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・他人を見ることよりも、自分の内面を深く覗き込みなさい

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Q、 私はどうしてこれほど、他の人と直接アイコンタクトすることが難しいのでしょうか?

   そこにはさまざまな理由があるだろう。
   一つ考えられるのは、あなたの過去世が、目と目を直接合わせず、視線を落としていることが、女性にとって優美であると考えられている東半球にあったということだ。そこでは直接目を合わせるのは無作法で、若干威圧的なことと考えられている。だから東洋では女性は誰も、直接目と目を合わせることをしなかった。

   あなたが自分の過去世から、それを持って来ているということはあり得る。
   そして私には、それが事実に違いないことがわかる。なぜならあなたには、自分がつまらない人間だという感覚もあるからだ。これもまた、東洋が女性に与えた教えだ。つまり女性は無価値であり、女性であることから光明を得ることなどあり得ないという教えだ。だから女性はまず男性として生まれなければならず、そうして初めて光明に向かえると教えた。

   あなたは過去世で東洋にいただけではない。
   あなたは尼僧だっただろう。それも仏教の尼僧か、ジャイナ教の尼僧だ。こういう人たちは、自分の4フィート(約1メートル20センチ)先より前を見ることを許されていない。この人たちはこちらの言うことに耳を傾け、応答はするが、こちらを見ることはない。その理由は、尼僧は誰とも親しい関係を持ってはいけないということのようだ。

   心理学者の発見では、誰かの目をほんの2、3秒見るだけならそれは許されるし、互いにそれを偶然と考える。だがもし、それ以上長く見たとすれば、それは偶然ではなく、相手に介入しようとしていることになる。その相手がたまたま女性であったなら、それは絶対に不道徳なことだ、というのが東洋のやり方であり、あまり長く他人の目を覗き込むべきではないというのだ。

   「ならず者」を意味するヒンドゥスタン語が、「ルッチャ」であることを知ったら人は驚くだろう。そしてこれが、今私たちが話している問題への洞察を与えるだろう。ルッチャは「ロチャン」という言葉から来ており、それは「目」を意味するが、ルッチャとは、人を見つめて偶然の限界を通り越す者(ならず者)のことだ。だからその人は文明人ではなく、その振る舞いは無作法とされている。

   批評家を表わすヒンドゥ語、ヒンドゥスタン語は「アロチャック」だ。
   これもまたロチャンから来ている。そして批評家であるためには、何気なくではなく、できるだけ物事を深く覗き込まなければならない。そうして初めて、何が間違いで、何が正しいかを見つけることができる。だから批評とは、十分に深く長く見て初めて可能なことだ。アロチャックとルッチャは言語的には同じことを意味しており、ともに見つめるということから来ているが、その使い方が違うだけだ。

   さて、あなたにとって厄介なのは、あなたが東洋的思考を持ちながら、西洋に生まれたことだ。そして西洋の新しいやり方は、目と目を見つめ合うということだ。そこではそれが正直であり誠実なことだと考えられており、そこには真実がある。もし互いに話している相手が、そっぽを向いて決してこちらをまともに見ようとしないとすれば、その態度から間違いなく、相手が何かを隠しているということだ。それを追求されることを怖れて、絶対に相手の目を見つめたくない。なぜなら目とは、実にあからさまに全存在を明らかにするからだ。(略)

他人を見ることよりも、自分の内面をこそ深く覗き込みなさい

   純真な人間、真実な人間、誠実な人間には別な質というものがある。
   その目には、ある柔らかさと深さがある。だが表面的な人間には深さがなく、その目からはずる賢さが覗いている。だからもしあなたが、人々の目を直接見ることができなくても、その必要はない。あなたに必要なのは、自分自身の内側を覗くことであって、他人の目の中ではない。

   あなたは何世紀にもわたる過去世において、女性が優美であるように育てられた東洋にその過去世を持っている。東洋の女性には、慎ましく、攻撃的ではないあるやり方がある。人の目を覗き込むのは攻撃的なことで、優美ではないと考えられているからだ。私自身の経験では、東洋が女性の中に育ててきたこの優美さは、女性をより美しくしてきた。

   時々、私は不思議に思うことがある。
   それはミス・ユニバースのような、国を代表する美女とされる女性たちの写真を見たりする時、私には何かが根本的に間違っているという気がするからだ。東洋なら、ああいう女性がミス・ユニバースとして受け入れられることはない。彼女たちの振る舞いはすべて醜い。その顔は優美さを表わしてはいない。しかも彼女たちはほとんど裸体であり、何千人という人々の前で舞台の上を歩く。

   つまりそういった女性たちは、自分を単なる性的倒錯の対象に貶(おと)めているのだ。
   このような競争はすべて、ポルノグラフィーを求める男性によって発明されたものなのだ。東洋ではあのようなことはあり得ない。

   しかも、もっと過去に遡れば遡るほど、もっともっと、より優美であったことがわかるだろう。しかし今日の東洋の西洋化した現代都市では、そのような優美さはもはやどこにも見当たらない。それは彼らが西洋を模倣しようとし、しかもほとんど西洋化してしまったことにある。そうした東洋の本当の美しさは、まだ西洋がそれほど影響力を持っていないこうした国々の内陸地域にまだ残っている。彼らのしぐさや身のこなし、そうした様子のあらゆるものに、人間を超えたある種の「質」がある。

   だから、あなたは人の目を見ることについて心配する必要はない。
   人と比べて問題を作り出さないことだ。むしろそれを利用しなさい。他人の目の中を覗き込むことよりは、むしろあなたは自分自身の内面を覗き込みなさい。その場所こそが真の洞察の必要なところであり、それも深い洞察が必要なところだからだ。


                 book 『 神秘家 』  OSHO   市民出版社

                         抜粋


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