マスター・エリエルの言葉は、今でも脳裏に焼きついている。
「他者の命を奪う行為は、たとえそれが未遂であったとしても、その意志がある限り、自分の命が奪われる原因を作動させることになる。誰かが死ぬことを願うような、あるいはそのような感情を抱くと、他者に向けて放たれた感情は、巡り巡ってその感情を放った者に返って来る。
そして多くの場合、人間は何らかの不正行為に激高した結果、自身のうちに憎しみや恨みが生じるにまかせ、時に不正を働く張本人がこの世から消えることすら願う。だがこれは死の思考の巧妙な手口であり、実際には相手の死を願った者がその報いを受けることになる。
この不変の法則からは何者も免れ得ないために、多くの者が自ら抱いた感情や行為により自ら死を招いている。そのような感情や思考に翻弄されてばかりいることから、人類は死の体験を逃れられずに、限りなく転生を続けているのだ。
実際的な暴力行為で死ぬ者の数は、そうした破壊的な思考や感情などが発せられた言葉によって引き起こされる死と比べれば、ほんの微々たるものでしかない。まさに人類は何千年にもわたり、そのような憎しみの感情や破壊的な思考を通して今も互いに殺しあっているのだ。なぜなら人間たちは”生命の法則”を学ぼうとも、従おうともしないからだ。
宇宙には、”生命の法則”以外、何も存在しない。
その法則とは”愛”だ。この永遠の命令である慈悲深い命令に従わず、従う気すらない自意識や思考する自己でいる限り、肉体を保つことも、それを維持し続けることもできない。”愛”以外のものは、いずれ形を消滅させてしまうからだ。
たとえ、感情や思考であれ、言葉や行為であれ、それが意図的であろうとなかろうとかまわず、法則は必然的に作用する。なぜなら思考も感情も、言葉も行為も作用する力、つまりエネルギーであることから、いったん発せられた言葉や感情、思考は、それぞれの軌道を永遠に回り続けるものであることを知らねばならない。
この法則を理解し、一瞬たりとも自分が創造をやめることがないのだと悟ったならば、人間は”内なる神”の存在に目覚め、これまで誤って自身が創り出したものを浄化し、自らの限界から解き放たれるだろうに。
人間は、”不和の繭”(まゆ)を自分の周囲に作り出して築き、その中で眠っている。
そして、築くことができるならば、壊すこともできるという事実を忘れている。だが自分で創った繭を打ち破りたければ、魂の両翼である”敬意と決意”を使えばそれができる。そうすれば再び、自分自身の中心である”内なる神”の光と自由の中で生きることができるだろうに。」
「無知な世論に十分に立ち向かえるほど強くなった時こそが、素晴らしい神の業(わざ)の証人となる準備ができたということだ。それが達成されるまでは、他者から来る助言や疑いの力に翻弄され、真理の探求をやめてしまうことも少なくない。
継続的な学びの流れを断ってしまうのは、”不和”以外の何ものでもない。
”不和”は、地上に不気味(ぶきみ)な力を割り込ませる陰険な手段であり、人の外界での活動に頻繁に入り込み光を遮(さえぎ)ろうとする。”不和”は、感情に直結して巧妙な作用で感知されずにすり抜けるものであるだけに、非常に厄介なものである。それは執拗で、潜行性があり、表面化するまで本人には何が起きているのか気づかない場合が多い。
このような感情は、些細なわだかまりから始まる。
そうしたものを2度、3度感じただけで、それは不信感に変わる。その不信感が感情体を1、2回巡ると疑いになり、疑念は自滅へと行き着く。」
「あなたが外的世界に戻った時には、これらのことを思い起こしてほしい。
この認識は今後のあなたの人生経験において、自分を守る防護壁となるだろう。そうすれば、"不和”とは接することなく生きられる。誰もが、自分自身で描いた世界に暮らしている。つまり疑いを放ったならば、自分の放った疑いを受け取るだけだからだ。
この取り消しの利かない命令は、宇宙全体に存在する。
衝動的であれ意識的であれ、飛び出した意識はすべて出て来たところに戻ってくる。そこにはただ1つの原子たりとも例外はない。
真の光の弟子は、光と真正面から向き合い、光に包まれ、光とともに動き、常に光を敬う。たとえ人間の心が抱える不安や恐れ、疑いや無知があろうとも、それらに背を向け、光だけを見る。なぜならそれが、自身の源であり、真の自己であるからだ。」
マスター・エリエルが、別れ際に送ってくれたこのはなむけの言葉を胸にして、私は外界での日常生活に戻ったのだった。
(サン・ジェルマンによる)
『明かされた秘密』 ゴッドフリー・レイ・キング著
ナチュラルスピリット
抜粋
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・「生命の法則」
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