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観音菩薩伝~第36話 瑠璃城を通過して須彌山に近付く、 第37話 白象ついに大蛇に殺される

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2015年2月7日

 

第36話  瑠璃城を通過して須彌山に近付く

 無事に天馬峰を越えた一行は、更に幾つもの峰と谷を越え河を横切り、古人の歩いた道に沿って一路南下しました。日暮れになると人家を訪ねて宿泊を乞い、険悪な道や丘陵に会えば歩を緩やかにし、高原の平地に出れば歩を早め、人に出会えば道を尋ねながら目的地の須彌山へと一行は歩き続けました。

 こうして平穏な旅が続き、三日後には瑠璃城に到着しました。大師は早速通行手形を持って役所へ行き、宿泊と通行の許可を受けたところ、大師の噂が前々からこの瑠璃城下にも伝わっていたのか、人々は城下を挙げて憧れの大師を大歓迎しました。

 三人は、大きな寺院に泊まることになりました。当時は佛滅して三百余年、佛教もようやく大乗の機運が起り始めた頃で、一般の人々は行者を鄭重に扱っておりました。佛教に対する信仰心は深く、瑠璃城は北天竺に位置していたため早くから佛陀の教法が伝わっていて佛教は隆盛を極めていました。ただ佛陀教示の本旨が時の流れと共にやや自己本位に傾き、浅近陋固(せんきんろうこ)な苦行に走る向きが見受けられました。真の佛陀の道は、伝統的保守主義の枠から脱皮して、大衆に及ぼさなければならないと痛感しました。

 城下でいろいろな事を見聞し鄭重なもてなしを受けた三人は、三日後に瑠璃城を離れ、須彌山に向かって出発しました。三人は来る途中南谷の所で道に迷いましたが、そのとき道を南へ南へと歩いて瑠璃城に到着できました。そのためその後も、道を南にとりました。それが、須彌山に至る正しい道であります。僅かばかりの道の迷いが日程を遅らせ、ほんの少しの気の緩みが大師一行の災難となりました。

 行者の路程には必ず言い知れない試練があり、筆舌に絶する魔障があります。信心の弱い人ならふとした出来事で脆くも退転心を起してしまうのですが、真理を掴み、菩提の悟境にいよいよ到達する大師一行にとっては、逆に熱意を尽くし勇猛心を駆り立て、益々精進に励み、艱難に打ち勝つ決意を強くするばかりでした。修行に苦難は付き物で、正果成就になくてはならない磨きのための災難はむしろ試練であります。道は志の強い人だけが得られ、正果は幾多の迫害に打ち勝った人にだけ証されるものです。妙智の優れている人は、必ず苦難を克服することができます。もし中途で魔を怕(おそ)れ難に畏怖して退嬰するようでは、如何によい素質があっても、菩薩道は完う出来ないでしょう。良い素質に忍耐と精進を加えて進む人には、慧光が齎(もたら)されるでしょう。試練は大師を金剛体に鍛え、艱難は大師を玉にしました。今や大師の頭上には、一歩一歩進むにつれ、燦然たる光毫の露(あらわ)れが大きく強く輝いて参りつつあります。

 瑠璃城を出てからの一行は、ほとんど峰の高原沿いに進み、ようやく五か月目に遠く須彌山の連峰が見えるところまでやって来ました。真っ白な雪を頂いた峰々、銀光に輝くその美しく雄大な景観を見たとき、歓喜が湧き感涙が溢れ出ました。目指す目的地が、やっと視界に現われたのです。三人はそこで勇気が倍加し、今までの路程を往復しても疲労を感じないようでした。ところが峻険な絶壁の連なる峰々はなかなか遠く、歩みの鈍(のろ)さが歯痒く感ぜられます。三日間の苦闘の後、一行はやっと須彌山の麓に到着しました。

