至高なる創造主が持っているたった一つの目的ともいうべきものは、あらゆるものの源である神を表現できるように、”ただ在る”ということです。もし何か計画があったとしたら、それはあなたの内面に在る神を表現する自由を奪ってしまうでしょう。そうするとあなたの独自性や、進化できる能力、そして神という生命の本質を拡大する能力まで奪ってしまうことになります。
それはあなたが神なるものの真の姿を知り、なぜ神はあなたを愛するのかを理解できるようにするためであり、あなたがどのようであろうとも、なぜ神はあなたを愛するのかがわかるようにするためです。また、あらゆるすべての生命が互いに共存し、組み合わさって一つになることを、もっとはっきり見えるようにして、あらゆるものがただ”在る”理由が、単にそれぞれが自己を表現するためであることを理解できるようにするのです。
生きる目的というのは、一瞬一瞬、自分の内面で花開くように展開していく人生において、自分が望むものになるということで、それ以外にあなたの運命はありません。その目的を満たしていく中で、自分の望むとおりのものになり、望むことをし、望むとおりのものでいられる限りない自由があなたにはあります。
「法」とは人間がつくったものであり、神がつくったものではない
Q、 ですが、何でもできるとなれば、聖書にある神の法に反するものも出てくるのではありませんか?
ラムサ あなたを愛する至高の神は、法など何もつくってはいません。
ただ一つを除いては。そのただ一つの法とは、あなたの崇高な意志にしたがって自分の生を表現するべし、というものです。つまり自分の意志を行使するという行為を通してだけ、あなたは創造主そのものであるすべての生命の意識を拡張し、拡大できるからです。もし神が法をつくる存在であるならば、あらゆる生命の進化と表現の自由を、あなたは(つまり神自身が)有するのを阻害してしまったことでしょう。その結果、神は限定された「源」となり、ひとつの終焉を迎えていたはずです!
あなたがよく知る聖書に書かれ、あなたが「神の法」と呼んでいるものは、実は多くの法律です。それは預言者たちによって書き加えられ、あれはいけない、こうしなければならないという制限を与える、強力な言葉となってきました。こうした「神の法」と人々が呼ぶもののおかげで、人々は神に身をゆだね、神をより恐れるようになっていきました。子どもたちは親を怖れるのではなく、親のようになることを教えられました。
至高なる神に法はありません。
いつでも法をつくるのは人間であって、神ではありません。神は人間に自由意志を与え、自分の世界に自らの法を与える存在としました。つまりすべての生命についての理解が進む中で、自分にふさわしい信念や真実、あるいは価値観を、自分の思考から何でもつくり出せる自由を与えたのです。
そして人間はこの自由を用いて、社会に生きていくために必要と考えられる法律をつくり出しました。しかし残念ながらいつの時もほとんどの法律は、一部の人間が多くの人々を恫喝し、隷属させる目的のために、情け容赦なくつくり出されたものだったのです。それは自由を高めるためではなく、制限するためにつくられたのです。人間が無法状態に自らを置くことを許さないのは、自分という存在を怖れているからであり、自分自身を治める法律が必要だと考えているからです。それは自分自身という本来の無限性と神性を理解していないからなのです。
Q、 ですがもし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現してしまうのをどう防ぐのでしょうか?
ラムサ よく聞きなさい。
すべてを包含しているこの宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は生まれた時から魂が邪悪であると、あなた方は教えられてきてそう記されてもいますが、そうではありません。人間は神から生まれたものであり、その魂は本来神そのもので、人間の存在そのものが神なのです。もしそうではないというのなら、人間はいったいどこから生まれ、どこからやって来たというのでしょうか?
すべては体験して「知る」ためにある
あらゆる存在自体が、創造主の管轄外に存在するものはありません。
それはただの一つもなく、悪であるとか、間違っていると誰かが判断した想念や行為であっても、それが意識において生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。なぜならすべては神の一部であり、もしそうではなく何かが一つ悪であるというならば、それは神もまた悪であると言っているのです。
神は悪ではありません!
