2015年08月16日
近々今までのすべてがすっかり変わってしまうほど劇的なゲートを通過するような気がする今日この頃です。もうすでに通過したかもしれないですが……。
というようなことで、ある意味で私自身のスピリチュアル原点を振り返ってみたいと思いました。以前のブログでも投稿した部分も含まれています。
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臨死体験に至るまで
私は17才のときにイタリアのウンブリア州ペルージアで生活し始めていました。もとはといえば、オーストラリアに一年間留学することが決まっていたのです。ほか数名の留学生仲間は全員すでにブリスベンやシドニーに向けて出発したというのに、私だけがホームステイ先がなかなか決まらず、半年間も今か今かと旅立つ日をひたすら待ち続けていました。
そんなある日、苛立ちながらも私はじっくりとオーストラリア留学について考えてみました。外国ならどこでもいいという気持ちで、あるチャリティー機関に応募したことはたしかですが、別にオーストラリアでなくてもよかったとさえ思えるようになりました。ちょうどその一年前は、短期留学で私はデンマークで数か月間過ごしていました。あの旅から戻ってきて数か月も経たないうちに私は日本での生活も、私立女子校にもうんざりしていました。どこにいても自分だけがひとり浮いてるような気がしてならなかったのです。
デンマークから帰国してからは、まるで別の惑星に辿り着いたような違和感でいっぱいでした。オーストラリア留学がなかなかスムーズに運ばなかった理由は、ほんとうはオーストラリアに行きたくないことに私は気づきました。とはいっても、そのまま日本にいる気持ちはまったくありませんでした。あと半年ほどで高校卒業というのに、一日たりとも日本でのいい加減な学生生活に我慢できなかったのです。幸いにも私が通っていた私立高校は当時では珍しく単位制でしたので、出席日数が足らない以外は高校卒業をクリアしていたことをなんとかうまく利用して、日本脱出を計画しました。後になってわかったことですが、私が日本を発ってから学校と両親の話し合いのもとに、私は一応高校を卒業させてもらったことにしてもらったそうです。
私は親の反対を押し切って、18才のお誕生日の数か月前にアリタリア機に乗り、ひとりローマに着きました。家出同然でした。ローマから列車に乗ってペルージャという小さな田舎町に私は辿り着きました。その翌日からUniversita per Stranieri (ペルージャ外国人大学)に通い始めました。憧れのイタリア生活がはじまったのです。学校から紹介してもらった下宿先には、もう一人オペラ歌手を目指す日本人女性がいました。それにしても、当時イタリアに留学する日本人の数はしれていました。おそらくあの頃は、イタリア中で私がいちばん年少の日本人留学生だったでしょう。
家族や先生たちの反対を押し切って歩みだした我が道をちゃんと全うするまでは、けして日本には帰国できない。張りつめたその気持ちが常に私を後押ししていました。だから外国にいても日本人と友だちになることを意識的に避け続けていました。なんとそれがあれから5年近くも続くことになったとは・・・。
一日も早くイタリア語をマスターして専門学部に進まないと、それしか私の頭にはありませんでした。最初の数か月間は、一日に30単語を覚えるという勢いでした。ちゃんとした専門学部に進めるように準備に必死でした。そうして一年ほど経ったある日、私は大学の先生たちに自分の進路を相談したところ、イタリアの小学校からやり直さなければ、大学入学は無理だというはっきりとした答えが返ってきました。私は半年ほどそのままペルージャでイタリア語を勉強したあと、根拠地をイギリスに移すことを決意しました。
英語ならきっと問題なく大学に進めると思ったからです。私は小学校の2年ぐらいから海外に出ることばかり考えていたので、そのころから英会話学校に通わせてもらい、おまけに外人の家庭教師までつけてもらっていました。幼い私がそこまで計画していたとは、両親はまったく気づいていませんでした。中学生の時は英語弁論大会に出場したり、英検2級をとっていました。イタリアに滞在している間もちゃんとアメリカ人の友だちをつくって、英会話の練習を怠りませんでした。
私は1971年のクリスマス直前にロンドンに到着しました。オックスフォードサーカスのはずれの歯医者さんの家に一間を借りて、英会話学校に通うことからスタートしました。一年ほど昼間は英語学校で、夜は美大の夜間コースに通いました。そして当時O(オー)レベルと呼ばれていた検定試験を数科目受けてから、念願の美大に願書を提出しました。ウエストロンドンカレッジに所属する‘Hammersmith school of Art and Building’ という学校でした。ここに入学するにあたり、私は友人のイタリア人女性が勤めていた建築事務所の社長に頼んで推薦状を書いてもらったり、あらゆる努力をしてやっと入学できたのです。一年目は授業についていくのに必死でした。ちょうど一年目が過ぎようとした頃、まだ20才にも私は満たなかった私は、やっと雰囲気にも慣れてきました。夏休みにはペルージャでイタリア語の夏期講座を受けるために、ヒッチハイクでロンドンからイタリアまで一日半ほどかけて行きました。当時ヒッチハイクは、それほど危険なことではなかったのです。私は友人から借りた本を読みながら、ひとりでヒッチしました。今から思えば、大胆きわまる青春時代だったにはちがいありません。
借りた本の中でも私が惹かれたのは、ランボーの詩とかサルトルの本でした。いわゆる実存主義の世界に私はどっぷり浸かっていました。イギリスでの一人暮らし、イタリアまでひとりで旅したりしていることにまったく寂しさを感じなかったのですが、心の中では人種差別を受けた様々な経験や孤独感が募っていたのでしょう。さらには、芸術というまた独特な世界が重なり合い、精神的にとても不安定な状態にありました。そんなある日、私は学校の帰り道で生きていることの意味を完全に見失いました。というよりも、むしろ、あの世に行ってみたくなったのかもしれません。ちょうど日本が嫌になって海外に飛び出したのと同じような単純な理由からです。
自殺未遂
気がつけば、私は病院のベッドに横たわっていて、自分の指が二倍ほど膨れ上がっていました。
『ここを今すぐ出なければ・・・』
とりあえず、ベッドの横に置かれていた服に着替えてから、私は病院を脱出しました。ロンドン地下鉄の、たしかベーカールー線でした。じっと座って行ったり来たり何往復も終点から終点まで乗っていたと思います。すると、私のことを知っているらしき女性が突然、私が腰を掛けていた車両に乗ってきたのです。
「いったい、どうしたの!?」
その女性が、私が当時暮らしていたアパートまで連れて帰ってくれました。
記憶喪失
私は誰?
