★
サンジェルマン
St. Germain
開示-わたし達の真の歴史
大いなる秘密:伯爵サンジェルマン
Disclosure - Our true history
Great Secret: Count St. Germain
May 10, 2016
ニューサンユニティ経由
By NewSunUnity
その人生を通して、フランシスコ・ベーコンの最も大切にした希望は、大西洋を超えたひとつの理想郷の創造、賢人達や科学者達によって統治された自由民のひとつの社会の形としての彼の“新しいアトランティス”の実現でした。
そこでは、彼のフリーメーソンと薔薇十字会員の原則が、新しい国家の社会、政治、そして経済の体制を統治することになっていました。
彼が大法官としてアメリカの植民化にそういったひとつの積極的な関心を抱き、バージニア州のジェームズタウンの形成を手助けしたのは、これがその理由でした。
トーマス・ペインの執筆とトーマス・ジェファーソンの記事を通して、それと同時にその最も卓越した人物がジョージ・ワシントンとベンジャミン・フランクリンであった彼の数多くの薔薇十字会員やフリーメーソンの仲間達の革命活動を通して、彼はアメリカの中で彼の政治哲学に専念するひとつの新しい国家を創り出すことを期待しました。
アメリカの秘密の運命の中で、現代の学者の中でベーコンの最大の理解者であるマンリー・ホールは、1776年の独立宣言の署名に先立つアメリカ中で、ひとりの神秘的な薔薇十字会員の哲学者、大地の上で育った食べ物だけを食べ、フランクリンとワシントンの友人であり、そして新しい共和国の設立において重要なひとつの役割を果たした、ひとりの厳格な菜食主義者の出現について言及しています。
彼が存在したことは確実であり、そのためほとんどの歴史家達が彼の名を挙げるようとしなかった理由は、ひとつの謎です。
彼は、“教授”として認識されました。
フランクリンとワシントンと一緒に、彼は1775年にアメリカ国旗のひとつの図案を創り出すために大陸会議によって選定された委員会の、ひとりの議員でした。
彼が作ったその図案は、その委員会によって受け入れられ、最初の見本を制作するためにベスティ・ロスに与えられました。
一年後の1776の7月4日、誰もその名を知らなかったこの神秘的な異邦人は、突然独立記念館の中に現れて、そこに集まった脅えた人々にひとつの刺激的な演説を行いました。
人々は、トーマス・ジェファーソンが書いたその記念すべき書類に署名することによって反逆者として自分達の生命を危険に曝すべきかどうか迷っていました。
トーマス・ジェファーソンの理想とする人物は、リーメーソンリーと薔薇十字運動の本当の創設者であるフランシス・ベーコンでした。
その教授が考案し、1775年にマサチューセッツ州のケンブリッジで公開されたその国旗は、植民地の結束を象徴しました。
それは大いなる連邦旗と呼ばれ、その図案は以下のようなものでした。
その左上隅の青地の中に聖アンドリュースの白い対角線の交差がありました。
これに挿入されたのが赤い十字であり、それは聖ジョージの名前が与えられました。
13の縞模様、その国旗の中で交互に描かれた7つの赤い縞と6つの白い縞が、13の植民地を象徴しました。
その国旗はしばらくの間用いられましたが、しかしそのイングランドとスコットランドの統合を象徴したと言われている英国国旗との類似性のせいで、それに関してかなりの物議を醸しました。
この異議を克服するために、1776年に最初の図案の精神に倣った別の国旗を考案することが決定されました。
そして直立した三角形に対して倒立させた三角形は、一般的に聖アンドロスの十字、カバラを起源とするメーソンの象徴、その国旗の創案者はひとりのメーソンであり薔薇十字会員だったことを意味するものとして認識され、新たな配置の形で青地の上に不規則に設定された六芒星を利用することによって把握されました。
将軍ジョンソンと博士フランクリンがその国旗を作る際にその協力を得るためにエリザベス・ロス別名ベスティ・ロス夫人を訪れた時、その教授の最初の図案の六芒星よりも五芒星の方が美しいと彼女に訴え掛けました。
従って、彼女の審美眼に対する敬意から、代わりとして五芒星が用いられ、基準となる7つの赤と6つの白の横縞を持った青い領域上のひとつの環の中に、13の五芒星が配置されて、その国旗を完成させました。
この単純な旗は、独立宣言の直前に製作されましたが、それでもその国旗を承認する決議は、1777年7月14日まで大陸会議で可決されませんでした。
2回目の会議の時、この神秘的な異邦人であるその名前と出自が未知の“教授”が、アメリカの歴史の中でひとつの極めて重要な役割を果たしました。
それは独立宣言の署名の時でした。
1776年7月7日、バージニア週からの代議員であるリチャード・ヘンリー・リーが、植民地連合は、当然の権利として、自由で独立した州でありそうなるべきだと宣言する最初の決議を議会に提出しました。
リー氏が彼の決議を提出した直後、彼は病気になり、彼のバージニアの家に戻りました。
そこで、1776年7月11日、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、そしてロバート・リビングストンが、正式な独立宣言を準備するためのひとつの委員会として指名されました。
1776年7月1日に、その委員会は議会にその報告を行いました。
7月2日、リーの決議はその最初の言葉のまま採択されました。
7月3日の間、その正式な独立宣言がその委員会によって報告され、大いなる熱意で討論されました。
その議論は4日に再開され、ジェファーソンがその委員会の議長に選ばれました。
7月4日、国家全体に大いなる不安が起りました。
数多くの人々が、その母国との関係に仕えることに反対しました。
数多くの人々が、その王と王の軍隊の復讐を怖れました。
既に数多くの戦闘が行われていましたが、しかしまだ反抗する植民者達による決定的な大勝利を勝ち取っていませんでした。
大陸会議のそれぞれの人員は、パトリック・ヘンリーと同じように、それは自由または死のどちらかになるということを自覚しました。
結局のところ、人々は自由ではなく、彼らを反逆者と考えてそれに基づいて彼らを罰することができたひとりの王の、臣下に過ぎませんでした。
彼らは反逆罪を宣告されて、処刑される可能性もありました。
まさにどの結び付きが、アメリカの国旗を考案して独立宣言の証明を促進したその神秘的な異邦人がフランシス・ベーコンで伯爵サンジェルマンでなければならないのか?
