2015年04月25日
今日は少し気が進まないテーマなのですが、春の大掃除と共にこの「カルマ」について少し考えてみたいと思います。
「カルマの解消」、「カルマを燃やす」、「カルマを断ち切る」というような言葉をもって「悪いカルマ」とおさらばしたい、カルマという因果関係を卒業したいと誰しも思うのですが、カルマをただ無視することではそれは起きません。むしろ素直に自分の「カルマ」を認識することからそのプロセスは始まるかもしれません。
私たちが自らの魂についての学びを深めていく過程で、カルマについてよく理解することは必然的だといえます。
カルマからそれほど簡単に解放されるものでしょうか?
私たちの多くは、年齢を重ねるとともにカルマについて深く考えさせられるようになります。昔の人々は、「親の因果が子に移り・・・」などとよく言ったものですが、実際にカルマとは深く私たちのサイキに細胞深くから根づいていることに気づかされます。
たとえ自分自身はカルマから抜け出たように錯覚できたとしても、自分の子供たちや周りの人たちにも浸透していることを認識できたり、また集団レベルのカルマもなかなか消えたりしないことに気づかされます。
まず、カルマという言葉は、古代サンスクリット語で、「行為」とか「因果」、「宿命」といった意味があります。ヒンズー語でよく現れる言葉でもあり、「働き」とか「行ない」を表す意味で使われています。
カルマとは、私たちにとって最高で、もっとも真実の本質と再び融合するための、魂レベルの努力も含まれていて、私たちの人生で展開されるものを形づける目には見えない力が常に働きかけています。
したがってカルマは、もちろん「悪いカルマ」だけではなく、「良いカルマ」もあります。「インスタント・カルマ」、「集団カルマ」といったような言葉もあります。
「インスタント・カルマ」というのは、とてもわかり易いです。たとえば、誰かに対してネガティブな思考を抱いたとたんにつまずいて転んだりすることです。「集団カルマ」は、たとえば日本人である私たち皆が共に負うネガティブな社会的出来事などです。
カルマのホイール(輪)
カルマの車輪が回り続けているときに、人生が私たちに与えなければならない最高と最低を経験します。喜びと苦しみ、快楽と苦痛、勝利と落胆、光と闇のサイクルを繰り返します。なにごとも決して偶然には起きないのですが、過去世のカルマについては、前世療法などを通してでなければなかなか気づきにくく、納得できるものではありません。今生ではとてもスピリチュアルで申し分のないほど善良で素晴らしい人間であっても、記憶にない過去世のカルマに悩まされていることも多々あるのです。ほかの生涯でなした行ないの残骸として、今生で得体のしれない罪の意識や恥といった心理的苦痛を味わうこともあります。このサイクルを断つ鍵は、私たちが過去世において他者になしたかもしれないことに対して自分を許すことです。これができないために何度も生まれ変わる必要が生じることもあります。もちろん、これは現世においても同じことがいえます。過ぎた過去の過ちで自分を苦しめないことです。
カルマとは、一言でいうと「記憶」です。その多くが意識レベルに現れていなく、細胞レベルに浸透している過去世からの記憶であり、今生に至るまで影のように付きまとい、知らず知らずのうちにその因果関係の輪を広げていることになりかねないのです。それを「カルマのホイール」と言います。
カルマは、あまりにも辛く苦しくて、心に傷を負わせるようなものが多いので、私たちはもっとも偉大な真理に対して自ら心を閉ざしてしまうことがよくあります。
それらの真理とは、
この世界は幻想にすぎない
人生の出来事は偶然には起きない
行為には結果が伴う
愛することを学ぶためにここにいる
他に与えるものは何であろうと自分に帰ってくる
すでに真理を見抜いた者にはこれらは当然であり、幼稚園レベルのスピリチュアリティな教えに思えますが、頭でこれらを理解しているだけではなく、実際に生活する中でちゃんと把握できていないかぎり、カルマのホイールから脱出できることはあり得ません。
もっとも素晴らしい経験からもっとも悲惨な経験まで、目に見えない力によって私たちの人生で展開されるものが形づけられ、取り決められるのです。決してなんの原因もなく偶然に、ランダムには起きえないのです。つまり、カルマは宇宙を通じて働く絶対的な法則だといえるのです。
カルマの簡単な例えとして、もし私たちが他人の自由意志を尊重して協力するのなら愛を選んでいるので、「良いカルマ」を生むことになります。これは特に自分の子供たちや家族に対してよく心しておくべきことです。他人の自由意志を支配したり、自分の利益のために操作したりすることは、もちろん「悪いカルマ」を生むことになります。私たちの思考や言葉、行為が目に見えないレベルで常に愛か支配を選択しているのです。愛を作り出すのなら、愛は自分に帰ってきます。
このような収支決算のシステムから、つまり「カルマのホイール」から実際に抜け出る方法はあるのでしょうか?