まったく自分のことが思い出せませんでした。あの事故で記憶が飛ばされてしまったのです。学校の友だちが次々と交代で私の看病に来てくれました。
「あなたは愛知早苗よ」
そういわれてみればそうかもしれない。このような状態が約一か月間続きました。記憶喪失というのは、植物人間のようで食べる気力さえも失っているのです。それにしてもなぜか、あの時に体験した向こう側(・・・・)の(・)世界(・・)の記憶だけが、生々しく鮮明に残っていました。あの経験はかれこれ40数年も前のことで、前世の記憶に等しいともいえるほど遠い過去の出来事であるにしても、私の人生がそれ以前と、それ以降とはっきりと分けられるほど劇的な出来事でした。
臨死体験
別世界の旅への入口は、なんと数字でした。私は2と3の間に滑り込むように入っていきました。しかし同時にそれはなぜか、フランスとイタリアの国境と重なりあっているのを意識できました。その入り口から中に入っていくと、ミラーハウスのようなたくさんの鏡の壁に私は囲まれていました。どの部屋に入るとそこから出られるのか、迷っている自分がいました。
次なる記憶を辿っていくと、自分の体がまるで筒のように空っぽになり、上から下へ、下から上へと、風というか、エネルギーというか、なにかが勢いよく抜けては入り込む。これが永遠と思えるほど長く続きました。やがてそれが暗いトンネルであることに私は気づきました。今から思えば、死後の世界において初期段階に現れると一般に知られている、ほとんどの臨死体験者が記憶しているあのトンネルを私もまたそこで経験していたのでしょう。死後の世界のトンネルは、実は生命エネルギーの根源であり、いわゆる「クンダリーニエネルギー」の流れと同じではないのだろうかと、今となって私にはそう思えるのです。
やがて私は、そのときまで生きて経験したすべての、こと細やかな記憶が再現され、次から次へと絶え間なく襲ってくる世界から出られなくなっていました。それにしても、それらはすべて私が好きという感情を抱いた記憶の再現でした。たとえば、みずみずしくて美味しそうないちごにミルクがかかっているイメージが現れたとたんに、次は大好きなビートルズの曲の一節だったり、それらが目まぐるしく交代しながら止まらない世界に私は責められていたのです。私が好きと感じたり、愛した一瞬一瞬が、次から次へと猛スピードで再現されながら襲ってくるのです。自分自身に嫌悪感を抱くほど、これでもか、これでもかと、空っぽの筒のようになった私に映像と共にその一瞬一瞬の感情がパッ、パッと永遠とも思えるほど続くのです。その時の私の意識は、普段よりもはるかにはっきりしていました。
全部なにひとつ残すものなく自分が愛した人や動物、モノをシャワーのように私は浴びさせられました。たった19才の私の自我の大きさにぞっとするほど見せられたのです。たしかに最初のほうは、その再現を楽しんでいたのですが、とうとう「もういい、やめてえー」と私は叫びました。するとそれは以外にも簡単にピタッと止まったのです。
次なる記憶は、トンネルの向こう側の光が見えたことでした。にもかかわらず、私はトンネルの壁にある一つの部屋の扉を開けました。ギギギーと扉が開くと、その部屋の中はお化け屋敷のようで、薄暗く、灰色一色で包まれた古めかしい部屋でした。そこら中にクモの巣が張っていて、人の気配が長らくなかったような古い部屋で、気持ち悪さと恐ろしさが漂っていました。
はっと気がつくと、私はその部屋の中央にある楕円形のテーブルに横たわっていたのです。テーブルの周りには、小柄で大きな目をした3,4人の存在たちが私を囲んでいました。人間ではないと、すぐに判りました。今になって思えば、たしかにあれがグレイエーリアンだったように思われます。この体験は1970年代初頭で、まだグレイどころか、宇宙人のコンセプトさえあまりなかった時代であるにしても。
そのテーブルに私は縛られていました。ロープも何もなかったのに身動きひとつできないのです。彼らは私を見つめながら互いに無言で、テレパシーで会話しているようでした。
「どこから切開しようか?」
『冗談でしょ』と、私は一瞬思ったのですが、いや冗談ではなく、本気なのがその化け物の大きなアーモンド型の目からじわっと伝わってきました。見渡せば、その不気味な霧がかかったような灰色の部屋に、40センチほどの先が尖った大きな針のような刃物が、唯一リアルな世界と同じ輝きで光っていて、その太いほうの端を彼らの仲間のひとりが握っていました。
「やめてぇー」と私は大声で叫んだのですが、まったく動けないのです。先ほどの甘い世界から一変して、それまでに味わったことのない最大の恐怖を私は覚えました。どんなホラー映画も比較にならないくらいの究極の恐怖を体験させられたのです。いちばん恐ろしかったのは、彼らにはまったく表情もなければ、感情も一切ないと悟ったときでした。私に対して憎しみの感情さえない、単なる実験動物を扱うような冷酷さでした。その恐怖の絶頂の瞬間がしばらく続いた後、私は完全にあきらめの境地に入っていきました。どうしようもない、逃れられない運命を覚悟したのです。
『これで一巻の終わり・・・私はなんとバカなことをしでかしたのだ。でももう遅い!』
その刃物は、上方からゆっくりと私の心臓を目指して降りてきました。「いよいよもうだめ!」と思った瞬間に私は目を閉じたのです。するとその刃物はプチンと、まるでちっちゃな針が刺さったぐらいのインパクトで胸に刺さりました。
「あれえ、なにこれ?!」
