Q、 人間が直面する最大のハードルの一つは独りでいること、つまり世間の意見に対して独り立つこと、世間の虚偽に対して独りで立つこと、物理的に独りでいられること、そして最後は、最後の頼みの綱であり連れである、自分のマインド(自我意識)すら捨てて独りになることです。私たちは自分が独りだということをよく知っています。自分が独りであることの中に死ぬのだと知っています。外界での自分の繋がりは、すべて一時的なものであると知っています。
私が流してきた涙は、すべてこの痛みから来ています。
失うことと、独りぼっちでみんなと離れていることの恐れから来ています。どのようにして、独りあることの恐怖を取り巻くこの暗黒を打ち破り、独りあることの至福を生きたらいいのでしょうか?
ここには変えられない根本的なことがいくつかあるが、それを理解するのは誰にとっても必要なことだ。そしてその一つが、人は暗闇を直接相手にして闘うことはできないということだ。つまり孤独を、孤立を直接相手にして闘うことはできない。その理由は、本来こういうものはすべて存在しないからだ。それは闇というものが単なる光の不在であるように、何かの不在であるに過ぎない。
たとえば暗い部屋がいやな時、その闇を相手に戦ったりはしないし、それを消え去るようにする何かの方法があるわけではない。そこにあるのは、ただ灯りを何とかしなくてはならないことだ。つまりそれは、単に何かの不在に過ぎない。それはただ光がなかっただけであり、闇は実在するものではないが、だが暗闇という闇が実在するという誤った感じを持つ。
人はこの闇を相手に一生かけて闘ったりすることもあるが、当然成功しはしない。
だが小さな蝋燭(ろうそく)1本あれば、その闇を払いのけるに足りる。それなら実際的で実体があり、光がやってくれば、光の不在(闇)はすべて自然に消え去る。
孤独は闇に似ている。
あなたは自分が独りであること(アローンネス)を知らない。自分が独りであること、その美しさ、その途方もない力と力強さを経験したことがない。孤独とは(何かの)不在だ。あなたが独りあることを知らないために、恐怖がある。だから孤独を感じ、何かに、誰かに、何らかの関係にすがりつこうとする。それもただ、自分が孤独ではないという幻想を持ちたいからだ。
だが本当は、自分が孤独であることをあなたは知っている。
だからこそ痛みがあり、あなたは本物ではないもの、ほんの一時的なものに過ぎない人との関係や友情などにすがろうとする。そして、そうした関わり合いの中にある間は、孤独を忘れるためのささやかな幻想に生きられる。
だがこれこそが問題だ。
なぜなら、そうした関係や友情が決して永続するものではないことに、あなたは遅かれ早かれ気づくことになるからだ。あなたはこの男性、この女性と長続きする関係を求め始め、今度こそは変化しない関係をと願う。だが、変化こそがまさに生命の性質そのものであるという教訓を、あなたは本当には学んでいない。それを理解し、それとともに進むことだ。幻想を創ってはいけない。それは役には立たない。ところが誰もが、そうした幻想に生きている。
権力を追い求め、今、権力の座にある人々であっても同じだ。
たくさんの人達が周りに集まり、多くの人々を支配している人たち、彼らは大物政治家であったり、宗教的指導者たちであるが、彼らは孤独ではないだろう。だが権力は移行する。そしてある日、幻想は消え去り、他の誰よりも孤独になる。孤独に慣れていない人の孤独は、より一層自分を傷つける。
社会は孤独を忘れさせるために、いろいろな手段を講じてきた。
親同士が決める結婚は、男にとり妻を自分と一緒にいさせるための、確実な努力に過ぎなかった。あらゆる宗教が離婚に反対するのは、離婚が許されると、結婚制度が破壊されてしまうからだ。そしてこの根本的な目的は、孤独にならなくても済むように、一生の伴侶を与えることだった。
だが、生涯を妻や夫と一緒にいたとしても、愛が同じまま続くわけでもない。
実際に起きてくる事実は、伴侶ではなく重荷なのだ。自分が孤独ですでに問題を抱えているのに、今や孤独な人間をもう1人抱えなければならない。こういう生涯に希望はない。愛が消えてしまえば2人とも孤独であり、互いに相手を我慢せざるを得ないからだ。もはや互いに魅惑される可能性はなく、せいぜい辛抱強く相手を我慢しなくてはならない。あなたの孤独は、社会が考え出した制度によっても変えることはできなかった。
宗教は、あなた方がいつも群集の中にいられるように、あなたを宗教団体の一員にしようとしてきた。あなたは6億のカトリック信者がいることを知っている。つまり自分は1人ではないことを、6億もの人間が自分と一緒であることを知っている。イエスは自分たちの救い主だ、自分には神がついている。自分1人なら自分が間違っているかもしれないが、6億もの人間が信じているのだから、それが間違っていることなどあり得ないだろうと。それはささやかな安堵であるだろう。