それは「許し」です。
キリストのカルマの教え
他人を許すことは、比較的容易いことであるといえましょう。いちばん許しがたいのは、自分自身を許すことです。つまり、過去世にまで浸透している細胞レベルのネガティブ記憶を解放することにあります。これは、「奇跡のコース」の主な教えのひとつでもあります。奇跡のコースを一生懸命学んでいるある方が、コースの許しの教えの引用を抜粋してくれました。
キリスト教では、ヒンズー教、仏教のようにカルマや生まれ変わりについてはあまり語りませんが、「悪い行ないをすると地獄に落ちる」と教えています。今日のほとんどの聖書に「地獄」として訳されているヘブライ語は、‘sheol’は、ほんとうは「墓」を意味する言葉なのです。墓は肉体をもってこの世に生まれたならだれでもいずれは行かなければならない場所です。
神は善悪を知る木から実をとって食べたアダムとイブが地獄行きだとはいってはいなく、ただ永遠の命を授かった者たちに死がもたらされる、といっているのです。「地獄」のコンセプトとして聖書では、「ゲヘナ」というギリシャ語を用いていますが、これはもともと「町のゴミ焼却場」を意味しています。イエスは「人を馬鹿にするとゲヘナ行になる」と比喩としてこれを使ったのは、カルマを焼き滅ぼさなければならない、つまり、「カルマの浄化」を意味したのでしょう。また、聖書の中でカルマと同じ意味を表している個所として明らかな言葉は、誰もが知っている「撒いた種は刈り取らねばならない」(ガラテア6:7)です。
聖書の中で生まれ変わりについて明らかにしているのは、「これこそその人だ。・・・バプテズマのヨハネ以上に偉大なものが現れたことはない。・・・そして、もしこれを受け入れる用意があれば言うが、彼こそ来ることを予定されていたエリアである。耳ある者は聞くがよい」(マタイ11:11-15)
AD325年の「ニケイア公会議」とAD553年の「第二コンスタンチノープル公会議」にて、ローマ政府は、生まれ変わりを信じたり、教えたりすることを違法だと公布しました。その時代から政府の力を強める道具としての宗教が確立され、永遠に地獄の火にさらされるというコンセプトを用いて、いかなる抵抗も押しつぶす権力にキリストの教えは利用されるようになりました。
実際にキリストが教えたのは、私たちの不純を焼滅ぼすカルマの火をもって自らを救済することができるということと、カルマの出来事を起こさせているのは、私たちが究極の愛を理解するためだということです。ひとたびそれを理解したならば、悲惨や苦しみといったサイクル(カルマのホイール)から、すなわちゲヘナの火を繰り返し潜ることから救われることが可能であると説いています。
以上のことを理解できたとしても、実際に悪いカルマはとても嫌なもので、なにか見えない力によって戒められ、恥じらいを受けてひ弱に感じさせられます。無意識レベルで私たちがなにを信じようと関係なく、カルマはある絶対的な法則で襲いかかってくるように感じられます。いくら嘆こうとも、遅かれ早かれ私たちのエゴは少しずつ後退し、悪いカルマとその背後にあるものを理解しようとし始めます。
シンクロとして現れるカルマ
カルマのあるものは、一連のシンクロによってまるで黒魔術に引き込まれるように起きます。皮肉なシンクロの連鎖を引き寄せるのです。たとえば、誰かに傷つけられたことに腹を立て、仕返しを考えていたら、連鎖的なシンクロの導きによって新たなカルマが形づけられていくことがあります。自分のスピリチュアルな強さをそこぞと発揮して、感情に流されずカルマが生じるのをストップさせることができます。逆に左脳的な理屈で自分を正当化させると、やがて孤独感、絶望、落ち込み、悲しみや嫉妬に苛まれることになりかねないのです。
ひょっとすると私たちは、こういったカルマのホイールに気づいていなく、何度も生まれ変わりながらこれを繰り返しているのかもしれません。世界で起きている戦争のカルマは、まさにこれを物語っています。私たちひとり一人が、愛の道を学ばなければならず、これが宇宙を通じて起きるときに、宇宙は再び一つとなり、存在のひとつのサイクルを完了させることが可能になるのでしょう。