まったく痛くもなにも感じませんでした。しかし、ほっと安心したのは束の間で、次の瞬間には、ものすごいスピードで私は上昇し、その不気味な部屋を上へと突き抜けていきました。どんどん私は上昇していき、下方に地球が小さく見えるくらいになっても止まりませんでした。私の体が止まったところは、広大な宇宙の彼方で、夜空の青さが広がっていました。周りには惑星や星が散らばっているのが見えていて、私はあのテーブルに寝かされていた状態のままで宇宙に浮いて漂っていました。
自分の胸のあたりから渦巻き線が、いくつもさざ波のように宇宙に向けて広がっていました。私は独りっきりで、あるのは宇宙の壮大さだけでした。意識ははっきりとしていて、底知れない孤独感に私は包まれていました。
「誰もいないの? たった一人っきりなんだ」
そのとき私の足元から宇宙に溶け込むように消え始めていました。それにしても、私の意識だけがその孤独感と共に残っていました。
『これが死なんだ。ほんとうにバカなことをしてしまった。意識はこのまま残るとは。いや、生きている時よりも、むしろもっとはっきりしている・・・』
と、どこからか声がしてきました。
「そうです。意識はそのまま残るのです。しかし、その孤独感はもうすぐ消えますから・・・」
その声は、先ほどの気持ち悪い存在たちのものではなかったことは、はっきりと判りました。少なくとも私のことを思っていてくれている愛ある存在の声と感じられたのです。その声が聞こえるや否や、孤独感は消えていました。最終的に私には、ただそこに存在するのみという感覚だけが残りました。私は宇宙の一部である。ただそれだけ感じられる自分が、はっきりとした意識としてありました。
『ああ、これが永遠・・・これでいいんだ』
生前の心の葛藤や疑問がすべて消えて、静寂とすべてがそれで完璧という感覚だけが最終的に残りました。浮いている自分を眺めると、あの渦巻きも私の肉体もほとんど胸のあたりまで消えしまっていました。文字通り私は宇宙に溶け込み、一体となっていたのです。
すると突然、どこからともなく先ほどとはまた異なる質の声が聞こえてきました。こんどは宇宙全体に深く響きわたる声でした。そしてこう告げられたのです。
「あなたが所属する村を探したのですが、見つかりませんでした。あなたはもう一度、地球に戻ることになりました」
そこで私の意識は一瞬にして肉体に戻り、目が覚めました。そこがロンドンの、あの救急病院だったのです。あれからずいぶん後になってわかったことですが、‘所属する村’とは、おそらくグループソウルのことだったのでしょう。
もうひとつ、あの経験から何年も経ってから気づいたことですが、グレイエーリアンというのは、別に悪い奴らではなく、むしろ人間が死に至るまでに、最大の恐怖を浄化するプロセスを手伝ってくれる役目があるのではないかということです。私たちが魂の故郷に帰還するイニシエーション(通過儀礼)に関わってくれる存在たちが、きっと彼らなのです。そういう意味では、「コミュニオン」(扶桑文庫、1994)というグレイエーリアンについての小説を書いたウィットリー・ストリーバーという作家の結論的な気づきと同意見ということになります。
プレアデスの存在たちが、いつか教えてくれたことがあります。それは、私たち人間が死に直面する際に、彼ら(プレアデス星人)も必ずそのプロセスを誘導するために関わるということです。ということは、だれでも遅かれ早かれみんな彼らと遭遇するということになります。だとすれば、私の彼らとの最初の遭遇は、ロンドンで経験したあの臨死体験から始まっていたのかもしれません。いえ、ひょっとすると、私が幼いころに腸チフスにかかり、生死の境をさ迷っていたときから始まっていたのかもしれない、ということです。
あのときの記憶がもっと鮮明な時期に記録しておけば、今こうして思い出せる内容よりも詳しく残っていただろうと思うことがよくありますが、それと同時に忘れたいという気持ちが常にありました。現実生活とまったくつじつまが合わない経験だったからです。経験直後は、あの経験以前の自分のすべてを、一か月ほど思い出せないくらいのショック状態に陥っていたことはたしかです。
臨死体験を経験した人たちが、その後劇的に人生が変わり、必然的にスピリチュアルな生き方を探求するようになると、よくいわれています。あの世を垣間見たショックは、この世の価値観を一変させ、あのトラウマ的な体験が偶然に起きたのではないことを、体験者はいずれ悟ることになるのだと思います。そして、あの世で体験したことの方が、この世で起きることよりもはるかにリアルで意味深いと捉えるようになるのでしょう。いつの日かあの世に再び戻るまでは、できるだけ意味深い生きた方をしようとするようになるでしょう。すなわち、常に死を身近に感じられる生き方へと切り替わるのです。仏教でいうところの諸行無常を、身をもって知るに至る、ということです。これがスピリチュアルな生き方の基盤かもしれません。
臨死体験後のシンクロに導かれて
さて、あのような体験をした直後の私は本来ならば、精神科医かセラピストのお世話にならなければならない状態でした。しかし、彼らは誰一人として私を癒すこともできなければ、あのとき私に囁きかけた声の存在に会わせてくれることなどできるはずがないと、私は確信していました。私はあの時以来、ずっと今日まで目に見えない糸で導かれながら、次から次へと多くの精神性豊かな人々との出会いがありました。その目に見えない糸とは、シンクロニシティの計らいです。
