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・三位一体とは、「父と母と子」

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      東洋と西洋は、今日まで対極として機能してきた。
   西洋は意志を通して、一方東洋は明け渡しを通して機能してきた。つまり西洋はエゴを通して、東洋は絶対的な無私を通して機能してきた。西洋の考え方は男性的であり、東洋の考え方は女性的だ。

   東洋は受動性に信頼を置く。
   完全に受動的、受容的なときに、神はあなたのところにやってくると考えた。あなたが無であり、ただ待つ時、祈りを込めて待っている時、あなたの側に努力がない時、神なるものはやって来ると。

   だが西洋のやり方は攻撃的であり、男性的だ。
   男は探し求めなくてはならない。男は出かけていかなくてはならないし、征服しに行かなければならない。神なるものですら獲得しなければならない。自然を征服し、真実を勝ち取らなくてはならないと。

   両者が失敗したのは、両者ともが部分的でしかないからだ。
   ゆえに必然的に、東洋と西洋は失敗しなくてはならなかった。西洋が大失敗であったように東洋も失敗した。なぜなら人間は男だけではないし、女だけでもないからだ。人間はその両方であり、しかもそれ以上のものだ。人間は陰と陽の両面であり、長年にわたる東洋と西洋の対立がなくなるように、それを超えたものが必要だ。

   神智学では中心に神がいる。
   笛を吹くクリシュナや、周りにいる女性たち、ゴピは踊っている。つまり周囲にいるのは人であり、中心にいるのが神だ。だがシュタイナーの人智学はそのすべてをひっくり返し、人をその中心に置き、人が中心的存在となった。だから西洋では人が中心的存在となってきた。だが東洋では、人は周辺的存在だ。

   そしてその両者の努力は失敗に終わっている。
   それは互いに部分的でしかなく、人間は男性と女性の両方で一つの存在であり、人間は本質的にそうでなければならない。あなたは母親と父親から生まれたのだから、あなたは男だけの、女だけの部分でいられるはずはない。だがあなたの魂の中では母親が、そして父親が生き続けている。だからあなたはその二者が織り成す、深みある調和とならなければならない。

   自分自身の中の思考の調和(ハーモニー)、つまり父親と母親の調和に至った人を、私は真に宗教的な人と呼ぶ。だがあなたの中では、その2人はまだ言い争っており、両者は喧嘩をして対立している。母親と父親が喧嘩していたのは、あなたが子どもだった時だけではなく、2人はまだ、あなたにおいて細胞の一つ一つの中で対立している。

   そこで2つの可能性がある。
   いまだに自らの中に対立があって、その自分の両極性を理解するに至ったら、人は選ばなくてはならない。男性という陽を選んでエゴイストになるか、あるいは女性という陰を選んで明け渡しの人になるかだ。だがいずれにせよ、あなたの中の選ばれなかった側は苦しむことになる。こうしてあなたは決して全体とはならない。全体、全一でない人は本来の神聖になりようがない。なぜなら無視され、拒絶された部分は復讐し、それが無意識(潜在意識)となる。無意識とは、あなたの存在の無視された部分に他ならない。

   将来、人類の意識に無意識というものが存在しなくなる可能性はある。
   つまり、私たちが拒絶することをやめれば、無意識というものは生まれない。人は完全に意識的になれる。これが私たちのいう覚者であり、それは目覚めたという意味だ。それはもう拒絶された部分がないと言う意味であり、自分の全体性を自分に受け入れ取り込んだということであり、自分のあらゆる面を受け入れて多次元的になったということなのだ。

三位一体とは、「父と母と子」

   あなたの内面においても、もはや2つの極性は対立していない。
   それは互いに補い合うものとなり、あなたの内なる女性と男性は互いに助け合う。内なる男女は互いに恋に落ち、内なる男女は一つになった。両者は結ばれており、これが内なる霊的な結婚のことだ。この霊的な結婚から初めてあなたが誕生する。この内なる矛盾の出会いから、初めて本来のあなたが誕生する。