この主題を記述しながら、マンリー・ホールはこう述べています:
“今まで何度となくその質問を尋ねられてきた:フランシス・ベーコンの“新しいアトランティス”の展望は、新しい世界の土壌の上にかなり直ぐに表出する大いなる文明に関するひとつの預言的な夢だったのか?
欧州の数々の秘密社会が、自由の中で着想され、“すべての人類は平等に創り出されている”という命題に専念したアメリカ大陸の上にひとつの国家を確立しようと密かに計画したことは、疑うことはできない。
合衆国の初期の歴史の中の2つの事件が、人々や宗教の運命をこれほど長い間導いてきた秘密の人物の影響力を証明する。
彼らによって数々の国家が理想の普及のための目的達成手段として創り出された。
そして国家がこうした理想に忠実である間、国家は生き残る。
国家がその国家と異なる時、“神を認識する”ことを止めてしまった古いアトランティスのように、その国家は消滅する。
その称賛すべき論文“わたし達の国旗”の中で、ロバート・アレン・キャンベルは、1775年の植民地の旗の考案という、曖昧ながら最も重要なアメリカの歴史に関するひとつの挿話の詳細を甦らせます。
その説明は、ひとりの神秘的な男性を含みます。
彼に関して、将軍ワシントンと博士ベンジャミン・フランクリンの両方と懇意にしていたということ以外の情報は入手できません。
彼に関する以下の説明は、キャンベルの論文からの引用になります:
“この年老いた紳士に関してはほとんど何も認識されていないように見える。
そしてこの説明が編集された数々の資料の中で、彼の名前はたった一度言及されているだけだ。
何故なら、彼は一様に“教授”として話されるまたは言及されるからだ。
彼は彼の70歳という年齢を明らかに遥かに超えていた。
そして彼は、まるで彼がその出来事のひとりの生きている目撃者だったように、しばしば1世紀以上前の歴史的な出来事に言及した。
彼は依然として背筋が伸び、頑健で、活動的だった。
強壮で、誠実で、頭脳明晰で、壮年期のようにあらゆる意味で強く活力に溢れていた。
彼は、長身で、素晴らしい容姿を備え、完璧に気さくで、その所作において非常に品格があり、同時に礼儀正しく、優雅で、威厳があった。
彼は、そういった時代にとって、そして植民者達の習慣を考慮すると、彼の暮らし方はかなり風変わりだった。
それは、彼は肉、鳥類、あるいは魚を食べなかったということがその理由だった。
彼は、食品としてどのような‘生野菜’、根菜、あるいは熟していない果物も、決して用いなかった。
彼は、酒、ワイン、あるいはビールを飲まなかったが、しかし彼の食習慣は、穀類とその生産物、そして日光の中で茎から熟した果物、木の実、刺激の低いお茶と蜂蜜と砂糖と糖蜜の甘味に限定した。
[編集者の註:伯爵サンジェルマンの食品に対する同じ禁欲的な態度は、欧州では文書で充分に立証されている。]”
“彼は教養があり、広範に亘る高度に洗練された上に様々な情報を持ち、非常に篤学だった。
彼はそのかなりの時間を、解読し翻訳するか書き直した数多くの稀覯本や古代の写本の忍耐強く一貫した精査に費やした。
彼はこうした書籍や写本を、彼自身の著作と伴に、決して誰にも明らかにしなかった。
そして彼はそれについて、最も何気ない場合を除いて、家族とさえ話すことはなかった。
そして彼は、彼が自分の食事のためでさえ自分の部屋を離れる時、それをひとつの大きく古風で立法体に成形された鉄張りの重たいオーク材の収納箱に鍵を掛けて保管した。
彼はひとりで長い時間頻繁に散歩し、隣接した丘の頂上に腰を下ろすか、緑と花盛りの牧草地の只中で思索に耽った。
彼はかなり自由を尊重し、しかし金銭を使うことにおいて少しも浪費的なところはなく、彼は充分な支給を受けていた。
彼は、その家族の静かでありながら非常に温和で非常に興味深いひとりの構成員だった。
そして彼は、外見的に会話の中で現れるありとあらゆる話題に精通していた。
彼は、手短に言うと、誰もが気付き尊敬する人間であり、詳しく知っていると感じる人はほとんどなく、彼が何処から来て、彼が何故滞在し、彼が何処に旅をするのかといった彼自身に関する質問を敢えてしようとする人は、誰ひとりいなかった。”