 雲の上にまで聳え立つ峰々、屏風のようにそそり立つ氷雪の絶壁、限りなく広い裾野、無数に点在する千古の奇岩、峡谷を埋め尽くす密林、数えれば大小七十二座の高岳・高峰が連なり、うねうねと起伏して如何にも巨大な龍が横たわっているように見えます。これらの情景を眺めた大師達は、どの山嶽が雪蓮峰なのか分からず迷ってしまいました。辺りを探し回っても人家は見当たらず、樵夫(きこり)も通らず、人に尋ねることもできません。どうしたものかと、三人は連峰を仰いで途方に暮れました。

「大師様、雪蓮峰は須彌山の主峰と聞いております。主峰は必ず際立って一段と高く、他の峰々と比べて違うところがあると思います。だから私達は一番高い山峰を選んで、登ることにしては如何でしょう。例え選択が間違っていても、私達の真心が佛陀に感応して、きっと雪蓮峰まで導いて下さると思います」

 永蓮の言葉に成る程と感心して、三人は改めて峰々を見上げました。右端から数えて三番目の峰が、一際目だって最も高く聳えています。三人はその巨峰に向かって谷を渡り樹林を通り抜け、どうにかその麓まで辿り着きました。一行がさて登ろうとしたところ、どうした事か白象が立ち止まったまま一歩も動こうとしません。空腹のためだろうかと思って食べ物を与えてみましたが、食べようともしません。永蓮と保母が白象の尻を押したりしてみても、大地に根を生やしたようにびくともしません。三人は、山を目の前にして焦り出しました。

 

第37話 白象ついに大蛇に殺される

 永蓮は白象を宥(なだ)めすかして動かそうとしましたが、どうしても歩こうしないので、つい声を荒げて

「何故歩かないのですか。頑固に意地を張らずに、さあ進みなさい」

と強く白象を促しました。しかし白象は、何かに怯えたようにおどおどするばかりで一向に動こうとする気配がありません。これを見て大師は、白象は雪蓮峰への道を間違えているから動こうとしないのかも知れないと考え、象の鼻を撫でながら言いました。

「白象よ、そなたは金輪山で私の命を救ってから私と一緒に幾多の苦労を重ねてようやくここまで来ました。もう目の前に須彌山が聳えています。今が一番大切な時です。勇気を奮って進んで下さい。それともここまで来てそなたは、霊気を失い、元の野生に還ったのですか」

 象は、大きく首を横に振りました。

「白象よ、せっかく此処まで来たのですから、一緒に行きましょう。終始一如に務めて、正果の成就するのを誤ってはなりませんよ」

 大師の諭しに、白象は頷きました。しかし白象は、人語を解しても、語ることは出来ません。実は動物の本能的な勘で、生命の危険を感じて進もうとしないのです。白象がもし人語を話すことが出来たならば、この山中には怪物が隠れ棲んでおり非常に危険です、しかし大師が危険を承知の上で行かれるのでしたら、私も喜んでお供します、と言いたかったのでしょう。

 やがて白象は、決心したかのように大師を乗せて歩き始めました。一行が比較的緩やかな上り坂を進んで行きますと、陽が山陰に沈む頃になって、風の中に一種異様な腥(なまぐさ)い匂いが混じって漂って来ました。

「この不快な臭(にお)いは、一体何でしょうか」

 永蓮は、訝(いぶか)しそうに言いました。

「大方、繁った森の陰で朽ち果てた木が発酵して、その熱で蒸されて湿った気が立ち昇り、こんな臭いになったのでしょう」

 この大師の説明に永蓮は納得せず

「それにしても、臭いが強過ぎます。気が遠くなり、心が痺れそうです」

と苦しそうに訴えたので、大師は強く言いました。

「臭(くさ)いとか、香りが良いとか言うのは間違っています。私達出家人は、常に六根清浄でなければなりません。六根清浄(ろっこんしょうじょう)とはどういう意味かお解かりですか」

「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)、これを六根と言います。眼を視根、耳を聴根、鼻を嗅坤、舌を味根、身を触根、意を念根と言います」