その計らいによって、あの経験から間もなくして私は、ロンドンの街で運よく魔術師(私がそう呼んでいる)アルフレードに発見され、数時間内に奇跡的にも記憶喪失から解き放されたのです。それどころか、彼の導きによって前世の記憶まで甦らせることができました。と同時に完全なサマーディ(覚醒状態)を体験したのです。残念ながらその状態はわずか数週間しか続かなかったのですが、その間思考が完全に静止していました。その上、睡眠や夢を見る必要もまったくなく、目を開いたまま横たわり、体を休めるだけでした。至福に満ちたワンネスだけの世界です。
それから徐々に私は俗世界に落ちていきました。もがけばもがくほど沈んでいくようななんともいえない最低の気分を味わいながら、日増しに自分が堕天使のように思えてきました。あれは一時的な覚醒にすぎなかったのです。考えてみると、たった19才の私にはまだまだ俗世界で学ばなければならないことがたくさんあったからです。とはいえ、あのときから私はアルフレードの弟子になり、不思議な魔法の世界を出入りする方法を学び始めていたのです。
ロンドン? 魔法? ハリーポッターの世界じゃないか、って思われる方もおられるでしょうが、実際にロンドンという街は、パリやプラハ、トリノと並んで中世期の錬金術が栄えただけあって、不思議なパワーを秘めたスポットが実際に現代でもあちこちに点在している街なのです。住んでみないと、普通の観光では決して発見できないですが。
アルフレードに教わる魔法のレッスンは、たいていは戸外で行なわれました。まずは歩きながら、パワースポットを見つけることから始まります。明らかに異質のエネルギーに満ちた直径1メートル半くらいの円形エリアが見つかるのです。それらを発見する度にその中に入ったり出たりしながらその日のレッスンに相応しい力を与えてくれる、文字通りパワースポットを探し当てるのです。そのあと様々な術を彼は私に伝授してくれました。
不思議としかいいようのない世界に彼は私を導いてくれました。そんなある日、ひょっとすると魔法は私独自の力ではなく、彼の力によって起きているのではないかという疑いが私の心に生じたのです。それとほぼ同時期に、彼は私の前から姿を消しました。若さがゆえの純粋無垢な心が、超自然の教えを素直に吸収できたのです。そういう意味では、あの頃が私の人生で最高のクレシェンドだったのかもしれません。
あれから少し時が流れてから、私の夫となるエハン・デラヴィに、これまた奇遇な巡り合せによって結ばれることになりました。正直なところ、それは私にとって偉大な魔術師になるという生涯をかけた、途方もなく現実離れした冒険の夢を断念しての決断でした。アンデス山脈のどこかに存在する異次元の扉までいつかアルフレードが案内してくれる、という約束まで交わしていたからです。
しかし、その時期が訪れるまでは、まずは普通の人間としての経験が必要だと、直観的に私は悟り、結婚という道を選びました。それが二十歳そこそこの私の思考だったのです。たしかにあの臨死体験以来、私が何歳であれ関係なく、必要に応じて賢い老婆のような英知が与えられることがあるのです。それが私自身の‘ハイアーセルフ’であることに、後に私は理解するに至りました。
私と夫との接点とは、最初から形而上学であり、いわゆる精神世界のことでした。こういうとうらやましがられるかもしれませんが、とんでもございません。二人そろって現実生活においてはビギナーズどころではなく、相当なハンディキャップ同士だったのです! これが解る頃には、すでに三人の子供たちが誕生していました。
実は彼こそ、まさしく堕天使なのです。あきれてしまうほど、人間界に慣れていない人なのです。妻である私がそれをいちばんよく知っています。私たち夫婦にとって、いかにスピリチュアリティを現実生活に融合させるか、これが四十数年間片時もなく継続させてきた共通かつ究極のテーマであり、ときとして辛い学びでもあるわけです。
私は夫と巡り会えたことによって今日にいたるまで、世界中の注目すべき人々に直接会うチャンスにも恵まれ、また様々な専門分野の優れた研究家たちから多くの知識を与えられるという、とても意味深い人生コースを歩むことになりました。その知識の中には、若い頃にアルフレードが私に見せてくれた世界を、論理的に説明づけてくれる学者まで含まれていました。ちゃんとシンクロニシティによって導かれているのですね。
むろん、夫のエハン自身から私が得た知識や情報は、40年という長い歳月を通して無限に等しいほど莫大な量です。とりわけ、私がいちばん彼に感謝しているのは、スコティッシュ特有の明るさで何事も積極的に捉え、また躊躇せずに行動に移せるという、本来私に欠けていたクオリティを譲り受けたことです。
Posted by 愛知 ソニア at 10:03 │ソニア物語
というようなことで、ある意味で私自身のスピリチュアル原点を振り返ってみたいと思いました。以前のブログでも投稿した部分も含まれています。
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臨死体験に至るまで
私は17才のときにイタリアのウンブリア州ペルージアで生活し始めていました。もとはといえば、オーストラリアに一年間留学することが決まっていたのです。ほか数名の留学生仲間は全員すでにブリスベンやシドニーに向けて出発したというのに、私だけがホームステイ先がなかなか決まらず、半年間も今か今かと旅立つ日をひたすら待ち続けていました。
そんなある日、苛立ちながらも私はじっくりとオーストラリア留学について考えてみました。外国ならどこでもいいという気持ちで、あるチャリティー機関に応募したことはたしかですが、別にオーストラリアでなくてもよかったとさえ思えるようになりました。ちょうどその一年前は、短期留学で私はデンマークで数か月間過ごしていました。あの旅から戻ってきて数か月も経たないうちに私は日本での生活も、私立女子校にもうんざりしていました。どこにいても自分だけがひとり浮いてるような気がしてならなかったのです。
