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・思い込みと偏見が逃(のが)してきた多くの恩寵

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    想像は、言葉や言葉の構成によって生まれる。
   あなたはある物事を作り出す。それはそこに存在せず、現実ではないが、あなたはそれを頭の中のイメージでつくり上げる。しかもそれによって自分が騙され、それが現実だと思い込むほどにだ。

   スウェーデンのもっとも有名な女優の1人、グレタ・ガルボは回想録に書いている。
   彼女は平凡な少女でさして魅力もなく、それこそどこにでもいる少女の1人だった。彼女はとても貧しく、床屋で働いていた。ほんの数ペニーを得るために、彼女は客の顔に石鹸を塗っており、すでに3年間その仕事を続けていた。

   ある日、とあるアメリカ人の映画監督がその床屋におり、彼女はいつものように彼の顔に石鹸を塗っていた。彼はアメリカ人らしく、何の意図もなく、鏡の中の少女を見て「とてもきれいだ!」と言った。まさにその瞬間、グレタ・ガルボは誕生した。

   突然、自分は変わったと、彼女は書いている。
   彼女は自分のことを美しいと思ったことがなかった。そんなことは思いもよらなかったし、誰にも人から美しいと言われたこともなかった。彼女は自分でも始めて鏡を見つめた。すると顔立ちが変わっていた。その男性の一言が彼女を美しくしたのだ。そして彼女の生涯は変わった。彼女はその男性に従い、もっとも有名な映画女優の1人となった。

   何が起こったのだろう?
   それは催眠だ。「きれいだ」という言葉による催眠が作用したに過ぎない。催眠が作用し、それは化学物質となった。誰もが自分自身について思い込みを抱いている。そしてその思い込みは現実になる。なぜならその思い込みが作用を及ぼすからだ。

   想像とは力だ。
   それは呼び起こされた力、空想された力だ。あなたはそれを使うことができるし、それに使われ動かされることもあり得る。それを使えるなら、それは役に立つ。だがそれに翻弄されるなら、それは致命的であり危険だ。想像はいつでも狂気になり得るし、一方、想像によってあなたが内なる成長のための状況をつくるなら、それも役に立つ。ただしそれは言葉によるものであり、呼び起されたものだ。

言葉に翻弄される現代社会

   人類にとって、言葉という言語構造は、もはやそれよりも重要なものは他にはないほどに重要なものとなっている。誰かが突然、「火事だ!」と叫べば、その火事という言葉はたちまちあなたを変えてしまう。実際には火事など起きてはいないかもしれないが、あなたはたちまち私の話に耳を傾けるのをやめ、反射的に動揺する。「火事」という言葉が、あなたの想像を捉えてしまうからだ。

   そのようにして、あなたは言葉の影響を受ける。
   そしてまさに広告業界、マスメディアの人々は、人々の想像を喚起するためにどんな言葉を使うと効果的かを心得ている。なかでも「新しい」ものはすぐに、心に訴えかける。誰もが新しいものが好きだし、新しいこと、新しいものを探している。みな、古いものには飽き飽きしている。だが実際には「新しい」ものは、古いものよりも良くないかもしれないし、もっと劣っているかもしれない。でも「新しい」という言葉だけで、マインド(表面意識)の展望が開かれる。

   こうした言葉とその影響を、深く理解しなければならない。
   真理を探究する者は、言葉の影響力に気づいている必要がある。そして政治家やマスメディアは、言葉を駆使し、言葉によって人々の中に想像を作り出す。あなたはそれに自分の人生を賭けてしまうこともあり得る。つまり、単なる言葉のために、自分の人生を投げ打ってしまうこともあり得るのだ。

   それはどんな言葉だろう?
   「国家」「国旗」、それも単なる言葉だ。「ヒンズー教」「イスラム教」、「イスラム教は危険だ」と言ってみなさい。すぐに大勢の人々が身構える。「我々の国家が侮辱された」、だが「我々の国家」とは何だろうか? ただの言葉だ。国旗にせよ、ただの旗一枚の布に過ぎない。だがその旗が貶められ、焼かれただけで、国家全体が旗一枚に殉じて動き出すこともあり得る。

   単なる言葉のせいで、この世界にはこれまでも、何という愚行が続けられて来たことだろう。言葉は危険だ。言葉はあなたの中に深い影響を及ぼし、それがあなたの中の何かの引き金となり、あなたはそれの虜(とりこ)にされる。

