作者:秋茄子トマト
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『社会契約論/人間不平等起源論』 「第三篇 第十五章 代議士または代表者について」より「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。
彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。
自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる。」 議会制民主主義(間接民主主義)がなぜ民主主義ではないのか
民主主義とは、みんなのことは、みんなで納得するまで話し合って決める、ということだと思う。
しかし、現代日本の議会制民主主義では、それができていない。
現在の日本(あるいは他の多くの国)で行われているのは、国会議員たちによる貴族政治である。
日本国は――もちろん他の議会制民主国家も――「国民主権」という言葉で国民に「主権」があるように擬製している。
しかし、その主権というのは、数年に一度、国会議員を選ぶ権利にすぎない。(これは、100年前と比べると、大きな進歩である。しかし、人類学を学んでみると、おそらく3000年くらい前とくらべて大きく退歩している。)
選挙のとき以外は、政治に介入できる回路は限られている。おそらく意図的に。(たとえば、デモが届出制なのを考えてみてほしい。届出を許可する機関に都合の悪いデモは禁止にすることができる。そして、その機関が正義の側に立っているかどうかを国民は判断することが難しい。)
悪意ある人ならば、選挙以外の時間は、国会議員の生活費を奴隷として働くことで生産する時間である、とさえ言うかもしれない。
ホッブズは、政府がない状態であれば(自然状態であれば)人はお互いに争い合っていただろう(万人の万人に対する闘争)というようなおろかなことを言っていた。
もちろん、ホッブズは間違っている。
自然状態とは、架空理論フィクショナル・セオリーであり、現実の人類の歴史には基づいていない。
ホッブズのいた時代においては、有用な理論であったかもしれないが、今は、人類には政府が必要であるという誤った認識を植え付けかねないという点で害悪すら与えている。
人類学の得た知識を見れば、政府がない状態で平和に暮らしていることを示すあきらかな証拠がたくさんある。また、文明化が進むごとに、争いの激しさの度合いが増していることがわかるだろう。
(エーリッヒ・フロムの著書、「破壊」の人類学の項目を参照せよ。あるいはデイヴィッド・グレイバーの著書、またはたとえばコリン・ターンブルなどの人類学の文献にあたるべし)
政府というのは、基本的に権力機関である。
権力機関というのは、自由を制限する機関である。もし、それなしで平和に幸せに暮らせるのならば、ない方がよい。
そして、実際に政府なしでも(少なくとも別の政府の邪魔が入らなければ)平和に暮らせることを示す資料が、アナーキズムの文献に大量に見つかる。
しかし、ここでは現代の選挙の話に戻る。
選挙というのは、国会議員を選ぶ制度だ。この制度は、民主的で(つまりみんなが参加できて)、平等である(本当にみんなが参加できる、仲間外れや格差はない)ということになっている。「ということになっている」というのは、もちろん、実際はそうではないからだ。
まず、お金を持っている人が立候補し、その中から選択をする、という点。
日本の選挙には、高い供託金が必要で、それがないと立候補することすらできない。国会議員の場合、300万から600万程度用意しなくてはならない。
これでは、お金持ちしか、議員になることはできない。しかも、十分な得票率を取れなければ、この供託金は没収される。
これは民主的でもなければ、平等でもない。
有力政党の既得権益を確保しているだけだ。
自分の望む政策を実行してくれる人がいない、という愚痴をこぼしたときに、じゃあ君が出ればいい、という人がいる。
このような制度では、そんなことが出来ようもない人がいることは、おわかりのことだろう。
そこには自由がない。
自由に好きな政策を選ぶ自由もなければ、自由に出馬する権利さえ奪われている。
ここで、現在の選挙の正当化の最悪の例を見てみよう。
ある選挙において投票用紙を―――
白紙、または立候補していない人の名前を書いて出す>>>棄権したのだから結果に口を出すな
誰かの名前を書いて出す>>>勝った政党に入れた>>>あなたの望みは達成されたのだから以後口を出すな(公約を守らなくても、選挙に勝ったあとに何をしても口を出すな)
>>>負けた政党に入れた>>>選挙に参加したのだから結果に文句を言うな
ここまで極端なことを言う人は、なかなかいないかもしれない。
しかし、選挙に参加しただけで、民主的な政治が実現されていると考えるのはちゃんちゃらおかしいし、選挙に行かないというだけで政治的ではない、ということにもならない。
(選挙に参加することは、この不平等な体制を支持するものだとして棄権するものもいる――もちろんそれは自己満足に過ぎず、一部の権力者の進出を助けるだけだという批判の声もあるが、それでも彼らの意識が「政治的」であり、無関心というわけではないことは確かだ)
議会制民主主義というのは、一部の人間が、他の大勢の上に立ち、みんなと議論をせずに勝手に法律を作れる制度である。
国会議員たちが、何かの法律を作るときに、国会の中だけで議論をし、国民みなと対話をせず、対話をしたとしてもポーズだけで結論ありきであり、ときには強行採決をしたのを見たことがあるだろう。
(インディアンの中には、みなが納得するまで話し合いをする部族がいる、という話を聞いたことがある。これが真の民主主義である。現代社会においてこのやり方を日本全国で適用した場合の問題点は、ここでは扱わない。アフィニティ・グループ(affinity group)などの単語を参照)
そういう経験をしてきて、あなたは、政治の場から、意思決定の場から排除されていると感じたことはないだろうか?
その感覚は正しい。まったく正しい。
もちろん、あなたは排除されているのだし、それは意図的なものである。
本当は、あなたは力を持ち、みなと平等で、きちんと自分の意見を尊重されるべき存在である。
しかし、あなたが力を持つと困る人間がいる。今、人々の上に立っている人たちである。それは国会議員であり、お金持ちであり、ありとあらゆる、「権力者」である。権力者とは、自分より目下の人間に命令することができる人間のことである。
本来、「目下」という概念は存在しない。人間はみな、平等だからである。
これが民主主義の本質である。人間は、みな、平等である。
この本質を、議会制民主主義は毒しているのであり、我々はこの腐ったシステムを捨て去らなくてはならない。
そして、あなたは、本来持っている力を思い出し、それを世界をよくするために使うことができる。
結局のところ、我々は、ルソー、ホッブズ、モンテスキューが作り上げた国家観、彼らの国家イメージの中で生きている。
それはつまり、西洋の国家観であり、(ありとあらゆる国家観がそうであるように)もちろん普遍性はない。
彼らが生きていたころから、数百年がたつ。今こそ、世界のイメージをつくりかえるときだ。