デンマークから帰国してからは、まるで別の惑星に辿り着いたような違和感でいっぱいでした。オーストラリア留学がなかなかスムーズに運ばなかった理由は、ほんとうはオーストラリアに行きたくないことに私は気づきました。とはいっても、そのまま日本にいる気持ちはまったくありませんでした。あと半年ほどで高校卒業というのに、一日たりとも日本でのいい加減な学生生活に我慢できなかったのです。幸いにも私が通っていた私立高校は当時では珍しく単位制でしたので、出席日数が足らない以外は高校卒業をクリアしていたことをなんとかうまく利用して、日本脱出を計画しました。後になってわかったことですが、私が日本を発ってから学校と両親の話し合いのもとに、私は一応高校を卒業させてもらったことにしてもらったそうです。
私は親の反対を押し切って、18才のお誕生日の数か月前にアリタリア機に乗り、ひとりローマに着きました。家出同然でした。ローマから列車に乗ってペルージャという小さな田舎町に私は辿り着きました。その翌日からUniversita per Stranieri (ペルージャ外国人大学)に通い始めました。憧れのイタリア生活がはじまったのです。学校から紹介してもらった下宿先には、もう一人オペラ歌手を目指す日本人女性がいました。それにしても、当時イタリアに留学する日本人の数はしれていました。おそらくあの頃は、イタリア中で私がいちばん年少の日本人留学生だったでしょう。
家族や先生たちの反対を押し切って歩みだした我が道をちゃんと全うするまでは、けして日本には帰国できない。張りつめたその気持ちが常に私を後押ししていました。だから外国にいても日本人と友だちになることを意識的に避け続けていました。なんとそれがあれから5年近くも続くことになったとは・・・。
一日も早くイタリア語をマスターして専門学部に進まないと、それしか私の頭にはありませんでした。最初の数か月間は、一日に30単語を覚えるという勢いでした。ちゃんとした専門学部に進めるように準備に必死でした。そうして一年ほど経ったある日、私は大学の先生たちに自分の進路を相談したところ、イタリアの小学校からやり直さなければ、大学入学は無理だというはっきりとした答えが返ってきました。私は半年ほどそのままペルージャでイタリア語を勉強したあと、根拠地をイギリスに移すことを決意しました。
英語ならきっと問題なく大学に進めると思ったからです。私は小学校の2年ぐらいから海外に出ることばかり考えていたので、そのころから英会話学校に通わせてもらい、おまけに外人の家庭教師までつけてもらっていました。幼い私がそこまで計画していたとは、両親はまったく気づいていませんでした。中学生の時は英語弁論大会に出場したり、英検2級をとっていました。イタリアに滞在している間もちゃんとアメリカ人の友だちをつくって、英会話の練習を怠りませんでした。
私は1971年のクリスマス直前にロンドンに到着しました。オックスフォードサーカスのはずれの歯医者さんの家に一間を借りて、英会話学校に通うことからスタートしました。一年ほど昼間は英語学校で、夜は美大の夜間コースに通いました。そして当時O(オー)レベルと呼ばれていた検定試験を数科目受けてから、念願の美大に願書を提出しました。ウエストロンドンカレッジに所属する‘Hammersmith school of Art and Building’ という学校でした。ここに入学するにあたり、私は友人のイタリア人女性が勤めていた建築事務所の社長に頼んで推薦状を書いてもらったり、あらゆる努力をしてやっと入学できたのです。一年目は授業についていくのに必死でした。ちょうど一年目が過ぎようとした頃、まだ20才にも私は満たなかった私は、やっと雰囲気にも慣れてきました。夏休みにはペルージャでイタリア語の夏期講座を受けるために、ヒッチハイクでロンドンからイタリアまで一日半ほどかけて行きました。当時ヒッチハイクは、それほど危険なことではなかったのです。私は友人から借りた本を読みながら、ひとりでヒッチしました。今から思えば、大胆きわまる青春時代だったにはちがいありません。
借りた本の中でも私が惹かれたのは、ランボーの詩とかサルトルの本でした。いわゆる実存主義の世界に私はどっぷり浸かっていました。イギリスでの一人暮らし、イタリアまでひとりで旅したりしていることにまったく寂しさを感じなかったのですが、心の中では人種差別を受けた様々な経験や孤独感が募っていたのでしょう。さらには、芸術というまた独特な世界が重なり合い、精神的にとても不安定な状態にありました。そんなある日、私は学校の帰り道で生きていることの意味を完全に見失いました。というよりも、むしろ、あの世に行ってみたくなったのかもしれません。ちょうど日本が嫌になって海外に飛び出したのと同じような単純な理由からです。
自殺未遂
気がつけば、私は病院のベッドに横たわっていて、自分の指が二倍ほど膨れ上がっていました。
『ここを今すぐ出なければ・・・』
とりあえず、ベッドの横に置かれていた服に着替えてから、私は病院を脱出しました。ロンドン地下鉄の、たしかベーカールー線でした。じっと座って行ったり来たり何往復も終点から終点まで乗っていたと思います。すると、私のことを知っているらしき女性が突然、私が腰を掛けていた車両に乗ってきたのです。
「いったい、どうしたの!?」
その女性が、私が当時暮らしていたアパートまで連れて帰ってくれました。
記憶喪失
私は誰?