だが世界には、カトリック信者でない何十億もの人々がいる。
それはカトリック信者よりもはるかに多く、他の考え方をする人々がいる。だが知的な人々は疑わずにはいられない。自分が信じる信仰体系に従う何億という仲間がおり、彼らが自分と一緒なら、自分は孤独ではないと確信できるわけではないと。
(外に在る)神とは一つの方策であった。
だがこうした計画はすべて失敗した。(外にある)神とは幼い精神の願望に過ぎない。人間は充分な発達段階に達し、神という仮説は人間たちの注意を引く力を失った。私が言いたいのは、孤独の回避に向けられて来たあらゆる努力は、失敗したということであり、それは必ず失敗するということだ。なぜならそれは生きることの基本に反するものだからだ。
闇とは光の不在であり、孤独とは「独りあること」の不在
必要なものは、自分の孤独を忘れられるような何かではない。
必要なことは、あなたが自分の「独りあること」に気づくことであり、それこそが現実なのだ。それは経験すべき、感じてみるべき、実に素晴らしいものだ。なぜならそれこそが、群集から他人からあなたが解放されることだからだ。それが孤独の恐れからの解放なのだ。
「独りあること」(アローンネス)という言葉そのものには、孤独の持つ傷と同じような、埋められるべき隙間というような意味はない。独りあることとは、ただ完全性を意味するだけだ。あなたは完全であり、あなたを完全にするために他の誰も必要ではない。
自分の最も深くにある中心を見つけることだ。
そこではあなたはいつでも常に独りであり、これまでもいつも独りだった。それは生きていようと死んでいようと、どこにいようともあなたは独自のあなたであるだろう。だがそれは非常に充実した独りだ。それは空虚ではなく、豊かで、完全で、活気とあらゆる美しさと祝福に溢れており、ひとたびそうした独りを味わったならば、ハートの中の痛みは消え失せる。
だから私は、自分の孤独をどうにかしなさいと、あなたに言うつもりはない。
むしろ独りあることを求めなさい。孤独や闇のことは忘れ、痛みのことも忘れなさい。なぜならこれらは単に、独りの不在(独りを恐れていること)に過ぎないからだ。「独りあること」を経験すれば、そういうものはたちまち消えてしまう。
そして、その方法は同じだ。
ただ自分のマインド(表面意識)を見つめていることであり、気づいていることだ。それはもっともっと意識的になることであり、ついには自分自身だけを意識するほどになることだ。それこそが、あなたが「独りあること」に気づき始める地点なのだ。
それぞれの宗教が『究極の認識の状態』に、それぞれ名前をつけていると知ったら、あなた方は驚くだろう。だがインド以外で生まれた3つの宗教には、それに対する名前すらない。なぜなら自分自身を探求するほど遠くまで、進んだことがないからだ。そうした宗教は未熟であり、幼い。神にすがり、祈りにすがり、救い主にすがっている。それは依存であり、他の誰かに救ってもらわなければならない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教はまったく完成されていない。
おそらくそれこそが、こういう宗教が世界中のほとんどの人々に影響を及ぼしてきた理由だ。つまりこの地上のほとんどの人々が未成熟であり、それに応じたものであることだ。
常に自分が直面している問題が、否定的なものか肯定的なものかを調べなさい。
もしそれが否定的なものであれば、闘ってはいけない。そんなものを苦にしないことだ。それの肯定的なものを探しなさい。そうすれば正しい入り口にいることになる。世間のほとんどの人々が失敗し、落胆し、悲観的になり、ついには人生には意味がないなどと苦悩する間違いに陥るのは、誤った入り口から入ったことだ。つまり、否定的な扉と闘えば闘うほど苦しむことになる。
だから問題に直面する前に気づくべきことは、その問題は単に、何かの不在ではないかと見ることだ。そしてあなた方の問題は間違いなく、すべてが何かの不在であることだ。そしてそこに何が存在しないのかがわかったら、実在するものを追及しなさい。そしてあなたが、実在するもの、光を見つけた瞬間に、闇は終わる。
『 神秘家の道 』 OSHO 市民出版社
抜粋
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・人類が成熟し始める時
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