あいにく私たちのほとんどが、いかに他者を扱うかについて、ネガティブとポジティブの間をふらついています。無意識にせよ、誰もがサディスティックな潜在性をもっています。このような面を見ないように、自分を善なる者と信じ込んでいる場合もあります。他を批判しても自分はそうではないと否定し続けたり、自分は絶対に傷つけられるまいと、構えていることもあります。
私たちがどう感じて、どういう意識状態に普段あるのでしょうか?
一つ確かなことは、私たちは他と分離してはいない、ということです。この真理がますます当たり前となっていくにつれて、「カルマのホイール」への理解を深めることができ、また自分自身を癒すことができ、さまざまなことが深いレベルでつながっていくのが感じられるようになります。
すると見境なく同じサイクルを繰り返す必要が自然となくなっていくはずです。私たちがひとたびカルマの支払い(心理的な支払)を済ませたら、再び恐怖を感じる必要もなくなり、自由に人を愛せるようになります。もし私たちがポジティブな選択(良いカルマ)を取り続けることができるなら、ネガティブなカルマが入ってくる余地もなくなり、輪廻転生と呼ばれている現象も必然性が消えて、きっと自然になくなるのでしょう。
Posted by 愛知 ソニア at 12:54 │魂の話
今日は少し気が進まないテーマなのですが、春の大掃除と共にこの「カルマ」について少し考えてみたいと思います。
「カルマの解消」、「カルマを燃やす」、「カルマを断ち切る」というような言葉をもって「悪いカルマ」とおさらばしたい、カルマという因果関係を卒業したいと誰しも思うのですが、カルマをただ無視することではそれは起きません。むしろ素直に自分の「カルマ」を認識することからそのプロセスは始まるかもしれません。
私たちが自らの魂についての学びを深めていく過程で、カルマについてよく理解することは必然的だといえます。
カルマからそれほど簡単に解放されるものでしょうか?
私たちの多くは、年齢を重ねるとともにカルマについて深く考えさせられるようになります。昔の人々は、「親の因果が子に移り・・・」などとよく言ったものですが、実際にカルマとは深く私たちのサイキに細胞深くから根づいていることに気づかされます。
たとえ自分自身はカルマから抜け出たように錯覚できたとしても、自分の子供たちや周りの人たちにも浸透していることを認識できたり、また集団レベルのカルマもなかなか消えたりしないことに気づかされます。
まず、カルマという言葉は、古代サンスクリット語で、「行為」とか「因果」、「宿命」といった意味があります。ヒンズー語でよく現れる言葉でもあり、「働き」とか「行ない」を表す意味で使われています。
カルマとは、私たちにとって最高で、もっとも真実の本質と再び融合するための、魂レベルの努力も含まれていて、私たちの人生で展開されるものを形づける目には見えない力が常に働きかけています。
したがってカルマは、もちろん「悪いカルマ」だけではなく、「良いカルマ」もあります。「インスタント・カルマ」、「集団カルマ」といったような言葉もあります。
「インスタント・カルマ」というのは、とてもわかり易いです。たとえば、誰かに対してネガティブな思考を抱いたとたんにつまずいて転んだりすることです。「集団カルマ」は、たとえば日本人である私たち皆が共に負うネガティブな社会的出来事などです。
カルマのホイール(輪)