まったく自分のことが思い出せませんでした。あの事故で記憶が飛ばされてしまったのです。学校の友だちが次々と交代で私の看病に来てくれました。
「あなたは愛知早苗よ」
そういわれてみればそうかもしれない。このような状態が約一か月間続きました。記憶喪失というのは、植物人間のようで食べる気力さえも失っているのです。それにしてもなぜか、あの時に体験した向こう側(・・・・)の(・)世界(・・)の記憶だけが、生々しく鮮明に残っていました。あの経験はかれこれ40数年も前のことで、前世の記憶に等しいともいえるほど遠い過去の出来事であるにしても、私の人生がそれ以前と、それ以降とはっきりと分けられるほど劇的な出来事でした。
臨死体験
別世界の旅への入口は、なんと数字でした。私は2と3の間に滑り込むように入っていきました。しかし同時にそれはなぜか、フランスとイタリアの国境と重なりあっているのを意識できました。その入り口から中に入っていくと、ミラーハウスのようなたくさんの鏡の壁に私は囲まれていました。どの部屋に入るとそこから出られるのか、迷っている自分がいました。
次なる記憶を辿っていくと、自分の体がまるで筒のように空っぽになり、上から下へ、下から上へと、風というか、エネルギーというか、なにかが勢いよく抜けては入り込む。これが永遠と思えるほど長く続きました。やがてそれが暗いトンネルであることに私は気づきました。今から思えば、死後の世界において初期段階に現れると一般に知られている、ほとんどの臨死体験者が記憶しているあのトンネルを私もまたそこで経験していたのでしょう。死後の世界のトンネルは、実は生命エネルギーの根源であり、いわゆる「クンダリーニエネルギー」の流れと同じではないのだろうかと、今となって私にはそう思えるのです。
やがて私は、そのときまで生きて経験したすべての、こと細やかな記憶が再現され、次から次へと絶え間なく襲ってくる世界から出られなくなっていました。それにしても、それらはすべて私が好きという感情を抱いた記憶の再現でした。たとえば、みずみずしくて美味しそうないちごにミルクがかかっているイメージが現れたとたんに、次は大好きなビートルズの曲の一節だったり、それらが目まぐるしく交代しながら止まらない世界に私は責められていたのです。私が好きと感じたり、愛した一瞬一瞬が、次から次へと猛スピードで再現されながら襲ってくるのです。自分自身に嫌悪感を抱くほど、これでもか、これでもかと、空っぽの筒のようになった私に映像と共にその一瞬一瞬の感情がパッ、パッと永遠とも思えるほど続くのです。その時の私の意識は、普段よりもはるかにはっきりしていました。
全部なにひとつ残すものなく自分が愛した人や動物、モノをシャワーのように私は浴びさせられました。たった19才の私の自我の大きさにぞっとするほど見せられたのです。たしかに最初のほうは、その再現を楽しんでいたのですが、とうとう「もういい、やめてえー」と私は叫びました。するとそれは以外にも簡単にピタッと止まったのです。
次なる記憶は、トンネルの向こう側の光が見えたことでした。にもかかわらず、私はトンネルの壁にある一つの部屋の扉を開けました。ギギギーと扉が開くと、その部屋の中はお化け屋敷のようで、薄暗く、灰色一色で包まれた古めかしい部屋でした。そこら中にクモの巣が張っていて、人の気配が長らくなかったような古い部屋で、気持ち悪さと恐ろしさが漂っていました。
はっと気がつくと、私はその部屋の中央にある楕円形のテーブルに横たわっていたのです。テーブルの周りには、小柄で大きな目をした3,4人の存在たちが私を囲んでいました。人間ではないと、すぐに判りました。今になって思えば、たしかにあれがグレイエーリアンだったように思われます。この体験は1970年代初頭で、まだグレイどころか、宇宙人のコンセプトさえあまりなかった時代であるにしても。
そのテーブルに私は縛られていました。ロープも何もなかったのに身動きひとつできないのです。彼らは私を見つめながら互いに無言で、テレパシーで会話しているようでした。
「どこから切開しようか?」
『冗談でしょ』と、私は一瞬思ったのですが、いや冗談ではなく、本気なのがその化け物の大きなアーモンド型の目からじわっと伝わってきました。見渡せば、その不気味な霧がかかったような灰色の部屋に、40センチほどの先が尖った大きな針のような刃物が、唯一リアルな世界と同じ輝きで光っていて、その太いほうの端を彼らの仲間のひとりが握っていました。
「やめてぇー」と私は大声で叫んだのですが、まったく動けないのです。先ほどの甘い世界から一変して、それまでに味わったことのない最大の恐怖を私は覚えました。どんなホラー映画も比較にならないくらいの究極の恐怖を体験させられたのです。いちばん恐ろしかったのは、彼らにはまったく表情もなければ、感情も一切ないと悟ったときでした。私に対して憎しみの感情さえない、単なる実験動物を扱うような冷酷さでした。その恐怖の絶頂の瞬間がしばらく続いた後、私は完全にあきらめの境地に入っていきました。どうしようもない、逃れられない運命を覚悟したのです。
『これで一巻の終わり・・・私はなんとバカなことをしでかしたのだ。でももう遅い!』