   パタンジャリは言う。
   想像を理解すること、と。なぜなら瞑想の道においては、他者からの影響を排除するために、言葉を排除する必要があるからだ。いいかな、言葉は他者から教えられたものだ。つまりあなたは言葉とともに生まれたわけではない。あなたは言葉を教わるが、それによって多くの偏見が生まれる。言葉によって宗教が生まれ、神話が生まれる。言葉は媒体であり、文化や社会や情報を表現する手段だ。

   動物の王国には戦争も国旗も、寺院もモスクも教会もない。
   もし動物たちが私たち人間を見物できるなら、人間は言葉の強迫観念を抱いていると思うに違いない。つまり、単なる言葉のために数々の戦争が起こり、大勢の人々が殺されているからだ。

   「ユダヤ人なら殺すべし」、というのもただの「ユダヤ人」という言葉であり、彼のその呼び名がキリスト教徒になれば殺されることはない。だが彼は呼び名を変えようとはせず、「殺されたほうがましだ。私はユダヤ人だから呼び名を変えることはできない」という。彼も堅物で頑固だが、他の人たちも同じだ。単なる言葉でしかないのに。

   あなたが神に会うとしたら、言葉なしで会わなければならない。
   あなたの持ち運ぶ言葉の概念は、おそらく彼にはそぐわない。たとえば神には数千の手があると考えているヒンズー教徒の場合、手が2本しかない神が現れたら拒絶するだろう。「あなたは絶対に神ではない。神には数千本の手があるはずだから、他の手を見せてくれ。それで初めて信じられる」と。

思い込みと偏見が逃してきた多くの恩寵

   こんなことがあった。
   今世紀のもっとも素晴らしい人物の1人は、シルディ・サイ・ババだ。サイ・ババはイスラム教徒で、モスクに住んでいた。ある男はヒンズー教徒だったが、彼はサイ・ババを敬愛し、信仰しており、サイババに会うために毎日やって来た。そして会えるまで決して帰ろうとしなかった。時には大勢の人々が来ていたので、1日中待たなければならないこともあった。それでも会えるまでは帰ろうとしなかった。それだけでなく、サイババに会えないうちは、食事さえ取ろうとしなかった。

   あるとき、もう日も暮れていたが、まだ大勢の人々がいて混雑しており、彼は中に入れなかった。そして夜遅くになり、彼はやっとサイ・ババの足に触れることができた。サイババは彼に言った、「なぜ必要以上に待つのかね? 別にここで会わなくてもいいし、私がそちらへ行ってもいい。だからこんなことはもうやめなさい。明日から私がそちらへ行こう。だからあなたは毎日、食事をする前に私に会えるよ」と。

   弟子はそれを聞いてとても嬉しかった。
   翌日、彼は待ちに待ち続けた。だが何も起こらず、実際にはいろいろなことが起きたが、彼の理解では何も起きなかった。彼はずっと食事をしておらず、つまりサイババは現れなかった。彼は腹を立てていた。そこで彼は再び出かけて行き、こう言った。「約束してくださったのに、どうして約束を破ったのですか?」

   サイ・ババは言った、「いや、私は1回どころか3 回も姿を見せたよ。最初に行った時、私は乞食だった。するとあなたは、「あっちへ行け、こっちに来るな」と言った。2度目に行った時、私の姿は老婆だった。するとあなたは私の方を見ようともせず、目を閉じてしまった」 その弟子は女性を見ないことを習慣にしていたので、目を閉じたのだった。

   「私は約束どおり、あなたを訪れた。でもあなたは何を望んでいるのか?
   私は、あなたの閉じた目の中に入らないといけないのかね? 私はそこに立っていたが、あなたは目を閉じた。そして3度目に、私は犬になってやって来た。あなたは私を中に入れようとしないばかりか、あなたは扉のところで、棒を手にして立っていたよ」

   こうしたことはすべての人々に起きてきたことだ。
   神聖なるものは、さまざまな形をとってあなたに訪れる。しかしあなたには偏見があり、既成概念(思い込み)がある。だからあなたは見ることができない。彼はあなたの求めに応じて必ず現れる。だが、あなたが求め、期待している通りには現れないし、これから先にも期待したようには現れないだろう。

   あなたには彼を支配できないし、何の条件もつけられないからだ。
   すべての想像が消え去るとき、そのときはじめて真実が現れる。そうでなければ想像は条件を付けるばかりで、真実は姿を現すことはできない。素(す)のマインド、何も纏わず、素のマインド(表面意識)の中でのみ、真実は現れる。なぜならあなたにはもう、それを歪めることができないからだ。


        パタンジャリのヨーガ・スートラ
             book『魂のヨーガ』  OSHO    市民出版社


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