カルマの車輪が回り続けているときに、人生が私たちに与えなければならない最高と最低を経験します。喜びと苦しみ、快楽と苦痛、勝利と落胆、光と闇のサイクルを繰り返します。なにごとも決して偶然には起きないのですが、過去世のカルマについては、前世療法などを通してでなければなかなか気づきにくく、納得できるものではありません。今生ではとてもスピリチュアルで申し分のないほど善良で素晴らしい人間であっても、記憶にない過去世のカルマに悩まされていることも多々あるのです。ほかの生涯でなした行ないの残骸として、今生で得体のしれない罪の意識や恥といった心理的苦痛を味わうこともあります。このサイクルを断つ鍵は、私たちが過去世において他者になしたかもしれないことに対して自分を許すことです。これができないために何度も生まれ変わる必要が生じることもあります。もちろん、これは現世においても同じことがいえます。過ぎた過去の過ちで自分を苦しめないことです。
カルマとは、一言でいうと「記憶」です。その多くが意識レベルに現れていなく、細胞レベルに浸透している過去世からの記憶であり、今生に至るまで影のように付きまとい、知らず知らずのうちにその因果関係の輪を広げていることになりかねないのです。それを「カルマのホイール」と言います。
カルマは、あまりにも辛く苦しくて、心に傷を負わせるようなものが多いので、私たちはもっとも偉大な真理に対して自ら心を閉ざしてしまうことがよくあります。
それらの真理とは、
この世界は幻想にすぎない
人生の出来事は偶然には起きない
行為には結果が伴う
愛することを学ぶためにここにいる
他に与えるものは何であろうと自分に帰ってくる
すでに真理を見抜いた者にはこれらは当然であり、幼稚園レベルのスピリチュアリティな教えに思えますが、頭でこれらを理解しているだけではなく、実際に生活する中でちゃんと把握できていないかぎり、カルマのホイールから脱出できることはあり得ません。
もっとも素晴らしい経験からもっとも悲惨な経験まで、目に見えない力によって私たちの人生で展開されるものが形づけられ、取り決められるのです。決してなんの原因もなく偶然に、ランダムには起きえないのです。つまり、カルマは宇宙を通じて働く絶対的な法則だといえるのです。
カルマの簡単な例えとして、もし私たちが他人の自由意志を尊重して協力するのなら愛を選んでいるので、「良いカルマ」を生むことになります。これは特に自分の子供たちや家族に対してよく心しておくべきことです。他人の自由意志を支配したり、自分の利益のために操作したりすることは、もちろん「悪いカルマ」を生むことになります。私たちの思考や言葉、行為が目に見えないレベルで常に愛か支配を選択しているのです。愛を作り出すのなら、愛は自分に帰ってきます。
このような収支決算のシステムから、つまり「カルマのホイール」から実際に抜け出る方法はあるのでしょうか?
それは「許し」です。
キリストのカルマの教え
他人を許すことは、比較的容易いことであるといえましょう。いちばん許しがたいのは、自分自身を許すことです。つまり、過去世にまで浸透している細胞レベルのネガティブ記憶を解放することにあります。これは、「奇跡のコース」の主な教えのひとつでもあります。奇跡のコースを一生懸命学んでいるある方が、コースの許しの教えの引用を抜粋してくれました。
キリスト教では、ヒンズー教、仏教のようにカルマや生まれ変わりについてはあまり語りませんが、「悪い行ないをすると地獄に落ちる」と教えています。今日のほとんどの聖書に「地獄」として訳されているヘブライ語は、‘sheol’は、ほんとうは「墓」を意味する言葉なのです。墓は肉体をもってこの世に生まれたならだれでもいずれは行かなければならない場所です。
神は善悪を知る木から実をとって食べたアダムとイブが地獄行きだとはいってはいなく、ただ永遠の命を授かった者たちに死がもたらされる、といっているのです。「地獄」のコンセプトとして聖書では、「ゲヘナ」というギリシャ語を用いていますが、これはもともと「町のゴミ焼却場」を意味しています。イエスは「人を馬鹿にするとゲヘナ行になる」と比喩としてこれを使ったのは、カルマを焼き滅ぼさなければならない、つまり、「カルマの浄化」を意味したのでしょう。また、聖書の中でカルマと同じ意味を表している個所として明らかな言葉は、誰もが知っている「撒いた種は刈り取らねばならない」(ガラテア6:7)です。