「そなたは六根を知っていても、臭いと言うのは六根をまだ断絶していないのではありませんか。わけても鼻は諸香に着し、染(せん)に随(したが)って諸々の触(そく)を起します。このような狂惑の鼻は染に随って諸々の塵を生じましょう。法の実際を観ぜば何の臭いを嗅ぎましょう」

 永蓮は、恥ずかしそうに首を竦(すく)めました。三人は再び歩を進めましたが、その臭いは益々強くなる一方で、白象は中毒に罹ったように足元がふらつき出しました。保母と永蓮は、必死になって吐き気を抑え真っ青になっています。大師も余りの強い臭気に何かを感じられ、白象の背から降りました。砂埃と共に腥い臭いが目や鼻に沁みて、今にも倒れそうです。

 やがて風が治まったので目を開けてみると、前方に目を爛々と光らせ、大きな口から真っ赤な舌を出した身の丈五・六丈もある猛毒の大蛇がこちらを凝視しています。そして、怪音を立てながら大師一行に迫って来ます。大師は、背に縋って震える保母と永蓮に強く言いました。

「早く横に避(よ)け、後退(あとずさ)りして逃げるのです」

 三人は、傾斜した小路沿いに逃げ出しました。白象は、大師が合図したにも関わらず一歩も動こうとせず、鼻を上下させながら大蛇に向かって大声で咆哮しています。大師は白象に向かって「早く後ろに退がりなさい」と声を高くして叫びましたが、象は大蛇の前から動こうとしません。大蛇は怒って、逃げた三人よりも、この白象に攻撃の鉾先を向けました。大きな口から白煙のような気を吐きかけると、白象が忽ちよろけだしたので、大蛇は素早く飛びかかり長い鼻に噛み付きました。象は鼻を振って大蛇を振り解こうとしたが、食いついた大蛇は放しません。白象は大きな脚で大蛇を踏み潰そうとするが、大蛇は右に左に身を躱して益々強く噛みました。その中に毒が体内に廻ってきたのでしょう、白象はどっと大地に倒れてしまいました。大蛇は横倒しになった白象の胴を素早く締め上げたので、遂に白象は力尽きて死んでしまいました。大蛇は象の大敵で、さすがの白象も敵いません。こうして、凄惨な死闘は終りました。

 一方、三人は一生懸命逃げ出したものの、ふと気が付くと大蛇が追ってくる様子もなく、また白象も姿を見せません。三人は白象が来るのを暫く待ちましたが、一向に来る気配もないので恐る恐る引き返して見ました。元の場所まで戻って前方を見ると、彼の大蛇が幾重にも白象に巻き付いて胴を締め付け続けているではありませんか。三人は思わず息を呑み、余りの悲惨さに声も出ません。三人を救うために自ら犠牲となった哀れな白象、自らの運命を予知して山麓で動こうとしなかった白象を無理矢理急き立てて来たことの悔恨と黙って従って死んで行った白象への不憫の情で、三人はその場を立ち去ろうともせず合掌して象の冥福を祈り続けました。

 暫くして、大師は言いました。

「可哀そうな事をしました。折角ここまで私達と一緒に苦労をしながら来たのに、もう後一息というところで本当に気の毒な事になりました。私達は、永遠にこの事を忘れてはいけません。将来私達が無上の道を得、正果を成就し、菩提を証した暁には白象に報恩しなければなりません」

 保母も永蓮も、強く頷きました。大師は再度両手を合わせ、白象の方に向かって

「白象よ、そなたの献身護法に感謝を捧げます。汝は畜道に生じたが、尚よく菩薩行を手助けしたその志念の堅固なる事は、後人の尊崇するところとなるでしょう。生死の苦は永く尽きることなく、そなたは佛道を護侍して極楽への法に触れました。佛縁を生じた所以を以って罣礙(けいげ)なき妙法を得給い、往生あらんことを。願わくば私が無漏正覚を証された暁には、吾が騎象の役となることを望みます」

と祈りました。


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