ですが、神は善でもないのです。なぜなら善というものの境界を決めるために、悪、あるいは邪悪という考えが必要であり、それに対比することで判断しなくてはならないからです。神は善でも悪でもありません。神は悪でないのと同じく、善でもないのです。そして神は完璧ですらなく、創造主は”ただ在る”のです。
「ただ在るということ」では、すべての存在はその運命をいかに満たしたかどうかだけで見られます。つまり、その魂が叡智において自らを満たしていくために必要な、感情面における体験だけについて見るのです。ですからあなたがこれまでにしてきたことのすべては、たとえそれがいかに美しく、あるいはいかに卑しいかとあなたが判断してきたとしても、それはただ「知る」ということのためだけに体験してきたことなのです。
あなたは何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしてきたことなのです。
それを実際にしてみることによって、あなたははじめてそれをすることの価値に気づき、価値を確かめ、そこから何かを得られたのです。それらのすべては悪でもなければ、邪(よこし)まなことでもありません。それが本来の神になるために必要なことなのです。
人間は長い時間をかけて、断罪するという価値感を教え込まれてきた
神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。
人間は本来持つ創造性を駆使することで、審判に必要な善悪のバランスを編み出し、一部の人間たちが自分たちの同胞へそれを行使することで、人々の表現の自由を奪っていきました。それらの多くは宗教的な教義として用いられ、政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰の恐怖を人々に与え、そうした恐怖がこれまでの長い間、国家を支配し、統率するための剣として使われてきました。
もしあなた方の言葉で「邪悪」と呼ぶものがあるとすれば、それは存在の内にある神を表現する自由を人間から奪ってしまうことです。なぜなら自分の同胞たちに対してそうした審判(断罪)をするたびに、実は自分にも同じことをしているからです。それだけでなくさらに深い影響をこうむる形で、自分に同じことが起きてきます。なぜなら他の人間に対して下す審判や批判、断罪、制限は、同時に自分の意識における内面でも強力な法となり、あなた自身が自分に対して限界を設け、批判し断罪し、自分に審判を下すことになるからです。
人間は魂が邪悪なのではありません。
悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みの中では悪というものはありません。人間は、自分の望むものを思考から創造するという選択を可能にしている、「生きる場」というものがあるだけです。それだけが、存在する現実なのです。そうした現実に、人間は宗教的信念や限定された狭い考え方を通して、悪という幻想的存在をつくり出しているのです。
そうした悪を長い間観察し、判断し、期待し続けることによって、悪は人間の現実の中に存在するようになりましたが、だとしてもそれは、その人の現実だけのことに過ぎません。なぜならその人が信じるように、自分の世界もそうなるからです。もし善悪があると信じることを選ぶなら、それがあなたの現実であり、それで間違ってはいません。ですが一つ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であって、私や他の誰のものでもないということです。
そのすべてはあなたにだけ属しており、その考え、意見を持っている限り、それは確実に現実に起こり、現実のものであり続けます。それを信じるのをやめれば、現実ではなくなります。ただ単にそういうことなのです。
あらゆることが、殺人でさえが神の叡智を得る一つの体験
ラムサ さて、あなたが悪と思っているものは何なのか教えてください。
Q、 普通はやはり、他人に危害を加えることだと思います。
ラムサ そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか?
Q、 たとえば誰かが私の子どもに危害を加えるなら、それは悪です。そして子どもが死んだりしたら。
ラムサ それは悪についてのあなたの判断ですね。ですが、死ぬということがなぜ悪なのですか?
Q、 ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うのですね!
ラムサ その通りです。
それは一つものが終わるという考えですが、私は自分に限界をつくることはしないからです。なぜなら何一つ、消滅するものはないからです。それはただの一つもありません! もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか? 至高なる創造主が創造したものには、何一つ消滅するものはないのです。それはすべてが永遠に生き続けます。ですからあなたの子どもも、消滅するのではありません。この世界に神の命を消滅させられるものは何もないからです。
Q、 あなたは本当に、殺人でさえも間違ったことではないというのですか?
ラムサ 生命というものは途切れなく続くものです。
それはずっとずっと永遠に続いていくものです。もしある瞬間に、一人の存在が他の命を奪うことを選んだならば、その人はその行為が必ず自分のところに跳ね返って来ることを学ぶことになります。そして強烈な罪悪感と自分に対する審判という恐怖の中に生きることになります。
命を奪われた者は、何度も何度も戻って来るのです。
なぜなら生とは永遠であり、それは永遠に継続するものだからです。もし私がこの行ないを憎悪し、そうした者に審判を下すならば、それは自分に審判を下していることになります。ぜひわかってほしいことは、殺される側は犠牲者ではないということです。彼はそうした殺意ある相手を、自分のところまで引き寄せる何らかの原因を持っていたのです。こうして暴行を働く必要があった者と、(それを引き寄せた理由の理解のために)暴行される必要のあった者が、その体験をするために同じところに引き寄せられて来たのです。
神の叡智において、悪であるものは何もありません。
あらゆるものが、智慧を与える一つの体験なのです。これが、あなたへの私の答えです。人間たちがもはや他の誰からも非難されたり断罪されることがなくなり、自分の存在を悪ではなく、神そのものなのだと気づく時、そして自分の存在のすべてが愛されて支えられているとわかったとき、自分の価値や自分の尊厳を理解するために、あえてわざわざ戦争や強姦、殺人、あるいはそうした類(たぐい)の体験をする必要はなくなるのです。
人間が、法律だ規則だといったものであふれた、限定された意識から自分を解き放つとき、存在の持つ喜びと穏やかさを見出し、自分と他人を愛することを可能にし、自分自身の流れを自由に作り出すようになります。そのようにして、人は神と同じ愛を現すようになります。これが人間だけでなく、すべての生命を育み、支えていく基盤となるものなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』 ラムサ著 角川春樹事務所
zeraniumのブログ より転載