聖書の中で生まれ変わりについて明らかにしているのは、「これこそその人だ。・・・バプテズマのヨハネ以上に偉大なものが現れたことはない。・・・そして、もしこれを受け入れる用意があれば言うが、彼こそ来ることを予定されていたエリアである。耳ある者は聞くがよい」(マタイ11:11-15)
AD325年の「ニケイア公会議」とAD553年の「第二コンスタンチノープル公会議」にて、ローマ政府は、生まれ変わりを信じたり、教えたりすることを違法だと公布しました。その時代から政府の力を強める道具としての宗教が確立され、永遠に地獄の火にさらされるというコンセプトを用いて、いかなる抵抗も押しつぶす権力にキリストの教えは利用されるようになりました。
実際にキリストが教えたのは、私たちの不純を焼滅ぼすカルマの火をもって自らを救済することができるということと、カルマの出来事を起こさせているのは、私たちが究極の愛を理解するためだということです。ひとたびそれを理解したならば、悲惨や苦しみといったサイクル(カルマのホイール)から、すなわちゲヘナの火を繰り返し潜ることから救われることが可能であると説いています。
以上のことを理解できたとしても、実際に悪いカルマはとても嫌なもので、なにか見えない力によって戒められ、恥じらいを受けてひ弱に感じさせられます。無意識レベルで私たちがなにを信じようと関係なく、カルマはある絶対的な法則で襲いかかってくるように感じられます。いくら嘆こうとも、遅かれ早かれ私たちのエゴは少しずつ後退し、悪いカルマとその背後にあるものを理解しようとし始めます。
シンクロとして現れるカルマ
カルマのあるものは、一連のシンクロによってまるで黒魔術に引き込まれるように起きます。皮肉なシンクロの連鎖を引き寄せるのです。たとえば、誰かに傷つけられたことに腹を立て、仕返しを考えていたら、連鎖的なシンクロの導きによって新たなカルマが形づけられていくことがあります。自分のスピリチュアルな強さをそこぞと発揮して、感情に流されずカルマが生じるのをストップさせることができます。逆に左脳的な理屈で自分を正当化させると、やがて孤独感、絶望、落ち込み、悲しみや嫉妬に苛まれることになりかねないのです。
ひょっとすると私たちは、こういったカルマのホイールに気づいていなく、何度も生まれ変わりながらこれを繰り返しているのかもしれません。世界で起きている戦争のカルマは、まさにこれを物語っています。私たちひとり一人が、愛の道を学ばなければならず、これが宇宙を通じて起きるときに、宇宙は再び一つとなり、存在のひとつのサイクルを完了させることが可能になるのでしょう。
あいにく私たちのほとんどが、いかに他者を扱うかについて、ネガティブとポジティブの間をふらついています。無意識にせよ、誰もがサディスティックな潜在性をもっています。このような面を見ないように、自分を善なる者と信じ込んでいる場合もあります。他を批判しても自分はそうではないと否定し続けたり、自分は絶対に傷つけられるまいと、構えていることもあります。
私たちがどう感じて、どういう意識状態に普段あるのでしょうか?
一つ確かなことは、私たちは他と分離してはいない、ということです。この真理がますます当たり前となっていくにつれて、「カルマのホイール」への理解を深めることができ、また自分自身を癒すことができ、さまざまなことが深いレベルでつながっていくのが感じられるようになります。
すると見境なく同じサイクルを繰り返す必要が自然となくなっていくはずです。私たちがひとたびカルマの支払い(心理的な支払)を済ませたら、再び恐怖を感じる必要もなくなり、自由に人を愛せるようになります。もし私たちがポジティブな選択(良いカルマ)を取り続けることができるなら、ネガティブなカルマが入ってくる余地もなくなり、輪廻転生と呼ばれている現象も必然性が消えて、きっと自然になくなるのでしょう。
Posted by 愛知 ソニア at 12:54 │魂の話