   これが三位一体(トリニティ)というコンセプトの全哲学だ。
   三位一体のコンセプトは素晴らしいものだ。これにはたくさんの意味があるが、当然、父と子と聖霊の、聖霊というのは正しい名前ではない。この言葉を作った人は、おそらく男性優位主義者達だろう。本来のものは、それは聖霊ではなく母だ。つまり、父と母と子であり、事実に基づいてこれなら完全に正しい。

   父親と母親があなたの中にいる。
   だがあなたの父親と母親は、あなたの内面では未だ出会っていない。だがあなたの外側では2人は出会っており、こうしてあなたの肉体が作られる。あなたの内側で2人が出会うと魂がつくられ、子どもが生まれる。

   東洋は、女性的になったために苦しんできた。だから東洋は何度も征服され、意志力を失ってきた。生きることへの興味や熱意を失い、活力を失った。東洋は運命には従うしかないと思うようになり、その結果非常に穏やかな国になった。だから東洋の歴史は常に丸々、他国による支配の歴史だ。それは貧困の歴史であり、科学不在の歴史だ。それは美しい歴史ではない。

   西洋は男性志向に深く苦しんできた。
   対立と葛藤、暴力、争いがあり、常に気の休まるときがなく、意識には大変な緊張が強いられる。スピードを求める心があり、野心があり、競争と熾烈な争いがあり、常に誰もが誰かと戦っている。当然、西洋は狂った人々を生み出してきたし、多くの神経症患者を生み出してきたが、それでもその片隅には素晴らしい人々がわずかだがいた。だが、それでも成功を収めたとは言えず、哲学は失敗した。東洋と西洋はどちらも失敗したのだ。

強いエゴが、放棄する力、あるいは自らを守る力をつくる

   人は、意志と明け渡しの融合でなければならない。
   人はまず、意志の力、つまりエゴを育てなくてはならない。もし人の人生の平均が70年であれば、人生の最初の35年はエゴと意志力の強化に力を注ぎ、しっかり統合されなくてはならない。そして後の35年以降は力を抜き、エゴを捨て、もっともっと神に身を委ねられるよう、その術(すべ)を学ぶことだ。

   最初は、選択して生れて来たこの世界に入って行かなくてはならない。
   この世界で生きるためには意志が必要だ。人は世に出て行き、闘い、奮闘し、奮闘することで知性を磨かなければならない。この世のことを知り、世界中をさまよい歩き、征服し、支配者になりなさい。そうして外側の世界を知ったなら、今度はそれらを置いて自分の内なる世界へ進みなさい。今度は内なる内面的なものを知るように努めなさい。

   私は非論理的な人間だ。
   そして私の理解は、強いエゴにしか「明け渡し」はできず、弱いエゴは明け渡すことができないということだ。私は毎日、弱いエゴを目にする。弱いエゴは私の所にやって来ると、決まってとまどい、躊躇(ちゅうちょ)する。明け渡そうか、どうしようか、サニヤスを取ろうか、どうしようかと迷う。

   なぜ怖いのか? 
   弱いエゴは、自分のエゴがとても弱いことを知っており、だから怖いのだ。なぜなら明け渡したら、自分は消えてなくなってしまうことを知っているからだ。明け渡したら自分は消えてしまう、立てなくなってしまうと知っているから、だから怖いのだ。弱いエゴは、自分の内面的な弱さを怖れている。いかに外側を装っても、自分の内面的現実を知っているから、だから弱いエゴは防御的になり、自分を守ろうとする。

   エゴの強い人は、私の所に来ると必ずこのように言う。
   「わかりました、やってみましょう。それも試してみましょう」エゴの強い人は知っているのだ。それはたとえ知らない道に入り込んでも、自分を守れるだけの充分な自信があるし、戻ろうと思えば戻ることができる。それができるだけの充分な信頼と、充分な自信、意志力がある。

   いいかな、明け渡しというのは、意思による最後のもっとも偉大な行為だ。
   それは簡単なことではない。明け渡しとは、耐えられないからする、といったようなものではないし、もう疲れたから、もう自分の足では立てないから「わかった、明け渡す」というようなものではない。それは非常に大きな力から生じるものだ。


           book『 愛の道 』  OSHO  市民出版社

                          抜粋


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