その刃物は、上方からゆっくりと私の心臓を目指して降りてきました。「いよいよもうだめ!」と思った瞬間に私は目を閉じたのです。するとその刃物はプチンと、まるでちっちゃな針が刺さったぐらいのインパクトで胸に刺さりました。
「あれえ、なにこれ?!」
まったく痛くもなにも感じませんでした。しかし、ほっと安心したのは束の間で、次の瞬間には、ものすごいスピードで私は上昇し、その不気味な部屋を上へと突き抜けていきました。どんどん私は上昇していき、下方に地球が小さく見えるくらいになっても止まりませんでした。私の体が止まったところは、広大な宇宙の彼方で、夜空の青さが広がっていました。周りには惑星や星が散らばっているのが見えていて、私はあのテーブルに寝かされていた状態のままで宇宙に浮いて漂っていました。
自分の胸のあたりから渦巻き線が、いくつもさざ波のように宇宙に向けて広がっていました。私は独りっきりで、あるのは宇宙の壮大さだけでした。意識ははっきりとしていて、底知れない孤独感に私は包まれていました。
「誰もいないの? たった一人っきりなんだ」
そのとき私の足元から宇宙に溶け込むように消え始めていました。それにしても、私の意識だけがその孤独感と共に残っていました。
『これが死なんだ。ほんとうにバカなことをしてしまった。意識はこのまま残るとは。いや、生きている時よりも、むしろもっとはっきりしている・・・』
と、どこからか声がしてきました。
「そうです。意識はそのまま残るのです。しかし、その孤独感はもうすぐ消えますから・・・」
その声は、先ほどの気持ち悪い存在たちのものではなかったことは、はっきりと判りました。少なくとも私のことを思っていてくれている愛ある存在の声と感じられたのです。その声が聞こえるや否や、孤独感は消えていました。最終的に私には、ただそこに存在するのみという感覚だけが残りました。私は宇宙の一部である。ただそれだけ感じられる自分が、はっきりとした意識としてありました。
『ああ、これが永遠・・・これでいいんだ』
生前の心の葛藤や疑問がすべて消えて、静寂とすべてがそれで完璧という感覚だけが最終的に残りました。浮いている自分を眺めると、あの渦巻きも私の肉体もほとんど胸のあたりまで消えしまっていました。文字通り私は宇宙に溶け込み、一体となっていたのです。
すると突然、どこからともなく先ほどとはまた異なる質の声が聞こえてきました。こんどは宇宙全体に深く響きわたる声でした。そしてこう告げられたのです。
「あなたが所属する村を探したのですが、見つかりませんでした。あなたはもう一度、地球に戻ることになりました」
そこで私の意識は一瞬にして肉体に戻り、目が覚めました。そこがロンドンの、あの救急病院だったのです。あれからずいぶん後になってわかったことですが、‘所属する村’とは、おそらくグループソウルのことだったのでしょう。
もうひとつ、あの経験から何年も経ってから気づいたことですが、グレイエーリアンというのは、別に悪い奴らではなく、むしろ人間が死に至るまでに、最大の恐怖を浄化するプロセスを手伝ってくれる役目があるのではないかということです。私たちが魂の故郷に帰還するイニシエーション(通過儀礼)に関わってくれる存在たちが、きっと彼らなのです。そういう意味では、「コミュニオン」(扶桑文庫、1994)というグレイエーリアンについての小説を書いたウィットリー・ストリーバーという作家の結論的な気づきと同意見ということになります。
プレアデスの存在たちが、いつか教えてくれたことがあります。それは、私たち人間が死に直面する際に、彼ら(プレアデス星人)も必ずそのプロセスを誘導するために関わるということです。ということは、だれでも遅かれ早かれみんな彼らと遭遇するということになります。だとすれば、私の彼らとの最初の遭遇は、ロンドンで経験したあの臨死体験から始まっていたのかもしれません。いえ、ひょっとすると、私が幼いころに腸チフスにかかり、生死の境をさ迷っていたときから始まっていたのかもしれない、ということです。
あのときの記憶がもっと鮮明な時期に記録しておけば、今こうして思い出せる内容よりも詳しく残っていただろうと思うことがよくありますが、それと同時に忘れたいという気持ちが常にありました。現実生活とまったくつじつまが合わない経験だったからです。経験直後は、あの経験以前の自分のすべてを、一か月ほど思い出せないくらいのショック状態に陥っていたことはたしかです。
臨死体験を経験した人たちが、その後劇的に人生が変わり、必然的にスピリチュアルな生き方を探求するようになると、よくいわれています。あの世を垣間見たショックは、この世の価値観を一変させ、あのトラウマ的な体験が偶然に起きたのではないことを、体験者はいずれ悟ることになるのだと思います。そして、あの世で体験したことの方が、この世で起きることよりもはるかにリアルで意味深いと捉えるようになるのでしょう。いつの日かあの世に再び戻るまでは、できるだけ意味深い生きた方をしようとするようになるでしょう。すなわち、常に死を身近に感じられる生き方へと切り替わるのです。仏教でいうところの諸行無常を、身をもって知るに至る、ということです。これがスピリチュアルな生き方の基盤かもしれません。
臨死体験後のシンクロに導かれて
