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・本来の力と権威を取り戻し、自分の足で立つ

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Q、  先日、あなたがジャーナリストたちに断固として話すのを聞きながら、自分がいかに臆病で、人々を怖れているのかを感じました。それを自分はどうすればいいのでしょうか?

   私にとって話すというのは自然発生的なことなので、みんながそれを受け入れようとしている中で、何も断固として話す必要などない。みんな受容的であればあるほど、より私は断言的である必要がなくなる。だがジャーナリストに向かって話すとき、私は自然に極めて断定的になる。なぜならそうしないと彼らには聞こえないからだ。そうしないと彼らには聞こえない。

   私に次のように表明したジャーナリストはたくさんいる。
   「不思議なんですが、我々は政治家や他の人々を相手にインタヴューしている時、コントロールというか支配権は完全にこっちにあるのを感じるものですが、あなたが相手だと落ち着かなくなってくる。こんなことは他の人とでは起こったことがありません。どうしてあなたが相手だと落ち着かなくなるんでしょう?」

   私は言った。 「唯一の理由は、私が自分のイメージなど気にしていないからだ。つまり、私はあなたがどんな記事を書くかなどまったく気にしていない。その瞬間、私がただ気にかけていることは、何であれ自分が言っていることがあなたに届くかどうかだけだ。それ以外には私には何の関心もない。私はもうこの7年間というもの、どんな本も読んでいないし、どんな雑誌、新聞も読まず、ラジオも聞かず、テレビも見ていない。そういうものはすべて、ガラクタだからだ」

   政治家というものは、世論に依存している。
   彼らには尊厳などない。こちらが断固とするだけで、彼らはたちまち聴く用意がある。だがこちらが断固としていなければ、今度は向こうが断固とすることになる。政治家たちは常に、自分のイメージをどのように作るかと考えて話す。そしてごく謙虚でもの柔らかく、ジャーナリストが聞きたいと思うことなら何でも言う。

   ジャーナリストたちは、そういう人間たちを相手にする社会に慣れている。
   だが彼らが私に質問するとき、他の政治家の言葉を聴くのと同じでいるべきではない。そして、そのことが間違いなく私を断定的にするのだ!

   なぜなら彼らには、穏やかで謙虚であっては、こちらの声を届かせることはできないからだ。それは彼らには弱さと映る。それこそが、彼らが政治家たちを相手にする世界に慣れているからだ。だが私にはどんなイメージもない。だから私がジャーナリストを相手に話す時は、私の努力は、話したことが大衆に届くためではなく、話している相手に届くことだ。だから大衆に届くかどうかは二の次なのだ。もし届けばそれでいいし、そうならなくても心配する必要はない。

本来の力と権威を取り戻し、自分の足で立つ

   ところであなたはなぜ、人々が怖いのか?
   私はどこにいても、これまで一度も自分がよそ者のような気がしたことはない。その理由は単純で、どこにいようとも、本来人間はよそ者なのだ。だから今更、そんなことを感じる必要はないし、どこにいようとも、人はそうでしかあり得ない。私たちは本来、誰もが異邦人だ。一度このことを受け入れたならば、自分はこの場所で、あるいは他の場所で異邦人というよそ者であるのか、という問題はもうない。それがある場所ではよりはっきりし、あるいは少々あいまいであるだけのことで、我々のすべてが異邦人であることに変わりはない。

   だがどうして、あなたはそれを怖がるのか?
   その恐怖は、あなたが自分のことを人に良く思われたいと思っているためだ。その思いが、誰をも臆病にする。それがみんなを奴隷にする。それが、人に自分のことをよく思われたいという恐怖を生み出すのだ。つまり、知らない場所で知らない人が相手では、自分がどんなことをしても良く思ってはくれないかもしれない、という思いだ。

   あなたが、いつも人に認められる必要を感じているのは、自らが自分自身を受け入れていないからだ。だからその代用品として、人に認めてもらおうとするのだ。だがいったん、自分自身を受け入れたならば、人が自分のことを良く思おうが悪く思おうが問題ではなくなる。人がこちらをどう思うか、それは彼らの問題であってこちらの問題ではない。

   自分が自分のやり方で自らの人生を生きているならば、それを他人がどう考えるかは彼らの問題であって、彼らが考えることだ。だがほとんどの人々は、自分を受け入れていないために、しかも子どもの時から、自分はそのままではいけないのだという考えを絶えず吹き込まれ、言い聞かせられ、頭に叩き込まれてきた。こう振る舞うべきで、そのときはああ振る舞うべきで、そうして初めて自分は受け入れられるのだと。

   そしてその結果、人々が自分を受け入れてくれて評価してくれ、尊敬してくれたら、それが自分にとって、自分が良い人間なのだということを意味する。そしてこのことこそが、世界中の誰にとっても問題を作り出すことになっている。なぜならその価値基準で生きるようになると、誰もが他人の意見に依存するようになり、また誰もが、他人の判断に支配されるようになるからだ。

   こういう単純な事実を見て、私は他人の意見を気にするという考えを捨てた。
   するとそれは、まったく言い表せないような大きな自由を私に与えてくれた。ただ自分自身でいられるというこの大きな開放は、余計な心配をする必要がない。しかも世界には余りにも多くの人々がいる。もし私がそのあらゆる人たちについて、彼らが自分のことをどう思っているかを考えなければならないとしたら、私は生涯を、ただ自分についての他人の意見を集め続けては気にし、常にそのファイルを持ち運び、それとともに生きることになる。

   もしあなたが人々の中に出て行き、人と会うことを怖ろしく感じているならば、それはあなたが自分自身を酷く空虚なものに感じているということだ。あなたはそうあるべきではない。人は他のものではなく、自分自身で満ち溢れているべきだからだ。誰か他人の意見や評価ではなく、自分自身の活気と、心からの存在の喜びで溢れているべきだ。

   そしてそれこそが、私が意図しているものだ。
   瞑想は、人に本来の権威と力を取り戻させる。それは他人を支配したりするものではなく、誰であってもその人から奪うことのできない本質的な力、権威という「質」だ。それこそが、人間に本来備わる力なのだ。

   社会や世論などいつ変化するかわからない。
   今日それに自分の意見が一致しても、明日はそうではない。つまり今日、人々がみんなしてあなたを立派だ、聖者のような人だと持ち上げて褒め称えたとしても、明日になればみんながあなたを大罪人だと非難する。

   だから自分自身の足で立った方がいい。
   聖者であれ、大罪人であれ、自分が何であれ、誰1人あなたを持ち去ることができないように、ただ自分自身を拠り所にしていなさい。大衆の中の聖者であるよりは、自分自身の足で立つ罪人の方がましだ。そんな聖者は単なる借り物であり、自分自身はただの空虚な入れ物に過ぎない。


        book『 神秘家の道 』  OSHO    市民出版社

                           抜粋


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