(ひゆ)をもってしても形容できない所で、正覚を成就した人のみが得られる境地です。常に大悲・大智を以て自利・利衆の作用がありますが、その体は常に寂静の一切感を断ち尽くした悟覚の境で、人間の世の並の楽感覚では比べることの出来ない素晴らしい甘露が充満しています」
 今度は、舎利尼が聞きました。
「大師は、その境地に至られましたか」
 一瞬、大師の眉宇は悲しそうに曇り
「私は、未だ得道していません。人心を明師から直指(じきし)されていないので、未だ明心見性の境に達していません。悟っては迷い、迷っては悟りして未だ究竟(くきょう)の般若(はんにゃ)を開かれていません。得道するまでに三千の功徳を積み、八百の果を重ね、数多くの魔障を受けてもなお不退転の意思を持ち続ければ、何時か必ず得道の機会が訪れましょう」
と熱を込めて語りました。そして永蓮の話に戻し、永蓮に向かい
「永蓮よ。常に雑念に侵されず、身心の?礙(けいげ)を遠離(おんり)し、共に法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳を求め、純静(じゅんじょう)を保ち専心霊光の純熟を修め、更に大進歩を果たすことを望みます。正しい道を歩み続けていても、最初に一厘の誤りでもあれば、それがやがて千里の隔たりになってしまいます。よく考え、気を鎮めることです」
 四人は、諄々と説く大師の言葉を陶然として酔ったように聞いていました。理解できない点も多々ありましたが、何となく仏法の奥義(おうぎ)に触れた感じがしました。しかし保母は、今までにない厳しい表情の大師の顔を見て、これは何かを決意されているに違いないと気付きましたが、今は黙って何も言わず、大師の教えに感謝して手を合わせました。

続く・・・


 

  

転載:Blog "" Deshi.A

観音菩薩伝をお読みいただき大師の生き方に共鳴する方へのメッセージです。時代こそ違いますが、お釈迦様もしかり、観音様も解脱の道を求めて修道をしていました。

「第23話 大師、坐行の極地を教えられる」の中で、“一瞬、大師の眉宇は悲しそうに曇り「私は、未だ得道していません。人心を明師から直指(じきし)されていないので、未だ明心見性の境に達していません。悟っては迷い、迷っては悟りして未だ究竟(くきょう)の般若(はんにゃ)を開かれていません。得道するまでに三千の功徳を積み、八百の果を重ね、数多くの魔障を受けてもなお不退転の意思を持ち続ければ、何時か必ず得道の機会が訪れましょう」” と、おしゃっておられるように、3千年前からつい最近の百年ほど前までは、求道し得道することは至難の技でした。

しかし、聖人・仏など高次元の聖霊が天地造物主へ働きかけ、私達凡人でもこの「道」を得ることができるようになっています。今日は偶然このことについて、アルクトゥルス・・・2015年1月28日 惑星の次元上昇で、多次元宇宙を体感する7次元以上の物質界を超える道が開かれていること語っています。このことが、この時期人類にとって最も重要な課題です。戦後69年間、安全で豊かな軌跡の生活環境で育ってきた日本人が、これから経験する自己との対面と経済社会の激変の中で、何を求めなければならないかが明確になってゆきます。

どんな高度な情報でも手に入りやすくなっている情報社会で、優秀な人ほどその情報で自己を確立していますが、それは入口を狭め、落とし穴を深く掘ってしまうことになってしまいます。「道」は情報や知識ではなく、天命を果たすため天地造物主(母親)から離れたあなたが母の元に無事に還れるよう、母親が持たせてくれた「お守り」です。それを道といい、真理ともいいます。

道は、あなた自身によって真の気づき(縁)をもたらします。

参照:一なるもの~さらなる進化の始まり

 

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