さて、あのような体験をした直後の私は本来ならば、精神科医かセラピストのお世話にならなければならない状態でした。しかし、彼らは誰一人として私を癒すこともできなければ、あのとき私に囁きかけた声の存在に会わせてくれることなどできるはずがないと、私は確信していました。私はあの時以来、ずっと今日まで目に見えない糸で導かれながら、次から次へと多くの精神性豊かな人々との出会いがありました。その目に見えない糸とは、シンクロニシティの計らいです。
その計らいによって、あの経験から間もなくして私は、ロンドンの街で運よく魔術師(私がそう呼んでいる)アルフレードに発見され、数時間内に奇跡的にも記憶喪失から解き放されたのです。それどころか、彼の導きによって前世の記憶まで甦らせることができました。と同時に完全なサマーディ(覚醒状態)を体験したのです。残念ながらその状態はわずか数週間しか続かなかったのですが、その間思考が完全に静止していました。その上、睡眠や夢を見る必要もまったくなく、目を開いたまま横たわり、体を休めるだけでした。至福に満ちたワンネスだけの世界です。
それから徐々に私は俗世界に落ちていきました。もがけばもがくほど沈んでいくようななんともいえない最低の気分を味わいながら、日増しに自分が堕天使のように思えてきました。あれは一時的な覚醒にすぎなかったのです。考えてみると、たった19才の私にはまだまだ俗世界で学ばなければならないことがたくさんあったからです。とはいえ、あのときから私はアルフレードの弟子になり、不思議な魔法の世界を出入りする方法を学び始めていたのです。
ロンドン? 魔法? ハリーポッターの世界じゃないか、って思われる方もおられるでしょうが、実際にロンドンという街は、パリやプラハ、トリノと並んで中世期の錬金術が栄えただけあって、不思議なパワーを秘めたスポットが実際に現代でもあちこちに点在している街なのです。住んでみないと、普通の観光では決して発見できないですが。
アルフレードに教わる魔法のレッスンは、たいていは戸外で行なわれました。まずは歩きながら、パワースポットを見つけることから始まります。明らかに異質のエネルギーに満ちた直径1メートル半くらいの円形エリアが見つかるのです。それらを発見する度にその中に入ったり出たりしながらその日のレッスンに相応しい力を与えてくれる、文字通りパワースポットを探し当てるのです。そのあと様々な術を彼は私に伝授してくれました。
不思議としかいいようのない世界に彼は私を導いてくれました。そんなある日、ひょっとすると魔法は私独自の力ではなく、彼の力によって起きているのではないかという疑いが私の心に生じたのです。それとほぼ同時期に、彼は私の前から姿を消しました。若さがゆえの純粋無垢な心が、超自然の教えを素直に吸収できたのです。そういう意味では、あの頃が私の人生で最高のクレシェンドだったのかもしれません。
あれから少し時が流れてから、私の夫となるエハン・デラヴィに、これまた奇遇な巡り合せによって結ばれることになりました。正直なところ、それは私にとって偉大な魔術師になるという生涯をかけた、途方もなく現実離れした冒険の夢を断念しての決断でした。アンデス山脈のどこかに存在する異次元の扉までいつかアルフレードが案内してくれる、という約束まで交わしていたからです。
しかし、その時期が訪れるまでは、まずは普通の人間としての経験が必要だと、直観的に私は悟り、結婚という道を選びました。それが二十歳そこそこの私の思考だったのです。たしかにあの臨死体験以来、私が何歳であれ関係なく、必要に応じて賢い老婆のような英知が与えられることがあるのです。それが私自身の‘ハイアーセルフ’であることに、後に私は理解するに至りました。
私と夫との接点とは、最初から形而上学であり、いわゆる精神世界のことでした。こういうとうらやましがられるかもしれませんが、とんでもございません。二人そろって現実生活においてはビギナーズどころではなく、相当なハンディキャップ同士だったのです! これが解る頃には、すでに三人の子供たちが誕生していました。
実は彼こそ、まさしく堕天使なのです。あきれてしまうほど、人間界に慣れていない人なのです。妻である私がそれをいちばんよく知っています。私たち夫婦にとって、いかにスピリチュアリティを現実生活に融合させるか、これが四十数年間片時もなく継続させてきた共通かつ究極のテーマであり、ときとして辛い学びでもあるわけです。
私は夫と巡り会えたことによって今日にいたるまで、世界中の注目すべき人々に直接会うチャンスにも恵まれ、また様々な専門分野の優れた研究家たちから多くの知識を与えられるという、とても意味深い人生コースを歩むことになりました。その知識の中には、若い頃にアルフレードが私に見せてくれた世界を、論理的に説明づけてくれる学者まで含まれていました。ちゃんとシンクロニシティによって導かれているのですね。
むろん、夫のエハン自身から私が得た知識や情報は、40年という長い歳月を通して無限に等しいほど莫大な量です。とりわけ、私がいちばん彼に感謝しているのは、スコティッシュ特有の明るさで何事も積極的に捉え、また躊躇せずに行動に移せるという、本来私に欠けていたクオリティを譲り受けたことです。
Posted by 愛知 ソニア at 10:03 │ソニア物語