“単なる偶然の一致以上の何かによって、ひとつの国旗を考案するために植民地会議に指名されたその委員会は、ケンブリッジにいる間に、その教授が滞在していた家族の賓客になるというひとつの招待を受け入れた。
ひとつの付属の紋章を決定する目的で将軍ワシントンが彼らに参加したのが、この場所だった。
彼らの間で交わされた署名によって、将軍ワシントンと博士フランクリンがその教授を評価したことは明白だった。
そして満場一致の賛成で、彼はその委員会のひとりの活動的な会員になるように勧められた。
その後に続く手続きの間、その教授は最も深い敬意で処遇され、彼のすべての提案は瞬時に決定が下された。
彼は、彼が新しい国旗のために象徴的に適切だと考えたひとつの図案を提案した。
そしてこれは、その教授によって提案されたその配置を即刻採用するように投票したその委員会の他の6名の構成員達によって、躊躇なく受け入れられた。
この国旗の挿話の後で、その教授は急に姿を消してしまった。そして彼に関するそれ以上の詳しいことは、何も認識されていない。”
“将軍ワシントンと博士フランクリンは、その教授をまさにかなり長い間この惑星の政治的運命を支配してきた神秘学派のひとりの特使だと認めたのだろうか?
ベンジャミン・フランクリンは、ひとりの哲学者であり、ひとりのフリーメーソンであり、もしかするとひとりの薔薇十字会員の新規参入者だった。
彼とまた神秘的な男性であるマルキ・ド・ラファイエットは、結果として自由で独立したひとつの国家として最初の13のアメリカの植民地の確立になった環境の連鎖の中の二つの重要な結び付きを構成する。
博士フランクリンの哲学への造詣は、リチャード・サンダースの名の下に何年もかけて彼によって出版された「貧しきリチャードの暦」の中で充分な証拠がある。
彼のフリーメーソンの理念への関心もまた、彼のアンダーソンの「フリーメーソンの憲法」の出版においても明らかだ。”
“こうした神秘的な挿話が起ったのは、1776年7月4日の夕方の間のことだった。
フィラデルフィアの古い州議事堂の中で、古い国と新しい国の間の絆を断つ重大な仕事のために、男性のひとつの集会が開かれた。
それはひとつの厳粛な瞬間であり、参加したかなりの者達が、自分達の大胆さのために自分達の命が犠牲になることを怖れた。
その議論の只中で、ひとつの熾烈な声が鳴り響いた。
論者達は議論を止め、振り返ってその異邦人を見上げた。
自分達の中央に突然現れてその演説で人々を釘づけにしたこの男は誰なのか?
その人々は以前に決して彼を見たことはなく、彼が入ってきたことは誰も知らなかった。
しかし彼の背の高い姿と青ざめた顔が、その者達に畏怖の念を溢れさせた。彼の声は聖なる情熱で鳴り響き、その異邦人はその人々の魂そのものを目覚めさせた。
‘神は自由になるように既にアメリカを与えている’という彼の終りの言葉が、その建物中に鳴り響いた。
その異邦人が疲れ果てて椅子に身を沈めた時、ひとつの熱狂が炸裂した。
羊皮紙の上に次々を名前が記述された。独立宣言が署名された。
しかし、この不朽の仕事の達成を引き起こし、少しの間その集団の目からその覆いを取り除き、新しい国家の着想をもたらすその大いなる目的の少なくとも一部をその人々に明らかにしたその男性は、何処にいたのか?
彼は姿を消し、彼を確認することもその出自を実証することも誰もできなかった。
この挿話は、古代の歴史家達よって記録されたあらゆる新しい国家の創設に付随する他の同じ種類の話と似ている。
その話は一致しているのか、あるいはその話は、古代の数々の神秘の神聖なる叡智は依然として過去にそうだったように、人類に役立ちながら世界の中に存在することを示唆しているのだろうか? ”
http://sananda.website/great-secret-count-st-germain-may-10th/
翻訳★森のくまさま...ありがとうございます。
転載される場合には、出典を明記してください。